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 無事でした!  イレブン  2020年9月7日(月) 13:29
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今朝のイレブン鳩舎です。夜中、かなり強い風が吹いていましたが、夜が明けてみると鳩舎も自宅も無事でした。今日は一日、強風が吹いていますが、近所も大きな被害はあまりなかったようです。よかったです。


 『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ ミュニエ号編資料B−1 太田誠彦『PIGEON CUTURE:第7回 Dr.ブリクーとその時代』◇◇◇◇ 【出典:『愛鳩の友』誌、1994年9月号P118より引用)】  イレブン  2020年9月7日(月) 13:57 修正
ミュニエ号編資料の第3弾は、大田誠彦の『PIGEON CUTURE:第7回 Dr.ブリクーとその時代』から始まるブリクー系関連の論文です。

大田誠彦の連載「PIGEON CUTURE」は、ミュニエ号を始め、世界的な銘鳩の数々を実際に手がけてきた実績と30回以上の渡欧経験に裏付けられた内容となっており、我が国における系統研究としては、比類なき内容となっています。

特に、ブリクー系の研究としては、この第7回「Dr.ブリクーとその時代」、第8回「ブリクーの戦後とその発展」、第9回「ブリクーと戦後鳩界」と、3ヶ月連続で掲載され、重厚な内容となっています。

この資料から分かったことですが、ジュリアス・シーザー号って栗と思っていましたが、黒胡麻だったんですね。色々考えさせられますね。

ピートさんが回想録の中で取り上げているアーネスト・デュレイとDr.ブリクーとの関係もこの論文に書かれている知識を持っているとより理解が深めるものと思います。そして、何よりも、この3回の連載を通して、ブルクー系が現在の鳩たちとどのように繋がっているのか丁寧に書かれているところに大きな資料価値を感じます。台風10号の影響で今日は仕事がありません。できるだけ、一気に進みたいと思っています。

 太田誠彦『PIGEON CUTURE:第7回 Dr.ブリクーとその時代』    2020年9月7日(月) 13:58 修正
◇◇◇◇◇◇◇◇
 第1次大戦から第2次大戦までのベルギー鳩界は、ピジョンスポーツの爛熟期である。多くの愛鳩家が澎湃として興り、幾多の名鳩が生みだされた。今日の世界鳩界のルーツを辿ればここに至る。このゴールデン・エージの第一人者、ドクター・アーサー・ブリクーにまつわる思い出を語る。
◇◇◇◇◇◇◇◇

 ■鳩の師と海外研究■  □太田誠彦  2020年9月7日(月) 14:01 修正
 ベルギー鳩界の黎明期は1800年代の後期であり、その爛熟期というべきピジョンスポーツが開花した時代は1910年から第2次世界大戦が勃発する1940年頃です。この期間に多くの優れた愛鳩家が澎湃として興り多数の名鳩が誕生しました。

 先月、先々月号で述べたモーリス・デルバール氏は、実際に観て、感じた体験をもとにした私の研究活動の過程で出会った多くの愛鳩家のなかで、私が尊敬の念を抱いた、真に知的な愛鳩家でした。第2次大戦の前後をつうじて豊富な経験を積み、その人柄は東洋の儒教がいうところの『仁義』に通じるようなキャラクターの持主であり、家族ぐるみの密度の高いお付き合いをしていただくなかで、私は鳩の「師」との気持ちを抱いたものでした。そのデルバール氏が逝去されてすでに十年が経とうとしています。彼から学んだこと、また彼の鳩舎についてもっとおしゃべりをしたいのですが、誌面の都合で概要を述べるにとどめます。

 私かデルバール作出の鳩を導入したのは、私か23歳の1961年のことでした。私は外国のチャンピオンの写真を観たり、血統を研究することが好きで、また物事を探究することにかけては旺盛な意欲をもっているようです。興味をもったテーマの疑問を解明するにあたり、なんでも自分の目で観て結論を出さないと気が済まない。この生来の性格が私の今日を来たらしめているのでしょう。

 デルバール系を導入する2年程前に、英国の首都ロンドンの近郊に住むトミー・バックからシオン系の鳩を輸入しました。当時の私はシオンに憧れていたからです。バックというのはブリーダーで、英国の名鳩収集家のドクター・アンダーソンや、またベルギーのブリクー、ジュール・ヤンセン(注@)、フランスのシオンなど、優れた系統を収集し、作出しておりました。

注@:ベルギーのナショナル協会の初代会長を務めた人物。近代レース鳩の父ともいうべきウェッゲの娘婿であり、その名血の影響を強く受けた。近年注目を集めるアーレンドンクのヤンセン兄弟とはまったく無縁の人物。

 忘れもしません。私かバックから輸入した灰栗の雄鳩はアンダーソン作出の純シオンでした。51年生まれのその雄を、私はチャレンジャー号と命名しました。配合雌はフランスのフェーノイヤーの作出です。20歳そこそこの私か初めて持った輸入鳩のカップルです。フェーノイヤーというのは、第2次世界大戦が始まったとき、シオンが戦火から鳩を守るため疎開させた鳩舎です。

 シオン系に青年時代の私が憧れたというのも、当時の愛鳩の友誌に掲載されていた写真に魅せられたからです。関口龍雄さんが故岩田孝七さん並河さんらと共同で、アメリカのバイツマンから1933年に導入したシオン系の輸入鳩の写真が掲載されていました。56、7年のことです。また関口さんがFCIの会議に出席されたおりに輸入されたロベール・シオン作翔の名鳩ボスを、その翌年58年に拝見し、私は強いカルチャー・ショックを受けました。鳩の理想というか、モデルとしてボスは脳裏に刻みこまれ、今に至るも離れません。それほど私にとって強烈な印象でした。その後、シオンという人が大変な富豪であり、青年の私か直接鳩のトレードを交渉するのがはばかれるほどの人物であることを知りました。そこで英国のバックからチャレンジャーを導入するのです。

 アメリカのチャールズ・ハイツマンは確かに優れた名系収集家であると同時に競翔家です。しかし、私は研究の結果、英国のバックの方に優れた血統の鳩がいると結論したのです。つまりバックはアンダーソンを通じ鳩を継承した人であり、そのアンダーソンは、口ーガンの名鳩収集の方法を踏襲している。つまり欧州の鳩の正統を継承しているからです。
 ローガンは1800年代の終わりごろ、ベルギーの悪天候レースで勝った多くのチャンピオンを収集したことで有名です。彼は集めた名鳩を大きな運動場つきの鳩舎で飼育し、繁殖しました。その運動場には樹木が植えられ、自然な環境で運動ができたという記述から空前のスケールが推し量れます。

 本家のシオンから直接導入できないのなら、富豪で知られたローガンのその手法を継承したアンダーソンが収集した血統をバックから導入する方がよいと私は考えたのです。ここにレベルという重要な問題があります。ものごとを判断するには、その地域性や組織のレベル、また歴史などの背景を見抜かねば誤った認識を持ちやすいものです。昨今、人気のあるJリーグは、世界のレベルには遠いものがあるようです。これと同様のことが鳩にもいえると考えます。誤解のないようにつけ加えれば、戦前、関口さんらが導入したバイツマンのシオンが当時の鳩界に大きな影響を及ぼし、好成果をもたらした功績は厳然たる事実ではありますが・…

 トミー・バックをつうじて青年時代の私は、ヨーロッパの名血鳩を手に大きな夢を膨らませたものです。本場の鳩に実際に触れてみたいとの願望は日増しに強まり、その願いはやがて30数度の渡欧となり、今日の私を形成していく原動力となりました。

 ■初めて輸入鳩ペアを手にした頃■    2020年9月7日(月) 14:04 修正
 私はバックを介し当時ヨーロッパの5大名血とされたブリクー、スタッサール、バスチン、アベニスそしてポール・シオンを知りました。今日、改めて考えれば、バックという人は真に優れたブリーダーでした。しかし、当時の私たちは、情報不足の日本にあって、ヨーロッパ鳩界に精通していたわけではありません。

 ものの道で上達するには、優れた師、先達の指導というものが不可欠です。最初に触れ合う人物によって、その辿る道は大きく変わる。余談ですが、私の鳩の師は警察官からある会社の重役に転身した柴田さんという方で、温厚で寡黙な人です。高等学校時代の私にとって、鳩の趣味の先達として得難い人物に出会えた幸運をつくづくと思います。善意の伝承…師、鳩とともに好い環境が整わなくてはいけないものです。私のヨーロッパにおける師は、モーリス・デルバールです。渡欧以前の私にヨーロッパの鳩に対する夢を与えてくれたという意味において、関口さんは得難い人でありました。

 バックとの交流をつうじて私はシオンを知り、スタッサールそしてブリクーを知りました。世界の5大血統といっても、当時、それらの愛鳩家はみな物故しておりましたから、私は面識をもてません。が、いずれブリクーについては本物を自分の手に掴み、視覚と触覚で研究してみたいとの渇望に似た期待を育みました。

 前述したように、バックは素晴らしい情報を私のもとに送ってくれたのですが、満足できませんでした。もっと好い鳩がいるはずだと考えたのです。好い鳩を手にすることで、欲望の高まりが強くなってしまったのです。

 ちょうどレースを始めたばかりの人が幸運にも優勝してしまったようなものです。わけも判らず勝って天狗になり、もっと優れた鳩や血統を使えば、さらに成績は向上するはずだとばかりに、次々といろいろな鳩を入手したくなる。バックの鳩について私は、同様の過ちを犯したようでした。今にしてみれば、本当にバックの鳩は素晴らしいものでした。

 バックから鳩を導入する一方で、私は多くの著作にあたり、知識を吸収していきました。ブリクーに関して、アンダーソンの著作のなかに興味ある一文を発見しまし。た。ブリクーが理想としたレース鳩の条件です。

 それによれば「ボディは卵形であること」とありました。目や翼の形状など、今日の日本の愛鳩家のようなことは述べられていません。卵形というのは、シャンボ・ジェットないしは飛行船の胴体のような円筒形、空気抵抗の少ないボディということです。

 私かその後の名鳩導入やヨーロッパ研究のなかで、このブリクーが理想とした条件をもっとも備えていたのがデルバール系であると思います。デルバールの代表鳩のブルーNo1やプティ・ブル・No14などがブリクーの理想に合致する鳩でした。

 加えてブリクーが指摘しているのは、羽毛質が滑らかということでした。しかしこの点は直接、鳩の性能に結びつくことではないので、彼が理想とした条件の一つと解釈しました。その後、現実に手にしたブリクー系の鳩には羽毛の豊富な鳩が多かったことも事実です。また、デルバールからプレゼントされた「鳩の飛翔原理」という1937年刊行のベルギー最古と思われる著書のなかに、ブリクーの代表鳩の写真が紹介されています。ヨス・ソンビエールとファンデル・シュケルデンとの共著で、ブリクー始めスタッサールやポール・シオンなど、当時の偉大なチャンピオンが掲載され、またその主翼の実寸大のスケッチが掲載された真に貴重なる一冊です。ピジョンスポーツの発祥の地であるベルギーには、意外にもこうした出版物が少ない。私がピジョン・ダイジェスト誌を発行していた当時、私の研究熱心さにデルバールが、厚意から譲ってくれたこの本を、師の鳩に関する情熱の伝承と受け止め、私はとても大切にしています。この本のなかに収録されている写真から推測するブリクー系の鳩体は、大ぶりではなく、むしろ中庸の鳩が多いと思います。ウェートでいえば500グラムくらいまでの鳩ではないでしょうか。

 ドクター・アーサー・ブリクー……、その逝去は第2次大戦後の1947年です。享年74歳とありますから、生まれは1874年(明治7年)となります。1899年生まれのモーリス・デルバールより25歳年長です。私かピジョンスポーツの研究に入った当時、すでに鬼籍にはいっていたうえ、まとまった文献が無きに等しいなかでのブリクー研究は、時に想像の力もかりなけれぱなりません。

 ■ブリクー伝説と悲劇の終幕■    2020年9月7日(月) 14:06 修正
 ブリクーの系統的なベースはジュール・ヤンセンを介したウェッゲであり、ベックマンにパークレール、さらに後年1930年代に交流をもったポール・シオンであるとされています。が、実際、どこの鳩舎の何という鳩であるのかが判らないのです。というのもブリクーが活動した時代は1900年初頭から第2次大戦までです。ベルギーで協会が脚環を発行するのは以前述べたように1910年のナショナル協会発足以降のことですから、ベルギーの初期の時代は鳩を特定する術がなかったし、多くは口伝で不正確なことも多い。ちなみにベルギー国王の後援を得て、ベルギー王立協会と改称するのは1923年のことです。

