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ようこそ、「スネークパパの掲示板」へ。お気軽に投稿いただければうれしいです。(『スネークパパの部屋』管理者イレブン)

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 ヤンセンバード 最高の目  サウスタイム  2020年7月27日(月) 0:00
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お久しぶりです。

ピート デウェールト回想録大変おもしろい記事ですね。

ピートさんがおっしゃっている特に私が見たヤンセンバードのなかで最高の目をしていた鳩がコーヒーブラウンの目と言う記述です。

想像がふくらみますが、アサインの幅は広くひとみの回りを360度墨でまかれ、c/aがルーペで確認できたのではないでしょうか。

ラストヤンセンの写真を拝見しましたが、残念ながら1羽もそのような鳩は残存しておりません。

このみの問題ではなく深い理屈が存在していると思います。



 コーヒーブラウンの目の眼とはいわゆる”真鍮目”に属する眼  イレブン  2020年7月27日(月) 2:53 修正
ピートさんがここで触れているヴァンダー・フォスケのコーヒーブラウンの目とは、広島で言われている、いわゆる”真鍮目”に属する眼だと考えていいとイレブンは思っています。そして、それは、それぞれの系統によって微妙な違いがあるものと捉えています。

このスネークパパの部屋では「バイオレットの金巻き眼」「バイオレットのプラチナ巻き眼」といった表現で何度も登場しています。

スネーク理論では、この目を原鳩の眼、基礎鳩の眼と解釈しています。この目のもう一歩奥にあるのが、いわゆる、「色無し眼」「ブラックアイ(黒眼)」(ファンブリアーナのスチール号)といったものだとイレブンは考えています。

イレブンが知る人(S氏)が、小林勇鳩舎の基礎鳩383193号(777×619)をこの目だっとという証言を直接聞いた事があります。S氏は丁度「消し炭のような眼」という表現をなされていました。S氏が3年ほど前にイレブン鳩舎に訪問された際のことです。S氏は現在は鳩を止められていますが、「目利き」として九州では結構名が通っていた方です。

サウスタイム様がおっしゃるように、ここには、「このみの問題ではなく深い理屈が存在している」とイレブンも考えています。

現在、展開している回想録は、ピートさんの系統理論の一番面白い部分です。イレブンは、丁度16年前、鳩を再開するときに、この掲示板でイレブン編「ピート・ デウェールト回想録語録集」http://snakepapa.littlestar.jp/inf101930b/inf10.cgiという連載を数年間に亘って書いていた時期があります。この時に、学んだことが、源流系の作っていく上での基礎理論となっており、現在もこの理論を土台にして研究を進めています。

刺激的な内容なので、再読しながらイレブンもまたいろいろ思索を廻らしながら掲示板にアップしています。まだ、半分位しかアップしていませんので、しばらくは楽しめると思います。また、感想を頂ければ嬉しいです。

左画像:3代目ムロタ羽幌号の眼、佐々木進作、初期イレブン鳩舎基礎鳩、ムロタ系源鳩【ムロタ羽幌号】の3重近親鳩

右画像:ムロタ稚内1号の直仔の眼、ムロタ作、初期イレブン鳩舎基礎鳩、ムロタ稚内1号×黒真珠号(ムロタ稚内3号の母)

  ■■『Piet de Weerd 研究』011■■  [ピート・デヴィート回想録011「想い出に残る鳩」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1996年10月号 )  イレブン  2020年7月23日(木) 13:52
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先週の土曜に、もうすぐ梅雨明けと書き込んでいましたが、週が明けると一転してこの連休中も豪雨の心配があるとのこと。梅雨明けはまだしばらくお預けとなりました。訓練に行くことも出来ませんので、自宅待機です。

折角ですのでこの連休中に『Piet de Weerd 研究』をできるだけ進めることにしました。

この章では「 ”ヴァンダー・フォスケ”はそれまで私の見たヤンセン・バードの中で最高の目をしていました。コーヒー・ブラウンの目……。」という記述からピートさんが、目の鑑定をしっかりしていることも明らかになっています。

 これからが、ピートさんの系統理論が一気に展開されていきます。連休中にアップした記事についてはレスを追加していくので、掲示板下の方に新しい記事が追加されますのでご確認ください。

 ■R・V・ステーンベルヘンは”ラッペ”を知っていた■    2020年7月23日(木) 13:54 修正
 アーレンドンク生まれのリック・ファン・ステーンベルヘンは、若い時にしっかり鳩レースを観察して、後に自身でもやってみるようになったに違いありません。鳩レース日和に酒場の主人にこう尋ねてみます。
  「一体、誰が一番だった?」
 主人はこう答えたものでした。
 「誰が一番かって? 聞くまでもないことさ。やつがまた何分もリードしているよ。あんたも掛金を積んでおけば、今頃はいい気分だったろうに」
 私は、”アウデ・ヴィットハ−””ラッペ”いずれもよく知っていました。いずれ劣らぬ怪物でした。

 「あなたの一番欲しい鳩は?」
と聞かれたら、私はためらうことなくこの二羽か、あるいは51年生まれの”バンゲ”それに67年生まれの”メルクス”を挙げたことでしょう。戦後生まれのこれらの鳩は私の好みにピッタリでしたから。全く流線型の美しいボディーをしていました。それは私にとってはさして重要なポイントではないのですがこれらの場合は別でした。

 人間とは妙なものです。クィーブランを飛び立った”ラッペ”は2位に11分の差をつけてゴールしたことがありました。手ごわいライバルはと言えば、殆ど総てがラッペの兄弟でした。一羽が帰り着くと、まるでロザリオの祈りのように他のトリが次々に到着します。十歳になったラッペを何とか手に入れたいと思ったのですが、私の頼みは聞き入れてもらえませんでした。相当な金額を申し出たのですが、無駄でした。

 1945年、のちにラッペのように数多くの優勝をさらうことになる”ヴァンダー・フォスケ“が誕生しました。39年生まれのキッネ色のオスがその父親、母親は36年生まれの”ディッケ・ダイフィン”すなわち33年生まれの”アウデ・ウィットハー”の全姉妹です。

 このメス鳩を、私はオウメンス・ファン・テュインの依頼で購入したのですが、47年にハーデイクでコクシジウムに罹って死んでしまいました。ヴァンダー・フォスケの母親は10月生まれのレートバードでした。ヤンセンは早くも16週になったところで作出にとりかかりました。まだ日照の少ない時期でした。やがて二個の卵を産みましたが、これがアーレンドンクで産んだ最初で最後の卵となりました。というのも、このトリはその直後に訓練に参加させられたからです。
 卵は一個のみ孵化しました。この卵からそれまで手にした最高の雌鳩が誕生したのですそれは”スホーネ・リヒト“よりも格段に優れていました。両方のトリをよく知っている私には、そう断言できます。

 ”ヴァンダー・フォスケ”はそれまで私の見たヤンセン・バードの中で最高の目をしていました。コーヒー・ブラウンの目……。

 私自身もこんなトリを59年か60年に、ラフェルスに住むアルベルト・ファンデルーフレースから購入したことがあります。ファンデル・フレースの栗は、ヴァンダー・フォスケの水準をそれほど下回ってはいなかったと思うのです。

 ■H・ヴェルナッッツア大当たり■    2020年7月23日(木) 13:54 修正
 このメスは、サンフランシスコに近いラファイエットに住むトスカーナ出身のヘンリーヴェルナッツァに売られました。彼は、”カプリ”というブランドのサラミ製造業者です。製品はイタリアの国旗を真似て赤・白・緑の三色の包装がしてありました。私かハワイから帰国した時、サンマテオ空港に出迎えてくれたのを覚えています。

 東フラマンのヴェルデンで、この栗のメスと、ホノーレ・ファン・デ・ミューレンブロークのドス灰のオスとの間に生まれた娘は、当時、ネヴァダ州のどこかで開催された400マイル若鳩レースで2位に26分もの差をつけて優勝しました。

 私は、この栗色の娘が夕日に映える山の絶壁を背に、長い滑空で次第に近づいてくる様子を昨日のことのように思い浮かべることができます。この優勝鳩はアメリカの多くの新聞に掲載されました。この例に限らず、ファンデル・フレース栗のメスの直子や孫が、合衆国の総ての州で300羽も優勝した事実が報道されたのです。

 また別のヤンセン・バードは、ヤン・アールデンの”アウデ・49”と、ファンデル・フレースのゴマのメスとのペアから生まれました。私はこの鳩に”コー・イー・ノール”という名前をつけました。

 さて、ファンデル・フレースの鳩はアントワープ州のオルレアン若鳩レースで一万羽中の優勝を獲得したトリの妹でした。
 私はボストンのジョン・スパーリアの依頼で”コー・イー・ノール“を彼の元に送りました。やがてエンジニアのハロルド・グーキンが購入しました。核物理学の研究を終えたばかりの男でした。

 私は彼の鳩舎で”コー・イー・ノール“とヘラールドベルヘンに住む友人カミール・デューラントのメスの血を引くヤンセンーバードとを交配しました。このペアも一躍有名になり、エンジニアはピジョンスポーツ界に足を一歩踏み入れた途端に成功者としてもてなされることになったのです。まさにアメリカン・ドリームを叶えた何千人のなかの一人というわけです。

 ■より多くのチャンスをヤンセンで■    2020年7月23日(木) 13:55 修正
 オランダにもヤンセン・バード、すなわちその子孫は何千羽といます。別のラベルを貼ったヤンセンもたくさんいます。戦後間もなく、ヤンセン・バードは特にエイントホーフェンとその周辺のティルブルフ、ブレダ、それらの間にある小さい村落や集落に広まりました。南に下った地点にあるアーレンドンクから流れる何本かの太いラインに乗って。

 たとえその間に、ヤンセンの持つ多くの資質が水増しされたにせよ、もはや役には立たなくなったにせよ、ヤンセンという血統を知る者なら一目で判ります。ヤンセンの秘密は近親交配にあります。誰もが知っていることで、何人も否定することはできません。

 長い年月のうちには大当たりをとった者が数多く登場しました。ある鳩舎は近親交配をおこない、別の鳩舎はその方法をとりません。しかし、血統が純粋であればあるほど、素材の価値は新しい血の導入によりいっそう高まるのです。

 ■配合システム■    2020年7月23日(木) 13:56 修正
 随分昔の話になりますが「ブリーディングシステム」というタイトルの本の一章を引き受けたことがあります。難解だと言う人もいましたが、幸運にもベストセラーになりました。とはいえ、この本からは学ぶべきたくさんのことがあります。大抵の本がそうであるように、この本も次第に内容が古くなっていきます。でも、遺伝理論に関しては決して古くさくはなりませんし、ブリーディング・システムはその不可欠な要素をなしています。

 「基本的かつ簡明であること」、これが私の心構えです。配合システムという課題について、これから私のお話することは、ある人にとっては面白くても他の人にとっては退屈なものかもれません。どうか、興味のない部分は読み飛ばしてください。

 ドウシャンブル氏の定義によれば、配合システムとは人間が家畜の品質を維持し改善する目的でその繁殖に作用する種々の方式を呼びます。その方式とは、血筋の異なるもの同士の組み合わせ”アウト・ブリーディング“と、血縁同士の組み合わせ”イン・ブリーディング“とに大別されます。つまり、単なる”交配”と、”近親交配”です。

 理論上は、遺伝構成が異なる個体の掛け合わせは総て”交配“ということになります。しかし我々愛鳩家は、系統の異なるトリを組み合わせることを”交配“と呼んでいます。さもないとどんな種鳩のカップルも”交配“になってしまうでしょう。交配は、子孫の潜在的な変異性を増大させていきます。その変異性を隠蔽しようとするのが、メンデルの優性の法則です。最初に見た時に掴んだそのトリの特徴よりもはるかに多くのものが、交配によって引き出されるのです。

 ■飛ぶ色のパレット■    2020年7月23日(木) 13:56 修正
 色の要因を取り上げるなら、いわゆる。ブロンズ色“の鳩は、飛ぶ色のパレットである
ことがわかります。そこからは、ブルーからスレートまで、赤からベールトーンまで、あるいは白い剌のあるものやないもの、ありとあらゆる色が生まれます。しかし、羽色ほども具体的にはとらえがたい他の要素について事態ははるかに複雑です。これらの場合には次世代になってメンデルの分離がおこなわれます。

 これらは淘汰に関しての根拠を色々さし示してくれるでしょう。回転の軸たる必須条件です。おおくの雑多な要素は、その軸の周辺をグルグル回っているだけなのです。交配は困難をきわめる作業分野です。淘汰とは、良質な植物のみを残して雑草を刈り取るための草取り鎌のようなものです。

 大部分の愛鳩家は幸運を期待して交配をおこない、これからもそんな交配を繰り返していくでしょう。その理由は何よりも、近親交配や戻し交配にたいする、私に言わせれば何ら根拠のない不信感だと思います。でも、これらの方式は他のどんな家畜でも、ごく普通におこなわれていることです。人工受精と組み合わされる場合もあります。

 牛と馬を例にとりましょう。馬は鳩と同じく、レースに用いる点では競技動物と言えます。平均的な作翔者(なんと言っても、この人たちあってのピジョンスポーツですから、彼らについての悪口は余り言いたくありません)は、専門知識を駆使して一羽の基礎鳩を作出し、しかる後に数世代をかけて駄鳩揃いの鳩舎を作り上げてしまうのです。鳩の作出は、デタラメなやり方ゆえに余り評判がよろしくありません。

 が、それでもピジョンスポーツが続けていけるのは何故でしょう。それは、レースが本当に必要なものをフルイにかけてくれるからなのです。

  ■■『Piet de Weerd 研究』012■■  [ピート・デヴィート回想録012「Dr.リンゼンの教訓」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1996年11月号 )  イレブン  2020年7月24日(金) 1:34 修正
いよいよピートさんは、この連載第12回目から、レース鳩における「遺伝」の問題に切り込んでいます。そして、優れたレース鳩のタイプは実に多種多様であることや、その多様性の中で、どのタイプであったとしても共通して重要なのは「活力」にあること。

 さらに、レース鳩の「配合」の問題では,両親より優れた鳩が次々と生まれてくるような「”超絶”配合」により誕生した銘鳩たちにより、代々とその優秀な遺伝子が受け継がれていくようになってるという事実をヤンセン・バードの歴史から述べていきます。

この章からは、特にピートさんが 言わんとしていることを、じっくり咀嚼して自分なりに整理していく必要があるように思っています。

  ■ミーリーは美しくない■    2020年7月24日(金) 1:34 修正
 ミーリーのようなまだらの羽色は美しくはありませんが、猛禽類がこれに狙いをつけることさえなければ差し支えないでしょう。そんな話は私の知る限りでは、ありませんけれど。

 レース鳩の配合は、品評会用のウサギの掛け合わせとは少し違います。単に、レース鳩とウサギという品種の違いというわけではありません。何と言っても、メンデルの法則は総ての動物に当てはまる普遍的な法則です。

 鳩は、レースには絶対に欠かせない精神的および肉体的な資質によって淘汰されますがウサギにとってこれらの要素は意味がありません。速く飛ぶこと、場合によってはそれをできるだけ持続できること。速く飛びさえすれば、赤い翼であろうが灰色であろうが、長い翼であろうが短かろうが、そんなことは取るに足りないことです。

 ■活力こそ不可欠 流線型かどうかは重要ではない■    2020年7月24日(金) 1:58 修正
 ある複雑な要因、成功の原動力とも言うべきものが背景あるいは根底にあります。多くのものを生じさせまた修正し、そして絶対に欠かすことのできないもの、それが”活力”です。レース鳩のタイプは実に多種多様ではありますが、それはさして重要な違いではないという事実に、門外漢はいつも驚くもののようです。かつて話題になった。理想的なレーサーのタイプ“について言えば、私の見るところ、レース鳩に関しては最初の数百年間はそれほどの進歩は遂げなかったようです。

 病院やサナトリウム、高級レストラン向けに食用鳩を供給している。”パルメット・ピジョンプラント“の経営者、アメリカ人ウェンデル・L・レヴィは、その著書「ザ・ピジョン」(※注イレブン)の中で、最も多くの家畜の系統が、組み合わせ交配から生まれたことを証明しています。その中には確かにレース鳩も含まれているのです。私は「魅惑の翼」の中でこのことについて書き、800年前のサラディンやヌールエディンといったアラブ人にまでさかのぼりました。

※注イレブン:『THE PIGEON』,1941年に発刊され幾度も再刊され続けているレース鳩研究の古典的名著、 世界中のレース鳩の遺伝の研究は、著書『THE PIGEON』を踏まえて論じられています。分厚い本で、重厚な内容となっていますが、どこかでこの本の内容に触れたいと考えています。

 ■”超越”交配■    2020年7月24日(金) 2:01 修正
 ベルギーのレース鳩が誕生したのは1789年以降のことです。成果の現れるのはとても早いが稀にしか現れないのが、いわゆる超越交配です。これによって最良の両親にも優る組み合わせが生じるのです。それほど速くない両親から非常に速い子を作出する、といったのがその例です。

 事情に通じた愛鳩家のために言えば、この両親の遺伝子型は、たとえばAAbbおよびaaBBです。交配により特にAABBの組み合わせが生じますが、これは両親いずれにも優ります。ただし遺伝子が累積(増幅)効果を持つことが前提です。これらの因子はホモ接合体として現れるので、有利な因子の組み合わせは常に子孫に受け継がれます。

 後で論じるつもりですが、ここで先取りして言えば、ヤンセン鳩が最後の三十年間にあれほど好まれたのは、交配が簡単にできたからです。近親交配された一部の鳩のみならず他のあらゆる距離の強力なレース鳩、とりわけ長距離レーサーとも掛け合わせることができたからです。これらの鳩は種鳩としては必ずしも良くないことが判っていました。言い換えれば、レース鳩としては優秀でも繁殖しないトリを持っていたら、ヤンセンのトリと掛け合わせればそれで良いのです。

 ■リンゼン博士に対する好意から 私自身が淘汰■    2020年7月24日(金) 2:03 修正
 ヘルモント在のピート・リンゼン博士は毎年、ドイツの選手権で会うたびに、私に自分の鳩を淘汰してくれないかと頼んできました。既に書いたように、彼は20羽の優秀な長距離鳩を導入しましたが、町を横切ることのできる鳩を一羽も作れないでいたのです。ずっと断ってきたのですが、会う度に彼は強く迫るので、遂に一月のある日、私は彼言うところの「どうしようもない」長距離鳩を見に行くことにしました。

 鳩は大きなカゴに入れられました。どこに問題があるのか、何か不足しているのか、時間をかけてじっくりと調べました。その場には確か6人ばかりいましたが、皆、緊張していました。仕事にかかる前に博士は。

  「必要な鳩とそうでないのとを正直に言って欲しい」
と、私に告げました。不必要な鳩はその場で淘汰すると言うのです。彼の忍耐は限界に達していたのです。

 私は鳩を掴んで調べ、彼に言いました。
「なかの一羽をプレゼントしてもらおうとは思いません。でも、これらの鳩から500キロでチャンスのあるトリを引くことができると思います。そのためにはお手持ちの最良のクラック・バードが6羽必要です。できればメス鳩が」

 博士自身、そうしたことも考えたことがあったと言います。が、実現させるには至らなかったのでした。自分の手に入れた高価なトリから長距離バードを作り、素晴らしく速いヤンセン・バードからはスピード・バードを作りたいと考えていたのです。

 しかし、彼はためらうことなく私のアドバイスに従いました。それでなければ私か訪問した意味がなくなります。私は30羽のヤンセン・バードを掴み、6羽を選びだして、それらに1番から順に番号をつけました。

 1番は”ピッケル・ダイフ“で、記憶違いでなければそれはレーセル在のクラック作の”ズーン・トゥヴィンティフ“の孫娘でした。かつて博士が所有していた中で最高のクラック・ヤンセン・バードです。

 対する6羽の長距離鳩にも通し番号をつけました。こうすれば、組み合わせは最終的にはとるに足らないことになります。私はこれまでに何千組というカップルを作ってきましたけれど、いわゆる組み合わせの適性というものを考えたことはありません。

 リヌス・ファンデル・ラーレのレッドに1番を付けたと記憶しています。コー・ニッピウスのホーレマンスの血が4分の1入ったトリでした。優れたレーサーではありましたが作出上、何のメリットもありませんでした。

 こうしたことはピジョンスポーツ界では日常茶飯事といってよいでしょう。欠陥を抱え過ぎている、充分にウエットではない、あるいは少ない餌で太るという大事な資質に欠けているなどなど、問題を引き起こします。

 ティールトの老スタニスラウス・ファンデン・ボッシュは、当時、このことを既に知っていました。彼のことについてはこれからも書くことになるでしょう。

 ”ロード・マリヌス”は個性と闘争心を溢れさせていましたけれど、回復力に欠けていました。レースのインターバルで疲労回復に長い時間が必要なトリであると、すぐに気付きました。もし気がつかなかったならば鳩を淘汰しようとは決して思わないでしょう。そういった鳩を毎週あるいは2週間に1回レースに出していくと、まもなく弾力性が失われて失踪してしまいます。レースポイントを加算していくドイツのシステムでは、こうした鳩では好成績は望めません。走ることのできないサッカー選手と同様です。ピート・カイゼル、ファン・ハーネヘム、ファンデル・ケイレンなどの選手は英国リーグでは全く通用しないでしょう。

