 京都の並河 靖さんが1959年に4羽の若鳩をモーリス・デルバールから導入した経緯については、5月号に述べた通りです。またFCIの会議に日本代表として出席された東京の関口龍雄さんを訪ね、デルバールが当時のベルギーで非常に活躍してるとの話を聞いたのは58年のことでした。
私か初めて並河さんの鳩舎でデルバール系を実見し私なりに納得して、バロン号の直子であるバロン・スター号(*@)という鳩と、エカイエNo14という鳩の同腹のボンブルーVの二羽を、懇請のすえ譲り受けました。当時の私にとっては初めて手にするベルギーからの輸入鳩であり、当時の私にとっての最高の鳩でした。またわが国におけるデルバール系の優勝鳩を輩出した第1号だと思います。
*@ 直子三厩N総合優勝(並河鳩舎作翔父のバロンは52年生のゴマの雄で1000キロまでに22回入賞。祖父ボンブルーは40回のレースで16回入賞の代表鳩)
その後、1968年に初めてベルギー、ヨーロッパを訪問して以来30数度の渡欧を経験し、また今日こそ多くの資料を入手し、私の研究も充実してきましたが、当時の日本鳩界には、シオンやブリクー、スタッサールなどについてはそこそこのデータが入手できていたものの、デルバールについての資料、情報はほとんど皆無に近い状態でした。またベルギーの鳩界や、古い血統を解説した著書も極めて少なく入手は困難でした。
ベルギーのピジョンスポーツが産声を挙げたのは19世紀のことであり、1800年代の中、後期にかなりの隆盛をみたことは確かです。しかし、歴史というものはキチンと記録が保管され、あるいは著作物によって発表されなくては歴史として公認されません。その意味で、ベルギー鳩界の確実なデータというものはかなり後年になってから整備されだします。
またベルギーで脚環が協会から発行されたのは1920年であり、それ以前に好成績を収めた有名な愛鳩家は多いのですが、その活躍や優秀鳩を伝えるものは所謂「風聞」あるいは「口伝」によるものであって、確実な資料とするには曖昧なものといわざるをえません。
我々が今日のベルギーの血統や鳩を研究するうえで、そのオリジンを知ることは非常に重要なことであり、不可欠の要素です。しかしながら近代ベルギー鳩の発祥については、前述の通りはなはだ曖昧模糊としております。つまり、その発祥のころには脚環が無いため鳩を特定することができず、またレース鳩を改良するプロセスに関する記録が、ほとんど残されていないからです。
それでも今日のレース鳩の基礎を築いたというべき愛鳩家として決して忘れることのできない人物としてユランという人がおられ、またカール・ウェッゲ、ベックマン、ファンシングン、またアウセーノなどがおります。みな1800年代中期の人物です。この中で、私はウェッゲの写真をみたことがあります。近代ベルギー鳩の改良に極めて大きな影響を与えた人物です。
彼の業績について、英国の愛鳩家であり優れた研究家であったドクター・アンダーソンは彼の著作に「極めてきつい近親交配をおこない血統の固定を図った」という指摘をしています。しかし彼がどのような血統の鳩同士を交配し、どのようなチャンピオンを作ったかという点では残念ながら不明の部分が多いのです。
鳩の血統というもは作出者がキチンと記録を取り、文書に残さなければならないものです。
黎明期のベルギーの主要な愛鳩家でありかつ今日、世界の鳩界で実績残すデルバール系を基礎にして形成された活躍鳩舎の血統的関連を示しだのは上掲の概略表です。 図中の愛鳩家がどのように交流し、どのような鳩を介して血統を交配したのかについては、前述のとおり不詳です。
ウェッゲ系の鳩を活用した愛鳩家はベルギー国内を見てみるとフランス語圏であるブラッセル地方に鳩舎を構えるギョイム・スタッサール、そのブラッセルから30牛口ほど南のジョリモンに住む(ドクター)アーサー・ブリクー、その弟子のエルネスト・デュレーなどを私は「ブラッセル・タイプ」を創成した鳩舎と考えます。
また西に目を転じると、フラマン語圏(西フラマン州)のテオ・ファンデヴェルデがあり、この鳩群からカトリス兄弟、シャルル・ファンデルエスプト、レオポルド・ボスタイン、オスカー・デフレンドなどが血統を活用していました。
こうしたベルギーの第2次大戦以前から活躍してきた愛鳩家の血統関連の中に、モーリ ス・デルバール鳩舎を位置づけると、ブリクーより24、5歳若く、デュレーやトレムリーなどとほぼ同世代となります。
(つづく)
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