 例えば、ブリクーの黄金期の最高傑作ジュリアス・シーザー(注A)という黒胡麻の雄鳩について、私は1959年に資料を入手していました。空飛ぶオランダ人「フライング・ダッチマン」の異名をもつピート・デヴィートは彼の著書「ヘトラス・ヤンセン」の中で、ソフト帽と口髭を蓄えたブリクーの写真を掲載しています。ドクターという敬称のつくブリクーが医師であったことは確かですが、一体なにを専門にしたのかは不明です。

  注A ボルドーN優勝のチャンピオン、
  直子カバネ。卜29年サンバンサンN優勝、
  孫ラ・プリューム・ブランシエ・デュ・ポー(後述)、曾孫ル・エカイェーデン    バス=33年ポーN優勝、兄ル・プティ・ルー=ボルドーN優勝、3位、8位他

 1800年代の後期のピジョンスポーツの黎明期において、記録的に最もキチンとしたものが残っているのがアレキサンダー・アンセーヌでしょう。代表鳩のクリケ(バッタの意)という鳩は、1977年から1884年までの8年間にサンバンサンやリボルヌなどの長距離レースで好成績をあげています。ブリクーはアンセーヌの次代の愛鳩家であり、その活動時期は第1次大戦から第2次大戦の勃発までの、ベルギー鳩界の爛熟期です。しかしその詳細は確たる書物にまとめられるなどの形では残されてはいません。1918年から40年にかけて10数回の長距離レースの優勝をとげたと伝えられています。当時の長距離界の第一人者として尊敬を集め、現在なおブリクーは伝説として語り継がれています。

 また同世代の競翔家のエルネスト・デュレーは、1930年と31年にかけてラ・プ
リューム・プランシュ・デュ・ポーという灰胡麻羽白の鳩で、2年連続ポー・ナショナル優勝をとげ勇名を馳せました。この鳩の系統を見ると3/4をブリクーが占め、残りはポール・シオンです。ベルギーの議員を務めたデュレーの社会的身分の高さと相まって、ブリクー系の優秀さと名声を天下に知らしめることにデュレーの存在は一役かっています。ちなみにベルギーはじめヨーロッパのピジョンスポーツの基礎をなした人は、。紳士であり、同時に理論と実戦の両面で優れた人が多いのです。関口さんはこうしたヨーロッパの伝統をわが国に継承するべく、紳士淑女の会にしたいと、現在の協会を作ったと語っていました。私は名鳩ボスを観ることで、その関口さんの精神と歩まれた歴史を継承するのだとの思いで鳩を飼い今日に至っています。

 ブリクーは第2次大戦が勃発するや、大きな悲劇に見舞われます。世界鳩界的な悲劇といってもよいでしょう。フランス軍がベルギー国内に侵攻したため、プリクーは避難したのですが、ある日、残した鳩が心配になって帰ってみると彼の鳩はすべてフランス軍によって殺されていたのです。敵方の諜報活動を利する伝書鳩と考えられたからです。愛鳩家としてブリクー博士の悲しみは想像するに余りあります。終戦後、彼の鳩群を再建することに躍起となるのですが、全盛期を再現することは遂にできませんでした。(以下続く)

 『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ ミュニエ号編資料B−2 太田誠彦『PIGEON CUTURE:第8回 ブリクーの戦後とその発展』◇◇◇◇ 【出典:『愛鳩の友』誌、1994年10月号P96より引用)】  イレブン  2020年9月7日(月) 14:11 修正

 ■ドクター・ブリクーを考察する■  大田誠彦  2020年9月7日(月) 14:13 修正
 先月号にドクター・アーサー・ブリクーにまつわる私自身の思い出を語りながら、ベルギー鳩界の黄金期の鳩界事情と第2次世界大戦にまつわるブリクー悲劇について述べました。すでに周知のように近代ピジョンスポーツの黎明期は、19世紀:1800年代の中葉であり、1900年代の初頭、第1次世界大戦後に黄金時代を迎えました。

 医師ブリクーがその黄金期(ベルギー鳩界の黄金期でもあるのですが)に生みだした最も有名なチャンピオンが、ジュリアス・シーザーであることを先月号で触れました。ボルドー・ナショナルにおいて、ブリクーはシーザーとその兄弟とをもって優勝から4位までを独占しました。シーザーの直子カバネットは29年のサンバンサン・ナショナルで2551羽の参加鳩のトップを極め、また孫にはドクター・ブリクーの分家というべきエルネスト・デュレーの代表鳩プリューム・プランシエ・デュ・ポー(写真99頁参照)があります。この鳩は1930年と31年の2年連続優勝という歴史的快挙をなし遂げました。

 1974年に生まれ、第2次大戦後間もなくの1947年、74歳でこの世を去ったドクター・ブリクーと、残念ながら私は面識を持てませんでした。従ってその後、1968年に初めてヨーロッパの地を踏んだ私は、ドクターと交流をもった愛鳩家の話や、さまざまな著書、文献をとおして考察する以外にこの巨星の生前を偲ぶよすがはありません。

 ■第2次大戦後のプリクー系継承■    2020年9月7日(月) 14:15 修正
 ブリクーが第2次大戦前にあげた輝かしい成果、その人柄、そして鳩にたいする造詣の深さに傾倒する愛鳩家が多かったそうです。ブリクーの鳩、血統の優秀性を認め、ほとんど全鳩をブリクー系にしてしまった代表的な愛鳩家はエルネスト・デュレー、トレムリーとカラマンの三人です。

 一般にベルギーでは、成績か挙からないと一気に全鳩処分をして、新しい鳩に入れ換えるというやり方をする人が多い。私などは優れた血統があるとした場合、まずチャンピオンを導入し、次いでその親や兄弟を導入するという方法をとります。こうした方法にたい
し、ヨーロッパ大はその鳩舎の代表的なカップルの直子のヒナを一腹ずつ買って、それを育てていくのです。ですから、一気に20羽、30羽の鳩を導入することになります。

 前述のデュレーはベルギーの上院議員を務めたたほどの社会的地位の高い人物です。これをとっても、当時ベルギーのピジョンスポーツが社会的にいかに高尚な趣味であったかが偲ばれます。この歴史的な名鳩が飛んだ1930年代は、今日のベルギー人の使翔法の主流を占めるシステム・ドーヴバージュ(雄ヤモメ方式)が開発された頃で、ナチュラル方式と両用の時代でした。デュレーが飛ばした前述のプリューム・ブランシエ・デュ・ポーは灰胡麻刺の美しい雌鳩です。

 このデュレーのように、ブリクーの鳩と人柄に傾倒し、2次的また3次的な継承鳩舎となった愛鳩家はじつに多数にのぼります。今日にいたる大きな流れを述べてみます。まずネストール・トレムリーです。ここからウイリイー・ヘルマン、アデラン・ドマレー、そしてドイツのレイムント・ヘルメスヘと名血は継承されて今日に至ります。ドマレーの鳩舎で、1962年と63年のバルセロナ・インターで2年連続優勝を遂げた名鳩ミュニイェ号が誕生したことはいうまでもないことでしょう。この名鳩は後65年に、私がトレードすることになりますが、稿を改めてのべていきます。ともあれ、ヘルメスはこのミュニイェの直系(七代目)で1990年のバルセロナ・インターを制しました。血統というものは誠に恐ろしいものです。

 またブリクーを継承した一方のカラマンからはロベール・ウイロケー、・さらにコルトレーに住んでいるロペール・ルフベール(55年バルセロナ・インター2位、70年代後期ポー・インター優勝)へと血は流れ、ルフベールからトーマス・ペータースが名血を継承します。1973年と75年のベルギー・サンバンサンーナショナルで優勝したエールヴァンクールを生み、その同腹の直子にクライネン・サンバンサンという同名ナショナルの6位7位入賞のチャンピオンを作りました。

 先述のエルネスト・デュレーから名血を継承した鳩舎にはレイモンド・コブーがあります。わが鳩界に馴染みの深いこの愛鳩家は、昨年、高齢と健康上の理由で飼育生活にピリオドを打ちました。

 このように戦後から現代まで、ブリクーの名血が生みだしてきた活躍が、いかに偉大なものか、お判りいただけたでしょうか。

 ■ブリクーの悲痛な晩年■    2020年9月7日(月) 14:17 修正
 ブリクーの死後、かれの名血は幾多の優秀な愛鳩家に継承され、チャンピオンを生みだしていくのですが、第2次大戦後のブリクーの晩年は、みるべく成績がありません。

 この要因は先月号に述べたとおり、開戦と同時にドイツに対抗するべくベルギー国内に進駐したフランス軍によって、最愛の鳩を失ったことにあります。当時のレース鳩は、戦時下には通信の手段ともなりましたから、フランス軍にも相手のドイツ軍にとっても利用価値があります。このことから、一時避難のため家を留守にしたブリクーの鳩群は、フランス軍の手によって殺されてしまったのですから、愛鳩家ブリクーの悲しみがどれほど深いものか…想像は容易なことでしょう。

 私はかねてより、人と鳩とが一体となってひとつの鳩舎が維持できるものと考えてきました。時代にあわせ、どのような種鳩を選定し、また異血を導入するかは鳩舎の栄枯盛衰に直接かかわる問題です。同時に飼育者がどれだけ厳しい態度で鳩に接しつづけられるか、これも非常に重要なことです。

 戦後、ブリクーは自鳩舎の復興に晩年の情熱のすべてを注いだはずです。この間のブリ
クーに深く関与したのがトレムリーでした。しかし戦前の黄金時代は、ついに再び巡っては来なかった。1947年死去、晩年のブリクーの心中は悲痛なものだったに違いありません。ドクターの死後5年間、その飼育鳩は子息によって維持されたものの、ついに52年、オークションに付されました。ヨーロッパにおいては後継者がいない鳩舎の場合、死後ただちに処分のための競売がおこなわれるのが通例です。おそらく2代目は父の遺志を継ぐべく努力はしたものの、父ほど鳩にたいする情熱の持主ではなかったのでしょう。

 ■戦後の日本とブリクー系■    2020年9月7日(月) 14:18 修正
 私か鳩飼育を開始し、海外の名系、名鳩について研究を開始した当時、ドクター・ブリクーはすでにこの世の人ではありませんでした。私かブリクーについて知識を得たのは先月号で述べたとおり、英国のトミー・バックを介してのことです。彼が英国の偉大な研究家で、また競翔家であったドクター・アンダーソンの鳩を継承した関係から、シオンやブリクーについての情報を得ることができたのです。私かバックから鳩を導入したのは1959年のことでした。先月号で述べたように私はアメリカ経由の鳩より、英国のアンダーソンの鳩舎を経由した血統の方が、より本流に近いと考えておりました。 当時、わが国では岩田誠三氏がアメリカのアカルディから導入したブリクー系を使っ、1955年の奈良尾800キロで翌日帰りの優勝を遂げ、農林大臣賞の全国優勝を受賞しておりました。54年生まれのこ25628号、栗胡麻の雄鳩です。父はオペル作(ローガン近親系)の3622、母が46年生まれの44号、この雌鳩がブリクー系です。岩田氏は偶然オペル×ブリクーの交配を試みられたと思います。因みに英国の有名な力−クーパトリック系がプリクーを主流に、ローガンを交配して確立された名血であることを認識しておいて頂きたい。

 その頃、大阪の葉 東峰氏が所有したバック作出のブリクー系のマッチレス号(次頁参照)は、その名もブリクー・プライドという代表鳩の直子同士交配生まれた素晴らしい鳩でした。その後、多くのスーパー・チャンピオンを手掛けてきた私の目でみても葉氏所有のブリクー系は本当に素晴らしいものでした。ちなみに現代のヨーロッパには、当時の鳩のような魅力に溢れた鳩が少なくなってきたと私は思います。

 話は余談で恐縮ですが、鳩界にはダーウィンの進化論のような考え方をもって、レース鳩そのものや性能が進歩していると意見を述べる人がおります。しかし、レース鳩は野性動物とは違います。また近代レース鳩が改良されてきた歴史はたかだか百数十年にしかな
りません。確かに、日本のレース界は1960年以降、優秀な鳩を大量に輸入し、定着させて飛躍的に鳩質を向上させました。しかしそれをもって進化とはいえません。一方、ベルギーにおいても、その始原から歴史を繕いてみると1930年代から70年代までの40年間が近代レース鳩の振興期であり、ひとつのピークであり、その後の鳩質向上はあまり顕著でないと私は考えます。

 19世紀の中期、ウェッゲから始まり、ピジョンスポーツの黎明を開き、第1次世界大戦後の黄金期を現出したアレキサンダー・アンセーヌやドクター・ブリクー、フランスのポール・シオンなど、今日の鳩界の土台を作ってきた愛鳩家が当時持っていたエネルギーや知性は、現代の私達には及びもつかないほど大きく偉大なものでした。