 ◆◆ピート・デウェールトとの一問一答(10月号参照)◆◆    2020年7月24日(金) 2:06 修正
【Q】ヴァンダー・フォスケの両親について、もう一度教えてください。
【A】“ヴァンダー・フォスゲWonder Voske (ミラクル・フォックス・ヘンの意、フォックス=レッド)45−411053は、39年生まれのレッド・コックと、36年生まれのディッケ・タイプの娘でヘスヘルプトと呼ばれていたメスとの間に生まれました。このディッケ・タイプは35年生まれの“ラッペ”の全妹です。
 ※10月号にヴァンダー・フォスケの母親がディッケ・タイプ、とあるのは誤り
 若鳩の時代に、ラッペぱラーデと呼ばれていました。 Lateは遅生まれを意味します。 100から200Kのレースで、ラッペは60回の入賞を果たしました。
 以前、私はビール醸造業者のショーダース(ヘレントホウト在)について述べました。この人物とは古くからの知り合いで、すでに1935年には彼の家を訪ねています。ということは、私のアドバイスを受けたスカーラーケンス氏が、その著“ヤンセン・ブックの取材にヤンセン一家を訪れるよりも40年も前のことになります。
 多分、はじめは32年生まれのシャーリーがその基礎鳩だったのでしょう。作はミラー・ゴッセンス、ショーダースのトリを集めていたこの人物は、私の親友でした。シャーリーの直子が33年生まれの“アウデ・ヴィットハー”Oude Witoger (オールド・ホワイト・アイの意)です。私はアウデ・ヴィットハーをよく知っており、その孫鳩を譲り受けました。父親は34年生まれのロースタールトです。
 ロースタールトは優秀なレーサーで、その娘も入手しました。これはオウメンス&ファンテュインのために、ティースト・エイセン(ドゥリークスケ・ヤンセンの娘マリーの夫)の鳩舎から導入したトリです。
 以上のことは既にこの連載でも取り上げられていることと思います。オランダ語の原文が、フランス語、ドイツ語、英語……恐らく中国語版も出ることでしょうが累積されていってしまう結果となります。ですから折にふれて事実を繰り返すことが必要です。


【Q】シャーリー、フォス、ヘスヘルプテと色々な羽色が登場しましたが。
【A】ヤンセン・バードのおよそ80%は灰ゴマです。これは近親配合の結果でしょう。シャーリーは、今日もなお、愛鳩家に好まれている色です。
 ヘルメス鳩舎の基礎となっている私の“ピートは50%ヤンセン、シャーリーの羽色を持つトリです。長距離の系統にこの色を見つけることは、ごく稀なことです。
 フォスつまりレッドについて、シャレル・ヤンセンは私に“26年生まれのオス鳩フォスがその源だ”と言つていました。このトリは、アントワープから20キロほどいったベルラール(リエルの近く)に住む、アルフォンス・コーレマンスから人手したものでした。実に見事な暗い栗色の目をしていました。瞳孔をきりりと絞るトリでした。この特性を最も受け継いでいたのが“ヴァンダー・フォスケ”と言えましょう。


【Q】.30年代以降の鳩で、あなたが気に入っていたヤンセン・バードの中に“バング・ファン・51”が含まれていましたね。
【A】51−6117447のリングをはめたこのトリは、大まかに言えば最高のトリでした。その父親ぱ”フォス・ファン49”、母親ぱヴィッティクスゲViteske 46−4513893です。49年生まれのフォスは、かのヴァンダー・フォスケの息子です。
 1958年、私がラフェルスに住むアルベルト・ファンデル・プレースを訪問した時、彼はフォス・ファン・49の3羽の全兄弟を持っていました。その中の1羽から誕生した娘、つまりヴァンダー・フォスケの孫娘を私はサンフランシスコに住むH.ヴェルナッツァに譲つたのです。
 このファンデル・プレースのメス鳩がやがて全米中に知れ渡るベスト・ブリーダーとなったのです。


【Q】評価の高いヤンセンのペアは
【A】“ブラウエ”48−6445161どスホーン・リヒト51−6163692でしょう。
 ドイツの鳩レース協会会長エリック・ハイネマンを伴って、このペアのトレード交渉にー家を訪れた時のこと。ルイ・ヤンセンは微笑みながら、たとえ氏のメルセデスベンツをプレゼントされても譲るわけにはいかないと答えました。
 49年か50年のことです。私はジョルジュ・ファブリーのためにIペアをセレクトしました。このペアからやがて、有名なポルトス、ファボリ一等が誕生しました。それらとは全姉妹に当たるトリを、ファブリーはヤンセン一家にプレゼントしました。一家が選んだぺアリングの相手は、ブラウエ・ファン48とスホーンリヒトの直子だったのです。
 この近親交配は大成功でした。ペアはヤンセン一家に“ハルフェ・ファブリー”Halve Fabry(ハルフェはハーフの意)を誕生させることになったのです。 60年のことでした。
 その娘62−6130361は小さな、折れた羽を持ってはいましたが、素晴らしいトリでした。10歳のこのメスを、ヨス・クラックは是非、手に入れたいと思いましたが、かないませんでした。専用の小さな鳩舎を与えられていたそのメス鳩の子供が“ドンケレ・スティール”63−6510753です。世界的に有名な“メルクズ67−6282031が、その息子です。
 ドンケレ・スティールの父親“スティール・ファン・55”ぱバング”(臆病の意)51−6117447の息子です。スティール・ファン・55は、私の友人ハン・ヴアッセン(ロッテルダム在)にトレードされたのですが、その体型がどうも彼の好みには沿わなかったようです。やがてデスカイマーカー氏に25,000BFで転売されました。57年、ヴァッセン氏が亡くなったとの知らせを、私はヨハネスブルグで受けました。


【Q】アメリカのボストンに住む愛鳩家に、あなたは”コー・イー・ノール”との愛称を持つヤンセン・バードを送ったとありましたが。
【A】コー・イー・ノールKoh-I-Noorとは、世界に誇る3大ダイヤモンドのひとつにつけられた名前であり私の代表的なブリーダーの1羽でもありました。81年のサンバンサンN約30,000羽中10位を獲得しています。

  ■■『Piet de Weerd 研究』013■■  [ピート・デヴィート回想録013「優先遺伝という切り札」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1996年12月号 )  イレブン  2020年7月24日(金) 3:55 修正
世界中を駆け回り、幾多の銘系の盛衰を目にしてきたPiet de Weerdの系統理論には、実績に裏打ちされた確かさと重さがあります。この章においても、いくつもの私たちが心に留め、思索を巡らせなければならない理論が登場します。

特に次の言葉は極めて重要な指摘だと思っています。

「我々がなすべきことは、交配および基礎系統の一つへと戻し交配することです」


 ■”ビッケル・ダイフ”の祖父に見る優性遺伝■    2020年7月24日(金) 3:56 修正
 リンゼン博士が所有していたくだんのレッドのベアリング相手を”ビッケル・ダイフ“にしたのか、その姉妹にしたのか記憶は定かではないのですけれど、すぐに全オーストーブラバント(東ブラバント州)の400キロレースでの優勝鳩を誕生させました。さらに長距離用にと淘汰を進めると、600キロにまで飛翔距離か延びました。ここまで来ると、純枠なヤンセン・バードをも凌ぐ勢いです。

 が、それ以上、良い鳩が生まれなかった理由は、リンゼン博士が長距離バードとしては2流のトリを導入していたためです。もし彼が、75年の、あるいはさらに幸運に恵まれたなら81年か83年のサンバンサン優勝鳩を手に入れることができていたなら、事情は全く違っていたことでしょう。

 リンゼン博士のケースはほんの一例に過ぎません。私は五大陸のうち4つの大陸から優秀な長距離鳩を迎え入れました。これらにヤンセンの血をクロスしただけで、直子は行動半径を拡張したものです。ヤンセン・バードの恩恵の一つは、おそらく卓越した方向感覚であると思います。これはヤンセン・バードの体内に「遺伝によりしっかりと埋め込まれた」資質なのです。

 私の信ずるところその特性は、他の殆ど総ての系統に比べ、コースを維持する能力に優れている点にあるのです。

 もちろんこの能力は疲労困憲すれば減退します。純ヤンセン系のチャンピオンは、過酷な天候や高温、逆風のもとではまるで水を得た魚のようでした。とりわけ青空と照りつける太陽を好みました。彼らはその条件下で充分にウェットだったのです。

 が、限界距離を越えて飛ばすと、その代償は余りに大きなものでした。体に過度な負担がかかり、悪い結果を色々と引き起こします。その限界はレースによって異なります。タックスやサンバンサンといったレースを、まるで教会の尖塔の回りを旋回するかのごとく軽やかにこなすことすらあるのです。それは先頭の鳩のスピードに負うようです。

 超越の可能性を秘めた組み合わせ交配の問題点は、非常に長い時間を要すること、そして後続世代における淘汰が容易とは言えない点です。ピジョンスポーツ界の高名なライターは皆、近親交配の長い伝統のある二つの異なる系統のチャンピオン同士をクロスするのが理想であると言います。

 たとえば、ヤンセンの51年生まれの”バンゲ“に、ミシェル・デスカン・ファナステンの”ブラウエ・アングレーム・ダイフィン”(313)などは、まさに夢の組み合わせでしょう。そのような組み合わせは、私の頭の中のファイルから1Iダースほども引き出すことができます。

 私ならば確実性と容易性のために、いつもヤンセン・バードを使ったことでしょう。経験の教えるところによれば、交配を多く重ねたグループの配合値は、近親交配により作出されたトリの配合値よりずっと劣ります。

 さて、我々がなすべきことは、交配および基礎系統の一つへと戻し交配することです。しかる後どうすべきかは、交配の結果が否応なく私たちに語ってくれるでしょう。作出者の大抵がしていることはといえば、たとえば”バンゲ“と”アングレーム・ダイフィン“のカップルから生まれた若いオス鳩を、他の系統の雌鳩チャンピオンに掛け合わせるといった類のことです。これだと遺伝子材料が多様になり、劣勢状態で不都合な偏向や欠陥の生じる確率が高くなりますけれど、いずれにせよ試してみる価値はあるでしょう。(※注イレブン)

※注イレブン:宮沢系は、この失敗をおかした代表例です。そして、この考え方は、今も鳩界に根強く存在しているように思っています。その背景に、近親交配に対する必要以上の恐怖感が盛んに主張された時期が日本鳩界の歴史の中にあったことが影響しているように考えています。

 ■優性遺伝と雑種強勢■    2020年7月24日(金) 3:57 修正
 私の古い友人であるジャン・ボンスマ博士は、アフリカのプレトリア大学の教授で、世界的に有名な家畜の権威です。彼いわく、あらゆるゲームの切札は優性遺伝である。

 イスラエルのロバート・ジャイス博士とは57年、彼のベツレヘム時代に知り合いました。彼はその著書「レース鳩でリラックス」の中で次のように記しています。
  「能力を高めるためには鳩を近親交配しなければならないという多くの愛鳩家の抱く考えはナンセンスである。近親交配した動物六頭のうち五頭は、好ましくない劣性形質が現れるため処分しなければならないことが、遺伝理論により確認されている。近親交配が、動物群の遺伝的構成の中に既に存在しているもの以外、何も生みだしえないことは疑う余地もない。
 私かアメリカで学生生活を送っていた頃、農学部では豚をできるだけ濃密な近親交配によって交配用のスト。クを確保し、トウモロコシを近親交配で作った時のように雑種強勢を引き出そうとした。トウモロコシの場合はいわゆる雑種トウモロコシの生産量が30パーセント増えて強い印象を与えた。
 35年、アメリカで100の優秀な豚の血統を用いて実験が開始された。うち残ったのは40年にはわずか37、53年にはわずか27、そして60年には先に述べた理由で実験は中止となった。
 以上の家畜育種計画を通して明らかなのは機能的に目的にかなった動物を作るためには雑種強勢を用いなければならないことである。私にとっても、家畜における優性遺伝はいくら高く評価しても充分ではないことがはっきりした。それぞれのグループで各人が希望する動物を作り出すのに大きな役割を果たしている。
 さらに注目すべきは、優性遺伝を持った動物は稀であり、それは近親交配によっては絶対に得られないということである。このような動物は、時に血統が不明である。イギリスではある種の役馬の基礎馬の系図は、最初の所有者が間違えて記入したため、今日ではこの種類のほとんどの名馬の系統は疑わしいとさえ言える。
 最も重要なことは、鳩は能力によって淘汰しなければならず、そして子孫の淘汰こそが、
いつ遺伝子の組み合わせを開始すべきか教えてくれるということである。その時には、その組み合わせを守るべきである」

 私は10歳か11歳の頃、ペニングがピーター・マリッツとトランスワールの農民の体験について書いた本を読んだ時、その地を自分の足で歩くことになろうとは夢にも思いませんでした。それは25年前、鳩の選別を目的とする旅でした。この分野では私はパイオニアであったのです。

 ブレダのボンスマ教授は何度か私のもとを訪れましたが、ある時、私は彼をアーレンドンクのヤンセン家に連れて行きました。彼はその時「物凄い感銘」を受けたのでした。

 ■品種改良とは■    2020年7月24日(金) 3:58 修正
 ブダペストのアンカー教授が私に語ってくれた話です。彼は年に一回、カボスヴァール農業大学の国営養豚プラントのために新しい血を求めて、シュレ・スヴィッヒ・ホルシュタインに出かけました。生物学者や農業技師と一緒に、新しい遺伝子のストックを探す目的です。必要とあらば、同僚のボンスマ教授の役馬のように、血統不明のものでも構わなかったのです。

 ピジョンスポーツ界では、性能さえ証明されたなら、たとえ迷い込み鳩でもためらうことなく自分の系統内に取り込んだものです。これほど切望される優性遺伝(あるいは強力遺伝)とは、科学では優性形質を持った子孫を生む能力と定義されます。優性遺伝とは経験に属することがらであり、結果が出て初めてそれとわかるものなのです。

 ある動物に実証された優性遺伝が未だ擦り切れていない時、それは貴重な財産となります。そうした問題は牛の人工受精では、あれやこれやのチャンピオン鳩舎におけるよりも簡単に解決できます。鳩の場合には未だその域にまで達していないのです。
 以上に述べたことから明らかなように、交配による品種改良に取り組む科学者は、二つの要因について研究しなければなりません。一つは超越交配、もう一つは雑種です。父ヤンセンもその息子たちも、この問題を深く考えたことは一度もありませんでした。彼らは平凡な人たちだったのです。けれども彼らにとっていずれの要因が決定的な意味を持っていたかという問いは興味があります。

 ボンスマ教授の母国語で「バスタークラーク」すなわち雑種強勢の話から始めるのが1番でしょう。

 レース実績による淘汰であれば、大抵はヘテロ接合体か雑種のトリがセレクトされることになります。なぜなら、純粋種のトリよりもこれらの方が速く飛ぶことができるからです。が、その指示に無条件に従えば、それで済むというものではありません。多数の不可量あるいは不可測な値、たとえば方向感覚などを考慮しなければならないからです。

 とはいえ、速く飛ぶことを軽視し過ぎると誤った道に進む危険性が非常に高くなります。多くの場合、交配による淘汰は困難です。大小を問わず、幾多の強豪鳩舎においてすらなかなか成果を上げられないでいるのが実情のようです。

 ■再びハーフ・ファブリーのこと■    2020年7月24日(金) 3:58 修正
 ヤンセン兄弟は自分たちの鳩をファブリーと掛け合わせて大成功をおさめました。かの「ハーフ・ファブリー」は、リエージュで育てられ、1年目にレースに参加してアーレンドンクで数多くの賞を得たのです。私はハーフ・ファブリーの母親を知っていました。50年1月31日にグラシス通りにあるファブリー鳩舎で私自身が掛け合わせたカップルから生まれたものです。オス親「フランク」とメス親「ヒロイン」のペアです。

 たった1つのカップルを組むために、私はファンーテュインを伴いリエージュに行きました。パリでの父ファブリーとの約束を果たすためにです。このカップルから6羽のヒナが残りました。その中に”ポルトス””ファボリー“そして”バーフ・ファブリー“の母親が含まれていたのです。

 52年、私はこれらの若鳩がどんな風に成長したのかを確かめに出かけました。ヤン・ファン・ヘローフェン、フーブ・コルスミットが同行しました。老薬剤師(=ファブリー)は私に鳩を手渡しました。コルスミットは脚環番号をマッチ箱の余白に書き付けます。2歳鳩はリエージュの大地の上を飛び回っていました。

 ハーフ・ファブリーの父親のことを私は知りません。ファブリー父子がアーレンドンクで買ったオス鳩が、特別のヤンセン・バードだったとは思いません。”トラーヘ”と呼ばれていたそのトリもやはり”ブラウエ・ファン48”と”スホーン・リヒト”から大量生産されたうちの1羽だと思います。大量生産によって、全系統の基礎に据えるべき良質で有益なトリが生まれたのです。

 この一連の過程から生みだされたことは何だったのでしょう。雑種強勢それとも超越でしょうか。おそらくその両方でしょう。両方の因子が一つの型に現れたからといって何の不思議がありましょうか。

  ■■『Piet de Weerd 研究』014■■  [ピート・デヴィート回想録014「近親交配の勇者たち」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1997年1月号 )  イレブン  2020年7月24日(金) 11:09 修正

  ■ヤンセン兄弟は一貫していた■    2020年7月24日(金) 12:30 修正
 私がこれを書くのは、ヤンセン兄弟が交配をしたのは実際のところ、この時だけだったからです。”ハーフ・ファブリー“が良いレース鳩であることがわかったとき、純系の優秀な一羽のヤンセン・バードと戻し交配されました。結果はご承知のとおりです。それはヤンセンが戦後おこなった交配の数少ない成功例のなかでも、群を抜いていました。

 ”ヤンセン・ファブリー“のラインは、61年生まれの主翼に傷を負った小さなメス鳩から始まりました。それはヤンセン家の裏庭にある特別小さな鳩舎で飼われていたのです。クラックに言わせると、これ以上の鳩を、ヤンセン兄弟はそう多くは持っていなかったと言います。私かリエージュで試みたカップルから誕生した65年生まれの”アウデ・ヴィットハー”の体内にも、ファブリーの血が流れていました。

 20年後に私はロサンジェルス郊外パサデナにあるサンタ・アニタ競馬場に行きました。全米最高の競馬場です。テキサスの石油王のキャビンの中で、オクラホマの農民の息子で競走馬専門の獣医をつとめるシャッタ・グレゴリーと、世界最速、最高の馬の系統改良について語ったものです。ジャックは鳩を飼っており、それが縁となり私との親しい付き合いが始まりました。

 彼は私にある馬の写真を見せました。彼はその馬の共同所有者で、幾らかの出資をしていたのです。識者たちの期待は大変なものでした。私が、濃密な近親交配の産物かと訊ねると、ジャックは次のように言いました。

 もちろんだ、そうでない馬などいない。けれども、それはだんだん危険になっていく。今日でも明日でも、もし何か一つの要素がなくなったらそれでおしまい……つまりジャック・グレゴリーは、異血交配が避けられなくなったと言うのです。それは雑種強勢や超越を追い求めるためではなく、獲得したハイレベルをひとえに持続させるためなのです。

 ボンスマ教授は劣性遺伝子の出現または隠蔽について語りました。彼はそれで交配と近親交配の現象を完全に説明できると思いました。教授の考えでは、濃密な近親交配はたいてい始めには悪い影響を生むが、交配は好影響を生むという事実も、それで説明できるはずでした。実際にその通りかもしれません。

 生きている系統は、生命そのものと同様にダイナミックです。それは絶えず試され、環境の淘汰要因やレース結果によって変化します。さらに、ある要素は伸ばすけれども別の要素は押さえるという作出者の好みによっても変わります。淘汰は遺伝子という庭の中で、草取り鍬か一箱の毒物を手にして、滅ぼそうとする雑草を探すのです。

 ■有名なトウモロコシの実験■    2020年7月24日(金) 12:32 修正
 ボンスマ教授は、これらの原則をトウモロコシの品種改良に一貫して応用した、古典的な例について報告しました。アメリカ人のイーストとジョーンズは、あるトウモロコシの品種に劣性遺伝子が出現するまで、12世代にわたって近親交配をおこないました。

 それから彼らはその品種を純粋な12の系統に分けました。穂の丸いものと平たいもの、穂の長いものと短いもの、穂当たりの種子の数の多いものと少ないもの、穀粒の大きいものと小さいものです。退化現象の原因となった変種も明らかになりました。根の奇形のためにまっすぐ立つことができずに小さいままのもの、穂に奇形のあるものなどです。それらを選別して取り除くと病気はなくなりました。

 最後に最良の系統を集めて、再び互いに掛け合わせました。すると、まもなく最初の系統の良い特質を総て備え、しかも好ましくない劣性遺伝子を取り除いた新しい品種が誕生しました。これらの劣性遺伝子は、ほとんど総てのトウモロコシ畑で時折現れる異常の原因です。この新しい品種はその後は純粋に、つまり近親交配によって育種しました。これこそ常に、我々のあらゆる努力の目標でなければなりません。我々の場合で言えば、常により良い子供を産む、より高いレベルの鳩を作ることです。

 20世紀を通して発展したピジョンスポーツにおいて、近親交配の輝かしい持続的な成果、近親交配の弊害(退化)、雑種強勢、超越交配、異血導入などについて、アーレンドンクのヤンセン系ほど貴重な材料を提供してくれる系統はほかに知りません、無数の愛鳩家はヤンセンのシステムに健全な嫉妬を抱きながらも、近親交配の弊害を恐れて、自分の鳩舎に応用しようとしない、そんな印象を私はぬぐい去ることができません。
クラックは恐れなかった

 ヤンセンの処方に盲目的に従うことはなかったにしても、大筋において受け入れ、そしてほぼ同じ成果をあげた愛鳩家に、クラック=ヨス・ファンリンプト、ニック・ヤンセン、アルベルト・ファン・カウウェンベルクなどがいます。近年では、ナップヴァンペーのチャンピオンになったミッデルハルニスのコール・ドゥッペルトがそのいい例です。彼は手に入る限り最高のクラック・バードを方々から入手し、目を見張る成果をあげました。

 もう一例をあげましょう。ヴェーメルディングのピーテルスとその協力者のファン・エス、またバールナッソウやヴァルケンスワールト、ブーデル等の国境沿いの地区には、強いレースマンが多数います。フリーメン在のピエト・ファンデルーロウも忘れてはなりません。数え上げていったらきりがありません。脱線の多い私の話ではありますが、その不協和音をも楽しもうとする方も大勢いることを、私はよく知っています。