 ■ミュニイエにプリクーを学ぶ■    2020年9月7日(月) 14:23 修正
 第2次大戦後のブリクーは遂に、往時の再来を招くことはできませんでした。しかしその名血は、ブリクーの悲痛な思いをよそに、素晴らしいチャンピオンを生みだしました。
 1965年4月、私か手にしたアデラン・ドマレーが作翔したミュニイエ号は、畢生の名鳩でした。彼はトレムリーから流れた純粋なブリクー系を継承しており、戦後ベルギー鳩界が生んだ同系の最高チャンピオンであり私にとって生涯忘れえぬ鳩となりました。

 ミュニイエは美しい灰栗の雄でした。完璧なバランスを持った非常に軽い鳩です。恥骨の締まりがよく、キールが長いのも特徴です。掴むと尾翼が長く、やや下げ気味で、腰部はブリクーが理想とした卵型の形状をなしている。しかし私にとってミュニイエの最大の特徴はその主翼にあらわれていると思われました。チャンピオンに関して「素晴らしい翼を持った鳩」との表現をよく見受けます。ミュニイエの翼は、滑らかというのか、柔軟というのか…ビロードのようなソフトで緻密な羽毛によって構成されておりました。その一枚一枚のタッチから「これがブリクーの羽毛質なのだ」と学び、同時にブリクーが羽毛に関してどれほど厳しい考えをもっていたかを私は知ることができました。また後年、ヨーロッパを訪ね、ブリクーの鳩体論を聞くにおよんで、益々私はその確信を深めたのです。

 1968年以降、私は30数度の渡欧を重ね、多くの名鳩を掴み、導入しましたが、’いまだにミュニイエ以上の主翼を持った鳩にであっておりません。58-12106367は言うまでもなくミュニイエのリング・ナンバーです。現在、私の自宅の電話番号がその下4桁です。上の210を局番にできればさらによいのですが、私の住む大阪にこの局番は存在しません。閑話休題。  (以下続く)

 『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ ミュニエ号編資料B−3 太田誠彦『PIGEON CUTURE:第9回 ブリクー系と戦後鳩界』◇◇◇◇ 【出典:『愛鳩の友』誌、1994年11月号P128より引用)】  イレブン  2020年9月7日(月) 15:18 修正

 『PIGEON CUTURE:第9回 ブリクー系と戦後鳩界』    2020年9月7日(月) 15:19 修正
◇◇◇◇◇◇◇◇

 世界鳩界に冠たるバルセロナーインターで62年63年の二年連続優勝を遂げたミュこイエを65年に導入。ブリクー系が生んだ戦後最高の名鳩にまつわるエピソードから、ヘルメスのディローテまでを語る。

◇◇◇◇◇◇◇◇

 ■ ギャマンそしてミュニイェ■  太田誠彦  2020年9月7日(月) 15:21 修正
 1965年の4月、私はブリクー系の強い影響を受けていたアデランードマレー作用の62年、63年と連続でバルセロナーインターを制したミュニイェ号を導入しました。当時の「愛鳩の友」の6月号誌上にミュニイェ導入は大きなニュースとしで採り上げられています。トミー・バックからドクター・ブリクーについての知識をえた私は当初プリクー自身の作出鳩か、アンダーソン作出のブリクーの主流血統の鳩を手に入れたいと考えました。ところがブリクーが死去したのは四七年のことであり、最後の作出鳩もおよそ20歳近く、ブリクー作出鳩の導入は望めません。そこでブリクー系の強い影響を受けた鳩舎の鳩を狙うより他に手だてはありませんでした。

 ミュニイェ導入の3年前、62年の10月にアルベール・モナンから、60年のバルセロナ・インターの優勝鳩ギャマン号を私は導入しています。ギャマンは日本鳩界におけるバルセロナの優勝鳩導入の第1号です。代価は105万円でした。当時の大卒男子の給料か13000円ほどだったと記憶しています。外国のCHが矢継ぎ早に導入される今日と違い、輸入鳩が貴重であった当時の感覚は、現代の愛鳩家には理解しにくいと思います。ギャマン導入の3年後に、私はミュニイエを導入したのですが、真にセンセーショナルな出来事として世界の耳目を集めたものでした。

 ミュニイエが最初のバルセロナの優勝を遂げた62年、ギャマンを買うつもりでいた私に、当時大阪好鳩会の大先輩であった故細川英次郎氏はこうアドバイスしたのでした。
 「そんなに高い鳩を買うのはやめて、私の近くの土地でも買いなはれ。ギャマンー羽と土地300坪が同じ値段でっせ」
 細川さんの勧めた土地というのは、大阪郊外の奈良に近い美しい田園地帯にありました。細川さんのアドバイスは、ごく常識的な親切心からでたものです。いくら鳩好きでも、またバルセロナの優勝鳩とはいえ、100万円もの大金は常識外だと細川さんは諭したのです。約32年前の当時の100万円といえば、そういう感覚を持たせる金額であり時代でした。しかし24歳の私は一顧もせずに細川さんの勧めを断りました。若い私にはバルセロナのチャンピオンの方が大きな価値があると。世界最高峰のバルセロナ優勝鳩のギャマンを買えばもはや私には買うべき鳩はいない、と。事実、それだけの覚悟を要する買物でした。
 「でも、バルセロナを二年連続で優勝するような鳩が生まれれば話は別ですが…」
と、私は当時の友人達にハツキリ話しました。その翌年にミュニイエがバルセロナで連続優勝を遂げるとは神のみが知ることです。私の知識には、ポーナショナルで二年連続優勝をとげたエルネスト・デュレーの歴史的名鳩ラ・プリューム・ブランシューデューポー(先月号参照)の存在がありましたが、よもやミュニイエがポーのように連続優勝をとげるとは思いもよりません。翌年、ミュニイエがバルセロナ史上空前の連覇を達成し、かくして私は宣言通り、ミュニイエを購入することになるのです。

 ■ドマレーの人柄に触れる■    2020年9月7日(月) 15:26 修正
 初めてミュニイエをみた日本人は故岩田孝七氏です。一九六三年の六月、ミュニイエがバルセロナに参加する日、それも持ち寄り直前に岩田さんはドマレー鳩舎でミュニイエを実際に手にする幸運に恵まれました。

 帰国後、岩田さんは自身が掴んだ灰栗の雄が再度のバルセロナ優勝をとげたことを知り、驚くとともに導入を計画されました。私もミュニイエの連覇を知るや導入の交渉に着手しました。しかし、ミュニイエは作翔者ドマレーと同じベルギー人で、富豪で知られたダニエルーデボスに逸早くトレードされてしまいます。これには手も足もでないと岩田さんは諦められました。しかし私は、その後もデボスに手紙を書き、またベルギー在住の朝倉晃仁さんに、私の代理人としてデボス邸を訪ねてもらったものの、しかし、答えは当然のことながら「ノー」。私の交渉は暗礁に乗りあげてしまいました。

 その一方で、私はドマレーにミュニイエの直子を2羽、さらに両親のトレードを申し込みました。ミュニイエの母はウィリー・ヘルマンの作出鳩です。ヘルマンはトレムリーからブリクー系を継承した鳩舎です。ミュニイエの母方祖母はトレムリーの鳩で、アムステルダムのオリンピアードにベルギーの代表鳩として出場し、1位になったとあります。しかしミュニイエの母は52年の生まれで、当時すでに11歳と高齢で作出は無理と思われました。そこで父のブロンカートのみを指名したところドマレーから承諾をもらい、ミュニイ工導入の不首尾の溜飲を些か下げることができました。こちらは57年生まれの雄で28回のレースで入賞したチャンピオンです。このブロンカートも代々ドマレーが作出を重ねてきたプリクー系で、その父ル・592号も800キロ前後を含め19回の入賞鳩です。ブリクー系導入に強い意欲をもっていた私は、このブロンカートと後のミュニイエ導入によって、奇しくも念願を叶えることになったのです。

 私と同様に、岩田さんもミュニイエの代わりに直子や兄弟を十数羽購入しました。ここに私は少し疑問を持ちました。ドマレーは小規模な鳩舎の愛鳩家なのに、短期間にそんなに沢山のミュニイエの直子が作出できるものだろうか、……早速ドマレー宛に手紙を書きました。やがて詳細をきわめた返事がドマレーから届いて私の疑念は氷解しました。つまりドマレーは、繁殖に関し稚拙だった当時の日本の愛鳩家には考えられないマルチーブリーディング(多重交配)を実施していたのです。ミュニイエに朝夕、違った雌を交配し同時進行で何腹もの直子を作出したのです。

 手紙で私の疑念が晴れると同時にドマレーの篤実な人柄に触れ、ますますミュニイエを手にしたいとの思いが募りました。その後、朝倉さんに交渉再開を依頼し、私も毎月のようにデボス宛に手紙を書ました。一年以上に亘る粘り強い交渉により、1964年の12月、ついにデボスが折れた。

 「根負けした。ただしミュニイエの引渡しは来年の4月、私か買った倍の値段でよければ契約しよう」

 この返事に念願が叶い私は雀躍する思いでした。早速に送金。当時はドルの入手も困難でしたが、年内に契約を成立させたものです。

 ■ミュニイエからディローテ■    2020年9月7日(月) 15:27 修正
 ブロンカートとミュニイエはともに、中型で、軽く、羽毛が豊かという点で、ブリクーの特徴をよく体現していました。頭部はブロンカートがなだらかなカーブであるにたいして、ミュニイエはややオデコ気味です。先月号で述べたように、ミュニイエは尾翼が長く、掴むとやや尾を下げ気味にするのが特徴です。

 一般にブリクー系は黒胡麻、栗胡麻が多く意外に灰の鳩が少ないものです。また目色については濃いブラウンやマロンなどダークなものが多い。近年、注目を集めているヤンセン系に多い白い石目や、また黄目は少数です。

 4月7日、約束通り私の手の物となったミュニイエに私はすっかり心酔し、愛鳩家としてどれほど幸福な日々を過ごしたかはいうまでもありません。しかしその後、私は事情で鳩飼育を中断します。周知のとおり導入4か月後の8月20日、ミュニイエ父子は当時愛鳩の友社社長の宮沢和男さんの種鳩となりました。不世出のミュニイエ導入を果たしたこ
とで私は名鳩導入における目標を失った。つまり念願を達成し虚脱した状態でした。またミュニイエの名血を活かすには当時の日本鳩界の器はあまりにも小さいと痛感しており、同じ日本でも私の住む近畿より関東の方がまだしもミュニイエの血を活かすには適しているとの考えからトレードの決断に至るのです。余談ですが、ミュニイエ父子を含む全鳩の譲渡価格は550万円です。私はその大金を事業を始める鳩友のために無担保、無利子で融資しました。私はこういう一面を持った男なのです。しかしミュニイエとの別れにあたって、私は愛鳩家として「掌中の珠」を失う辛さを感じたことはいうまでもないことです。

 ミュニイエは希代の名鳩です。63年、バルセロナで2度目の優勝をとげた後デボスの種鳩になり、その間に作出された直子の1羽が今日、名鳩を生みだしました。ドイツのレイムント・ヘルメスが作翔した1990年のバルセロナ・インター優勝鳩ディローテは、ミュニイエ7代目の直系にあたります。その6代前の1羽の雌、デボスから直子を導入したのはポールマンJrでした。一般に種鳩導入に投資をしないオランダにあって、このポールマンの買ったミュニイエの直子は、今日にいたるまで、オランダ鳩界が導入した最も筋の通った名血であると私は思います。

 ポールマンはその直子に、フールス鳩舎の1971年のバルセロナ・インター優勝の雄
を交配しました。この血統が、ディローテの母方に流れていきます。もし1963年の段階で、私かミュニイエの導入に成功していたらどうでしょう。今日ディローテは存在しないはずです。鳩というものは誠にインターナショナルな繋がりをもったものです。

 ■蘇る血統ブリクー■    2020年9月7日(月) 15:27 修正
 ドクター・ブリクーの血統で、近年活躍した愛鳩家で忘れられない人に、レイモンド・コブーがあります。彼の鳩舎へは私は度々訪ねておりますが1981年の訪問のおりに、彼の血統について話を聞きました。コブーのベースをなす血統はデュレーであり、かなり濃厚なものだそうです。コブーがほとんど異血を混じえずにきているのがその要因です。デュレーはブリクーが黄金時代を築いた30年代に分化した鳩舎です。コブーの鳩には胡麻刺が多く生まれますが、それがデュレーの特徴だと語っていました。

 私かコブーの存在を知ったのは1968、9年の頃です。その後、訪問をくりかえし、彼の代表鳩を実際に掴んできました。私か1950年代に観たアンダーソン経由のブリクー系や、ミュニイエなどさまざまな鳩を掴んで得たブリクー系に関する総合的な判断からいえば、コブーの鳩は中型ないし中の小で。また軽く羽毛が豊富なのが特徴です。

 またコブーの性能的な特徴として80年前後から切れ味が際立ってきました(注)。それ以前は、どちらかといえば安定性に優れた鳩舎との印象でした。ちなみに私の鳩舎で導入後に作出し使翔したミュニイエの直系は、悪天候に強く、また晴天下でも好成績を挙げてくれました。今でも忘れることのできないのが、67年の地区ナショナルです。この年の優勝鳩は、近畿としては当時最高の1381メートル(藤田俊博鳩舎・神戸)をマー’クする高分速の展開でした。私は完全に見逃してしまい鳩舎に上がった時には既に入舎した後でした。成績は4027羽中の25位…この鳩はミュニイエとアローの孫でした。

注:80年モントーバンN優勝、同年ブリーブN2位のモントーバン号、81年CB紙ベルギー長距離エースピジョン1位のプティ・カオール等が誕生した。

 コブーは80年前後から突如、切れ味を示しだし、私か理想とする多重上位入賞する鳩を輩出しだします。この現象はブリクー本来の「秀才血統」としての性能が、コブーの交配によって先祖がえりというような血統の蘇生を果たしたのでしょう。コブーという人は異血をほとんど入れず、また交配にしてもそう大きな変化を持たせる人ではないからです。
 ミュニイエ導入から10年後、1975年に私か導入したトーマス・ペータースのエールヴァンクール号(73年75年サンバンサンN優勝)の母はグーデン・グリジエと呼ばれるモザイクの鳩で、ロベール・ルフベールの作出した雌です。この鳩の血統を調べると、デルバールの1936年生まれのボングリの直系であり、このボングリはブリクーから間接的に血の影響を受けていることが判りました。

 モザイク(グリズル)や栗というと「色鳩」と毛嫌いする傾向がベテランに多いようです。私の先輩の細川英次郎さんは勢山系の後継鳩舎です。勢山系に灰が多いことから「鳩は灰」といっておりました。しかし鳩を羽色で選別していては、優秀な性能を始めから排除しているようなものです。栗の鳩の血統はブリクーやシオンに辿りつくはずです。またモザイクの血はウエ″ゲから間接的に影響を受けたブリクーに僅かながら流れています。色鳩が不当に毛嫌いされる中で、色鳩こそ由緒正しい名血だと、私は主張したいのです。

 緊急情報【森田さん解説“特別警報級”台風10号 今後の進路は?】  イレブン  2020年9月5日(土) 2:01
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かつて経験のないほどのスーパー台風が刻一刻と近づいています。イレブンは、計り知れない程の被害に遭うことを覚悟して、今日と明日、最善の対策・準備をするつもりです。

鳩飼いの私たちは、鳩舎のことは、自宅の安全と同様に本当に心配になります。鳩舎自体が吹き飛ぶことも想定した対応も必要かも知れません。

天気予報士で有名な森田正光さんの解説をアップしておきます。おそらく台風が過ぎ去っても、しばらく、停電が続くだろうと考えています。この掲示板も停電となればしばらく更新できなくなります。

皆様、くれぐれも、ご無事でいて下さいね。台風通過後に、お互い元気にこの掲示板でお会いできればと願っています。  イレブン

■森田さん解説“特別警報級”台風10号 今後の進路は?

https://news.yahoo.co.jp/articles/44ae8e35dac3102eda8f098f22304d6a9735f04f

 『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ ミュニエ号編資料A 『銘鳩ミュニエ号 の全て=不滅の銘鳩遂に日本へ=』◇◇◇◇ 【出典:『愛鳩の友』誌、1965年11月号P64より引用)】  イレブン  2020年9月4日(金) 2:50
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ミュニエ号編資料Aは、1965年11月号の『愛鳩の友』誌に掲載された「銘鳩ミュニエ号のすべて」です。

この記事は、我が国にブリクー系の世界的な銘鳩であるミュニエ号が導入されてもっともまとまった内容として紹介された最初の記事です。

この記事には、岩田考七がミュニエ号を掴んだのが2度目のバルセロナレース持ち寄り日に、持ち出し1位時間前のことだったということや、当時のドマレー鳩舎のwシステムや餌の配合率、給仕方法が詳細に記述されており、極めて資料性の高い記事となっています。Wシステムを最初に行ったのがDr.ブリクーです。ドマレー鳩舎は、そのブリクー系の正当系列に属する鳩舎です。ドマレー鳩舎に、そのDr.ブリクーのWシステムの手法が、伝承されている可能性もあるのではないかと考えると、更に興味深い資料として読むことが出来ると思います。

この後、関連資料としては、1973年に3月号から5月号までの3か月間連載された「ミュニエ号の死を悲しむ」も資料として追加する予定です。現在、国立国会図書館に資料を依頼しているところです。一ヶ月ほどかかると思いますが、資料が届き次第掲載する予定です。

 さて、この資料『銘鳩ミュニエ号 の全て=不滅の銘鳩遂に日本へ=』に目を通すと、ミュニエ号をどの程度、当時の日本鳩界が理解していたかということも見えてきます。

ここからわかることは、どうも、ミュニエ号をブリークー系の銘鳩という認識は、持っていなかったようですね。「系統は、父親は純ブリーク系で、母親は純トレムリーだと言っていました。」とありますから、ひょっとしたら、異血配合から誕生したF1の銘鳩という認識だったかもしれませんね。トレムリー鳩舎がブリクー後継を代表する鳩舎だとの認識があれば、ブリクー系のもどし配合によるブリクー系の銘鳩として認識できていたと思いますが、そのことに気付くのは、ずっと後のことです。

「『ファーレ・デマレット』(※ミュニエ号のこと)は私ならばブリクーの全系統の中で最も欲しいと思う鳩です」と語っているPiet de Weerdとの認識の差が、これほどの「不滅の銘鳩」の銘血を今日に残すことが出来なかった問題の本質ではないかとイレブンは感じています。

 ■ 世界最高の記録鳩誕生■    2020年9月4日(金) 2:51 修正
 銘鳩″ミュニエ号″BELG58−2106364シルバー♂は、1958年、ベルギーのアデラン・ドマレー鳩舎で、銘鳩ブロンカート号(BELG57−223334栗胡麻♂、ドマレー氏作出使翔.200粁から500粁まで28回入賞)を父とし、ルージュ・デュ・ノテール号(BELG52−2341542粟胡麻、ドマレー氏作出、トレムリー系)を母として生まれた。

彼の名を世界的なものに高めたのはいったいなんだったのだろうか?
 それは、1963年のバルセロナ・インターナショナル2度目の総合優勝樹立に成功してからのことである。総合優勝したのはいうまでもなく銘鳩″ミュニエ号″である。
 このミュニエ号号は、それまでにも、

1961年 マルセーユ・インターナショナル882粁 3500羽中総合10位。1062年バルセロナ・インターナショナル1051粁 3300羽中総合優勝。

 などの成績を残しているが1羽の鳩が、その規模かちいっても、伝続からみても世界で最も権威あるレースとして知られているこのレースで、2年連続して、総合優勝したということは史上空前の出来事として大いにたたえられるに至ったのである。

 こうして一羽の鳩が成し遂げた大記録はもはやドマレー鳩舎を、いままでのような平凡な鳩舎にはしておかなかった。全く無名の一愛鳩家にすぎなかったアデラン・ドマレー氏は、この再度の総合優勝を境にして、一躍、世界のアデラン・ドマレー氏になったのである。

 ここに、当時(1963年)渡欧していて、しかもバルセロナ・インターナショナルの送り出しの日の、発送1時間ほど前にドマレー鳩舎を訪問していた岩田孝七氏からの、そのときの模様を知るのにちょうどいい資料があるので次に紹介しよう。

 「ファンプリアーナ鳩舎を辞したその足で、わたしは次にドマレー鳩舎に行ってみました。その日は、バルセロナ・インターナショナル(……一部文面不明のため省略:調査中)
しいのには驚きました。
 例の昨年のこのレースの総合優勝鳩をです……。
″インターナシ’ナル優勝鳩をまた発送するから……あと一時間もないから、早く見てくれ″
 と言われ、遠慮なく見せていただくことにしました。
 ですから、昨年の優勝鳩の発送直前の鳩の状態などについてよく観察することができました。状態は非常によかったので、きっと帰るだろうと思っています」
 また、当時の2106367号(ミュニエ号)についての感じを次のように伝えている。
 
 「昨年優勝したというその鳩は、灰栗のりっぱな雄でした。軽い鳩でした。大きくあ りません。長めのからだをもった胸の浅い鳩で、どちらかと言うと綺麗な鳩でした。
 そして、すこしおでこです。
 系統は、父親は純ブリークで、母親は純トレムリーだといっていました。
 このトレムリー鳩舎というのは、昨年か一昨年かのバルセロナ・インターナショナルに一度に8羽記録したことのある鳩舎だそうで、そこの粟鳩の雌を導入して作出したものだそうです。両親も見ましたが、実にいい鳩でした。母鳩はトレムリーの栗胡麻で、父鳩は灰だったと思います」

 ■200万円でベルギ−のデボス氏が購入■    2020年9月4日(金) 2:52 修正
(……一部文面不明のため省略:調査中)をくわえてだまって見ているはずはなかった。
 普通、バルセロナ・レースで総合優勝した鳩は毎年百万円前後でトレードされるのが近年の常識になっていた。ところで、この2年連続して総合優勝したドマレー鳩舎の″ミュニエ号″がどのくらいの値段で、どこの鳩舎にトレードされるかということは、世界の競翔家の注目するところであった。

 日本でも、いくつかの鳩舎が積極的な交渉を進めていた。一番めに交渉をはじめたのはさきに、バルセロナ参加直前にドマレー鳩舎を訪れて″ミュニエ号″自身を直接見て帰国した名古屋の岩田孝七氏であった。

 これにやや遅れて″ギャマン号″を日本に輸入した大阪の大田誠彦氏が交渉を開始し、つづいて東京の2、3の有名鳩舎も購入交渉を開始した。

 が、結局日本の鳩舎は″ミュニイエ号″輸入の実は結ばれずに、ベルギーの財閥であるデボス氏の手に渡ってしまったのである。あるベルギー消息通の某氏の話では、定価推定は約200万円ということである。

 その後、同じベルギーの上院議員が、このデポス氏に買った価格にさらに2000ドル(邦価で約73万円)のプレミャをつけるから譲ってほしいと交渉したそうであるが、これはデポス氏にあっさりけられてしまったという。

 ■すてきれなかった大田誠彦氏の夢■    2020年9月4日(金) 2:53 修正
 大阪の大田誠彦氏といえば、日本はおろか世界の鳩界に銘鳩収集家として知られている御仁である。
 2年連続バルセロナ征覇の偉業を成しとげた″ミュニイエ号″輸入の夢はそう簡単に消えるものではなかった。

 そこで大田氏は、こんどは鉾先を転じてデボス氏攻略に乗り出したのである。
 そして、再三再四交渉した結果ついにデボス氏も大田誠彦氏の執念に負け、大田氏に譲ることを約したのである。こうして夢にまで見た銘鳩″ミュニエ号″を入手することに成功した大田誠彦氏は、入手当時の思い出とともに、その英姿についての批評を次のように伝えて来ている。


「だいぶてこずりましたが、今春の4月5日に実現できました。
 わたしは、過去にわたしが輸入した数々のヨーロッパのチャンピオンと比較してどうだろうか? と、いろいろ、とりとめもない想像をしていましたが、わたしが想像していたとおりの、気品に満ちあふれた、すばらしい鳩でした。
 やや、おでこ気味の頭部から尾翼部にかけての幅広い背線の美しさは、かつての数々のチャンピオンにない、すばらしいものです。
 胸筋、腹部は、よく引き緊まり、長い竜骨は恥骨の中まで通っており、竜骨と恥骨との間隙も、もちろん、ほとんど皆無といった状態です。
 腹部一般の状態は、大幡久弥氏の所有しておられるソーヤック号に大変よく似ています。
 目色は、灰粟という羽色によくマッチした、ダークがかった金目で、大変魅力的です。
ミュニエ号に匹敵する目の持主は、ギャマン号以外におそらくないでしょう。
 ミュニエ号が1961年のマルセーユ・インターナショナル・レース822粁で総合10位、1962年のバルセロナ・インターナショナル・レース1051粁で、参加3300中、ジョージ・ファングリムベルゲン鳩舎のバルセロナU号(この鳩は1962年2位、1964年1位)を押さえて総合優勝、さらに翌1963年、バルセロナ・インターナショナル・レースで3599羽中総合優勝という大記録をあげた最大の要因は、頭脳的なことはもちろんですが、外部的には、そのすばらしく幅広く長い翼にあると私は考えています。
 豊富な羽毛、よく締まった軽い体、気品のある理知的な鋭い目。ミュニエ号を総体的に批評すると、要するに、こういうことだと思います」

(現在、″ミュニエ号″は大田氏のもとを離れ、東京の宮沢和男鳩舎に収容されている)