 私はヤンセンについて書いた最初の人間ですが、最後の人間ではないでしょう。まず最初に、近親交配の弊害を押さえ、さらには完全に消滅させることを意味する、美しい響きの南アフリカ語”バスタークラーグ”についての定義を試みます。

 ピジョンスポーツにおける偉大な支配者はポール・シオン、ジョルジュ・ファブリー、ヘクトール・デスメット、ジェラール・ファンネ、それに彼らの信奉者たちです。これから彼らに語ってもらいますが、まだ生きているヤンセン兄弟のルイとシャレルが、どこかで耳にしてほくそ笑むことでしょう。
 *注 この回想録ドイツ語版が書き下ろされたのは83年。シャレルーヤンセンは96年3月5日、82歳で永眠した

 ■雑種強勢とは何か■    2020年7月24日(金) 12:34 修正
 この学術用語は、1914年に学者のシュル(SHULL)によって初めて使われました。彼はこの言葉で、異型接合または不純性の結果生じる促進効果を表現しようとしたの
です。シュルは、遺伝モデルの不純性によりF1(=第二世代)において多くのファクターの発達が可能になったと信じました。彼は異型接合自体を活発な成長の刺激物とみなしましたが、それについて詳しい説明を加えることはできませんでした。

 雑種強勢の原因は特定の刺激物にあるとする仮説も多く存在します。しかしながら″バスタークラーグ“という複雑な現象についてたった一つの説明が成り立つものかどうか、疑問です。おそらく雑種強勢という言葉は、極めて多様な原因に基づく現象を総括したものであって、これらの現象はそれぞれ独自の説明を要するでしょう。今日、シュルの理論は決して放棄されたわけではありませんが、現在はむしろ、発達は様々のファクターの非常に有利な組み合わせの結果であるという見方が主流です。

 有利な効果をメンデルの遺伝の法則のいろいろな可能性によって解釈しようとする努力もおこなわれています。でも、ピジョンスポーツの世界にあってこれは難題です。ボンスマ教授はとっくに諦めました。彼が追求しているのは、多くの愛鳩家と同じく、純粋なヤンセンを買って自分の鳩と交配させ、"バスタークラーグ“によって特定の機能的に優れたトリを作ることです。

 交配したヤンセンが、純粋なヤンセンより速く飛ぶことはピジョンスポーツ界の常識で
す。私か戦後すぐに書いた言葉を引用すると
 「世界中で、ヤンセンの銘鳩によって改良または改善されない系統を私は知りません」ということになります。が、あの時どうして
 「とりわけヤンセンのメス鳩によって」
と付け加えなかったのでしょうか。それは、ミラノ郊外の北イタリアの山地、ラーゴ・マジョーレで競走馬を飼育しているフェデリコ・テシーオが既に戦前に実践していたことを、当時はまだ知らなかったからです。

 「現在も将来も、最良の競走馬を作ろうとする者は、最高のステイヤーの資質を持ったオス鳩、すなわち非常に重い重量をできるだけ速く、長い距離を運ぶことのできるオス馬を、最速のメス馬と掛け合わせなければならない」

 ■偉大なイタリア人の法則■    2020年7月24日(金) 12:35 修正
 その逆では駄目なのです。彼はその理由を私に一度も語りませんでした。アイルランドのバリードイルの実力者ヴィンセント・オブライェンが、それについてどのような意見を持っているか聞いてみたいものです。あるいは、世界中の誰よりも多くのレースで優勝したアーデルスタントの騎手レスター・ピコットは、どう考えるでしょうか。

 ボンスマが求めているような機能的に優れた動物とは、交配の結果ただちに機能する動物のことですから、ルイとシャレルは今では重労働はできませんが、潤沢な資金を持っている者は彼らの鳩で簡単に利益を得ることができるのです。もちろんヤンセンといえども、良い鳩ばかり作り出しているわけではありません。

 たとえばそれぞれの顧客にとって有益な優れた鳩を20パーセント作るとしましよう。

 この20パーセントから愛鳩家は誰でも利益を得ることができます。機能的に優れた鳩を作るためであれ、自分自身が速く飛べる鳩を持っていて超越を狙うためであれ、です。

 シュルが雑種強勢について書いた最初の明確な説明は拡張され、その内容は変化して、最初のものよりも曖昧になりました。雑種強勢と近親交配はそれぞれ対立する現象を指していると思われがちですが、この二つの概念は対立するものではないということを指摘しなければなりません。近親交配の反対は交配つまり雑種化です。けれども、雑種化はボンスマ博士が無邪気にも”バスタークラーグ”と呼んだものと必ずしも結びつきません。

 私はこの術語を用いないわけにはいきません。なぜならば、それはオランダ語圏ではエーデルワイスのように純粋で珍しい言い回しだからです。多くの経験が教えるところによれば、雑種強勢の有利な効果を子孫に発現させるチャンスを試してみるべきでしょう。その場合は”バスタークラーグ”が超越交配のプロセスの出発点となるでしょう。しかしこのプロセスは、いついかなる時も競走の結果に基づく過酷な淘汰を必要としているのです。というのはレースの結果は、系統を活力旺盛に保つ重要なファクターだからです。他の小動物を飼育している者は、私たちを羨んでいます。私たちにはバスケットという天の恵みがあるのです。

  ■■『Piet de Weerd 研究』015■■  [ピート・デヴィート回想録015「退化について」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1997年2月号 )  イレブン  2020年7月25日(土) 5:55 修正

 ■優秀な系統の交配■    2020年7月25日(土) 5:57 修正
 誰もがずっと前から確信していることだと思います。交配するペアを互いに特徴づける数多くのファクターを可能な限り残すためには、ある特定の観点で、互いにできるだけかけ離れた近親交配の系統を選ぶのが望ましいのです。そうすることによって、うまく相互に補完しあうファクターを組み合わせるチャンスが大きくなることでしょう。

 この理論を実践する愛鳩家は今後もなくなることはないでしょう。彼らが目指すのは、ヤンセンーバードと並んで、近親交配を重ねた速い系統を一つでも見つけることです。
 たとえば、ヤンセンとステッケルボート。あるいはボンスマ教授が断言する優性遺伝を持った鳩。それらがどこから来ようと関係ありません。1000キロレースを、少なくとも分速1000メートルで飛ぶことのできるトップレーサーが、ますます強く求められているのです。

 ■メダルの裏側……”退化“■    2020年7月25日(土) 5:59 修正
 さて私たちは”バスタークラーグ”の何であるかを知っています。次のテーマは、言わば一枚のメダルのもう片側のようなものです。つまり、交配によるものであれ近親交配によるものであれ、”退化”についてです。

どんなに積極的に異血導入をおこなっても、合理的な淘汰なしには必ず下降するものだということを忘れてはなりません。それはひたすら下に向かう、出口しかない混沌のようなものです。世間でよく言われている”異血導入“は、誤解を招きやすい言葉です。人々はこの言葉に全く誤った”新しい意味”を持たせています。

 たとえば、血統の遠いトリを交配した後は、血統の近い鳩で近親交配した時よりも長く罰を受けずに近親交配が続けられる、と信じられています。が、近親交配の許容性は、何よりまず淘汰の問題、つまり鳩の作出で繰り返し語られてきたアルファでありオメガなのです。

 昔、ベルギーについて書いた一人の男がいました。頭の切れる男で「マスター」というペンネームを使っていました。本名はアヒエル・デメイヤー(Achiei Demeiyer)といい、ゲント近郊のローテンフレで学校の教師をしていました。

 私は以前、彼の書いた一つの記事を手元に持っています。それは、いかに多くの人がこの問題について常に考えていたかを物語っています。

 「親類関係にある鳩を長く一緒に飼うのは絶対に避けなければならない。第1代カップルと第2代カップルのヒナが最も純粋であることは、いまさら証明する必要もないことであろう。欲望は新鮮であればあるほど強力に発揮されるからである。
 極端な近親交配も慎重に避けるべきだ。それゆえ、もともと親類の両親の子供は、慎重を期して再度同じ血筋と組み合わせるべきではない。ただし、血統が非常に離れていえば別だ。この場合には、言うなれば血縁関係は消滅している。さもないと、没落の道をたどるのは必至のことである」

 以上のような見解を正しいと見なす愛鳩家はまだ大勢います。それどころか、どれほど慎重に組み合わせを選択しても、近親交配の欠点は次第に増え、遂には完全な退化につながるとさえ信じています。これは絶対に誤った考えです。

「欲望は新鮮であればあるほど強力に発揮され」子孫により多くのバイタリティーを与えるだろうという考えは、とくにすたれました。受胎と生殖に関する古い考えは捨てられ、それに代わってメンデルの説明が登場したのです。

 ”活力”という概念も、種々の遺伝子によって形成された多数の形質に分解されます。このテーマについて分かりやすい論文を書いた老ハーゲドールン博士は、次のように言っています。

「もし二種類の品種や系統を掛け合わせたら、それによって生まれた雑種は、両親の系統に共通に見られなかった総ての因子について不純である。一般にそれらの因子の数は非常に多い。その結果、二種類の雑種を組み合わせると、極めて多種多様な子供が生まれる。しかしながら、これらの雑種を戻し交配することもできる」

 まさしくヤンセンは、そうしたのです。しかも、”ハーフ・ファブリー“で、自分たちか何をしているか知らずに、です。

 これを理解するためには、動物の細胞内で遺伝子は長い系列、つまり染色体に配列されていることを知らなければなりません。雑種は染色体の半分を両親の一方から受け取り、他の半分を両親の他方から受け取ります。この雑種か自分で生殖細胞を作ると、これらの染色体はその都度二つの生殖細胞に分配されます。この分配、いわゆる還元分配でどの染色体か一方の生殖細胞に入り、どの染色体か他方の生殖細胞に入るのかは偶然によって決まります。

 一般に、雑種に由来する生殖細胞は、父方の品種の染色体と母方の品種の染色体に対応する染色体を半分ずつ持つことになるでしょう。さて、雑種をこれらの品種のいずれか一方で戻し交配すると、他方の品種と共通する染色体をほぽ四分の一しか持たないストックか得られます。

 このような戻し交配を繰り返すと何が生まれるか、容易に想像できます。戻し交配された系続か自動的に再び現れるのです。その際に、異系の新しい優性形質を幾つか認めることができます。(この項、続く)

  ■■『Piet de Weerd 研究』016■■  [ピート・デヴィート回想録016「シオンの”交配”」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1997年3月号 )  イレブン  2020年7月25日(土) 6:13 修正

  ■有名な作出家ギッツ■    2020年7月25日(土) 6:14 修正
 ”交配“は正しい方法ではないのに、老愛鳩家ギッツ(Gits)が長年アントワープのピジョンスポーツ界の頂点に君臨できたのはなぜなのだろうか、関心の高い愛鳩家はしばしばそう問います。

 私はそれについて、ローゼンタールのピート・デーブライン(Pietje de Bruin)と話したことがあります。彼は裕福な材木商で、ベルヘン・オプ・ソームに住むヨーセン(Joosen)とフェルナンド・スフル(Fernand Schul)の中間期に活躍したレースマンでした。食肉販売業者ヤン・デッカース(Jan Dekkers)が1928年にローマーNで優勝した時も、同郷のピートはまだチャンピオンの地位にとどまっていました。

 ピートは自分の伯父の家を表敬訪問したことのある、リールの伝説的な人物カレル・ウェッゲ(Karel Wegge)を知っていました。カレルはあちらこちら歩き回ることでも知られていました。1896年には、デュッセルドルフの連盟品評会の審査委員を務めています。
 ピートはギッツについて、私に次のように答えてくれました。
 「あの男は私と全く同じように、自分の心をとらえた最良の鳩がいればどこにでも出向いていって手に入れようとするのです。彼が一番良く買ったのは、何年も続けて好成績を上げたレースマンからでした。その鳩が交配によるものなのかどうか、そんなことは彼にとってどうでもいいことでした。大事なのはその鳩が自分の好みに合うかどうかでした。ギッッはある程度の知識は備えていましたので、良い鳩を手に入れました。必要とあれば大金を支払うこともありました。どうしても欲しいとなれば、必ず手に入れなければ気が済まないのです」

 ■ブリクー博士は言う、シオンは世界最高のフライター■    2020年7月25日(土) 6:16 修正
 ピート・デ・ブラインと同時代の古典的な作出家の例は、フランスの木綿王、ムーヴォーに住むポール・シオンです。ブリクー博士は彼を”世界一のフライター”と呼びました。でも、そう呼ぶことが彼にとって都合がよかったからでしょう。競走馬の世界でも活動していたシオン家は、この国で最も裕福な一人に数えられていました。元来、大富豪の家系で、その後、マルセル・ブザックが同じスタイルで財産を築きはじめました。

 シオンは次のように記しています。

 「ピジョンスポーツでの私の先生は、リラの有名人ルイ・サランビエール博士(Dr.Louis Salembier)で、私は今でもその思い出を名誉に思っています。私かレース鳩に関する、また交配に関する知識を獲得するに際して最も力を与えてくれたのが彼なのです。お蔭で50年にもわたり、長距離で常に好成績をおさめることができたのですから、彼の名前は忘れられるはずもありません。
 大変に気前の良い人で、そのために第一次大戦前には、数えきれないほどのアマチュアが、最高品質の鳩を手にすることができました。この偉大なる愛鳩家は、実に多数のチャンピオンを所有していました。フランスのみならず、ベルギーの傑出したレースマンの成果を、素直に認める姿勢をくずしませんでした。真の銘鳩を追求するためには系統の交配が必要だと確信していたのです。
 それで、毎年、冬になると私にこう言ったものです。”ポール、昨シーズンたくさん賞をとったあそこの鳩舎を訪ねてみようじゃないか“。
 気に入った鳩に出くわせばそれを買い取って交配しました。1914年の7月31日は宣戦布告の日です。私はたまたま彼と一緒にオプドルプ村のファンデンボッシュのところに鳩を見に出かけていました。お目当てはボルドーから唯一羽、当日帰還を果たしたトリでした。
 こんな風に繰り返される遠出により、私は長距離レースの偉大なチャンピオンの骨格を判定し、評価を下すチャンスを数多く与えられました。いつだってそれらのトリは、フランス、ベルギーの基準に合致していました。
 ルイ・サランビエール博士から巣立った私は、交配に次ぐ交配が必要であるという考えに至り、自分のコロニーの強化を期待できそうな鳩は、決して取り逃がしませんでした。そのタイプは、私か交配しようとする鳩の夕イプと同じでなければいけません。が、その鳩が長距離に通用する鳩であることを確かめることを怠るわけにはいきません。交配により、私かそのトリに何を期待するのかといったプランを練らなければいけません。
 交配は総ての愛鳩家が会得すべき技術で、多分。目“も、大きな役割を果たすのだと思っています」

 決して年をとらないように見えた、礼儀正しく、好感の持てるこのフランス人は、デルバー、ドルディン、ラウセル各氏などの証言によると、ベルギーで十数年にわたり毎シーズン、たくさんの若鳩を買いました。その作出者は、フランス脚環と私製環とを受け取ることになっていました。

 シオンは常に最良の愛鳩家のもとで、最高のカップルのヒナを買いました。彼はこれらの若鳩を、ツールソン近くのムーヴォーに建つ”ピジョン宮殿”に運び、例外なくそれらをレースに投入しました。彼はバスケットを徹底的な淘汰のために活用し、その年の終わりには自分の高い要求にかなわなかったトリは総て処分しました。
 標準的なタイプを、彼は好んだのです。シオンは、フランス・ベルギーにおけるレース鳩の基準を提唱した一人です。
 1907年のパリだったと思います。シオンは1872年の生まれ。最初の大きな成功は1898年のマドリッドからのレースでした。ここで彼は初の国際優勝を手にしたのです。同じ年に、彼はカレル・ウェッゲの跡継ぎから26羽の若鳩を買いました。カレルはその前年に他界していました。

 シオンは理論に深入りすることはありませんでした。実践こそが総て。近親交配によって自分のトリの質が後退したと信じてからというもの、二度と近親交配をしなくなりました。

 ヤン・アールデンはシオンを私よりよく知っていました。彼は30年代に、シオンからバスケットー杯に詰め込んだ鳩を導入しました。その殆どは茶とシルバーの羽色でした。しかし当時はもう、シオンの元にいいトリは残されていませんでした。長年にわたりフランス・チャンピオンとして君臨したシオン。息子ロベールのロフトマネージャーは、誇らしげに私に語りました。シオンは一生の間に星の数より多い賞を獲得した。しかし、彼はレースのたびごとに荷車一杯の鳩を送り込みもしたのです。

 鳩の一杯つまった凄い鳩舎を持っていたのは否定できない事実で、少しでも見込みのありそうな鳩は徹底的に飛ばしたのです。ですからここには理論化する糸口はみつかりそうにありません。

 二人の偉大なフランス人、サランピエールとシオンの考えは、今でも至極、健在です。

 近親交配家より百倍も多くの交配家がいます。ベルギーのプロフェッショナル、G・ヴァンヘーがその強力な後継者です。しかし、状況はより困難になっています。なぜならベルギーでは競争は激しさを増すばかりだからです。百もの系統を使った氏の成功は偉大です。これには、アーレンドンクのヤンセンの系統のメス鳩、すなわち”パトリック”の母親が貢献しました。

※ヴァンヘー父子は1962年に初めてヤンセン鳩舎を訪問、この時二個の卵を手に入れる。”アウデリヒテ・ファン50”と”バンゲ・ファン59の娘”のペアから誕生したものだった。孵化後、ヴァンヘーは自分の脚環を装着、うち62−34367988のリングをつけたメスが”パトリック”の母親となる。
 パトリック(64-3100031)は、68年ペリキューN1024羽中4位、リモージュN3613羽中19位等の際立った成績を残す。

  ■■『Piet de Weerd 研究』017■■  [ピート・デヴィート回想録017「誤った近親交配」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1997年4月号 )  イレブン  2020年7月26日(日) 15:12 修正

 ・    2020年7月26日(日) 15:15 修正
 それが正当であれ不当であれ、多くの人が恐れている。近親交配の弊害“あるいはいわゆる。退化“とは何か。この問いに答える時がきました。
 人は近親交配によって何を得ようとするのでしょうか。その場合のリスクとは何でしょうか。

 アーレンドンクのヤンセンにおけるように純粋でしかも卓越した交配能力を持った系統を見いだせる鳩舎は万に一つ、あるいはもっと少ないかもしれないという事実は、私たちを慎重にさせ、それについて軽率に考えることを戒めます。

 ■近親交配を許容しうる、有名かつ速い系統は総て”卓越した交配能力を有する系統“だ■    2020年7月26日(日) 15:51 修正
 本質的なポイントは、ボンスマ教授が「強力遺伝」と呼んでいるものです。ドゥーデン(注・ドイツ語辞典)で訳語を探してみましたが、みつかりませんでした。しかし私はそれが「優性」であると知っています。つまり自らのうちに卓越した交配能力を持っているように規定されていることです。

 多くの人は[強力遺伝]は、近親交配で偶然に現れるものに過ぎないと主張します。ボンスマ教授は、配合はある意味で宝くじの一等賞を引き当てるようなものだと言います。

「私たちは知らない。私たちはただ待つだけだ」
 強力遺伝と異型接合は必ずしも対立するものではありません。彼の言葉を再び引用すれば、
 「どんな集団でも、所望する動物が出現する時は個体が極めて大きな役割を果たす」。

 私がハムージークのライムント・ヘルメスを3年以内でドイツの国内チャンピオンにしたシステムも、そこに立脚しています。

 76年に私の鳩舎から生後6ヶ月の若鳩を譲りましたが、彼は私の勧め(淘汰)に従って、最初は6羽のメス鳩と、後から12羽のメス鳩と配合しました。卵は仮母に抱かせることにしました。ヘルメス鳩舎には常時50ないし60の仮母がいたのです。

 82年、そこには”ボンテ・ピート“の28羽の直子がいました。直子は残らず、レースでその価値を証明しなければなりませんでした。同年、ヘルメスは、自らの成功の93パーセントは”ピート“の素晴らしい強力遺伝のお蔭であると公表しました。

 私は生後3ヶ月になったピートを、アーレンドンクのカレル・モイレマン氏から買いました。母親”ブラウエ・ダイフィン“は、アドリアーン・ウォウテルス経由のヤンセンだろうと推測しました。が、ルイ・ヤンセンはその鳩は自分の鳩舎で生まれたと言い張りました。私は、それか”本物の”ヤンセンを飼つていた別の鳩舎から来たものであることを疑いません。いずれにせよそのトリはヤンセン・バードとはうりふたつでした。脚環から作出者名をチェックすることはしませんでしたが、いずれそうしてみようと思います。

 ”ボンテ・ピート“はレースには一度も参加しませんでしたが、その兄弟や姉妹のうち何羽かはチャンピオンになっています。私はピートが2本足の優性の奇跡として、ピジョンスポーツ史上に刻まれることと確信しています。

 最も広義の近親交配とは、ある集団における二つの個体間の平均的な血縁関係より近い動物同士を組み合わせることです。これは皆さんがとっくにご存じのこと、つまり近親交配には親を組み合わせることもあるということを意味します。
 そうなっているかどうかは系図を読むことで簡単に確認できます。もちろん、系図はちゃんとしたものでなければなりません。近年では系図が偽造されて、その価値が疑われるケースも増えているからです。

 どんな動物も2体の両親を持っていて、系統図では4体の祖父母、8体の曾祖父母へとさかのぼります。多数の世代を考慮に入れるならば、死んでいるものも生きているものも含めた先祖の数は、集団全体よりも多くなるでしょう。つまり、同じ個体が幾つもの系統図中に登場するわけです。言い換えるなら、さまざまな親等の近親交配があるのです。