 さて、ここにベルギー駐在の朝倉晃仁氏から大田誠彦氏にあててドマレー鳩舎の管理方法を伝えてきている資料があるので紹介しておこう。

 ■ドマレー鳩舎の管理方法■    2020年9月4日(金) 2:54 修正
『ドマレー鳩舎では、その年によって多少の違いはあるようですが、普通2月中旬から下旬にかけてその年の、それぞれの配偶鳩を決定し、作出を開始します。そしてその配合でよい仔が作出された場合はその翌年も同一配合を行なう場合もあります。

 一例をあげると、前年、たいへんよい成績であったレース鳩が、雌鳩を変えたためにレース成績がガタ落ちした例もあります。そこでふたたび前年の雌鳩と配合させたら、トタンにモリモリ稼いでくれた……という例もあります。反面、新しい雌鳩を配合させたために、レース鳩が断然光ってきたという例もあります。”悪妻は百年の不作”ということわざがありますが、鳩の心うちはなかなかデリケートのようです。

 さて、第1次作出では2羽の仔鳩を取り育てさせます。
 第2次作出では、卵を10日〜12日間だかせた後、この卵を前年の遅生まれの鳩に引き継がせ、卵と雌鳩を、レース鳩(雄)から完全に分離してしまいます。そして雌鳩はハレムに、雄鳩は自分の巣房に収容し、雄鳩の舎外時は雌鳩のはハレムは雄鳩からは見えないように遮蔽します。

 通常舎外は朝5時半ごろと、夕方6時ごろの2回行ない、40分から1時間程度自由舎外させています。
 Wシステムによってレースに参加する雄鳩、仔鳩作出中の雌、雄鳩、また換羽期間中の飼料は別表Aのとおりであり、朝の舎外から帰舎した後、6時25五分ごろには、これを少量あて与えます。正午ごろ別表Cを少量与えます(レースシーズン中)。そして夕方四時半ごろAを満腹するまで与え、残った餌は引き上げてしまいます。その後、6時ごろから約1時間ぐらい舎外させ、帰舎したとき麻の実を少量与えます。またこの麻の実は換羽期には多少増やします。
 ハレムにいる雌鳩には別表Bを朝少量、夕方じゅうぶんに与えます、もちろん同性愛鳩が出ることはさけなければなりませんから、雌鳩には雄鳩より軽い食餌を与えるのですが、といって、他でよくいうように大麦を50%も60%も与えると雌が弱くなってしまうから、ドマレー鳩忿では、ハレムの雌鳩たちにはほかよりも比較的よい飼料を与えています。
 換羽期が終って冬期にはいるとBに約25キログラムの大麦を加えたものをよく混ぜて朝・夕の2回、同じ要領で与えています。

 食塩を皿に入れて。鳩舎内にっねにおきます。野菜は与えて悪いということはないが、この必要も又ありませんので、年中、特に野菜をやるということはありません。米もよいのですが、当地では良質なものがないので与えていません。換羽期は、菜種を少し増量するとよいといっています。

 鳩舎の清掃は、鳩が舎外に出ている間に朝夕2回行なっています。つねに清潔にして、吟味した飼料を与えることが肝心だとドマレー氏はいっています。

 さて、レースになりますと、1才鳩もレース鳩もWシステムでレーシに参加させます。持寄りの夕方、持寄りの龍に入れる5分から10分前に巣房内の巣皿をおもてにかえします。その後2、3分間レース雄鳩を雌鳩にあわせますが、その後、雄が雌鳩に愛のささやきをかわし、あわやという寸前に雄鳩をつかんで籠に入れます。

 だいたいの鳩舎ではシーズン中は雌はいつさい舎外させていないようですが、ドマレー鳩舎では雄を持寄りに出した後、雄鳩の配偶鳩を1週1回だけ30分〜45分ぐらい舎外させているといいます。レース当日は雄の巣房にその鳩の配偶鳩を入れます。そして雄鳩がレースから帰ったら、レース距離およびその鳩の疲労度を考慮して、30分〜2、3時間を一緒にしておくことは他鳩舎と同じですが、ドマレー鳩舎では、その年決めた雄鳩の配偶鳩にかぎって、待機させるのがよく、代替鳩は結果的によくないということです。
 長距離レースにはだいたい2、3週間休ませたレーサーを参加させますが、雄鳩がレースから帰舎したら配偶鳩と30分から1時間ぐらい一緒に舎外させています。
 なお、通常レースから帰った雄鳩には落ちついたところでじゅうぶん吟味した餌を与え、部屋を暗くして休息させます。

 もちろん帰った直後に与える飲料水にはプドー糖を混ぜます。またレースに参加させる鳩には持寄り一日前にかならず水浴させています。

 ◇配合◇(単位kg)
A:きび100g。小麦30g。アメリカ豆30g。イギリス豆20g。白えんどう25g。えんどう25g。
 からすえんどう5g。サフラワ5g。菜種5g
B:きび30g。小麦25g。えんどう25g。イギリス豆20g。からすえんどう20g。
C:サフラワ号5g。菜種3g。えんどう5g。
D:麻の実              』

 8月最後の日曜日、絶品ところてんを食べに行きました。  イレブン  2020年8月31日(月) 4:59
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テングサを干すところから作った「ところてん」です。昔、子供の頃食べていた記憶が蘇ってくる絶品でした。

 ・  イレブン  2020年8月31日(月) 5:00 修正

 ・  イレブン  2020年8月31日(月) 5:02 修正

 ・  イレブン  2020年8月31日(月) 5:44 修正

 『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ ブリクー系畢生の銘鳩ミュニエ号資料編@ 画像資料『ミュニエ号 ベルギーから日本へ』」◇◇◇◇ 【出典:『愛鳩の友』誌、1965年11月号より引用)】  イレブン  2020年8月28日(金) 4:52
修正
現在の『Piet de Weerd 研究』は、Piet de Weerd さんの回想録のブリクー系編とも言うべきところになっています。そこで、この資料編では、憧れの銘鳩「ミュニエ号」の関する資料を可能な限り掲載する予定です。

それは、何よりもピートさんが、このミュニエ号について「『ファーレ・デマレット』(※ミュニエ号のこと)は私ならばブリクーの全系統の中で最も欲しいと思う鳩です」と述べているからです。

しかも、ミュニエ号の2回目のバルセロナ優勝当日にドマレー鳩舎にいって直接掴んで記録確認したのがピートさんだったということも回想録で明らかになりました。

余談ですが、この2度目のバルセロナに参加する持ち寄りの直前(持ち寄り当日数時間前)、ドマレー鳩舎に立ち寄りこのミュニエ号を掴んだのが日本の岩田考七だったことも考えるとなんだか不思議な繋がりを感じさせます。

ここで、ミュニエ号に関するピートさんの回想部分を全て引用しておきたいと思います。ピートさんがどのようにミュニエ号を鑑定していたのかが分かる貴重な記述です。ピートさんが、回想録の表紙にミュニエ号の画像を選んだ理由が分かるような気がしました。


●「ファーレ・デマレット」(※ミュニエ号のこと)は私ならばブリクーの全系統の中で最も欲しいと思う鳩です。このオス鳩は、大きな「デカラジュ」(羽の間の透き間)のある長い翼を持っています。彼は激しく攻撃的な気性をした並ぶもののないトップレーサーでした。ヤンセンはこのような鳩を持っていませんでした。ヤンセンの鳩はいずれも体型が短く、豊かな筋肉をしていました。

●このオッティニーの「飛行機」は、私にデブリーントの「ズワルテバント」を思い出させます。それは何よりも筋肉によってです。脚環番号は58−21006367で、1962年と1963年にバルセロナNで優勝しました。第1回目の優勝では、このトリは西ヨーロッパ全体で40分の差をつけました。1963年のとき、当時キュルゲム・センターの所長を務めていたファン・タインは、ブレダのバロニーラーンに住むレース主催者に電話して、1時間半も前に1羽の鳩が鳩舎に戻ってきましたが、2羽目はまだ見えないと伝えました。そして、私にその鳩がどれだか言い当てられるかと聞きました。彼は私を迎えるために娘のオルガをアントワープによこしました。当時彼女は新しいパッカードを運転していました。正午を少し過ぎた頃、私たちはオッティニーのル・ドゥ・ブランーリに到着しました。

●アデリン・デマレットは鉄道員でした。彼は家の裏庭にある階段付きの小さい鳩舎の上に立って、心配そうに青い空を見つめていました。その表情は、自分の鳩か打ち立てた世界記録など彼にとってはどうでもよいかのような印象を与えました。「ファーレ・ブリクー」はあまりに力強く、荒々しい飛び方をしたために、両翼の外側の風切羽が上方に湾曲してしまっていたのです。トリは以前は金色が混在した栗色の目をしていましたが、今では淡いチョコレート色ないしクリーム状の白味を帯び、瞳孔の緑は青みがかった褐色をしていました。血色と虹彩の色は、それまで見たこともないほどに、すっかり消え失せていました。

●トリはあれほど厳しく過酷な時間を経た今でも、その卓越したクラスの徴候をみせていました。この肩幅の広い巨大な闘士は、嘴の先を軽くつまんだだけで激しく抵抗しましな彼は非常に短気で、そういったことが全く我慢ならなかったのです。

●この鳩は、ディッケブスに住むダニェル・デフォスに売られました。この男は「太ったキッネ」のニックネームを持っていましたが、それもそのはず体重が280ポンドもあったのです。それから約一年半の後、この鳩は最後に極東に売られました。(※注イレブン:銘鳩ミュニエ号のことです)

●私だったら、このような鳩をどんな相手と掛け合わせたでしょうか。ヤンセン系の鳩で言えば、1951年の「ショーン・リヒト」か、1958年のメス鳩でしょう。このメス鳩というのは、1964年の聖霊降臨祭にヘイスト・オプ・デン・ベルクのユージーン・ミーレマンスから買ったもので、1年後に再びヤン・フロンデラエルスに売りました。

以上[ピート・デヴィート回想録028「伝統継承と進歩」より引用]


この『Piet de Weerd 研究』関連資料: ミュニエ号編では、しばらく時間をかけて、次の資料を掲載する計画です。

@画像資料「ミュニエ号 ベルギーから日本へ」
A「銘鳩ミュニエ号のすべて」
B大田誠彦「PIGEON CULTUREF〜H」

 画像資料『ミュニエ号 ベルギーから日本へ』@    2020年8月28日(金) 5:17 修正

 画像資料『ミュニエ号 ベルギーから日本へ』A    2020年8月28日(金) 5:18 修正

 画像資料『ミュニエ号 ベルギーから日本へ』B    2020年8月28日(金) 5:19 修正

 《系統研究》【OPEL BOOK 2020】008   第1章 オペル系系統調査公開資料の全て ○全文引用資料(8) 『オペル系は永遠に生きている 《その2》』 任秀夫 (出典:『愛鳩の友』1965年1月号)  イレブン  2020年8月24日(月) 3:24
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久しぶりに《系統研究》【OPEL BOOK 2020】に戻ります。現在進めている「第1章 オペル系系統調査公開資料の全て」では、その資料の収集を国立国会図書館とやりとりをしながら進めています。特にこの時期、コロナ禍の影響の関係で、国立国会図書館の対応が、通常より数倍時間が掛かっているそうです。


先日、任秀夫氏の「『オペル系は永遠に生きている』その2」のコピーがやっと送ってきました。この 『オペル系は永遠に生きている』は、当初左図のような計画で執筆が開始されていたようですが、執筆途中に任秀夫氏の急遽の鳩飼育の中止という事態が発生し、当初の連載計画の変更を余儀なくされていたようです。そのあたりの事情について任秀夫氏は最終回の冒頭で、

「前4回にわたって、オペルという人物、そのオペル氏が作り出した″不滅のオペル系″の威力、その驚くべき長距離の記録、そして鳩の死後この系統を受け継いだビール兄弟の活躍などについて筆をすすめてきたが、本誌の前月号で読者の皆さんもご存知のとおり、小生の一身上の都合で飯よりも好きだった鳩の飼育を、一時休まなくてはならないことになり、オペル系の輸入鳩全鳩を含めて、小生の苦心して輸入してきた鳩のすべてを愛鳩の友社を通じて処分しなければならなくなり、この”最終回”を書く筆もにぶり勝ちである。」

と記されていました。「前4回」とあるので、当初の計画ではこの連載は4回で終わる計画だったようですが、最終的には5回の連載となったことが分かります。しかし、どうも2月号の掲載予定だった「3 オペル後継者の残り」、「4 偉大な銘鳩」、「5日本オペル研究会」は、掲載がされていなかったことが、今回の国立国会図書館とのやりとりで明らかになりました。「総索引」をもとに調査し直して再度依頼する予定です。

いずれにせよ、オペル系の研究については、この特別読物「オペル系は永遠に生きている」で明らかにされた情報と『オベル・プック』の2つしか現存していません。

 しかも、その『オペル・ブック』は「オペル系に関する1948年頃までの資料」(『オペル系は永遠に生きている』その1より)なので、オペル系の研究を進めて行く上で、この特別読物「オペル系は永遠に生きている」の連載ての全資料は何としてもそろえたいと思っています。

こうした事情もあり、遅々とした歩みになっていますが、しばらく時間がかかることをご容赦願います。では、早速先日届いた「オペル系は永遠に生きている 《その2》」を全文掲載しますね。

 ◇◇◇◇  □任秀夫  2020年8月24日(月) 4:26 修正
 偉大なアメリカの大競翔家J.L.オペル氏は、1961年のある夏の日にこの世を去った。
 しかし彼が残した″オペル系″は彼の死後もその後継者たちによって受け継がれて競翔界の第一線にある。
 「わたしは死んでもオペル系はまだ死なない」
 と云い残したオペル氏の予言のとおり、彼の系統は不滅のものとして現在に栄えている。

 日本にもこの系統の愛好者は多く、第一番にこの系統を採り入れて成功した名古屋の岩田兄弟鳩舎をはじめ、更に岩田氏からこの血を導入した日本国中の愛好者たちは、この系統がいかに偉大なものであったかを、直接知らされているはずである。

 前回は、オペル氏がどのようにしてこの系統を作りあげたかを述べた。今回は、オペル・ブック著者とオペル系の後継者をご紹介して、さらにこの系統への認識を深めていただくことにしょう。

 ■■■オペルブック著者・ジョンストン氏■■■    2020年8月24日(月) 4:29 修正
 私は残念ながら生前のオぺル氏と直接交友する機会を持つことはできなかった。だが、オペル氏の親友の一人である故A・S・ジョンストン氏とは再三にわたって文通し、また直接の指導をあおぐことができた.

 また、このジョンストン氏は″オペル・ブック”の著者でもあったために特にオペル系についての知識は豊富で、この人との交通によってかなりくわしく”オペル系″を知ることができたのである.

 ”オペル系〃が、オペル氏の死後も正しく伝えられているのは、この故オペル氏の先輩にあたる、A・S・ジョンストン氏が、オペル系の存在のために″オペル・ブック″をこの世に残したからに他ならない.

 私はこの系統をさらに詳細に調査するため、アメリカに留学中の弟(任秋夫氏)をA・ジョンストン鳩舎へさしむけたが、まったく残念なことに、そのわずか2〜3週間前にジョンストン氏は死去されてしまった。

 ………こうとなってしまっては、あとはそれ以前2年間にジョンストン氏と交わした手紙をもλにし、さらに”オペル・ブック”を研究し、また現在の後継者であるG・Gビール氏兄弟の指導をまつ以外に、この系統をきわめる方法はないことが痛感された。

 ジョンストン氏は、私への何回かの手紙の中で大要つぎのように述べている。私はこの手紙の中にジョンストン氏の好意がにじみ出ているのが感じられ、81才で亡くなった彼の冥福を祈るものである。

 ■ジョンストン氏の手紙■    2020年8月24日(月) 4:30 修正
 『私(故A・S・ジョンストン氏)は故J・Lオぺル氏とは51年間の親友であり、オペル氏が死去する直前に2〜3度会うチャンスを得たことは今なお喜びとしています。

 オペル氏は、鳩に関しては何でもかんでも知っている、ベテランの愛鳩家でした、1926年に一度鳩を売る広告を出して、彼の飼育する鳩の数羽を手放したことがありましたが、あとでそのことを深く後悔し、その後どんなに有名になっても鳩を売ることを好まなかったというほどの、いわば変り者でした.

 事実、その後は死去されても鳩を売ることなく、ビール兄弟に引き継がせたのでした。そのほかのオペル氏によって作出使翔されたところの宝石にも似たすばらしい鳩たちは、多くの愛鳩家に贈られました。

 オペル氏は、けっして自分の鳩を自慢することなく、自分の思った鳩を作り出すことに満足していたのです。中でもオペル氏を満足させたのは、無数の長距離レースでの優勝歴の中で、何と言ってもチャータヌーガー・ナショナル・レースに優勝・入賞したときであったでしょう。”オペル・ブック″を出版したのは、すべて私のアイディアでしたが、この本を発行する許可を得るために、オペル氏に何回も何回も会って説得したもので、彼はこのように宜伝めいたことをするのが全く嫌いでした.しかし、一九四九年に″オ.ペルーブック″が刊行される運びになったとき、オペル氏はそれを大変喜んでくれました。私の苦心のかいがあったのです。私には、64頁のこの本は今後決して書き変えたり、書き加えたりしてはならないと私に言い残しました。

 わずか64頁の小冊子ですが私とオペル氏が二人がかりで、昔からのぽう大な記録を振り返りながら編集したもので、大変な努力を必要としました。

 オペル氏は、かつて日本に鳩を送ったことはありません。彼の系統がアメリカの他の鳩舎からは回って行ったかも知れませんが。

 しかし、もしオペル氏が生きており、日本でもオペルの鳩が飛んでいるということを聞けば、私以上に喜んだことでしょう。他の異なった地形の国でテストされることは大変意義の深いことです。

 私は、故オペル氏の後継者であるG・Gビール氏に、日本にオペルの鳩を送るように何回も助言しました。こうして日本に送られたオペルの鳩は、きっと2〜3年後にオペル本来の能力を発揮し、オペルの過去を知る以上に、日本のオペル愛好者に新しい記録と喜びを与えてくれるでしょう。

 ビール兄弟は大変忙しい人たちですが、暇さえあれば「日本オペル研究会」やこの系統の飼育者への良き手助けをしてくれるに違いありません。

 私のような老人の話より若い現役のビール兄弟に今後のアシスタントをお願いすることです。 日本の皆さんへ    A・Sジョンストン 1964年4月』

 これが、故ジョンストン氏からの最後の言葉になろうとは予期もできなかった。

 こうしてオペル氏が一生涯をかけて作りあげたオペル系−ジョンストン氏が世に出したオペル系は、今後日本の愛鳩家の手によって、さらに新記録へ、新記録へと挑戦に挑戦を重ねて保存されて行くことでしょう。ジョンストン氏が紹介してくれたビール兄弟鳩舎をつぎに発表しよう。

 ■■オペル後継者・ビール氏兄弟■■    2020年8月24日(月) 4:32 修正
 このビール兄弟鳩舎の訪問記は、私の弟(任秋夫氏)からの手紙をそのまま発表することにしよう。

「6月10日(昨年)より夏休みに入り、兼ねてより念願のビール兄弟を訪問しようと決心し、まずはロスアンゼルスから問い合わせのための長距離電話を掛けてみた。どんな返事がもらえるものかと心配していたが、案に相違して先方は私の訪問をこころよく承諾してくれ、ワシントンの空港まで迎えに行くと言ってくれた。

 早速6月13日の午前中にワシントンに到着する航空便をさがしたが、丁度13日午前0時50分発のコンチネンタル・エアーライン会社の大型ジェット機を予約することができた。

 同機は午前6時にシカゴで到着、そこで午前8時発のユナイテッド・エアーライン会社の双発機に乗り替えてワシントンに午前11時32分に着陸した。

 ワシントン国際空港には、グレン・ビール氏夫妻と子供のマーク君が出迎えてくれた。同氏とは一年以上もの間、親しく文通をしてきたが、会うのはこれがはじめてで、さすがに嬉しかった。

 氏はもの静かな、きりっとした好紳士で、婦人や子供も大変に友好的で、さっそく車でワシントン市内の名所・旧跡を案内してくれた。国会議事堂、記念塔、ホワイト(ウス、美術館、博物館と見物させてもらっているうちに、私が中学生だった頃に、東京見物をした時のような感動がこみあげ、さすがアメリカの首都だけはあるなと思った。

 約2時間の市内見物のうち、ビール一家の住んでいるワシントンの北20キロのロウレル市に向かつた。

 彼の家は、まだ新築したばかりのすこぶるモダンな中流家庭風の平家のレンガ造りで、まわりは広びろとした芝生におおわれている。

 約5坪ばかりの彼の鳩舎は、家から20メートルほど離れた裏庭の隅にあり、その後方は市の所有する5エーカーばかりの雑木林がある。林の中ほどには小川が流れていて、まことに自然に色どられた理想的な立地条件を有し、鳩も自由にのびのびと芝生の上でたわむれ合っている。

 令兄のグレン・ビール氏と、令弟のラッセル・ビール氏とは隣り合わせに住んでいて、二人の家も鳩舎も、ともに芝生の地続きである。

 グレン・ビール氏は、ワシントン市の海軍局に勤務しており、ラッセル・ビール氏はロウレル市の郵便局の局長をしていて、ともに大変忙しい人たちである。
 
同夜は、弟のラッセル・ビール氏も加わって、ことのほか歓待され、いろいろと鳩の話しに花が咲き、ねむ気を忘れるほどだった。

 以下は、この時のビール兄弟がオペル氏の回顧談として語ってくれたものである.

 ビール兄弟が鳩を飼いはじめたのは、1919年で、彼らの父がそれ以前、十数年にわたってやはり鳩を飼っており、現在のグレン・ビール氏の鳩舎は父親が建てたもので、この兄弟は生粋の愛鳩家ということができよう。

 そんなわけで、1926年までは、父親の名前でレースに参加していた 彼らが、はじめて故オペル氏に会ったのは1928年であったが、オベル氏から最初に鳩をわけて貰ったのは1940年でその後、オベル氏が1961年の8月に死ぬまで、最も親しい友人として共に鳩飼育・レース参加に励んできたのであった。

 当時のオペル氏は、MCCAクラブ (モニュメソタル・シティ・コンコース・アソシェシーションの略)の書記をしており、同クラブの最もすぐれた競翔家であった.

 故オベル氏の鳩に対する情熱とその偉大な業績は、″オペル・ブック″の作者であり、オペル氏の51年間にわたる最愛の友人であり、そしてオペル系の原鳩である″オールド・スレート号″をオベル氏に提供したシド・ジョンストン氏をして彼の偉大な業績をたたえしめたのである.

 故オペル氏は、大変謙虚で誠実な人で、自分の鳩が達成したすばらしい記録のかずかずを決して誇ることなく、また、自分の信頼に足る、ごくわずかな愛鳩家以外には決して鳩を分け与えようとしなかったため、多数の愛鳩家が氏の鳩を求めて得ることができなかった。

 オペル氏は、常に「鳩は私の恋人であり、人生の喜びを与えてくれる唯一のものである」と言い、終生を一度も結婚することなく独身で過ごしており.変人と思われるほどに鳩一すじに生き、自分の鳩の改良、記録更新に一生を棒げた人である.

 したがって、オペル氏には、あとを継ぐべき子供もなく、ビール兄弟を自分の樹立したオペル系の信頼に足る後継者として、自分の死後すべての鳩を引き取ってくれるよう遺言をしたのである。

 そこで、約150羽の中、主に種鳩々舎の鳩はグレン・ビール氏に引き取られ、選手鳩、若鳩々舎の鳩はラッセル・ビール氏の鳩舎に収容された 以来、オペル氏の生前に氏の鳩を幾度も求めて得られなかった多数の愛鳩家が、このことを伝え聞いて、いかようの価格でも良いから是非オペルの鳩を分けてくれ――と、ビール兄弟に懇請にくるが、兄弟ともどもオペル氏の遺言を堅く守つて頑として応じなかったし今後もその積りであると語っている.