 が、実際の作出では、血縁関係が少し離れていれば近親交配とは言いません。しかし、より狭義の近親交配なしに、どんな系統も下位系統も考えられません。近親交配は、植物であると動物であるとを問わず、どんな系統形成にも付き物なのです。

 私たちが近親交配という言葉の意味を明確に定義するためには、組み合わせにおいて2つの個体がどのような最低親等の血縁関係にあるときにそう呼ぶのか明らかにしておくことが必要です。

 レーナーによると家畜の繁殖では、組み合わせる2つの個体が先行する4世代に共通の親または先祖が1つ、またはそれ以上ある場合にのみ近親交配と言うそうです。近親交配の親等が小さければ、近親交配とはいいません。その場合は異血交配(ドイツ語Fremdzcht英語Outbreeding)と呼ばれます。


 鳩の世界でも同じことが言えるでしょう。ある動物の系図に書かれた先祖の数が少なければ少ないほど、近親交配の親等は近くなります。後続の世代で全兄弟と全姉妹を掛け合わせると、それによって生まれた子供は4組の祖父母の代わりに2組、8組の曾祖父母の代わりに4組、というふうになります。これを”先祖喪失“と呼びます。近親交配の最も近い親等は、4世代にわたって全兄弟と全姉妹を組み合わせるケースです。

  ■神々をないがしろにする者は目をくらまされる■    2020年7月26日(日) 15:52 修正
 オレンジ(ニューイングランド)在の獣医ホイットニーは、7代続けてヒュースケン&ファンリールの鳩と配合しました。バスケットによる淘汰を行いませんでしたが
「充分に純粋だからその必要はないと信じていました」
と、語っています。その頃彼は、商業目的のブリーディング・ロフトを設立しました。彼は博学な文筆家で、その著書には『どうやって犬の繁殖で金儲けするか』があります。

 さて7代の後、このビジネスマンの鳩たちが「道路を飛び越すことさえできなかった」ことを、自身で認めざるをえませんでした。

 彼の大量に売りさばいたガラクタを、私はアメリカの多くの州において長年かけて徹底的に叩きました。しまいにはちょっと紙切れをもらい、そこに”価値なし”とか”およそ何の価値もない“とか書き込んだものです。大金をはたいたオーナーで、私の判断が当たらなかったとクレームをつけた者は1人もいませんでした。

 近親交配の目的は、非常に高品質の純度を確保することです。近親交配を長期間続けると変異性が減少しますが、それはいわば純度の尺度です。変異性の減少する理由は、メンデルの分離の法則によって説明されます。

 ”分離の法則”とは、いずれも雑種の動物を組み合わせ、ある特定の遺伝子について見ると、4体の子供で2つの雑種のほかに2つの純粋種が現れることです。つまり比較の問題で言えば、雑種はますます少なくなるわけです。

 ここで注目すぺき論理的な現象は、まるで歓迎されぬ劣性形質(aa)が現れることです。これらは最初は変異性を減少させる代わりに増加させると同時に、ストックの品質を劣化させる恐れがあるのです。これらの変種は淘汰されて繁殖から除外され(少なくともそうすべきで)、劣性形質は取り入れられないので、純化のプロセスが進行し、変異性は自動的に減少を続けるのです。

 この場合、近親交配の親等と、繁殖に使用する各代の動物の数が、発達のおこなわれるテンポを決定し、淘汰はこの発達に方向性を与えます。

 理論的にはこの集団は、遺伝子の望ましい組み合わせという点で純粋です。これには何よりも”コンパス”の基礎をなす遺伝子がふくまれます。活力、その他の不可量物は、バスケットの受け持つ領分です。

 ブリクー、ホーレマンス、デルバール、ステッケルボート、アーレンドンクのヤンセン、すぐには思い浮かばないものの、その他の偉大なる系統は、総てこのようにして生まれたものです。それ以外の方法はありません。”論理的”という点を私は強調しましょう。実践は非常に多くの問題を伴っているために、人人は近親交配の問題点を指摘します。これには根拠のないわけではありません。

 実際に不断の試験配合と厳しい淘汰による以外に系統を純粋に保つことはできません。それぞれの新しい代でこれをおこなうのです。絶対的な純粋性は空想の産物です。そのようなものは実際には決して出現しません。なぜならば、多種多様な妨害因子が近親交配のプロセスに影響するからです。

 かなり信頼のおける識者の意見によると、一回の間違った受精が長年の仕事を台無しにしてしまうことがあります。近親交配はエリートブリーディングの方法です。

 一昨日の夜は、弟と「田村」を一本空けました。  イレブン  2020年7月26日(日) 4:51
修正
イレブンの兄が、現在、仕事で千葉の方に居るため、東北の方にあちこち出かけておいしいお酒を送ってくれます。

一昨日の夜は、福島の銘酒「田村」を送ってくれていたので、弟と二人で一本空けました。東北の人は、本当においしい日本酒を飲んでいるんだなあ、とほとほと感心しました。

まだまだいい日本酒が沢山あるそうです。九州の焼酎もそうですが、メジャーデビューしていない地元で愛され続けている銘酒がやっぱり沢山あるんだなと兄と話したところです。日本文化の素晴らしさですね。

 コロナ第2波の兆しもあり、この4連休、STAY HOMEな過ごし方を心がけています。

 由緒正しいオペル系鳩ですね(岩田基礎鳩)  深澤昌樹  2020年7月23日(木) 13:55
修正
並河靖鳩舎の基礎鳩55−3770 B B♀ 岩田誠三 作
3/4 オペル系鳩 669 BC♂, 5910RC♂, 612BC♀が祖父母の系統図を
拝見して納得です。 由緒正しいオペル系鳩ですね!
その由緒正しいオペル系鳩の影響は、、、
ここ静岡東地区では、小林勇鳩舎を経由して数々の稚内帰還鳩を輩出
また、並河靖鳩舎から導入された静岡富士宮の故 岩田義教鳩舎がらも
静岡東地区最多の稚内帰還鳩を輩出されています。
オペルよ 偉大なり!!!と確信をもてました。

以前のイレブンに掲載されていた 稚内から九州へ帰還した
マリア号 RC ♀
オペル系鳩とシオン系鳩の相性が良い理由に
シオンの基礎鳩 23羽の鳩をシャルル ウエッジから導入
その内の灰栗の♀の子孫が活躍、、、一方 オペルの基礎鳩である
ローガン系もシャルル ウエッジのVENDOMを導入して主力鳩のオールド86や
ローマ I の血筋とクロスしている関係上 遠縁にあたるので血統的特性がでて相性が良いのでは、、、とです。

小生は、現行 オペル系鳩(地元の飛び筋とクロス)で飛び始めているので
いずれ縁があれば灰栗ダークアイのシオン鳩を入手できればなぁと考えております。

ところで、岩田孝七と小林勇が幼馴染の関係って 小林勇が名古屋出身なんでしょうかね?
コロナ禍で地元古参の鳩舎へ訪問して話を聞けていませんが
いずれ何らかの情報を聞いてみたいと考えております。

 「WeggeにはWeggeを」の原則から見ていくとオペル系をより深く理解できるように思っています。  イレブン   2020年7月24日(金) 2:46 修正
この「OPEL BOOK 2020」では第4章でしっかり整理したいと考えていますが、イレブンは「Weggeにはweggeを」の原則から見ていくとオペル系をより深く理解できるように思っています。

昨日、部屋の資料を一日がかりで整理して、この「OPEL BOOK 2020」にさらに追加できる資料が出てきました。また、数年前、国会図書館より取り寄せていた「愛鳩の友」の「総索引集」がやっと見つかりましたので、かなりの資料を引用できそうです。

小林勇と岩田孝七の人間関係については、かなり以前の記憶なので、「幼なじみ」だったのか、「同級生」「学友」と言った関係だったのか、ちょっとハッキリしませんが地元の方だったらきっとご存じのことだと思います。地元と情報が分かりましたら教えて下さいね。

ちなみに、小林勇鳩舎や板倉尚義鳩舎の資料も手に入りそうです。「OPEL BOOK 2020」に資料を追加します。

 《系統研究》【OPEL BOOK 2020】006   第1章 オペル系系統調査公開資料の全て ○全文引用資料(6) 『 並河ラインA系におけるオペル系の役割』   イレブン  2020年7月20日(月) 21:07
修正
 この『 並河ラインA系におけるオペル系の役割』は、日本で初めて岩田孝七がアカルディを通して導入したJ.L.Opel作のオペル鳩に、シオン系、ノーマン・サウスウエル系、アイザクソン系などの名系を掛け合わせて出来た並河ラインA系におけるオペル系を役割を見事にクローズアップした論文です。

 この資料の価値は、なによりも初期岩田系の基礎となったオペル鳩の系源を、『オペル・ブック』を使って徹底追跡している点です。これにより、岩田オペルがオペル系全体の中でどのような位置にいる系統だったのかが、初めて明らかになったのです。1971年のこの時まで、このことは、公表されていませんでした。
 
 日本に、『オペル・ブック』の原書『THE OPEL BIRDS』が手に入った1964年頃には、岩田兄弟、並河靖等は、この追跡調査をしていたものとイレブンは考えています。

 並河ラインA系の基礎鳩となった55−3770B♀は、669、619、5910の3羽のオペル鳩の孫です。この論文に掲載されている《系統2表》では、この3羽の系統追跡を『オペル・ブック』を使って、徹底的に調べ上げて一枚の表にしています。

これこそが、超長距離時代に雲霞の如く銘鳩を輩出した7807、335310,335311といった3羽の並河ラインA系の原鳩の母55−3770のオペル鳩としての全貌が明らかにされた貴重な資料となっています。

 この資料をじっくり読み取っていくことで、その銘血の秘密を様々読みとることが出来ます。

(※興味がある方は、この《系統2表》を2枚に分けた画像をアップしていますので、ご自身のPCに一度保存してから画像を拡大されると読みやすいと思います。画像データの原本が必要な方はメールでご連絡頂ければメールに添付して送付いたしますので遠慮無くご連絡ください)

 更にこの論文の分析によって、並河靖が、並河ラインA系を築き上げるために、系統としての相性の問題に如何に心を砕いていたかと言うこともしっかり読み取る事が出来ます。超長距離系が姿を消しつつある今、私たちが学ぶべき点は多いと考えます。

 イレブンは、この『 並河ラインA系におけるオペル系の役割』に、系統研究の資料としての第1級に価値を感じています。

  『 並河ラインA系におけるオペル系の役割』 (『愛鳩の友』誌71年4月号P62〜P68)    2020年7月20日(月) 21:09 修正
 先月号では、並河鳩舎の1300粁鳩68HK812の祖父″CH並河150号″の系統を追うだけで終ってしまった。

 今月は父方の祖母である62−94852の系統を追ってみよう。ここで〈系統1表〉を見ていただきたい。父方の祖父にも祖母にも、55-3770号が出てくる。

 ということは、69年に稚内GN1300粁を飛んだ66KH5141号は3770号の直子×孫という近親配合になる。それにV・ロビンソン×ハフナー系を配合したの今年の1300粁鳩で、いずれも長距銘系といえる。特に3770号はオペル系で、並河ラインA系の基礎鳩であり、多くの銘鳩を作出している。今月は特に、3770号を中心としてオペル系の解説をしてみたい。

 この原稿をまとめるにあたり、オペル研究会編の「オペル・ブック」に大変お世話になった。お礼申しあげます。

 ■■50年間飛ばし続けたオペル系■■    2020年7月20日(月) 21:12 修正

 □□    2020年7月20日(月) 21:20 修正
並河ラインA系には3羽の原鳩がいることは前にふれた。原鳩@58−7807BP♂、原鳩A56−335310B♂、原鳩B56−335311B♀である。この両親が55−5525BP♂(先月号参照)と55−3770B♀である。
 並河鳩舎において3770号の果した役割は大きい。では3770号とは、いかなる鳩であろうか。

 3770号は、名古屋の岩田誠三氏の作出鳩で、ヒナのときに並河鳩舎へ譲られたのである。この鳩は、並河鳩舎で馴致し、使翔したが、56年に佐渡両津400粁レースで近畿総合2位(京都地区1位)、58年相崎300粁1位、深浦700粁農林大臣杯近畿総合3位(京都地区1位)という成績をおさめたのち種鳩としてストックされた。

 □□    2020年7月20日(月) 21:22 修正
 両親はともに、岩田誠三氏の作出であり父親は54−47766RCで、55牟400粁3位、56年奈良尾800粁で初の当日帰還、おしくも2位、57年再び奈良尾800粁に挑戦して西日本地区総合優勝をとげている。

 母親は、純オペル系の種鳩として岩田鳩舎で作出された54-191281Sである。
 3770号の系統は《系統2表》を見ていただきたいが、父親の47766号の両親は、オペル作のMCCA50−669BCとバイツマン作の純シオンAU50KY50684RC♀(この系統は《系統3表》参照)であり、母方が純オペルなので、3770は、3/4オペル系、1/4シオン系である。このシオン系については後述する。

 オペル系といえば、アメリカの首都ワシントン市に隣接するメリーランド州ボルチモア市在住の故J・ルイス・オペル氏が、今世紀初頭から確立してきた系統であることは、すでに皆さんもご存知であろう。

 故オペル氏は、約50年にわたって鳩を飛ばしつづけ、自鳩舎で500哩(800粁)以上を記録した回数が2500回以上という偉業をなしとげている。

 50年以上にわたってコンスタントに飛びつづけ、今日でも世界各国で好成績をあげているオペル系を簡単ながら解説してみよう`

 詳細は『オペル・ブック』に記載されているが、オペル鳩舎の基礎となる鳩は、イギリスの長距離鳩舎として著明なJ・W・ローガン氏のものが多く、それにアメリカ在来といわれているトレントン系などが加えられている。このローガン系というのは1870年代からはじまり、イギリス特有の悪天候の中で長距離を飛ぶようにきびしく淘汰されてきた系統で、今日のイギリスの鳩舎の多くで基礎的な存在として活躍している。後でふれるが、並河鳩舎でも導入し成績をあげているノーマン・サウスウェル系もローガン系を基礎としている。

 このように悪天候の中で淘汰されてきただけに、オペル系は悪天候に強い。これがオペル系の第一の特長といえよう。

 またオペル氏といえば「近親交配」の代表的存在、と多くの人は考えている。事実、オペル氏の交配を見ると近親が多いが、オペル氏は原則として、親子配合、兄弟配合を避けている。普通に行なっているのは、直子と孫、孫と孫の交配である。

 いわゆるオペル系として確立するためにオペル氏は、種鳩〔R〕AからZまで(HとVは2羽)の28羽を中心にして、その組合せから出てきた記録鳩〔P〕121羽を含めて、数多くの組合せを作っている。また近親交配を重ねながらも、オペル氏は異血導入も巧みに行なっている。

 「系統2表」を見ていただきたいが〔RA〕とか〔RB〕と書いてあるのは種鳩で〔P2〕とか〔P10〕と書いてあるのは記録鳩の記号である。この表を見ているとすぐ気がつかれると思うが、ほとんどの鳩が500哩(800粁)以上を飛んでいることである。

 オペル系の鳩の羽色は、灰、灰胡麻、粟胡麻、そして時にシルバーがいる。灰胡麻の鳩には主翼に一枚か二枚の白の刺毛か入るという。

 並河鳩舎において″並河150号″とか5141号に刺しが出ているのは、アイザクソン系の利毛とともに、オベル系の持つ特色が強く出ているということであろうか。

 目色は柿目、赤黄色、ルビーのような赤目、それに銀目が多い。いずれも深みをもっている、という。

 悪天候に強いローガン系を基礎にし、それにアメリカ長距離系として著名なトレントン系をヒラー鳩舎や親友のジョンストン氏から導入し、さらに、バスチン、ハベニス系を入れ、近親交配の弊害を防ぐとともに改良に改良を重ねてきただけに、オペルはどの系統と交配してもタイプがくずれないし、予想どおりの成果をあげてくれる。ただ惜しむらくは、スピードがないということで、好天気のレースになるとトップをとれない可能性が多い。この欠点を克服することが、オペル愛好者の課題といえそうである。

 岩田誠三氏が、純オペル系の種鳩として3770号の母親を作出し、また父親の方はハイツマンシオン系の50648を配したのも、このような考えがあったからではないだろうか。

 いずれにせよ、3770号は、並河鳩舎において見事に開花し、オペル系のすぐれた能力をフルに後世代に伝えているといえよう。

 【3770号追跡系図:2分割画像】  イレブン  2020年7月20日(月) 21:30 修正
□□

 ■■名をあげたシオン系47766号■■    2020年7月20日(月) 21:35 修正
 3770号は3/4オベルと1/4シオン系だが、父方の祖母がハイツマン氏作のシオン系である。

 シオン系というのは、フランスのナンバーワン鳩舎である故ポール・シオン氏と令息のロベール・シオン氏が二代にわたって築きあげた銘鳩で、ヨーロッパではもちろんイギリス、アメリカにも広く愛好家がおりシオン信者は増える一方である。

 戦前、ロベール・シオン鳩舎から直接輸入することのできなかった日本鳩界は、昭和8年、アメリカのハイツマン鳩舎から、関口龍雄氏、岩田孝七氏、並河靖氏が7羽輸入したのがはじまりである。

 世界的にも、シオン系の鳩舎として有名なのは、スコットランドのドクター・アンダーソン鳩舎、アメリカのバイツマン鳩舎などがある。

 戦後も多くのシオン系が輸入されて、華々しい成果をあげたものとして記憶にとどめられているのは、昭和32年、名古屋の岩田誠三鳩舎において800粁農林大臣杯優勝鳩となった54-47766号である。

 この鳩は3770号の父鳩で、47766号の母鳩がハイツマン作のシオンAU50KY50648RC(系統3表)で、岩田鳩舎においてオベル氏のMCCA50-669号と交配された子である。

 50648号の父親は、ドクター・アンダーソン氏作のSURP46W25RCで、″アンバー・ピーク号″と呼ばれる鳩で、ポール・シオン氏作とロベール・シオン作の鳩の直系である。母方はバイツマン鳩舎で戦前から飼育されていたシオンに、フランスから輸入したシオン系を配合してある。

 シオン系がなぜ多くの愛鳩家にもてはやされるのか?
 戦前からシオン系を使ってきた並河氏の言によると「距離の長短を問わず、非常にスピードの出る」ことと「不思議と思えるほど利口で」「逆風に対して強い」ことではないかという。

 鳩飼育の中心がレースである以上、常に優勝、または上位入賞することが飼鳩家の最終の希望である。いかに、形がよく確実に帰ってくるといっても、スピードがなくいつもどんじりで帰っているのでは面白くないであろう。

 そこでシオン系の持つスピード性という特長が多くの競翔家に好まれるゆえんであろう。しかし欠点がないわけではない。それは、悪天候には脆さがでてくる、という点である。

 並河氏自身の経験によると「天気がよければシオンが勝ち、天気が悪ければ在来系が勝つ」ことがたびたびあったそうである。

 この克服は、悪天候に強い系統との交配によって可能であろうし、また多くのレースマンはそうしているそうである。

 シオン系の特長を少しあげてみよう。

 休型は大型で美しいタイプ。骨格が頑強で竜骨が力強い。目は、シオン・アイ、つまりダーク・シオン・アイと呼ばれているものが多い。どちらかというと晩熟型。

 このような性質をもっているだけに、また日本の気候風土への慣れという面から見ても、岩田誠三氏がオぺル系の鳩と交配して優秀な鳩を作出したことは、なるほどと納得がいく。

 ・    2020年7月20日(月) 21:38 修正
 それでは最後に、3770号の配偶鳩として選ばれた61-46233BC♂の系統をみてみよう(系統4表)。

 この鳩自体は300粁レースで6位になったあと、レース中に負傷して種鳩にストックされたが、この弟鳩が61-46312BCW(並河312号)で、63年に竜飛Nで優勝している。

 父鳩の58-128436Bは60年の余市N1000粁で総合7位(近畿1位)という成績をあげた。この鳩はブリクー×バンブロアンにアイザクソン×オペル系にノーマン・サウスウェル系を交配したものである。

 系統図をみていただくとわかるように、46233の父方の曾祖母56-335311号は、前述の58-7807とならんで55-5525×55-3770の直子であり、並河ラインA系の原鳩Bで、深浦700粁3位である。同腹鳩の56-335310B♂も、ラインA系原鳩Aである。

 だから系統をたどると、68KH8126号の父方の系統中、55-3770号の占める割合は非常に大きい。

 127436号の母方はイギリスのノーマン・サウスウェル鳩舎の作出鳩である。
 この鳩舎は、先にふれたように、ローガン系を基礎にして、長距離レースでいつも上位入賞鳩を多数出している。

 NURP56RA4113とNURP55RA1305について詳しい資料がないのでよくわからないが、おそらくイギリス鳩界の銘系が入っているのは間違いないであろ
う。

 46233号の母方の系統まで及ぶつもりであったが誌面がない。ただ母方のNURP57RA605号は、V・ロブンソン鳩舎の作出鳩で、68KH8126号の母方の系統と重なりあってくるので次号に詳しくのべたい。

 《56−335310》  イレブン  2020年7月20日(月) 21:42 修正

 オペル系特集 ありがたいです!  深澤 昌樹  2020年7月19日(日) 11:53
修正
オペル系の配合方法 主に 直子x孫、 孫x孫、、、血統書から見て取れる
参考になりました。
以前に記述されていた「獲得遺伝子」もしオペル氏が生きておられたら、
このことに関してインタビューしたいものです。
オペル、、、名前からしてドイツ系アメリカ人でしょうか!
何のお仕事されていたんでしょうね!
オペルの鳩舎の全貌の写真や鳩舎の内部の写真 その他オペル氏自身の写真があれば是非拝見したいものです。

   イレブン  2020年7月20日(月) 5:47 修正
J.L.Opelに関する情報は、1964年に公開された任秀夫氏の『オペル系は永遠に生きている』とその後に発刊された『オペル・ブック』が全てだとイレブンは考えています。その『オペル・ブック』にも、「オペルの鳩舎の全貌の写真や鳩舎の内部の写真 その他オペル氏自身の写真」は、これまで公開されている以上の画像は、残念なことに掲載されていません。