 そして一昨年 (1963年)末に日本に送った鳩は.特にシド・ジョンストン氏が、もしオペル氏が生きていれば、自分の鳩が気候、地理条件の異なる他国にあってどのような成果をあげ得るかを必ず試すであろうから、多数はいけないが少数の鳩を日本に送ってはどうかと言われたので特に送ったもので、本当に例外なのだと繰返し言われる。

 日本の多数の同好者の依頼をうけて、再度のオペル鳩購入のために、はるばる訪れて来たのに、これは先に一本釘を剌された型になつてしまい、とうとう同夜はその件を切り出すことができなかった 息子マーク君の一部屋を提供してもらって、ベットに横になるとさすがに疲れが出て、購入の交渉は相当難航しそうだなあと思いながら、グッスリとねむりにおちた。

 翌日の日曜日は、両兄弟の所有する代表的な鳩を、もれなく紹介され、心ゆくまで多くの見事な鳩を観賞することができた。

 両兄弟とも、そのすべての鳩がオペル系であり、MCCAクラブにおいては常にトップークラスに位置し、年平均それぞれ約25羽の鳩を500マイル以上の距離から飛び帰すことに成功している。 これは同クラブ主催のレースやあるいは十数クラブが一緒に行なうコンコース・レースにおいて出場羽数が一人につき5羽が、時として10羽と定められていることを考え合わせると、実に無駄なく参加させた鳩を帰しているということを意味するのである。

 しかも天侯の良し悪しにかかわらず定められた日時において放鳩されるので、全休の帰還率が2割か3割というのも常のことなのであるから、オペル系の帰還率の高さ、悪天候に対する強さは抜群であるといってよかろう。
 途中になったが、来月号ではビール氏に聞いたオペル氏の作出法などから筆を進めてみたいと思っている。     (以下次号)

 【『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ イレブン編「Dr.Bordeauxの配合論」@◇◇◇◇ 基礎鳩A:【オード・ベークマン】6重近親鳩【No.85】の系図考察  イレブン  2020年8月21日(金) 5:33
修正
イレブンは、ここ数日をかけて、1952年11月16日、ブリュッセルにおいて行われたブリクー.Jr主催「ブリクー全鳩処分」となった競売リストにあげられた種鳩40羽、若鳩48羽の全鳩88羽分の「系図」を作成し1冊のファイルにしてみました。

イレブンは、今日から仕事なので丁度、「夏休みの自由研究」となりました。お陰で、いろんな事が見えて来ました。

Dr.Bordeauxの「濃密な近親交配」は、イレブンの想像を超えたものでした。その1例をあげておきます。記号数字は先日アップしておいた「ドクター・アーサー・ブリクー鳩舎の配合例」に基づいています。

基礎鳩A:【オード・ベークマン】6重近親です。

このような濃密な近親交配をDr.Bordeauxは躊躇なく実施しています。「ドクター・アーサー・ブリクー鳩舎の配合例」はPiet de Weerdの近親論の主張のエビデンス(evidence)となっている事が伝わってきました。



 【『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ イレブン編「Dr.Bordeauxの配合論」A◇◇◇Dr.ブリクー全鳩競売リスト種鳩1〜20の系図分析   イレブン  2020年8月22日(土) 4:34 修正
Dr.Bordeauxの配合論を「Dr.ブリクー全鳩競売リスト」の掲載鳩の系図を作成したことで、次の点が明らかになりました。

@Dr.Bordeauxの近親配合の基準は、親子配合と異父兄弟・異母兄弟配合である。

ADr.Bordeauxはこの基準配合を更に複雑に組み合わせた「濃密な近親配合」によって作出している。

BDr.Bordeauxは、この「濃密な近親配合」によって作出した鳩をレースで使い、成績優秀鳩を種鳩として使用している。(無記録種は極僅か)

上記のことがわかりやすいように種鳩1〜20に絞って分類してみました。「※注イレブン:重要参考種鳩」と記入している種鳩の系図も、掲載しておきます。

 【 Dr.ブリクー全鳩競売リスト種鳩1〜20の系図分析】  イレブン  2020年8月22日(土) 4:46 修正
【親子配合】
●2 : 【45−1715631】 B C ♀ A×D
●4:【ショーネ・ゲショルプテ 48−518722♀】A×D

【異父兄弟・異母兄弟配合】
●6:【グロート・ゲショルプテ 48−468973 ♀】K×D
●8【:48−411817 R♀】L×G
●9:【コード・ロゼ 49−461919♂】No.13×No8
●12:【49−461920 R♀】No.3×No.8  (No. 9 の姉妹)
●13 :【グロート・ゲショルプテ 49−361101】Aの直仔×No.2(A×D)
●18:【50−542812 RWFT ♀】No.3×No.8

【(自身×親子配合)×異父兄弟・異母兄弟配合】
●17 : 【クライネ・クラヴァッテ 50−429630♂】No.5×No.6
●19 :【クライネ・ズワルト 50−429649】No.5×No.6

【自身×親子配合】
●5:【ベークマン 49−536279】 A×No.4 ※注イレブン:重要参考種鳩

【直仔×親子配合】
●15 : 【レイト・ブラウエ ♀】H×(Aの娘)
●16:BCWFT ♀ Aの直仔×N0.4 純ベークマン

【親子配合の直仔×親子配合】
●20 :【50−429638 B C ♀】・No11×No2種鳩専用  ※注イレブン:重要参考種鳩

【自身×異父兄弟・異母兄弟配合】
●7:【クライネ・ベークマン 49-461905♂】A×No.6 ※注イレブン:重要参考種鳩 

【異血(同系】×親子配合】
●10 : 【デイッケ・ゲショルプテ 49−361104♀】ゲショルプテ・ダービー×No.4

【異血(同系】×異父兄弟・異母兄弟配合】
●14 : 【49−536299 B ♀】No.1×No.6 

【異母兄弟配合作出鳩の親子配合】
●11 : 【グロート・クラヴァツテ49−461913】No.7(A×No.6)の兄弟 【ディッヶ・ベークマン】×No.6 ※注イレブン:重要参考種鳩


 【重要参考種鳩】系図  イレブン  2020年8月22日(土) 5:01 修正

 ・  イレブン  2020年8月22日(土) 5:05 修正
・・

 【『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ 素野理論「作出のセオリー」からの考察  イレブン  2020年8月22日(土) 5:48 修正
Dr.Bordeauxの配合論を種鳩の系図を作成して見ていくと親子配合と異父・異母兄弟配合が基準となっていることが明確に伝わってきます。

これから、ピートさんの回想録に出てくる銘系の一つひとつを同じ手法を使って研究を進めていく考えです。

そこで、考察の重要な手がかりを教えてくれるのが素野さんの「作出のセオリー」です。いずれ、どっしりと腰を据えてこの『Piet de Weerd 研究』を進めたいと考えています。その際の関連資料の一つとして上記の資料を掲載しておきます。素野理論は、Dr.Bordeauxの手法を理解していく上で、重要な手がかりに成ると考えています。

 【当歳1000Kへの挑戦2020】  イレブン  2020年8月19日(水) 22:08
修正
秋レース参加予定の本年作出選手鳩の眼を撮影しました。

 ・  イレブン  2020年8月19日(水) 22:09 修正

 ・  イレブン  2020年8月19日(水) 22:10 修正

 ・  イレブン  2020年8月19日(水) 22:12 修正

 ・  イレブン  2020年8月19日(水) 22:14 修正

 ・  イレブン  2020年8月19日(水) 22:16 修正

 ・  イレブン  2020年8月19日(水) 22:18 修正
・」

 ・  イレブン  2020年8月19日(水) 22:21 修正

 ジュール・シーザーの両親について  薩摩どん太  2020年8月19日(水) 2:35
修正
こんばんは、イレブン様

久しぶりに掲示板拝見しました。
随分ブリクー特集みたいになりましたね〜
飛ばなきゃ意味がありませんが(笑)

イレブン様のスネーク源鳩も元を辿ればオペル氏が導入したローガン系があまりにも飛ぶので系統を躍起になって調べてDr.アンダーソンが導入したポールシオンのブリクー(Cattrijsse(カトリスもブリクー基礎)ライン×純ブリクーとDuray)が基礎。と記憶しています。
間違ってたらすみません。


ところで、ジュール・ガレス著(ギャレッツと言います)のブリクーの特集の中でジュール・シーザーの両親が不明とありますね。


Jules Cesar(ジュール・シーザー)
B21-477203

代表成績は1位 nat. Bordeaux


父親は、Donkere Beeckman(ドンケレ・ベークマン)
母親は、Petite Rousse  (プティ・ルージュ)5位 nat. Dax

Petit Roux (プティ・ルークス)B20-1169402
Belle Rouge(ベル・ルージュ)
Derby   (ダービー)B24-2615224

共にジュール・シーザーの全兄妹です。
これらの成績は知ってのとおりです。

シーザーの息子はポワリューPoilu B40-3002110(ポワールと言います)

ポワールは、ファンデ・エスプトの“ナポレオン”の息子“ヴィトーグスケ”へと配合されていきます。

私が思うに大戦前のブリクーがモレナールを作出した時から1920〜1930年代にかけてブリクーと【ファンデ・フェルデ】【ファンデ・エスプト】【コーニール・ホーレマンス】【トレムリーとコミンヌ】【カトリス】【シオン】など当時のベルギー代表鳩とシオン鳩が絡み合ってます。

オペルさんの鳩は、これらの系統とまとまった後ですね。

私はギャレッツの史実も正しいと思いますが、ブリクーにとってはウェッゲの鳩をどう配合すればいいかテストしていますので、まだ著書以前の系統を調べないと、飛ぶための優性、劣性の判断ができないと思っています。

何より飛ぶことが第一ですから、イレブンさんも頑張ってください。




 Jules Cesar(ジュール・シーザー)関連情報ありがとうございます!  イレブン  2020年8月19日(水) 16:28 修正
薩摩どん太様、Jules Cesar(ジュール・シーザー)関連情報ありがとうございます。

現在ブリクー系の研究に入っています。Jules Cesar(ジュール・シーザー)の両親もご存じなんですね。さすがですね。

ここ数日、ブリクー鳩の競売リストを元にそれぞれの種鳩の系図作りにはまっています。その系図を調べていくと、イレブンには、ブリクー博士がウエッゲ鳩の再生を目指して鳩を作っていたのではないかと考えています。このことは系図調査が一段落したら整理してまとめる考えです。また、その時いろいろ教えてくださいね。

 【『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ Jules Gallez『ベルギーの系統とその歴史』ジュール・ガレス著(The history of the belgian strains by Jules Gallez)第[章「ドクター・アーサー・ブリクー・ジョリモン」◇◇◇◇ 【出典:『チャンピオン』誌、1977年9月号より引用)】  イレブン  2020年8月17日(月) 15:13
修正
前回に引き続き、Jules Gallez『ベルギーの系統とその歴史』でのブリクー研究資料を掲載します。今回は、前回の続き第[章「ドクター・アーサー・ブリクー・ジョリモン」です。

1947年、突然の死によりブリクー博士が亡くなった後、息子ジョリモンに引き継がれたブリクー系の銘鳩たちは、5年後1952年に全鳩が競売にかけられました。その際の「競売リスト」及び「図表:ドクター・アーサー・ブリクー鳩舎の配合例」と「Dr.ブリクーの一問一答の記事」が今回の主な内容です。特に系統研究の資料としてこの「競売リスト」及び「図表:ドクター・アーサー・ブリクー鳩舎の配合例」は重要かつ貴重な資料です。このことについて、Jules Gallezは、次のように書いています。

●一部の読者にとっては、これらの競売りストや別図を見ることほどつまらないことはないであろう。しかし、ある一部の読者にとってはこれほど興味深く重要な資料はないであろう。後者のような読者は何回も何回もこれらの資料を読み返すことによってブリクーの配合方法を研究することであろう。

Jules Gallezが言っているように、この競売リストをじっくり読んでいくとピートさんが世界最高の系統と太鼓判を押したこのブリクー系の系統形成過程が見えて来ます。Piet de Weerd が指摘しているようにヤンセンが近親交配nお手本としたと考えられるDr.Bricouxの呆れるほどの「濃密な近親交配」の事実が浮かび上がってきます。

イレブンは、この関連資料を書き込みながら幾度も立ち止まってこの種鳩リストを読み返しています。気になる種鳩には、「※注イレブン:重要参考種鳩」と書き込んでいます。これらの種鳩については、後ほど系図を作成して掲示板にアップしたいと考えています。

 ■ まえがき ■  □Jules Gallez  2020年8月17日(月) 15:15 修正
ブリクー系として知られるDr.アーサー・ブリク−によって確立された銘血は、その時代の流れを三期に大別することができる。

 第一期の時代は、ベークマン(Vekemans)、バクレーヌ、ジュール・ヤンセン、ウエーゲ系の流れるポール・シオン系などを基礎系統として確立されている。

 そのフリクー系の血筋は、ネストール・トウレムリー、アーサー・キヤラメン、デュモン・シヤサール等に多く流れていった。特にトウレムリーやキヤラメンは純粋なフリクー系の直系の多くを導入していった。そして、彼らはプリクー系の導入と同時に今まで飼育していた全鳩を処分し、純粋なブリクー系だけを飼育した。

 したがって、第一期の時代のブリクー直系の継承者はトウレムリーとキヤラメンのただ二人だけであった。
 時代系譜は、第一次大戦後(1918)より第二次大戦(1940)までの時代である。

 第二期の時代は、1940年の悲惨な事件より始まる。
 それは、フランス軍がペルギーの鳩が軍事目的のために通信鳩としてドイツ軍の手に陥ちるのを避けるためにおこなったレース鳩の一斉大虐殺であった。

 1940年、激しくなった戦火の中をブリク−は安全な場所へと疎開した。そして敵凋間後、我が衣へもどったブリクーを待っていたのはフランス軍によって殺されてしまった銘鳩の死骸だけであった。

 プリクーの受けたショックは非常に大き<、のちにそのショックガ彼の死を早めた原因かもしれないと人々に語り伝えられていった。

 トウレムリーとキヤラメンは恩師であるプリクーのために鳩舎再雇を手伝った。両鳩舎の代表種鳩を基礎鳩として、プリクーは新たな系統確立のために専念した。

 それらの基礎鳩は、プリクーの第一期の時代の系統をおもな流れとしていることは言うまでもないことである。
 時代系譜は、1940年からブリク−が73オで死去した1947年(?)までである。

 ■■■ 第 三 期 の 時 代 ■■■    2020年8月17日(月) 15:16 修正
第三期の時代は、1947年(?)のブリクーの死後から1952年におこなわれた全鳩処分の競売までの期間である。

 その間のブリクーの後継者は息子のブリクーJr.であった。しかしながら、プリクーJr.は事業が非常に忙しく十分な管理をすることができなかった。
 そのため、ブリクーJr.は大部分をハンドラーに委託して鳩舎維持をしていた。

 どんなにすぐれた血筋の鳩でも、豊富な経験と知識をもつレースマンに管理されたとしても優秀な成績をおさめるとはかぎらないのである。

 したがって、いかに優れた血筋の鳩でも管理するレースマンが知識や経験が不十分な場合には、なおさら成功を望むことはむずかしいのである。

 これが、プリクーJr.に全鳩処分を余議なくさせた事由であろう。
 これより紹介する全鳩処分の競売リストは、ブリクーによってなされた配合を研究する上で非常に参考となるであろう。

 ■ブリクーの全鳩処分■    2020年8月17日(月) 15:29 修正
ブリクーの全鳩処分は、1952年11月16日、プリュツセルにおいておこなわれた。
 ブリクーJr.によって主催されたその競売では、種鳩40羽、若鳩48羽が売りにだされた。
 それら88羽の基礎鳩は先月号で詳しく紹介した、つぎのA〜Lの12羽である。

 【 Dr.ブリクー晩年の基礎鳩】    2020年8月17日(月) 15:31 修正
●A:【オート・ベークマン】
 トゥレムリーのポー優勝鳩のポー・ヘンから作出された。ベークマン系。1951年に死んだ。
●B:【ド・ラング】 ♀
 ネストール・トゥレムリー作
●C:【ズワルト・プリクー】♂
 C×B、このペアーはブリクー鳩舎の基礎。
●D:【オート・ロスト】
 Aの娘
●E:【グレイ・キャラメン】
 父鳩のクライネ・ゲショルプテはキャラメン鳩舎の最高種鳩で、ベルギー・ナショナル21レースのうち20レースを入賞した銘鳩。
●F:【ホワイト・ノーズ34−2239609】BCP♂  ジュール・ヤンセン作
●G:【ロスト・ズワルトスタール】
 コード・グリズル・トゥレムリー×ショーネ
●H:【グリズル・シャトロー】
 A×(A×D)
●|:【レッド・ヘン】
 アス(B×C)×J
●J:【ナイス・レッド】
 (トゥレムリ一系×E)×D
●K:【ゲショルプテ】
 A×グリズル・トゥレムリー
●L:【グロート・ヴォス】
 グリズル・トゥレムリーの孫×E
 また他のプリクー系の代表鳩には、
●【グロート・ロード29−227600】 ブリクー作
 【父】【ド・ポワリュー】:【ジュール・シーザー】の仔
 【母】【ヌーヴエ・ゲショルプテ】:ジュール・シーザー】の姉妹
●【ジュール・シーザー】ジュール・ヤンセン作 残念ながら詳しい系統は不明
●【ド・ポワリュー】
 ゛ジュール・シーザー″の直仔……等々がいた。

     2020年8月17日(月) 15:34 修正
【競売で売られ種鳩40羽のリスト】

 競売で売られ88羽の全リストを紹介することはぼう大なページ数を必要とするので、ここでは種鳩40羽について紹介しよう。

●1:【オート・ローデン40−604318】

翔歴:アングレーム・ダービー83位、同レースN5位、ボルドー73位、リポルヌ4位、ポワティエ84位、アングレームN8位、ラ・ソートレーヌ21位、ボルドー20位、リボルヌ15位
 父鳩は32年生まれの【ズワルト・スタール】
 母鳩は有名な【ジュール・シーザー】の孫娘である【デイッケ・ロスト】
 ・オート・ローデンは14、39、68、69、86の父鳩

●2 : 【45−1715631】 B C ♀

 ・A×D ※注イレブン:重要参考種鳩
 ・ 13、20、22、57、58の母鳩

●3:【オート・ロスト 48−468965♂】

 ・F×G アングレームを主翼を骨折したままで帰還した。
 ・9.12、18、40、51、52、63、64、67の父

●4:【ショーネ・ゲショルプテ 48−518722♀】 ※注イレブン:重要参考種鳩

 ・A×D
 ・5、10、16、53、56、75、88の母鳩

●5:【ベークマン 49−536279】 ※注イレブン:重要参考種鳩

 ・A×No.4 代表的なベークマンのタイプ 第一級の種鳩 
 ・翔歴:51年モンサン・マルサン65位、ドールダン39位.アングレーム56位52年ボ  ルドー50位(ケガをして帰還)、リモージュ35位.25位、20位

●6:【グロート・ゲショルプテ 48−468973 ♀】

 ・K×D
 ・7、11、17、19、25、27の母鳩

●7:【クライネ・ベークマン 49-461905♂】 ※注イレブン:重要参考種鳩

 ・A×No.6  アメリカに売られた
 ・翔歴:50年ノーヨン63位、ポンステ18位
    51年:ノーヨン43位、シャトロー81位
    52年:コンパーニエ43位、トゥリー95位、オルレアン108位.シャトロー43       位、152位、リモージュ49位、ドールダン・シャル}レ85位.コルベイ       ル30位他多数入賞した第一線級のレーサー、種鳩である.
 ・29,30、31、46.47、76、77の父鳩

●8【:48−411817 R♀】

 ・L×G 非常に美しい種鳩
 ・9、12、18、39、54、55の母鳩

●9:【コード・ロゼ 49−461919♂】

 ・No.13×No8
 ・翔歴:50年ポン・ジョリモン43位
     51年:コルベイル45位、オルレアン104位、シャトロー59位
52年:トゥリー49位、オルレアン52位、ブルワ104位、トゥリー198位、コ ルベイル28位、29位
・49、50、78、79の父鳩

●10 : 【デイッケ・ゲショルプテ 49−361104♀】

 ・【ゲショルプテ・ダービー】×No.4
・46、47、76、77の母鳩

●11 : 【グロート・クラヴァツテ49−461913】

 ・No.7(A×No.6)の兄弟 【ディッヶ・ベークマン(アメリカに売られた)】×No.6
 ・翔歴:50年ポン・ジョリモン57位
     51年:ポン・ジョリモン56位、オルレアン131位、リモージュ80位

●12:【49−461920 R♀】

 ・No.3×No.8  (No. 9 の姉妹)
・61、62、73、74の母鳩

●13 :【グロート・ゲショルプテ 49−361101】

・Aの直仔でアングレームで失踪した【グロート・ゲショルプテ】×No.2
 ・翔歴:50年無記録
     51年:シャトロー21位
52年:コンパーニエ18位、ポン・ジョリモン33位、ドルダン49位、オルレ       アン80位
・38、85の父鳩

●14 : 【49−536299 B ♀】

 ・No.1×No.6 
 ・28、32、34、36、70、71の母鳩

●15 : 【レイト・ブラウエ ♀】

  ・H×(Aの娘)
  ・翔歴:50年無記録
      51年: 5月に失踪 9月に帰還
52年:トゥリー120位、ブルワ(三連合合同)29位、シャルルルワ53位

●16:BCWFT ♀

   ・Aの直仔×N0.4 純ベークマン
   ・29、30、31の母鳩

●17 : 【クライネ・クラヴァッテ 50−429630♂】

   ・No.5×No.6
・翔歴:51年無記録
   52年:ノーヨン9位、コンパーニエ53位、ポンジョリモン30位、ドール         ダン56位、シャトロー77位、ドールダン28位、コルベイル9位、11         位、16位
   ・33、.35、41、42、80、81の父鳩

●18:【50−542812 RWFT ♀】

  ・No.3×No.8
・43、82の母鳩

●19 :【クライネ・ズワルト 50−429649】

  ・No.5×No.6
・翔歴:51年無記録
     52年:ノーヨン75位、コンパーニエ79位、ポンサン43位他 後に足を折り        引退
●20 :【50−429631 B C ♀】.  ※注イレブン:重要参考種鳩
 
 ・No11×No2種鳩専用
 ・33、35、41、42、80、81の母鳩

●21 : 【グリズル・ウィツトペン】

 ・父鳩はメキシコに売られた【コード・クライネ・グリズル(Gの直仔)】母鳩はJ
 ・翔歴:51年無記録
    52年:ポンジョリモン10位..オルレアン148位、アングレーム24位、リモージ ュ10位、11位、18位
 ・32、34、36、43、86の父鳩

●22【:50−429640 B C ♀】 ※注イレブン:重要参考種鳩
 
  ・No11×No.2

● 23 : 【ライト・コック)

 ・N0.21の兄弟
 ・翔歴:51年無記録
    52年:ボルドー50位、リモージュ66位

●24 : 【50−7004 B ♀】

 ・ウィンデ・オーゼン兄弟から逆導入 純ブリクー
 ・59、60、87の母鳩

●25:BC♂ ※注イレブン:重要参考種鳩
 
 ・No.17の兄弟, No.5×No.6
 ・N0.24とペアーになり59、60、87の父鳩

●26:R♀

 ・父鳩は1951年最高の種鳩でNa9の兄弟、母鳩はJの娘
 ・40、49、50、78、79の母鳩

●27 : 【グロート・リヒテ・ゲショルプテ 51−410979♂】

  ・No.5×N0.6 Na17の兄弟
  ・65、66の父鳩

●28:【50−429634 B C ♀】

 ・No.9×No.14
 ・44、45、83、84の母鳩

●29 【: ショーネ・ズワルト・ウィツトペン♂】
 
 ・No.7×No.16 No.a30、31と兄弟
 ・75.88の父鳩

● 30:BC♀

 ・No7×No.16
・80の母鳩

●31:【51−410977 BLKWFT♂】

 ・No7×No.16
 ・72の父鳩

●32 : 【グリズル・ヘン】

 ・No21×N0.14、 N0.34、36の兄弟 
 ・72の母鳩

●33 : 【51−505066 B C ♀】 純ベークマン ※注イレブン:重要参考種鳩

 ・N0.17×No.20
・57、58の母鳩

●34 :【 ディツケ・ブラウエ】

 ・No21×N0.14
 ・68、69、86の母鳩

●35:BC♂ 純ベークマン

 ・N0.17×No.20
 ・70、71の父鳩

●36 :【クライネ・プラウエ 51−505342♀】

 ・No21×N0.14
 ・51、52、63、64、67の母鳩

●37 : 【51−505071 B C ♂】
 
 ・No.11×B♀(失踪)

●38 :【 ズワルト 51−505068 ♀】

 ・No.13×【ジョルジュ・ヴァーイェンベグル】
 ・65、66の母鳩

●39 : 【クライネ・ロード 51−416306♂】
 
・No.1×N.8
・61、62、73、74の父鳩

●40 : 51−410971 R ♂
 
・No.3×No.26
・48、54、55の父鳩

 以下48羽の若鳩(別図参照)

 一部の読者にとっては、これらの競売りストや別図を見ることほどつまらないことはないであろう。

 しかし、ある一部の読者にとってはこれほど興味深く重要な資料はないであろう。後者のような読者は何回も何回もこれらの資料を読み返すことによってブリクーの配合方法を研究することであろう。

 以上の資料を紹介したことには、つぎのような目的も含まれている。

(1)1940年以降、ブリクー系はプリクー自身によって再度確立されたが。ブリクーJr.により維持され、その後全ベルギーはもとよりヨーロッパ各地に流れた系統を明確にするためである。

(2)プリクーの代表基礎鳩の系統が。1940年以前のものと同一系統であることが実証できる。
 また、フランス軍に殺されてしまった戦前のブリクー系の長距雌鳩の代表として有名なジュール・シ−ザーの名前かあげられる。

(3)1940年以前、また1944年以降、ブリクーは基礎系統を異血交配させていた。ベークマン、バクレーヌはグルネー、ハンセーヌ系などと同様に銘血であった。ブリクーはトゥレムリー、キャラメンなどの系統を異血として導入していた。
 テオ・ファンデフェルデと同じオーデンベルグ市に住んでいたトゥレムリーは多くのフアンデフェルデ系を導入していた。また、トゥレムリーはブリクー系を導入するために全鳩を処分してしまう以前は、フアンデフェルデ系とベークマン系の異血交配によつて成功していた。

(4)ブリクーが鳩を少しでも速く飛ばすために興奮剤を与えていたという噂は事実無根であろう。
 彼が、そのような噂をされるほど成功をおさめたのは当時のうちでもWシステムの使翔者として第一任者であったためであろう。また、ブリクーが銘鳩ばかりを所有していたと断言するのは、いささか奇異に感じるので、誰もがおどろくほどWシステムのレースマンとして熟達していたと解釈するのがいちばん自然であろう。

(5)プリクーが基礎系統と交配させる場合、他の異血を配合させているということが明白である。

(続く)

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スネークパパの部屋