これまで、J.L.Opel鳩舎の画像を見たいという思いを持ったオペル系ファンは、きっと数多くおられたことと思いますが、それを目にした日本人は誰もいないようです。J.L.Opel鳩舎については、『オペル系は永遠に生きている』に記された以下の文章から想像するしかありません。

「 オベル鳩舎は、2エーカー(約2500坪)の土地の南側に造られている納屋の2階の片隅に建てられていた。
 鳩舎の前面は障碍物がなく見晴らしがよくきくように、すべての樹木を切り払ってあった。

 鳩舎の内部は3つの部分に仕切られ、そのどの部分の鳩舎にも沢山の鳩が収客され、鳩舎の中には水道が設備されて、自由に水浴や飲水ができた。
窓は南側に3つと東側に1つあったが、直接鳩に風が当らないように工夫されていた。

 床には白い砂がカーペットのようにまかれてあり、毎週一回その砂をこして糞が取りのぞかれるようにされていた。この鳩舎は、鳩にとって正に天国であったということができよう。」

ビール兄弟がJ.L.Opel鳩舎の画像を持っていてもおかしくないと思うのですが、そうしたことをJ.L.Opelは嫌っていたのかも知れませんね。

 J.L.Opelが獲得遺伝子についてどのように認識していたかと言うことについてもキチンとした記録は残っていません。しかし、このことは、J.L.Opelの系統理論の中核だったんではないかと推測しています。『OPEL BOOK 2020』の第4章で、イレブンの見解として整理しておくつもりです。

次の資料掲載は「並河ラインA系におけるオペル系の役割 」です。「オペル・ブック」による系統追跡調査が貴重な資料です。

 やっと梅雨が明けるそうです。今日は、蕎麦を食べに行きました。  イレブン  2020年7月18日(土) 14:20
修正
長い長い梅雨でした。1年間で一番管理に気を遣います。もうすぐこの梅雨も明けるとのことです。イレブン家では、梅雨が明けると最初の休みに蕎麦を食べに行くことにしてます。車で1時間15分ぐらいのところある蕎麦屋さんです。蕎麦好きの妻のお気に入りのお店です。梅雨の間、じっと温和しくしていたんで、夏の日差しの下で久しぶりのドライブとなりました。ここの蕎麦は絶品です。

□御蕎麦 ちきた https://www.tabirai.net/sightseeing/column/0009158.aspx

 ・  イレブン  2020年7月18日(土) 14:23 修正

 選手鳩たちです。  イレブン  2020年7月18日(土) 14:29 修正
住宅街なので、よその屋根に止まらないようしつけが必要です。よそに止まるのを見つける度に旗で追うようにしつけてきたので、今は、鳩舎の上か自宅の上にしか、止まらないようになりました。そのかわり、自宅、及び、自鳩舎では決して追いません。

今日は、朝、水浴をさせたので鳩たちは日向ぼっこしています。

来週から近場の訓練を始める予定です。

  ■■『Piet de Weerd 研究』009■■  [ピート・デヴィート回想録009「栗色との交配」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1996年8月号 )  イレブン  2020年7月18日(土) 2:11
修正
この『Piet de Weerd 研究』009から、いよいよ、Piet de Weerd の「系統理論」に当たる内容に入っていきます。

 Piet de Weerd は、この「回想録」の連載を行う上で、この連載の4分の1ほど使って、系統理論における「異血交配と近親交配」について独自の見解を展開します。ヤンセン系を始めとする、世界の銘系の成り立ちを通してその理論を具体的に述べています。イレブンは、これこそが、Piet de Weerd をして、世界中の愛鳩家がその存在を認めていた最大の理由ではないかと思っています。

 Piet de Weerd は、おそらく、これから回想録で述べていくことを正しく理解してもらうために、冒頭から自分の系統理論を詳しく書き綴ったのだろうとイレブンは考えています。

 幾度も述べていることですが、愛鳩の友社が発刊した『銘血・銘鳩ピート・デヴェールトの回想録』では、この部分がすっぽりと省かれています。イレブンからすると、腹立たしさの域を超えて呆れるてしまうほどの編集方針です。理解できません。

 同書に於いてほぼ大半が省かれているこの『Piet de Weerd 研究009』から『Piet deWeerd 研究025』までの連載内容に目を通されたら、多くの読者の方がきっと同じ思いにたたれることでしょう。

 これからの連載では、毎回、ピートさんの理論をじっくりと咀嚼しながら味わっていくことになると思います。しばらくの間は、毎回、1〜2回分の回想録を掲示板にアップしていきたいと思います。では、早速始めていきますね。

 ■ケンペン原野への郷愁■(『Piet de Weerd 研究』009の続き)    2020年7月18日(土) 2:56 修正
 スレートの羽色は既に1900年以前から系統に入っていました。1928年にはヨゼフ・ショータースは父の鳩をヘレンタルスに住むノールデルウェイク出身の農民デ・ケーラエルの鳩と掛け合わせました。早くも2年後にはそれが大当たりだったことがわかりました。先に書いた通り、”ボルドー・デューヴィン“の由来はわかっています。店先の鳥力ゴに入っていたオスから生まれたのです。その命がわずか数フランで救われたのは全くの偶然でした。そこには未知のファクターが働いたのです。

 ビール醸造者はとても鋭い選鳩眼を持っていましたが、ある閃きからこの鳩を買い、彼の最良のメス鳩と交配させたのでした。1927年、このカップルから3羽のヒナが生まれクウィーブランからボルドーまでのレースに出場しました。”アープ“はボルドー・デューヴィンの直子ではなく、この三姉妹の1羽とデ・ケーラエルの老鳩、”ドンケレ”の間に生まれたのです。ショーダースの選んだ二個の卵の一つから、アープが孵化したのでした。ショーダースは最初、不細工なオス鳩だと思いましたが、後に美しいトリに成長しました。

 フォンス・ヤンセンはジェフ・ショータースから3・4羽の鳩を贈られました。そのうちの2羽を手に入れたアーレンドンクのドリークスケ・ヤンセンは本当にラッキーでした。そのことを彼自身が一番よく判っていたのですけれど。1羽は、ショーダースが16歳まで育てた”アウデ・リヒト”の息子でした。13歳の年には、2位に大差をつけて優勝しています。もう一羽は、”アープ”の息子でした。

 話をジョゼフ・デ・ケッペルに戻しましょう。彼は、ショーダースやヤンセンと共に長距離レースに参加していました。1935年、彼はメルクスプラスの収税吏フォンスから1羽の鳩を買いました。それは、”アウデ・ローステルト“の息子でした。戦後になって、ショーダースおよびルネーマエスと掛け合わせ系統内に採り入れました。

 デ・ケッペルについては幾つかのエピソードがあります。オークションで彼の鳩をルネ・マエスが14000ギルダで競り落とし、自鳩舎の基礎鳩に据えました。そしてこのオス鳩は長距離でクラブの脅威となったブルーのメス鳩”02“の父親になったのです。私はこのメス鳩を、ベルギーの「ナショナル・フライング・クラブ」の品評会で審査したことがあります。(ゲオルゲス・グーセンスは、私がこの鳩を以前、見たことがあると思ったようですが、それは誤りです)

 デ・ケッペルたちは昔ながらのウィドウフド・システムを踏襲していました。父デ・ケッペルは毎朝の舎外のたびにピストルを撃ちました。早朝から響いてくる騒音で眠れないと、近所の人が駐在所に訴えました。火気の使用を禁止された彼は、今度はオオカミを追い払ったりライオンを調教するのに用いる革製の鞭を利用することにします。が、オスの一群は簡単には鳩舎に入ることができませんでした。というのも、入口は切妻屋根の中に入り込んでおり、上には針金がめぐらしてあったからです。

 デ・ケッぺルは鳩の血を浄化するために、ツナノキの花から作ったお茶とカールスバート塩とを用いました。塩のほうは大変効果があると思われますが、お茶の効果はいかがなものだったでしょう。

 ■■ 「血統とは近親交配を許容できるものである」  ピート・デウェールト■■    2020年7月18日(土) 3:01 修正
 近親交配による血統確立について言及する際に、ヤンセンのことを避けて通ることは決してできません。

 既にお知らせした通り、本書ではヤンセンの血統をあの偉大な時代の他の優れた血統と比較するのみでなく、過去及び現在の血統を例にとり詳しく紹介していきます。私の古くからの友人に「ドーダイフ」誌の編集者ヤンーアールスがおります。彼の記事に「交配と
近親交配」と題されたものがあります。このタイトル中の”と”という助詞に意味があります。

 ピジョン・スポーツのベテラン記者だったヤンは、多くの投稿者が犯す「交配か近親交配」といった書き方をとりませんでした。多くの人は、交配と近親交配を対立する手段と考えたのです。つまり、自分の好みと判断で良い鳩を作出するという目的達成のための。

 しかし、何百年間も交配だけおこなってきた鳩舎はありませんし、近親交配しかおこなわなかった鳩舎もありません。いつでもどこでも、2つを併用しているのです。愛鳩家の実践において、交配と近親交配はせいぜい両極端ではあっても、決して対立するものではありません。重点をどこに置くかの違いがあるのみです。

 そこに働くファクターは実に多様です。それらは西ヨーロッパにある莫大な数の鳩舎に匹敵するくらい、多様なのです。

 ヤン・アールスは侮辱されたと感じいささか気分を害しました。彼の記事に批判が加えられたのです。彼は強く反発しました。有名なポール・ジャックメイスンが「スポーツ世界」に書いたルポ「サッカーと鳩」に関する手紙に中でも、この問題に触れています。

 ヤン自身の言葉に耳を傾けてみましょう。

 「何人かの競翔家は、私か彼らに誤った情報を与えたと思い込み、そう述べているようです。というのも私か、自らの系統には血筋の異なった鳩は絶対に入れないとされている鳩舎をからかったことがあるからです。友人ポールは、こう書いていなかったでしょうか。ヤンセンは長い年月の間にせいぜい一組、つまり二羽の新しい鳩を導入したと。
 詮索好きな連中は、私の年代記にアラを探したり難癖をつけたりせずに、そこには多くの心理が書かれていることを知るべきです。実際、ヤンセンについては全くルポルタージュに書かれている通りなのです。私はアーレンドンクに行ったことはありますが、残念ながら未だヤンセンを訪ねていません。できるだけ早く訪ねるつもりです。でも、わざわざ行かなくとも、そこには多数の鳩がいて、長い期間にわたって他の血を入れる必要がなかったということは判っているのです。奇形や退化の兆候のあるものは総て容赦なく淘汰して、できるだけ濃密な血統を保たなければならないのです。さもなければやってはいけません」

 ■実証された戦術■    2020年7月18日(土) 3:02 修正
 ヤン・アールツについてはこのくらいにしておきましょう。私はといえば、ヤンセンの血統や戦術を知り尽くしています。私はアーレンドンクに足繁く通いました。それもヤンセン一家を訪ねる目的のためだけに。それは「ヤンセン兄弟」が話題になるだいぶ前のことです。才気溢れる父ドゥリークスケ・デ・パウがまだ生きていた時分のことです。

 私は冬の夜、心地よい暖炉の前に座って、まだ結婚していない大勢の息子だちと、品種や近親交配の良し悪しについておしゃべりしました。息子たちは、女性にはまるで興味がなく、かわりに「体を切り開いたら心臓の中に鳩がいる」のではないかと思えるほどでした。いつでも彼らは、可能な限り良い鳩を育てて売っていました。

 彼らはレースマンとしてもトップクラスでしたけれど、鳩の作出にかけてはもっと偉大でした。多くの有名鳩舎、たとえばクラーク・リンゼン博士、アルベルト・ファンデル・フレース、アルペルト・ウェンペルク、カレル・デ・ヘンスほか世界中の数十いや数百の一般愛鳩家が彼らのトリを導入しました。そこには多数の短距離鳩がいました。

 ポール・ジャックメイスンが書いているとおり、ヤンセン一家は何年もの間、英国方式の近親交配を応用し、従兄弟・従姉妹をどんどん交配させていたのです。

 二つの有名な成功例をご紹介しましょう。第一の例は1919年、ペルラールの、”フォンヌ“コイレマンの栗色のメス鳩と掛け合わせたものです。兵隊だったフォンス・ヤンセンは、軍隊でルイス・クーレマンス・ジュニアと親しくなりました。ルイスがこのメスをアーレンドンクにもたらしたのです。彼らの血統に栗が入っている所以です。

 ヘーレントホウトの老ベノイト・スヘーテルスの鳩には1900年以前からスレート・ブルーが混じっていました。(※注:イレブン)それはカレル・ウェッゲに由来するもので、今日に至るまで続いています。カポスファール在のアンケル教授は、この複雑な羽色が貴重な遺伝子の担い手かもしれないと考えました。それはフェルフィールスのアンセーヌ系にも度々見ることができます。

(※注イレブン:現在連載中の『OPEL BOOK2020』に登場しているオペル系基礎鳩「オード・スレート号」を理解するうえで極めて重要な記述です。ピートさんはこの「スレート・ブルー」をWegge鳩に由来している指摘しています。このことは『OPEL BOOK2020』の第4章で詳細に検証する予定です。)

 オウデンブルフのテオ・ファンデヴェルデは、この色を見るたびに喜んだものです。かれの娘……と言っても老夫人ですが、今でもギステルのオウデンブルフに住んでいます。残念ながら彼女は鳩を飼ってはいなかったので、この話を裏付けることはできないでしょうが。アイメ・イデ博士と、同級生のジェローム・ファン・リステンボルグなら覚えているかもしれません。    (この項続く)

  ■■『Piet de Weerd 研究』010■■  [ピート・デヴィート回想録010「近親交配の成果」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》  (出典:『愛鳩の友』1996年10月号 )  イレブン  2020年7月18日(土) 3:27 修正
 Piet de Weerdは、いよいよここから「近親交配の理論に入っていきます。

 このドイツ語版翻訳では「異血交配」という言葉が登場しません。「交配と近親交配」という翻訳になっています。

 この回想録においては、「交配」という語は、言葉のままの「交配」ブリーディングという意味の場合(この場合「配合」という語に置き換える方がよい場合があります)と「近親交配」と関係して使う「異血交配」の意味の場合があります。

このことを踏まえて読み替えていかないとと、読んでいて意味が分からなくなります。気を付けて下さいね。

  ■ファブリーとの有名なクロス■    2020年7月18日(土) 4:10 修正
 ショータースの鳩との2度目の交配は、1933年におこなわれました。3度目は50年代で、”ハーフ”ファブリーと掛け合わせました。

 ジョルジュとヴィクトール・ファブリーは種鳩購入のためにアーレンドンクにやって来ました。永い交渉の末、彼らはようやく目的を果たすことができたのです。万事、期待通りに運んだら、ヤンセン一家に素晴らしい若鳩を一羽贈ると、彼らは約束しました。

 ルイスは、リエージュからやって来た二人の紳士に感謝はしたものの、その時のことはそれっきり忘れていました。ところが、間もなくしてヴィクトールは約束の若鳩を持って来たのです。それは、くだんのヤンセンの種鳩と”ポルトス”の姉妹とのペアから生まれたものでした。

 ポルトスはファブリーの鳩舎における最高のレーサーでした。その兄弟が”ファボリート”で、これらは1950年1月31日にピート・デウェールトがブレダで組み合わせたカップルから誕生しました。

 その母親”ヘロイネ(=ヒロイン)”は、サンバンサンからのレースでリエージュのクラブ優勝を果たしナショナル・イヤリング部門およそ2200羽中の4位に入賞しました。

 このトリの脚には割環が嵌められていたのを覚えています。ジョルジュ・ファブリーはこのトリを自分の種鳩鳩舎で飼育する特別許可を持っていました。私はファブリーの元で1回のみペアリングを試みましたが、それが先に述べた日です。

  ”フランク&ヒロイネ“のカップルが、ファブリーとアーレンドンクのヤンセン鳩舎に新しい歴史を作ったのです。私は、ハーフ・ファブリーが、手羽に傷を負った61年生まれの小さなマダラのメスと交配されたのを見たように記憶しています。このメス鳩は、裏庭にある金網で仕切られた小さな鳩舎の中にいました。

 カップルは優秀なトリを数多く誕生させました。なかでも有名なのは65年生まれの。”ヴィットハー”と、”メルクス”’の祖母です。

 ■交配(配合)を軽んじるべからず■    2020年7月18日(土) 4:12 修正
 交配(配合)は時に極めて真剣に受け止めなければなりません。ドゥリークスケ・デ・パウは、鳩に関して格別のエキスパートというわけではありませんでした。この点で、オウデナールデのオメール・デケイザーとは比較になりません。彼の持っていた鳩の数はほんのわずかなものでした。

 ドゥリークスケ・デ・パウの強みは、彼もその息子たちも、近親交配を許容しうる傑出した素材に恵まれていたことでした。一家は近親交配とレースでの淘汰により、不完全な部分を排除していったのです。彼らは均一なタイプを決して求めませんでした。彼らが特に好んだレースは、クィーブランとサンクウェンティンからの短距離でした。パリ北部から放すレースにも何回か参加しました。

 長距離では自分たちの鳩を別のレースマンに託していましたので、そのレース結果には大いに関心をもっていました。彼らが意識的に、徹底的におこなった唯一のことは、近親に次ぐ近親でした。目と手を使っての淘汰にはかなり消極的でした。彼らは一番速く飛ぶ鳩を残し、遅い鳩は処分しました。たとえ痩せ過ぎと見えようが、速く飛ぶことのできるトリを、彼らは「スヘルペン」(ジャーピース)と呼んで、頭を振りながらも残しておきました。

 時に彼らは美しく成長した若鳩を何羽か越冬させました。その一羽が有名な”ウィンター・ヨング“です。が、しばらくしてスピードに難があると思われた時には容赦ありませんでした。

 メッヒエレンに近いボーンヘイデンに住むフランス・ビューレンスは、鳩について全く知識のないことを自認していますが、もう30年以上も同じ方式をとっています。彼自身は過去の人になってしまいましたが、彼の鳩はコルトリーグのシルペール・トーヤの血統に入っており、ハードな長距離で好成績をおさめています。

 ■フランス・ビューレンスの奇跡のカップル■    2020年7月18日(土) 4:14 修正
 1933年、フランス・ビューレンスは奇跡のカップルを持っていました。それはヤンセン最高のトリにも全くひけをとらないどころか、それにも増して、物怖じせず攻撃的ですらありました。

 私は45年前、まさにフル稼働している時分にこのカップルを見たことがあります。ビューレンスはこのカップルで何軒かの家を建てました。ヤンセンはといえば、通りをまるごと買えるほど稼ぎました。

 ヤンセンは老若あわせて30羽以上冬越しさせることは滅多にありませんでした。近親交配によりバイタリティーの衰えるようなことは稀で、肩で相手を押し退けたり、クチバシで引っ張ったりしていたものです。

 1955年の最高の鳩は、1935年の最高傑作よりも猛烈でした。その間、私は総ての鳩を見てきました。1975年の鳩もそうです。この年の最高の鳩は、”メルクス“ 、”ヨングーメルクス”、それに”19”でした。体型こそやや小さくなりましたけれど、相変わらず速く、交配値も低下することは全くありませんでした。

 ティルブルグの有名なソーニャ・ストラートで、私は1972年に生まれたメルクスの娘を買いました。生後約10日のヒナを手に入れたのは、知性はどうであろうか、餌を与えた時の、”耐久力”はどうかを観察するためだけを目的にしてのことでした。

 これよりも賢い鳩は、ヨゼフ・フェルハイエがワーレヘム近くのハーゼウィンドで飼育していた”アウデ・ボント”をおいて他には知りません。それは彼の”スプートニク”の母親だったと思います。20年後にヨゼフを訪れた際に、彼は
  「あの時、あなたに譲らずにおいて本当によかった」
と、語っていました。

 知性と帰巣性、すなわちコンパスとは関係があるのでしょうか。多分、あるとは思いますけれど、確たる根拠はありません。遺伝によって系統内にしっかり植えつけられ、また子孫に容易に遺伝するコンパスが、ヤンセンの血統の最も重要な資質の一つであったと確信しています。

 大げさなことは嫌いですから、読者の皆様にはどうか行間を読み取っていただけたらと思います。ちなみにこのテーマは別の項目で述べてみるっもりです。”耐久力”、体重増加、”タフネス“についても別の機会に譲ります。

 アンカー教授がブダペストで、私にこう質問したことがあります。
  「あらゆる鳩の血統で、最も重要な資質とみなしているのは何か」
  [コンパス、少量の餌で太ること、弾力性、知性、ウェットネス、目の色素の濃いこと、攻撃性、強靭な羽」
 これが私の答えでした。後の2つは、とりわけ長距離レースに適した資質です。そしてヤンセンの最大の強みが最初の2つであったことは間違いありません!

 1935年生まれの”ラーテ”はずいぶん話題になりましたが間もなく”ラッペ” (迅速)という呼び名に変えられました。フランドル地方では下痢をした鳩のことを「こいつはラッペだ」と言いますが、これは本筋とは関係ありません。

 ラッペはショーダースのスレートの”アープ”に、フォンヌ・コイレマンスの古いヤンセン系のブルーの雌鳩を配合してできた、鳩舎の基礎鳩”アウデ・ヴィットハー・ファン33”の異母兄弟でした。ケンぺン地方で最高のレーサーがラッペでした。日曜日ごとのレースで2位以下を断然引き離して優勝をものにしていきました。どんな風がどちらの方角から吹いてこようと全く意に介しません。ラッペがスパートすればどんな鳩もついてくることはできませんでした。

 ◆◆ピート・デウェールトとの一問一答@(「回想録009」参照)◆◆    2020年7月18日(土) 4:33 修正
【Q】シェフ・ファンリールの4羽の基礎鳩のうち、“オウデ・ヴィッツィンガー”Oude Witzinger”について、もう少し教えてください

【A】.36年生まれのこのトリは、翼に刺のある、大きくて粗野な短距離バードです。見た目に美しくないこともあり私の好みのタイプではありません。が、とある小村でレースを戦い、瞬く間に頭角を現したのです。血統・ラインについては皆目判りません。ゆかりの地を訪問もしてみましたが、無駄でした。

 このトリを購入したのはルイス・ミヒエールセンです。アントワープ郊外のボルヘルホウトに住む金とダイヤモンドのバイヤーは、1940年から45年のあいだにアントワープ地域のチャンピオンを多数、導入しました。戦時中、ヒトラーは秘密保持のために占領地区の鳩を殺戮していきました。が、この地区の鳩はその難を免れたのです。

 ヒュースケン・ファンリール鳩舎での作出は45年に開始されました。その年の8月に、私はオウデ・ヴィッッツィンガーを掴ませてもらいました。シェフは言っていました。
  「この粗野なトリは200羽ほど参加の150マイルレースで2位を10分離しているんだ」

 私は本著の中で、オウデ・ヴィッッツィンガーはやがてダンハイヴ兄弟に売られたと述べました。兄弟は、ヒュースケン・ファンリールの公開オークションで9,000 B Fでこのトリを落札したのです。既に15歳、老空軍兵になっていました。

【Q】ヒュースケン・ファンリール鳩舎での種鳩としての成果は?

【A】配合の相手は小さなメス”ボーリネッケ”(小さな農婦の意味Boerinneke)でした。彼らの持っていたうち最高のメスです。 10歳の時にデスカイマーカー鳩舎が導入しました。
 ペアの最高の直子は”ラーテ・バンゲ”、その成績は以下の通りです。

・ルブールジェ 200マイル  299羽中3位
・・アングレーム450マイル 4,545羽中7位
・リボルヌ  500マイル2,331羽中7位
・リボルヌ       2,481羽中4位
・ポー    600マイル1,096羽中10位

ラーテ・バングの兄“グローテ・リヒデは、
・リレブールジエ 4位 
・コニャック   5位
・リボルヌ2,431羽中5位  等

 またボーリネッケの弟“オウデ・バング”ぱクロンメ“(45−4730883 キールの折れた、の意)とペアになりました。クロンメは、ヨス・ファンデンボッシュから来たメス鳩です。ちなみに、このフアンデンボッシュの住んでいたベルラーンの近くにあるリール(Lier)は、若鳩売買の中心地でアントワープから南に10マイルほどいったところにあります。

 ファンデンボッシュは中距離系として有名で、トリを入手するのはとても困難でした。ずっと後に、カレル・モイレマンが特別に手に入れたのは57年生まれの刺のあるオス鳩です。モイレマンは正直かつ信頼に足る人物です。

 のちにオス鳩は66年のヤンセン・ヘンとペアになりました。 76年に私はこのペアのヒナを3か月でセレクトしました。 R. ヘルメスの基礎鳩となった “ピート”がそれです。 69年から74年にかけて、モイレマンは少なくとも30羽のヒナをこのペアから引き、それにより巨万の富を得ました。

 現在、モイレマンは娘リングとの共同鳩舎“ダーメン&モイレマン”としてナショナル・レースで戦っています。追い風レースでは特に 強味を発揮するようです。近年、ジョルジュ・ボレ(西フラマン在)から1・2羽を導入して成功しました。

【Q】本書の中で“迷い鳩”という記述が時々出てきますが?

【A)当時の何十万もの愛鳩家の大半は短距離レースを楽しんでいました。人が住み、その上空を鳩が飛んでいる限りは迷い鳩が多数生まれます。後に有名になった血統中にもこれらの存在が多数含まれるのです。

(つづく)

 ◆◆ピート・デウェールトとの一問一答(「回想録010」参照)◆◆    2020年7月18日(土) 15:10 修正
【Q】デ・ケッヘルがフォンス・ヤンセンから買った【アウデ・ローステルド】の息子について教えてください

【A】まず“ローステルドとは、尾羽のラフなトリという意味です。ほんの一時、尾羽に乱れのあったその時期につけられた愛称のようです。 30から40年代にいた25羽ほどのドゥリークスケ・ヤンセンの愛鳩と同じように上質な1羽でした。レーサーとしても優れたトリでした。

 デ・ケッヘル氏が、ローステルトの初交配の年にできた子供を手にいれたのは1935年のことです。ブルーのトリでしたね。私自身も、ローステルトの子供を38か39年に導入しました。

【Q】“ナショナル・フライング・クラブ”の品評会で“02”という有名なメス鳩を審査したことがある、とのことですが

【A】はい。小さなブルーのメス鳩で、素晴らしいレーサーでした。この“ナショナル・フライング・クラブ”というのはブリュッセルにあったクラブで30名ほどの厳選されたメンバーで構成されていました。主に大富豪、有名人が集まっており、レースマンとしてピカイチというわけではなかったのです。

【Q】ヤンセン一家は長い間“英国方式の近親交配を応用”していたと書かれていますが

【A】“英国方式”と呼ばれているのは、甥や姪同士の近親交配をメインにするものです。対してベルギーのレース鳩の交配は、最高のレーサー同士を掛け合わせるものです。たとえばそれが父と娘、母と息子であろうと構いません。
 レース鳩や競走馬は、シーズン中は毎週、レースに持ち寄られます。つまり、その結果が毎週もたらされ、セレクションをもたらすのです。セレクションこそが最高の価値……。近親交配は成功も失敗ももたらしますから、セレクションが必須です。

【Q】あなたの良き生徒であるレイムント・ヘルメス氏が96年に再びポーのINで優勝を果たしましたね

【A】ヘルメス氏が初めて私のところを訪ねて来たのは76年のことO一緒に飛び筋を作り上げてくれないか、との依頼でした。端的に言えば、100Kから 700Kまでのドイツのレース・プログラムを制して彼をチャンピオンに仕立てあげる、というのが私の課題となったのです。
  「それなら3年のうちに可能だ」
と、私は答えました。
 熟考の末に、私は手持ちのなかから3羽の最上級のオス鳩を彼に譲りました。さらに、ステーンベルゲン地区の長距離レースで活躍した6羽のメス鳩を彼のために買い求めたのです。総ては私の飛び筋ヤン・アールデンの血を引くものでした。

【Q】当初のヘルメス氏の目標はじきに達成されたのですね
【A】.80年には、彼の地区で最強の地位につき、もはや敵がみつからなくなっていたのです。それで私は新たな提案をしてみました。すなわちINレースへの参加を勧めたのです。が、彼いわく。
  「ベルギー、オランダのレースマンにかなうわけがない。余りに不利な地形条件である」
 確かにそうです。そこで私は言いました。

  「ザールブリュッケンに行ってみては? ここから南西に200K。ベルギーやオランダのエースに桔抗できる手段を私も考えよう」

 ヘルメスは直ぐに、ザール州にある小村ホルンバッハに行き、新しい大きな鳩舎で作出を開始しました。私の譲ったトリと、私か彼のために集めたトリとで。

 マーストリヒトに住むマルセル・プラークハウス氏の所に行ってみるようにとも勧めました。近年のヨーロッパにおける屈指の長距離ブリーディング・ペアを、氏は持っていたのです。このペアを入手することは叶いませんでしたが、生後6週間のヒナ15羽を手に入れました。いずれもプラークハウス氏が自分のためにと温存していたものです。2月のことでしたから、その年の8月には作出を開始することができました。

 うち1羽が“1886464 ” で、このトリにはステーンベルゲンのヤン・デウェールトのオスが選ばれました。私のオールド・デルバールの血統です。ヤン・デウェールトが亡くなった時、夫人は私に、全鳩の公開オークションを企画してくれないかと相談を持ちかけました。それで私はプラークハウスに、その中のオズ72−313744”を購入するよう勧め、彼はその通りにしました。このトリはファンネのメスとペアにされました。こうして世界的に有名な長距離のブリーディング・カップルが誕生します。

 81年、私はヘルメスに“81−1858317 ” の脚環をつけたメスをプレゼントしました。その娘が、彼のペスト・レーサーの1羽“カチャKatja”です。9回INレースに参加し総てに入賞という素晴らしい翔歴の持主です。

【Q】プラークハウスから入手しだ1886464 ” の成果はどうでしたか

【A】その息子から有名な“00647 −2081”が誕生しました。 83年ポーINで優勝したのが2081です。このオス鳩チャンピオンに、ヘルメスは私がプレゼントしたメズ1858317 ” を掛け合わせたのです。つまり“2081&317 ” のペアです。その孫“92−4184”が96年ポーIN優勝鳩です。

【Q】あなたのプレゼント鳩“317 ”の系源は?

【A】オランダのブレダにある私の鳩舎でこのメス鳩は生まれました。父親“70−2150005 ”は老鳩ですが栗色の素晴らしいストック・バードです。ここから5羽の長距離N優勝鳩が出ています。系統はブリクー、ファンデフェルデ、ファンデルエスプト。ペルトゥス・ワイナッカー鳩舎から、私はこのトリを手に入れました。ヘルメスにもワイナッカー氏の住所を教えましたから、彼も0005の兄弟を買うことになりました。彼のトリぱ70−215011”。

 90年バルセロナI N28,000羽のレースで、ヘルメスはワン・ツーを獲得します。優勝鳩に入っているのが215011の血です。

 92年、バルセロナ当日の夕刻遅く、ヘルメスは1羽の打刻を済ませました。直線距離にして、バルセロナとホルンバッハとは951K。しかし、何と難しいコースでしょう。当日帰りの快挙は、この地区では滅多に起こらないことなのです。

 今もヘルメスと私とは強い絆で結ばれています。
 さて,話を戻しましょう。 317の母親をご紹介しておかなければなりません。“ヤスミンYasmine ”77−2592844と名づけられたメスは81年サンバンサンN11位に入賞しています。参加は30,000羽ほどでした。ヤスミンの母73−2290294は75年サンバンサンN12,618羽中12位に入賞しています。

 《系統研究》【OPEL BOOK 2020】006   第1章 オペル系系統調査公開資料の全て ○全文引用資料(5) 『リッピー号とブルーキング号』(宮沢和男編集『世界の銘鳩物語』より)  イレブン  2020年7月14日(火) 21:16
修正
今回、この「第1章、オペル系系統調査公開資料の全て(5)」で引用資料として取り上げるのは、宮沢和男編集による愛鳩の友社発刊『世界の銘鳩物語』の中の「その7」で取り上げられている「リッピー号とブルーキング号」の章の内容です。

この『世界の銘鳩物語』は、ミュニエ号やテキサス号といった、いわゆる「宮沢系」の基礎鳩達を取り扱った冊子です。

 この本は、いまでは、ほぼ手に入れることが困難となっており、国立国会図書館にも全国の図書館にも所蔵されていません。ネット上で検索すると、4年ほど前にオークションで3万円で落札されたとの記録が残っています。イレブンが手元に持っているのは、イレブンの知人の方が所蔵されていた「その7」の「リッピー号とブルーキング号」部分だけのコピー版です。

 内容を見ると、この「OPEL BOOK2020」に既に収録した資料の内容とかなりかぶっています。しかし、掲載されている系統分析関連の資料が結構整理されていて、資料としての価値が高いものとなっています。

 イレブンが持っているコピー版「リッピー号とブルーキング号」はよく見ると2〜3ページ落丁しているようなのですが、ここで取り上げておかないとこのまま埋もれてしまうことになりそうなので可能な限りの引用をすることにしました。かなり長い内容なので後で分節して掲載することになりそうです。

 引用資料(5) 『リッピー号とブルーキング号』(宮沢和男編集『世界の銘鳩物語』より)【1】 ■故オペル氏の最高傑作”リッピー””ブルーキング”■    2020年7月15日(水) 4:29 修正
 故オペル氏が、51年間の長い歳月にわたる独自の配合法によって体型だった作出をつづけ、そして飛ばし続けられて完成させたのが”オペル系”である。

 オペル氏が残した全ての記録を、ここで一つ一つ書き綴ることは不可能である。しかし、もしこれを一言で表現せよといわれるなら、故オペル氏のオペル系こそは、正に”無敵だった”という最高の賛辞を惜しまない。

 実際、オペル氏ほど鳩を愛し、オペル氏ほど自分の鳩を改良し続けた愛鳩家はいない。

 51年間の彼の成績や、彼の鳩についての資料の大部分は現在も世界鳩界の資料として残され伝えられたいるが、彼がその努力の結果、作りあげられた”オペル系”は、”無敵であった”のと同時に、現在も尚世界中の多くの鳩舎に導入されて(※注1:イレブン挿入)、”無敵街道を驀進中”なのである。

※注1:日本以外でのオペル系の活躍の情報を、イレブンは持ち合わせていないので、この記述の根拠が不明です。


 ・    2020年7月15日(水) 5:00 修正
 オペル氏は、1961年8月1日に72歳を持って、その偉大な生涯に幕を閉じた。

 死ぬまで飼い続けた百数十羽の鳩は、後継者といわれているビール兄弟鳩舎へ引き継がれたが、その中の2羽の最高の銘鳩が「リッピー号」と「ブルーキング号」なのである。

 51年間の長い飼鳩生活の中で、リッピー号やブルー・キング号の記録を上回る鳩は、無数にいるに違いない。しかし、オペル氏の最大の目標であるオペル系の完成を実にリッピー号とブルー・キング号にこそ見ることができたのである。何回もの近親交配、そして戻し交配。これによって何代も何代も積み重ねられて、オペル系は次第に完成の域に近づいたのであったが、16重の近親という非常な近交によって、しかも性能の優秀な鳩の作出ちう最終目標がリッピー号という1羽のチャンピオンの雌鳩とブルー・キング号の出現によって、達成されたのである。

 ・    2020年7月15日(水) 20:57 修正
 800粁以上を10回,20回と記録した鳩は.オペル氏の飼鳩生活の歴史の中で,何回か作られている。だがオペル氏の満足は、完全に固定され、作りあげられた自分の系統による大チャンピオン鳩の出現を待っていたのである.

 特にリッピー号こそは、彼の生涯をかけた近親交配による理恕的な作出鳩で、しかも.800粁4回,1000粁3回,1120粁優勝という大チャンピオンで.320粁以上の公認記録延飛翔距離11200抒という偉大な競翔鳩である。

 また,リッピー号とその4代先祖までの31羽による800粁以上の記録回数は218回,さらに5代先祖までを含めると312回という世界鳩界に類例のまったくない,すばらしい血統を形成しているのである。

 リッピ一号と,すべての祖父母を同じくする同血統のブルー・キング号の場合も,この鳩自身は800粁3回,1000粁1回の記録しか持っていないが,ブルー・キング号とその4代先祖までの31羽による800粁以上の記録回数は207回,5代先祖までを含めると301回となっている。

 オペル氏は,どんなによくできた鳩でも,必らず自分で長距離を何回も記録させてからでなくては種鳩にすることをしなかった。

 長距離を何回かずつ記録させながら,好成績鳩ばかりを種鳩用に残して,近親交配をつづけ,この世を去るまぎわになって快心の作リッピー号とブルー・キング号を作りあげたのである。

 この2羽の超銘鳩こそは,故オペル氏が心血をそそいで完成させたもので。オペル氏の最大の基礎鳩゛オールドースレート号″(1914年生 スレート雄)の,なんと21重の近親作出鳩であり,さらにオールド・スレート号の母体となった1897年生まれのHN15号(ローガン氏より輪入の灰の雌)から見ると84重という驚くべき近親となっているのである。

歴代が長距離を飛びつづけ,しかも84重もの近親作出鳩――何んとすばらしい血統ではないか.
 「私は死んでも,オペル系は永遠に死なないのだ!」
 と,云いのこした故オペル氏は,オペル系に絶体の信頼をもっているとともに,死後のこの系統の最大の原動力としての夢を,この2羽にかけていたに違いない。
 2羽の超銘鳩は,最後まで彼の鳩舎で飼われていたが,死去したのちは遺言によってビール兄弟の鳩舎に引き取られ,やがて任秀夫氏を経て,私の鳩舎の主要基礎鳩となった。

 日本にも,最近多くのオペル系や.オペル系の流れを汲む鳩たちが導入されているが,故オペル氏の遺作中,最も重要視されてきた2羽はまさに国宝的な存在といえよう.

 では,この2羽の超銘鳩を作りあげた.故オペル氏はどんな人物であったのか,彼はオペル系を,そして2羽の超銘鳩をどのようにして作りあげたのか――これを順にしたがって話をすすめてみよう。

 ◇3ページ落丁◇    2020年7月15日(水) 21:05 修正
イレブンの手元のコピー版では、P184〜P185の2ページが落丁しています。落丁分が見つかり次第、ここに掲載します。

 ■オペル氏作翔鳩の1120キロレース上位入賞鳩一覧■    2020年7月15日(水) 21:11 修正

 ■最後まで飛びつづける優秀な鳩の一族……を■    2020年7月15日(水) 21:33 修正
 MCCAという協会には、専門の放鳩者としてE・R・ホールデン氏(E.R.Holden)がいて、放鳩に関するすべての権限を持ち、放鳩日が放鳩に好適な天候でない日でも、しばしば放鳩される。これは、たとえ悪天候でもMCCAの決定日には放鳩されるという規定によるものであるが、ホールデン氏は名放鳩者として参加者から信頼をうけ,尊敬されていた。

 また、MCCAが主催するスペシャル・レースにおいては、平等をたもつために、1鳩舎から参加は5羽限りと制限されている。そのため性能の悪い鳩は自然と参加させられずに各鳩舎とも特に秀ぐれた鳩のみを参加させるようになったのは当然のことである。

 また、ときには、3回のレースの平均最高分速で勝負を争そうレースがおこなわれた。このレースは大変むずかしいレースで、優勝することはなかなか困難である。あるいはそのシーズンにおける全レースのそれぞれの鳩舎の最高分速を合計し、レース回数で割って最高分速鳩舎が選定されたりした。しかし大抵の場合、アパラチャ山脈という大山脈を横断しなければならず,しばしば大打撃をうけなければならなかった。

 このような背景の中でオペル鳩舎は洗練されていった。

 オペル氏は非常に血統を重んじた人である。しかしオペル氏の云う血統とは「最後まで飛びつづける優秀な鳩の一族」を意味する。
 
 他の鳩舎に優秀な鳩かいないというのではなく、優秀な鳩がいることは知っていたが、ホペル氏は異血導入をせずに、レースに勝つことよりもむしろ自分の満足すべ。鳩を作ることに専念した。

 オペル氏は鳩の記録帖を作っておき、ヒナからレースにいたるまでのあらゆる記録を詳細に書きとっておいた。

 ■ 鳩を女房とし,一生涯を独身ですごす■    2020年7月15日(水) 21:35 修正
 オペル鳩舎は、2エーカー【釣2500坪】の土地の南側に建てられている納屋の二階に造られていた。

 鳩舎の前面には障害物かなく見晴らしがよくきくように、すべての樹木を切り払ってあった。

 鳩舎の内部は三つの部分に仕切られ,そのどの部分の鳩舎にも沢山の鳩が収容され,鳩舎の中には水道か設備されて。自由に水浴や飲水ができた。窓は南側に三つと東卿|に一つあったが,直接鳩に風が当らないように工夫されていた。

 床には白い砂がカーペットのようにまかれてあり。毎週一回その砂をこして糞が取りのぞかれるようにされていた。この鳩舎は,鳩にとってまさに天国であったということができよう。

 オペル氏は、一生涯を独身生活で過ごしたが、非常に若い子供の愛鳩家をかわいがっていた。日曜日になると、きま一つて何人かの子供たちがおとずれて鳩を見学し、気持のよい木陰で、オペル氏を囲んで鳩に関する有益な知識を授けられていた。

 その話の中には、他の愛嶋家の知らない子鳩の作りかたの秘訣、飛ばしかたなどか含まれていたのである.

 オペル氏は一生を独身ですごしたが、オペル氏の最愛の妻はこれらの鳩舎に飼われていた数百羽の優秀なレース鳩たちであった。

 72歳で彼が人生の幕を閉じるまで、その鳩たちは常に一緒に毎日をすごしていた.
 オペル氏は、死の直前に鳩友たちに、
 「わたしは死んでもオペル系はまだ死なない」
 という言葉を残したが、彼は自分の作りあげた系統にどれだけの自信をもっていたかという事実に対する一つの証拠とも言えるだろう。

 この言葉どおり、その後もオペル系の後継者たちは現在もアメリカで飛ぱし続け、オペル氏自身が作った記録に挑戦している、日本においても多数の競翔家によって真価はしゅうぷんに証明されつつある。

このように、故オペル氏は、常に、
 「鳩は私の恋人であり,人生の喜びを与えてくれる唯一のものであるj
 と云い、柊生を一度も結婚することなく独身ですごしており.変人と見られるほどに鳩−筋に生き、自分の鳩の改良、記録更新に一生を捧げた人である。

 ■貴重な資料を残した”オペル・ブック”■    2020年7月15日(水) 21:54 修正
 しかし、このオペル氏の鳩に対する情熱とその偉大な功績を世|こ出したのは、”オペル・ブック”の編者であり、オペル氏の51年間にわたる最愛の友人であり、そしてオペル系の基礎鳩である゛オールド・スレート号゛をオペル氏に提供した故シド・ジョンストン氏の陰の力に負うところか大きい。

 故オペル氏は、大変兼虚で誠実な人で、自分の鳩か達成したすぱらしり記録のかずかずを決して他人に誇ることかなかった。

 オペル系のよき理解者であったシド・ジョンストン氏〔故A・S・ジョンストン氏〕は、生前、日本の某愛鳩家にあでた手紙の中で、

 「”オペル・ブック”を出版したのは、すべて私のアイディアでしたが、この本を発行する許可を得るためには、オペル氏に何回も何回も会って説得したもので、彼はこのように宣伝めいたことをするのが全く嫌いでした。゛オペル・ブック’の刊行はけっして宣伝のためではなく、鳩界に残すべき重要な資料で50何年も鳩を好んで飼育研究してきた者の当然の義務なんだと、やっと納得させたものでした。

 しかし、1949年に”オペル・ブック”が刊行される運びになったとき、オペル氏はそれを大変喜んでくれました。私の苦心のかいかあったのです。

 私には、「64頁のこの本は今後決して書き変えたり、.書き初えたりしてはならない」と云い残しました。この小冊子は、私とオペル氏が二人がかりで,昔からの膨大な記録を振り返りながら編集したもので、大変な努力を必要としました」
 と記している。

 故オペル氏が確立した”オペル系”。この”オペル系”を世に伝えた故ジョンストン氏の努力、この両輪が相侯って世界最高系としての”オペル系”の現在があるのである。この二人の故人か残しだ”オペル・プック″こそが,両氏の死後らこの系統を正しく伝えているからである。

 引用資料(5) 『リッピー号とブルーキング号』(宮沢和男編集『世界の銘鳩物語』より)【2】 オペル系の基礎鳩とチャンピオン鳩たち     2020年7月16日(木) 3:17 修正

 ■最大の基礎鳩゛オールド・スレート号″■    2020年7月16日(木) 5:05 修正
 オペル氏の資料によって,ジョンストン氏が編集しだオペル・ブック″によって,オペル系の基礎鳩と世界的大チャンピオン鳩のいくつかを紹介してみよう。

 (1)オールド・スレート号(14− F20421 スレート・チェック 雄)

 まず第一に挙げなくてはならない鳩である。この鳩は。「基礎鳩A」という略号を冠せられて,長い間オペル鳩舎の基礎鳩として,子鳩の作出にあたっていたが,今日゛世界のオペル系″といわれるこの系統の最大の基礎鳩である。羽色はスレート(茶灰色の胡麻)であったために,直系には灰胡麻,灰,栗胡麻というようにいろいろな羽色の鳩を生じている。

 オールド・スレート号は,オペル鳩舎にあって生涯の間に16羽の長距離(800粁以上)記録鳩を作出した。

 その16羽の直子たちの記録は,オペル・ブックに詳細に述べてあるので,参考までに記してみよう。

@♂,800粁3回。1000粁1回 A♀,800粁2回 B♀,8()O粁4回,1000粁1回 C♂,800粁3回,1000粁3回 D♀,800粁3回,1000粁3回 E♂、800粁5回,1000粁2回,1120粁1回 F♀,800粁3回,1000粁2回,1120粁1回 G♀,800粁3回,1000粁1回 H♂,800粁7回,1000粁6回 I♂,800粁6回,1000粁2回,J♀、800粁2回 K♀,800粁1回 L♀,800粁1回 M♀,800粁2回 N♀,800粁2回 O♂,800粁1回
である。

 この偉大な基礎鳩オールド・スレート号は1914年に当時ワシントンに住んでいたA・S・ジョンストン氏によって作出され,1915年7月4日にボルチモアのJ・L・オペル氏にプレゼントされたものである。

 オールド・スレート号の系統表は上表のとおりである。

 以上の表で判明するとおり,オールド・スレート号の系統は3分の2以上のローガン系であるということができる。

 系統表中の@からBまでは故A・S・ジョンストン氏の作出にかかるものであるが,この基礎鳩自体ローガン氏よりの輸入鳩「97−HN15」を4ヵ所に持つ近親であることに注目すべきであろう。

 オペル氏の先輩であり親友の一人であったジョンストン氏は,1896年には自作の鳩で1000粁を記録させていて,その血液が連綿と続いて最後に残った故オペル氏の銘鳩リッピー号とブルー・キング号に引き継がれていることを思うと、まったく感無量である。

 またリッピー号とブルー・キング号ばオールド・スレート号″の21重の近親であるから,このオールド・スレート号に4重に導入されている゛H N15″ が84ヵ所に入ってくる物すごい近親だということは前述のとおりである。
(つづく)

 (2)A U17−1863号(灰 雄)    2020年7月16日(木) 19:41 修正

 オペル氏の作出鳩で,オールド・スレート号につぐ基礎鳩となったものである。リッピー号とブルー・キング号にもこの鳩の血は導入されている。

 1863号は,1917年にオペル氏の鳩舎で生まれたのち,800粁4回,1000粁2回を記録して基礎鳩となったものである。

 この基礎鳩の直子には9羽の800粁以上の記録鳩がある。そして,その9羽の直子だけの800粁記録回数は43回。1000粁記録回数は7回にのぼっている。その中に800粁以上の記録回数の6回の記録鳩が1羽,7回の記録鳩が2羽,10回の記録鳩と,11回の記録鳩がそれぞれ1羽ずつあるということは特筆に価しよう。

 系統は,父鳩はオペル氏作で母系にトレントン系が入った鳩であり,母鳩はジョンストン氏作でオールド・スレート号と異母兄弟になるような口−ガンの血を強く汲む鳩である。

 ■800粁以上を34回記録した雌鳩■     2020年7月16日(木) 19:47 修正
 (3)ピーレット・ヘン号(MCCA 33−9878 灰胡麻 雌)

 この鳩は,オペル氏と同じボルチモアの愛鳩家アーサー・ピーレット氏によって作出使翔されたが。800粁以上を34回以上帰還したという一世紀に1羽出現するかどうかわからないという陛の超銘鳩であった。

 この超銘鳩も実はオペル氏の鳩の血を引くものであった。つまり父鳩IF26−D1635灰胡麻はピーレット氏作で。480粁1905羽中1位という鳩であるが,この両親がオペル氏作出使翔の記録鳩であった。

 ピーレット・ヘン号は,オペル系の偉大さを語るにじゅうぷんな超銘鳩で,1934年から1941年までの8年間における記録から記録への連続的決戦は,数十年を経た現在に至るもこの鳩を知る世界中の愛鳩家の語りぐさとなっている。

 使翔者のアーサーピーレット氏は,正確なデ−ターを残してなかったので800粁以上の記録と入賞数を裏付けるものはないが,800粁以上の記録34回,そのうち当日帰I)24回という数字はほぼ信じてよさそうである。ボルチモアの故W・Wワイドニ世も,この偉大な雌鳩に非常な関心をもち。記録回数が増すごとに,そのつどオペル氏に詳細をたずねていたという。

 ピーレット・ヘン号の記録のうちで特筆されるものは,1935年と38年の1000粁レースで当日帰りしたことと,1937年の1120粁レースで2位に入賞しだことなどであろう。

 この鳩の最後のレースは1941年の第一回800粁スペシャル・レースであるが,この日は非常な悪天候で,当日帰りなく,翌日1羽(後述するシャマンコーク号の妹鳩),3日めなし,4日め2羽,その後6日めまでにわずか6羽を記録したのみであった。ピーレット・ヘン号は7日目に帰ったのである。このレースを最後として,この偉大な,そして世界最高の記録鳩もまもなくこの世を去ったのである。

 推定される800粁以上の延飛翔距離だけでも、約35000粁と想像され,日本流に200粁以上の公認記録を類計した場合には40000粁を突破しているのではないかとさえ思われる。雌鳩でありながらこれだけの記録を樹立し得たということについて,ある愛鳩家は。
 「わたしたちほ,この偉大な雌鳩をたんに”偉大な記録鳩”として記憶するだけでない。記録から記録への挑戦がいかに困難なものであるかをわたしたちは身をもって体験している。わたしたちは,この鳩が,雌鳩でありながらこのような立派な記録をどうやって樹立していったか。つまり,どのようなテクニックを使い,どんな状態のときに長矩離レースに参加させたかなどの多くの点についていろいろ学ばなければならない問題が残されているようである」と、
まったく,そういう反省をわれわれに与える鳩。それがこの鳩なのである。

 ■延33600粁記録の゛5770号″■    2020年7月16日(木) 19:56 修正
(4)M C C A34−5770号(栗胡麻 雄)

 前記のピーレット・ヘン号には,わずかに及ばないが。オペル氏自身の作翔によっても延公認飛翔距離が,33600粁という銘鳩が作られている。これがその鳩である。

 オペル鳩舎の後半期の代表的種鳩となっていた9117号も,この5770号の孫にあたり,リッピー号もブルー・キング号も,それぞれ父と母の両血統に5770号の血液を見ることができる。また5770号の同腹鳩である5771号も記録鳩として。種鳩としてよく知られている。

 5770号は,1934年にオペル鳩舎で作出されている。系統表は上記のとおり。    

 この栗胡麻の雄は。800粁を10回,900粁を1回,1000粁を7回,1120粁を4回という長距離の記録をもっているが,200粁以上の延飛翔距離は実に33600粁(21000マイル)にも達する。その間,1936年の1000粁レースでは総合6位(69鳩舎595羽中),地区3位。1938年の900粁ナショナル・レースでは総合19位(157鳩舎385羽中),地区1位。1939年の1120粁レースでは総合3位。1940年の1120粁レースでは総合2位。そして1941年のll’20粁レースでも,7歳鳩でありながら見事に記録している。その後,種鳩とされたが,同腹鳩の5771号とともに,幾多の優秀な後輩を作出しているのである。


 ■800 粁以上を2500回以上記録させたオペル氏■    2020年7月17日(金) 2:41 修正
 故オペル氏が作ったチャンピオンや,オペル系の血を引くチャンピオンたちを拾いっづけたら。それはまったく際限のないものである。

 オペル氏が一生涯をとおして作った鳩で,800粁以上記録した鳩は何羽で,その回数は一体何回ぐらいになるのだろうか?

 1949年に出版されだオペル・ブック″には,故オペル氏と著者の故ジョンストン氏の両名がしらべあげた1915年から1948年までの記録鳩の系統と記録内容が詳細に記載されているが,そこに掲載されている800粁以上の記録鳩は110羽で,その110羽の総記録回数は800粁538回,1000粁124回,1120粁42回で合計704回という多数にのぽっている。

 その後も,オペル氏は死去するまで飛ばし続けていたのであるが,オペル鳩舎についての詳細な知識を持っているジョンストン氏も亡くなっており,正確な数字はわからないにしても.故ジョンストン氏や,ビール兄弟と文通のあった任秀夫氏は.

 「わたしが手もとの資料を使って調査したところによると,長距離記録鳩は約200羽までをかぞえることができるが。その記録回数は千数百回という数字になる。だが,ビール氏などの話を総合すると,実際には800粁以上を2500回以上記録しているのではなかろうか」

 という一文を雑誌に発表している。

 アメリカは平坦地が多いから鳩が長距離から帰りよいのではないか?あまり大きな数字なので、われわれはまずそれを考える。

 しかし、実際にレースの成績表を見てもやはり長距離レースになると,参加羽数の1〜2割しか帰っていないのであるから,オペル系の偉大さを認める以外にないのである。

 それを如実に物語るのは,戦後日本へ多くの系統の銘鳩たちが輪入されたが,もっとも活躍している系統の一つにオペル系が挙げられている点からも察せられよう。

 京都の並河靖氏も,
 『日本鳩界にその素晴らしい画期的な性能を遣憾なく発揮したオペル系――このオペル系から、オペル氏がいかにその鳩群を繁殖し、いかに近交をうまく使ったかを学ばなければならない――』 と、オペル氏の改良法と,その系統の偉大さを絶讃している。

 引用資料(5) 『リッピー号とブルーキング号』(宮沢和男編集『世界の銘鳩物語』より)【3】《オペル氏の鳩の特徴と近親交配》      2020年7月17日(金) 3:08 修正
【リッピー号関連資料1@】  ・

 【リッピー号関連資料A】    2020年7月17日(金) 3:18 修正

 【リッピー号関連資料B】      2020年7月17日(金) 3:27 修正

 【リッピー号関連資料C】        2020年7月17日(金) 3:30 修正

 【リッピー号関連資料D】  ■リッピー号の5代先祖までの翔歴■    2020年7月17日(金) 3:32 修正

 ・    2020年7月17日(金) 3:38 修正
上(1代〜3代までの拡大図)、下(4〜5代までの拡大図)・

 ■風釆はあがらず頭脳で勝負する鳩■    2020年7月17日(金) 3:43 修正
 オペル系の最大の特徴は,基礎鳩゛オールド・スレート号″の21重の近親。さらに゛H N15″ の84重の近親というように,非常な近親交配の連続によって形成されてきたというところにある。

 世界に鳩の゛系統″は多いが。オペル系のごとく長年月にわたって計画的に作りあげられたものは少なく,またこのように他に頬例のない極度の近交によって,完全に一つの別個の系統として,こんなにも立派に作りあげられたものはない。

 しかし.オペル系の鳩には.テキ・サス号をはじめとしたハフナー系のような立派な立姿は見られない.大抵の鳩は首をちょっとすくめたような.ぱっとしない体型である.
 体は例外なしに小さめである.そして2年間成艮しつづける.

 この系統の羽色は.大体において灰.灰胡麻,うすい栗胡麻が多く,ときには灰栗,灰胡麻に出た場合に,片方の翼に一枚か二枚の白刺羽が出ることがある。

 眼色は,極端なほど表情に富み,大別するとオレンジの薄いルビーがかった橙色と真珠色。ときには薄い紫色(銀眼または石眼と呼ばれている色)がある。

 眼の色は,人を引きつけるような魅力的なものではない。また顔ぼうなども,決して品評会にむくような種類のものではなく,むしろ初心者やきりょう好みの愛鳩家を落胆させてしまうに違いない。

 特に若鳩時代は,休ら小さく,見栄えがしない。
 「見てよし,飛んでよし」
 という理想は。この系統においてはあてはまらない。

 オペル系のよさは,゛系統のよさ″にある。高率をもって長距離から帰還し得る,という執念にある。

 この小さな体,そして立派でない容ぼうのどこにその底力を秘めているのか,と不思議に感じるほど,この系統は強い。

 かつて,名古屋の岩田氏をして.
 『長距離鳩の体力上の必要条件は。最低限度のものでじゅうぶんて・ある……』
 といわしめた原因。それは岩田氏が自身でオペル系を混入させた血液をもって長距離を征覇した体験にもとづくものに他ならない。

 オペル系の最高の長所は”利巧な鳩”という一語につきる。いくつかの銘鳩を基礎鳩として,代々にわたって長距離を何回も飛びつづけた鳩で固め,あるいは近親交配で,あるいは戻し配合によってオペル氏ば”利巧な鳩”を作りあげることに成功したのである。

 オペル系には,主流系も支流系もない。
 ということは,彼の鳩のすべてが,先祖を同じくするからである。全鳩が血族関係にあることは勿論、それが三重にも四重にも。場合によっては数十重にもかさなって,血統的にも体型的にも,そして性能的にも同じようなものばかりなのである。

 オペル氏の鳩は,それがたとえ長距離を飛んでいようが,いまいが,種鳩としての価値は全く等しい,ということになる。

 そのため,オペル系は全く固定されており,他の異血鳩を交配しても,一代めや二代めの作出鳩では,オペルの特徴がほとんど受け継がれてしまう。

 私も,すでにオペルの血をわずかぽかり混入させて成功しているいくつかの鳩舎を知っているが,常に不屈の精神力をもって,そのレースが悪条件のものであっても帰舎しているという事実を熟知している。

 オペル系は,ローガン系を主体とし,それにトレントン系、ジャンサン系,その他2〜3の血を混入させて作りあげられたが、これらの鳩から作られた鳩たちは,オペル氏の鳩舎で五十数年という長い間,10代から15代,16代と優秀な鳩を作出しつづけたのである。


 ■2つの基礎配合と3つの当り配合■    2020年7月17日(金) 3:50 修正
 オペル氏は,独持の,いわゆる゛オペル配合法″という近交を重ねることによって出発したが,彼の血統が全世界に注目されるような大チャンピオンを作りはじめたのは,1918年にA・S・ジョンストン氏から贈られだオールド・スレート号″が作出を開始してからであった。

 1914年生のオールド・スレート号は,オペル鳩舎における大部分を6460号(800粁2回)との配合で過ごさせられたが,その作出鳩のうち,7773号(800粁7回,1000粁6回),4425号(800粁),3300号(800粁2回)の3羽の血統が現在まで伝わつている。

 しかし,これらの直子の中でも,特に異彩をはなつのは,何といっても3300号であろう。自身では800粁2回の記録しか持っていないが,8713号という雄を配偶鳩として,後代に幾多のチャンピオン鳩を作りだし,世界のオペル系を不動の地位に築きあげた原動力のl羽となった。

 ●「8713号×3300号」

 これは,オペル系の基礎作りの段階における当り配合の一つであり,のちに基礎配合となったものであった。

 この配合による作出鳩中、もっとも注目しなければならないのが、5700号と5771号であろう。この2羽の翔歴は,すでに詳細にわたって記載した通りであるが,たんに大記録をもっているということだけでなく,直系に実にすばらしい長距離鳩を残したという点に,この銘鳩の最大の存在価値があった。

 1羽の銘鳩の先祖の記録を詳述することは不可能ではない。しかし,後代のすべての記録を調査することはほとんど不可能の場合が多い。ましてこの2羽の超銘鳩の直系の活躍状況が調査しきれるものでないことは論をまたない。恐らく800粁以上の記録回数だけでもらくに1000回を越えるであろうからである。

 5770号の孫として生まれたのが,9117号である。

 最近のオペル系の鳩には,ほとんどこの鳩の血が流れているといわれるほど,オペル氏はこの鳩の血統を好んだのである。9117号の系統表ばリッピー号の系統表″中を拾っていただけばわかろう。

 オペル系には,2つの重大な意義を持つ基礎配合と,この系統の長所を遺憾なく発揮させた3つの当り配合とがある。

●基礎配合は,「オールド・スレート号×6460号」と「8713号×3300号」の2つ。

●そして,最高の当り配合は,「5770号×9800号」と「5771号×9916号」,それに「9117号×1751号」を加えた3つである。

 この3つの中でも,9117号×1751号の配合は,もっとも最近のものであるだけに,オペル系の愛好者たちが常に探し求めている責重な存在なのである。

 リッピー号とブルー・キング号は,この配合による作出鳩の直子にあたると共に,5つの全部の配合を合せもっている。

 1961年にこの世を去ったオペル氏は,鳩の中に生きてきた51年間のうちに,数多くの世界的記録を,自分の鳩だけで樹立した,

 1.生涯のうちに,800粁以上を2500回以上記録し得たということ。
 2.オペル氏作出鳩の直子。世界最高の記録鳩゛ピーレット・ヘン号″は,800粁以上を34回記録したということ。
 3.オペル氏作翔の5770号は,公認延飛翔距離33600粁を記録しているということ。
 4.1羽の鳩と,その4代先祖までの31羽の鳩の800粁以上記録回数が218回という血統を作りあげたということ。
 5. 1羽の鳩の84重という極端な近親系でありながら,その作出鳩が1120粁レースで優勝しているとフいうこと。
 6.9代連続800粁2回以上記録という偉業をなしとげたこと……など。

 とにかく数えはじめたらきりがない程の最高記録を保持しつつ,オペル氏は去った。

 引用資料(5) 『リッピー号とブルーキング号』(宮沢和男編集『世界の銘鳩物語』より)【4】《”リッピー”と”ブルー・キング”の血統と翔歴》     2020年7月17日(金) 3:55 修正

 ■リッピー号の祖父母までの翔歴■    2020年7月17日(金) 3:58 修正
 2つの基礎配合と,3つの当り配合で作られてきたリッピー号とブルー・キング号は,オペル最高の血統で,しかもオールド・スレート号の21重の近親であることは前述のとおりである。

 ここで,リッピー号と,ブルー・キング号の血統を詳述するにあたり,まず,両親ならびに4羽の祖父母鳩の翔歴をしらべてみよう。

 リッピー号について,゛リッビー号の祖父母までの血統″(別掲)にしたかってのべると,次のとおりである。

 @M C C A48−3323 は800粁を8回記録しているが,その内訳は,1950年の800粁レースで当日帰り3羽,翌日帰り5羽という甦レースでありながら,当日の午後8時3分に帰舎し分速1073ヤードというスピードで優勝(このレースの2位はやはりオペル氏の流れを汲む鳩を使ったマッコイ氏,3位オペル氏。6位グレン・ビール氏,7位ラッセル・ビール氏で,いずれもオペル系であらた)したのをはじめ,そのわずか2週間前に行なわれた800粁レースでも,当日3羽,翌日3羽帰りの難レースでの2位(このレースの1位はローパー氏で4分の1オペル系,3位はマッコイ氏.4位グレン・ビール氏,6位ラッセル・ビール氏で.いずれもオペル系)入賞,当日14羽帰り中の14位,当日13羽帰り中の13位その他1回当日帰り,3日め帰り5位など記録3回の合計8回記録となっている.

 AM C C A47−7528 は800粁を9回記録しているが,その内訳は,1950年6月3日の800粁レースで,当日帰り1羽,翌日2羽,3日め3羽,4日め2羽という雛レースでありながら,見事に当日午後9時11分に帰舎し.分速999ヤードをもつて完全優勝(2位,3位グレン・ビール氏,4位マッコイ氏,5位オペル氏の3323号とオペル系が上位独占)したのをはじめ,当日3羽帰り中の3位,当日13羽帰り中の4位など当日5回,記録4回の合計9回となっている。

 BM C C A40−4360 は,1944年の1120粁レースで13鳩舎59羽中3位(分速657ヤード)入賞したのを含め,1120粁5回,1000粁3回,800粁6回を記録している。

 CM C C A43−884 は,Bと同じ1120粁レース(13鳩舎59羽中)で,分速684ヤードをもって2位入賞したのをはじめ,1000粁1回,800粁4回を記録している。

 DM C C A41−9117 は。1942年,43年,44年,45年および46年の5年間にわたって毎年800粁を3回ずつ記録し,合計800粁15回という大記録をもっている。記録内容は,1943年の800粁協会スペシャル・レース参加44鳩舎184羽中分速858ヤードで6位のほか,800粁170羽参加当日5羽中5位,800粁95羽参加の9位,800粁187羽参加当日8羽中1位,800粁111羽参加当日17羽中1位,800粁95羽参加の15位。800粁94羽参加の9位にのレースでは兄弟鳩9173号が1位),800粁60羽参加の1位と,3回の優勝歴を持っている。最近のオペル主流系の鳩は,ほとんどこの9117号の血を引いてい・るといわれるほど種鳩としても威カを発揮している銘鳩である。

 EMCCA44−1751は、長距離の記録は持っていないが、もどし交配のため持に9117号の配合鳩として種鳩とされていたものである。

 ■ブルー・キング号の祖父母までの翔歴■    2020年7月17日(金) 4:03 修正
 ”ブルー・キング号”についても,`ブルー・キング号刀岨父母までの血統’(別掲)にしたがって応べてみると、

 父@は、1952年と53年に800粁を記録している。

 母Aは、1951年にS00抒,52年に800抒2回(うち1回ぱ当日帰り4羽中の総合3位、地区1位)、53年に800粁2回(うち1回は総合4位、地区2泣)、54年;こ800抒と900粁.55年に800抒と,合計800粁を7回.900粁を1回記録している。

また、この姉妹鳩である310号も800粁4回(うち1回1位)記録している。

 ブルー・キング号の4羽の祖父母たちは、リッピー号の祖父母たちとまったく同じであるから、B〜Eの翔歴は説明するに及ぶまい。

 ■2羽の血統表と交配法    2020年7月17日(金) 4:10 修正
 ”リッピ号ーの血統表”は、リッビー号の5代先祖までの鳩と、さらに基礎鳩”オールド・スレート号”との関係を示すものであるか.父系と母系を入れかえて見れ.ばブルー・キング号の血統表とも云えよう。

 この表からは、オベル氏の交配法を知ることができる。すなわち、同じ近親交配でも、彼は、兄弟交配とか親子配合を避けて、大抵の場合、「直子×孫」または「孫×孫」という段階での交配を最も多く行っているということである.そういった近交が、この1つの系統表の中で何十回となく繰り返されてきているのである。

 そのほか、いかに慎重に4鳩が選出されてきたかも探知することができよう。それは、少なくとも3歳以上に成長させた鳩を種鳩として蕃殖を重ねてきていることなどから察せられる。多少無理をすれば3〜4年で5代から6代の鳩を累積させることができるのに、オペル氏は30年から40年の歳月をかけているのである。やはり”ローマはー日にてはならない”のだ。――このリッピー号の血統表は、このようにわれわれ愛鳩家に限り)ない夢と希望を与えると同時に、幾多の考えさせる要素を含んでいると云えよう。

 ■リッピー号の5代先祖までの翔歴■    2020年7月17日(金) 4:15 修正
 リッピー号の場合,4代先祖までの30羽とリッピー号自身を合計した31羽による800粁以上の記録の合計は218回にのぽり,この表のごとく5代先祖までを含めると,800粁以上312回記録。ということになる。

 また,1000粁以上だけの記録を拾ってみても86回にものぼっている。とにかく,800粁以上を記録していない鳩は基礎鳩をのぞけばリッピー号の祖母にあたる鳩がl羽いるだけという。こんな見事な血統書は,他の世界中のどんな有名な鳩舎の,どんな鳩を選んでみても絶体に見つけることはできないであろう。

 リッピー号が,これだけ近親系になっていながら.なおかつ最長距離のチャンピオンとなり得るということは。このように代々の種鳩の性能をじゅうぶんに検定したのちにストックさせたからであるといえる。

 また、ブルー・キング号の場合も、自身を含めた4代先の先祖までの31羽による800粁以上の記録合計は207回にのぼっている。

 (註、故すペル氏は800粁以下の記録にばまったく閔心がなく.何らのメモも残されていない)

こうして見てくると.私がここで声を大にして「名実ともに世界最高の血統をもっている鳩はリッピー号とブルー・キング号だ!」
 と云ったとしても、誰も何らの疑義をさしはさむ余地はないものと信じる。

 ・・■リッピー号の5代先祖までの翔歴■    2020年7月17日(金) 4:19 修正

 引用資料(5) 『リッピー号とブルーキング号』(宮沢和男編集『世界の銘鳩物語』より)【5】《2羽の銘鳩の出生と来日と、そして死》    2020年7月17日(金) 4:25 修正

 ■ツノコブを持ったリッピー号の翔歴■    2020年7月17日(金) 4:28 修正
リッピー号(MCCA56−5725 灰胡麻 雌)は、1956年の春にオペル鳩舎で生まれている。オペル氏はこの鳩の一生に大きな期待をかけたが、それは両親鳩が.いずれも彼の血統の第一の主流をなす鳩であったからにほかならない。父鳩はすでに800粁を8回記録しており、母鳩も800粁を9回記録していて.ともにオペル氏の目標とする^記録を達成した鳩であった.

 父鳩は8歳.母鳩は9歳に達していたが.作出されたリッピー号は.オペル氏の念頼したとおりの体型を備えていた。

 しかも,写真でもわかるとおり,くちばしの下にツノコブがあらわれ,オペル氏をこの上なく喜ばせた。このツノコブを持つ鳩は数子羽中に1羽と,ごくまれに現われるものだそうで,アメリカ鳩界でば幸運をもたらす鳩″として大変珍重がられているのである。

 果せるかな,リッピー号は,非。常に血の濃いオペル近親系でありながら,1957年から60年までの4年間に,300粁以上の公認記録延飛翔距離だけでも11200粁に達するという大競翔鳩となり得たのである。しかも,1960年には,オペル鳩舎に,MCCAの1100粁レース(実距離1120粁)総合優勝の栄冠をもたらせたのであった。

 リッピー号の記録は,次のとおり。
 1957年(1歳)には,320粁;480粁,640粁,800粁,800粁と5つのレースを記録している。
 1958年(2歳)は,480粁,640粁そして1000粁を記録。
 1959年(3歳)は,320粁,640粁,800粁,1000粁と3度めの800粁と,2度めの1000粁を記録。
 1960年(4歳)にも,480粁のほか,4度めの800粁と3度めの1000粁,そして最後に1120粁で優勝を遂げたのである。

  ■ブルー・キング号の翔歴■    2020年7月17日(金) 4:34 修正
 一方,ブルー・キング号(M C C A58−7852灰 雄)は,リッピー号におくれること2年,1958年にオペル鳩舎で生まれたが,その後,800粁を3回記録し,1000粁を1回記録している。800粁3回のうち1回は1864羽の参加鳩中の91位であるという記録が残っているが,作出使搦者のオペル氏や,オペル氏の鳩舎の記録に特にくわしかったジョンストン氏の両氏ともにすでに故人となってしまっているために,これ以上の詳細は明らかでない。

 タイプは,オペル系を代表する典型的なもので,オペル氏がよい選手鳩で種鳩として好んだ広い眉間をもっていた。また頑丈な骨組みをしていた。

 しかし,体は決して大きくなく,姿勢もよくはない。むしろ中型の小で,頚部をすくめたような,あまり風釆のあがらない体型といえよう。

 ■故ジョンストン氏の最後の手紙■    2020年7月17日(金) 4:37 修正
 アメリカ最高の系統であり,世界でも今では5大系統の中に数えられるに至っているオペル系の最高鳩を日本へ導入するにあたっては,やはり大阪の任秀夫氏の積極的な努力がなくては実現することがなかったであろう。

 任氏は,故オペル氏とは直接交際はなかったが,オペル氏の先輩であり,親友であり,まだオペル・ブック″の編者であるA・S・ジョンストン氏とは再三にわたって文通を交わしていた。彼は,オペル系について特に知識の豊富なジョンストン氏との文通によって,かなりくわしくこの系統を理解することができたようであったが,調査すればするほど,すばらしい,そして世界に類例のないほどに飛びっづけているオペル系に限りない欲望を燃やした。

 任氏は,オペルの最高鳩を入手すべく,アメリカに留学中の令弟(任秋夫氏)をA・S・ジョンストン氏のもとへ赴むかせたが,残念なことに,そのわずか2〜3週間前に,ジョンストン氏はこの世を去ってしまっていたのである。

 こうなってしまっては,この系統の研究は,ジョンストン氏と交わした手紙や,オペル・ブックや,そしてオペル系の後継者としてオペル氏の鳩を引き継いだビール兄弟の指導をまつ以外になくなってしまった。

 オペル系の入手にあたっても,直接ビール兄弟鳩舎へぶつかる以外に方法がなくなってしまったわけであるが,幸い任氏は。故ジョンストン氏からビール兄弟を手紙で紹介されていたのである。

 しかし。故オペル氏は,友人にさえも鳩を売らない人であったことを知っている任氏は,ビール兄弟からの購入も容易でないであろうことを予想していた。

 それでも,生前にもらった故ジョンストン氏のつぎのような手紙に力を得て,ビール兄弟への交渉を開始した。

 ●故ジョンストン氏の手紙  。

「私は、故」・L・オペル氏とは51年間の親友であり,オペル氏が死去する直前にも会うチャンスを得たことを今もなお喜びとしています。

 オペル氏は,鳩に関しては何でもかんでも知っているベテランの愛鳩家でした。

 1926年に1度鳩を売る広告を出して,彼の飼育する鳩の数羽を手放したことがありましたが,あとでそのことを深く後悔し。その後どんなに有名になっても鳩を売ることを好まなかったというほどの,いわば変り者でした。

 事実,その後,死去しても,鳩を売ることなく,主力をビール兄弟に引き継がせたのでした。

 オペル氏は,生前,日本に鳩を送ったことはありません。彼の系統がアメリカの他の鳩舎からまわって行ったのがあるのでしょう。

 しかし、そうして他からまわっていった鳩が日本で飛んでいるということを聞けば,私以上に喜んだことでしょう。他の異なった地形の国でテストされることは大変意義の深いことです。

 私は,故オペル氏の後継者であるビール兄弟に,日本にオペルの鳩を送るように何回も助言しました。もし,オペル最高鳩の渡日が実現すればきっと,間もなくオペル本来の能力を発揮し,オペルの過去を知る以上に,日本のオペル愛好者に新しい喜びを与えてくれるでしょう。……後略……。 1964年4月   A・S・ジョンストン 』 

 これが,故ジョンストン氏からの最後の言葉であった。

 ■後継者のビール兄弟鳩舎へ■    2020年7月17日(金) 4:44 修正
 手紙をもらった任氏は,さっそく令弟の任秋夫氏をジョンストン氏宅へおもむかせたが,たった2〜3週間前に死去されてしまっていたことは前述のとおりである。

 やむを得ず,オペル鳩を引継いで飼育中のビール兄弟の鳩舎を,ジョンストン氏の手紙をたよりに訪問することとなった。

 任秋夫氏は,1964年6月13日にビール兄弟鳩舎へ到着した。

 ワシントン空港まで出迎えた兄のグレン・ビール氏夫妻に案内されて,ビール一家の住んでいるワシントンの北20粁のロウレル市にむかった。まだ新築したばかりのモダンなレンガ造りのグレン・ビール邸に着いた任氏は,さっそく鳩舎を見せてもらった。

 約5坪ばかりの鳩舎は,家から20メートルほど離れた裏庭の隅にあり,その後方は市の所有する5エーカーばかりの雑木林で,林の中には小川が流れていて,まったく自然に彩どられた理想的な立地条件を有し,鳩ものびのびと芝生の上でたわむれ合っていた。

 令兄のグレン・ビール氏と令弟のラッセル・ビール氏とは隣り合わせに住んでいて,2人の家も鳩舎も,ともに芝生の地続きであった。

 グレン・ビール氏は,ワシントン市の海軍局勤務。ラッセル・ビール氏はロウレル市の郵便局の局長である。

 ビール兄弟が鳩を飼いはじめたのは,1919年で,彼らの父がそれ以前,十数年にわたってやはり鳩を飼っており,現在のグレン・ビール氏の鳩舎は父親が建てたもので,この兄弟は生粋の愛鳩家ということができよう。そんなわけで1926年までは,父親の名前でレースに参加していた。

 彼らが,はじめて故オペル氏に会ったのは1928年であったが,オペル氏から最初に鳩をわけて貰つたのは1940年で,その後,オペル氏が1961年の8月に死去するまで,最も親しい友人として,共に鳩飼育,レース参加に励んできたのであった。

 オペル氏は,終生を独身で過ごしたため,あとを継ぐべき子供もなく,ビール兄弟を自分の樹立したオペル系の信頼にたる後継者として,自分の死後すべての鳩を引き取ってくれるよう遺言を残したのである。

 そこで,約150羽の中,主に種鳩鳩舎の鳩はグレン・ビール氏に引き取られ,選手鳩,若鳩鳩舎の鳩はラッセル・ビール氏の鳩舎に収容された。

 ■遂に交渉成立して日本へ■    2020年7月17日(金) 4:49 修正
 任氏の訪問に,ビール兄弟は,
 『オペル鳩を引継いで以来,オペル氏の健在な頃に氏の鳩を幾度も求めて得られなかった多数の愛鳩家が,このことを伝え聞いて,どんなに高価でも良いから,是非,オペル作の鳩を分けてくれと云ってくるが,オペル氏の遺言を堅く守っている』
 と繰返えすのであった。

 任秋夫氏も,このビール氏の言葉に,先に一本釘を刺された型になってしまい,最初の夜は,銘鳩分譲の件を切り出すことはできなかったということである。

 以下ビール兄弟鳩舎におけるオペル鳩購入交渉の情況を,「愛鳩の友」誌の1965年5月号に掲載した任秋夫氏のアメリカからの手紙を再公開してみよう。

『前略
 代表鳩の購入交渉は非常に難航し,両兄弟とも最初の3〜4日は首をたてにふってくれなかった。両兄弟あわせて約500羽の鳩を飼っているが売る鳩は1羽もいない。まして故オペル氏作出の鳩は,彼の遺言もあり絶体におけることはできなと云って,がんとして受け付けてくれない。

 しかし,こうしてはるばるビール兄弟を訪れてきている自分なので,だまって引き下るのも業腹だし,あなたたちが鳩を分譲してくれるまでは,ここで居候をつづ`けるといったら,さすがに驚いたようであった。

 こうして2日間の予定が,4日ものびてしまったが,その間,オペル氏の残した記録簿や,ビール兄弟の記録誌を調べ,それを参考に,鳩を片っぱしからつかんでみて,よさそうな若鳩,記録鳩をメモすることができた。

 渫在日数がますにつれて,両兄弟も,私の誠意を理解してくれて,まえとは変って好意的な態度を示してくれた。

 こうして,ビール氏作の数羽の若鳩をわけてもらえることになったが,価格のほうは予想をはるかに越える額を要求された。しかし,それをよろこんで承諾するよりしかたがなかった。

 次に,現在最高の種鳩になっている,故オペル氏の秘蔵鳩゛ブルー・キング号″どリッピー号″の一つがいをわけてもらいたいと申し込んだところが,両氏は,あきれたという顔をしながら,固し拒絶されてしまった。しかし,数回のひぎづめ談判のすえ,とうとう待望のこの一つがい,オペル最高の種鳩を譲ってもらえることになったのである。
――中略――
 こうして,まるまる6日間をビール家ですごしたわけであるが,この6日間の滞在は,結果的には満足のできる成果をうる貴重な時間としてすごされ,決してむだなことではなかったと思う。
――後略――」

 1964年7月には,任秋夫氏が購入したりツピー号,ブルー・キング号をはじめとする故オペル氏の作出鳩数羽と,ビール兄弟の作出鳩たちが日本へ到着した。

 任秀夫鳩舎の飼鳩休止によって,アメリカ鳩界の秘宝といわれるオペルのこの一つがいも,私の鳩舎に移ったが,それは1965年8月20日のことであった。
 
しかし,リッピー号の寿命は長くはなかった。17羽の直子を作出し,やがて病気となり1968年2月17日に,東京都内の某動物病院で満12歳に満たない生涯を閉じた。

 ■リッピー号の子鳩作出状況■    2020年7月17日(金) 4:53 修正
 リッピー号を手にした時,私は任氏に,卵は産むのかね……と思わず尋ねたほどきゃしゃな感じの雌であった。
 「卵のうみはとても良いよ」        ゛
 と云った任氏のことばどおり,1966年春から開始したブルー・キ。ング号との作出は非常に好調だ'つた。6月1日までに7羽の子鳩が作出されたのである。その中の2羽を種鳩用に確保できたので,私は次にヨーロッパの銘血との異血交配を考え,ル・ロア号と配合して5羽を得た。

 いずれも,オペル系のタイプの鳩ばかりで。さすがにその血の濃さと遺伝力の強さを物語っているようであった。もちろん中型の小ばかりである。

 1966年暮から翌年1月にかけては,ワールド・キング号と配合されて2羽の雌鳩を作出した。2羽ともリッピー号の若い頃を思わせるような鳩である。

 春になると,ジュピレ2号と配合された。これは私かもう少し立派な鳩を作ってみようと思っておこなったもので,フランスのドルダン氏作の大柄で美しいジュビレ2号との作出鳩を,興味をもって待った。しかしやはI〕オペル・タイプである。

 春の産卵をおこなっている頃から,リッピー号のくちばしのわきにあるツノコブの下あたりに,腫瘍ができた。はヒめは,気にするほどのものでなく,分離して休ませる程度であったが,夏ごろから次第に大きくなり,私は2〜3回切開手術を施した。しかし手術しても,手術しても,2〜3週間もたつとまた腫瘍は大きくなり,とても私の手には負えそうもなくなった。

 リッピー号は,依然元気は失なわず,餌もよく食べて,さはどやせもしなかったが,動物病院へ入院させてやることにした。

 私は,リッピー号の元気さから見て,まさか死ぬとは思っていなかったが,入院させてから,1ヵ月ぐらいたった]968年2月17日,不意に死亡連絡をうけたのである。

 私か作出したりツピー号の直子は,合計17羽で,私はその中の5羽を種鳩用に残した。いずれも一目でリッピーの直子であることが判るような顕著な特徴のある鳩ばかりである。

 「私は死んでも,オペル系は死なない」
 と故オペル氏は云った。

 オペル氏が死去して8年めに遂に彼の遺作中の最高鳩は死亡したが,血統どオペル″の名は連綿と続いて残っていく。

 ■ブルー・キング号の子鳩作出状況(1971年春まで分)■    2020年7月17日(金) 4:59 修正
 ブルー・キング号は,非常に精力的な雄鳩である。やたらに他巣房と喧嘩したりして自分の巣房へは他の鳩を近づけない。与えられた雌鳩とはすぐつがいになり,1968年末までの間,ほとんど無精卵を。出したことはない。

 私の鳩舎へ収容されるや,仮鳩舎の雑居生活の中で,ハフナー号を配偶鳩として自ら選び,まず1羽を作出した。             ・

 やがて,新しい種鳩鳩舎に落着いてリッピー号と配合されると,1966年の春7羽を作出し,ホーノレウイット号と7月に1羽,暮にはエタロン2号と2羽を作出した。このエタロン2号との作出で出来た灰胡麻雄(67一宮沢127)は,私か特に期待をかけるような素晴らしいものであった。

 1967年春は,ウェルデン6号との作出で過ごした。
 その秋は休養のため,まったく作出されていないが,翌1968年は,1年間に4羽の雌鳩と,つぎ

【以下資料落丁の為引用終了】

 5羽のオペル系 岩田系 基礎鳩  深澤 昌樹  2020年7月14日(火) 6:34
修正
岩田孝七氏が1954年に持ち帰った5羽のオペル系鳩の貴重な写真をありがとうございます。この鳩達が日本へ送られていたとはジョン ルイス オペル氏は
知る由もなかったであろうと 前述した資料等々からうかがえます。
数えたらきりがなかろう日本でのオペル系鳩の活躍を もしオペル氏が生前に知ったら つぶさにその内容を調べて喜ばれたと思います。
静岡の地では小林勇氏を経由してオペル系鳩が浸透して多くの稚内1200キロを飛翔帰還鳩を輩出しています。
オペル様 ありがとう !!! 何度でも繰り返し申し上げたいです。
また、オペル系の特集を組んでいただきましたイレブン様へも
ありがとう!!! 感謝感謝です。引き続き何卒よろしくお願い致します。

 小林勇鳩舎の基礎鳩5910号にまつわる伝聞  イレブン  2020年7月14日(火) 16:56 修正
岩田考七がアメリカより持ち帰った5羽のオペル鳩の一羽、5910号がどういう経緯で小林勇鳩舎に導入されたのか。このことについてイレブンはかつてこのように聞いたことがあります。その真偽を含めて、小林勇の地元ではどのような話になっているのか、ご存じのことがあればレスして頂けませんか。

イレブンがもう40年以上前、伝え聞いた話はこうでした。

(※なお、イレブンは故人となられた方の名前表記については、敬称を付けないで表記するという慣例に習って記述することにしております。ご了承ください。)

 そもそも、小林勇と岩田孝七は幼馴染の関係にあり、考七が海外渡航から鳩を持ち帰った頃から、オペル鳩を始めとするそれらの輸入鳩の存在を知っていたらしい。
 そんな親しい人間関係でもあったので、日本海号などの活躍以降、門外不出となった777×619の直仔、383193号もかなり早い段階で小林鳩舎に導入していた。
 5910号については、小林勇のお気に入りで、何度も譲ってくれという話をしたが、さすがに岩田孝七は首を縦に振ることはなかった。
 しかし、ある日、孝七からいきなり「今すぐ30万円(20万円だったかも知れない)が用意できるんだったら、5910号を持って行ってもよい」との電話があり、小林勇すぐさま現金を用意し5910号を持ち帰った。
、という話です。

 イレブンは、この話を静岡の小林勇鳩舎に訪問して、小林勇自身の口から直接聞いたと言う人物から伺いました。ずいぶんと以前の話ですが、地元ではどのように伝わっていますか。もし小林勇鳩舎の基礎鳩に関して何かご存知のことがあれば教えていただけませんか。

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