HOME検索
ようこそ、「スネークパパの掲示板」へ。お気軽に投稿いただければうれしいです。(『スネークパパの部屋』管理者イレブン)

■■イレブンへの連絡先■■ メール:hal9000jp@ace.ocn.ne.jp ■■■■
名前
題名

内容
画像1
画像2
画像3
画像4
修正キー (英数8文字以内)

 由緒正しいオペル系鳩ですね(岩田基礎鳩)  深澤昌樹  2020年7月23日(木) 13:55
修正
並河靖鳩舎の基礎鳩55−3770 B B♀ 岩田誠三 作
3/4 オペル系鳩 669 BC♂, 5910RC♂, 612BC♀が祖父母の系統図を
拝見して納得です。 由緒正しいオペル系鳩ですね!
その由緒正しいオペル系鳩の影響は、、、
ここ静岡東地区では、小林勇鳩舎を経由して数々の稚内帰還鳩を輩出
また、並河靖鳩舎から導入された静岡富士宮の故 岩田義教鳩舎がらも
静岡東地区最多の稚内帰還鳩を輩出されています。
オペルよ 偉大なり!!!と確信をもてました。

以前のイレブンに掲載されていた 稚内から九州へ帰還した
マリア号 RC ♀
オペル系鳩とシオン系鳩の相性が良い理由に
シオンの基礎鳩 23羽の鳩をシャルル ウエッジから導入
その内の灰栗の♀の子孫が活躍、、、一方 オペルの基礎鳩である
ローガン系もシャルル ウエッジのVENDOMを導入して主力鳩のオールド86や
ローマ I の血筋とクロスしている関係上 遠縁にあたるので血統的特性がでて相性が良いのでは、、、とです。

小生は、現行 オペル系鳩(地元の飛び筋とクロス)で飛び始めているので
いずれ縁があれば灰栗ダークアイのシオン鳩を入手できればなぁと考えております。

ところで、岩田孝七と小林勇が幼馴染の関係って 小林勇が名古屋出身なんでしょうかね?
コロナ禍で地元古参の鳩舎へ訪問して話を聞けていませんが
いずれ何らかの情報を聞いてみたいと考えております。

 「WeggeにはWeggeを」の原則から見ていくとオペル系をより深く理解できるように思っています。  イレブン   2020年7月24日(金) 2:46 修正
この「OPEL BOOK 2020」では第4章でしっかり整理したいと考えていますが、イレブンは「Weggeにはweggeを」の原則から見ていくとオペル系をより深く理解できるように思っています。

昨日、部屋の資料を一日がかりで整理して、この「OPEL BOOK 2020」にさらに追加できる資料が出てきました。また、数年前、国会図書館より取り寄せていた「愛鳩の友」の「総索引集」がやっと見つかりましたので、かなりの資料を引用できそうです。

小林勇と岩田孝七の人間関係については、かなり以前の記憶なので、「幼なじみ」だったのか、「同級生」「学友」と言った関係だったのか、ちょっとハッキリしませんが地元の方だったらきっとご存じのことだと思います。地元と情報が分かりましたら教えて下さいね。

ちなみに、小林勇鳩舎や板倉尚義鳩舎の資料も手に入りそうです。「OPEL BOOK 2020」に資料を追加します。

 《系統研究》【OPEL BOOK 2020】006   第1章 オペル系系統調査公開資料の全て ○全文引用資料(6) 『 並河ラインA系におけるオペル系の役割』   イレブン  2020年7月20日(月) 21:07
修正
 この『 並河ラインA系におけるオペル系の役割』は、日本で初めて岩田孝七がアカルディを通して導入したJ.L.Opel作のオペル鳩に、シオン系、ノーマン・サウスウエル系、アイザクソン系などの名系を掛け合わせて出来た並河ラインA系におけるオペル系を役割を見事にクローズアップした論文です。

 この資料の価値は、なによりも初期岩田系の基礎となったオペル鳩の系源を、『オペル・ブック』を使って徹底追跡している点です。これにより、岩田オペルがオペル系全体の中でどのような位置にいる系統だったのかが、初めて明らかになったのです。1971年のこの時まで、このことは、公表されていませんでした。
 
 日本に、『オペル・ブック』の原書『THE OPEL BIRDS』が手に入った1964年頃には、岩田兄弟、並河靖等は、この追跡調査をしていたものとイレブンは考えています。

 並河ラインA系の基礎鳩となった55−3770B♀は、669、619、5910の3羽のオペル鳩の孫です。この論文に掲載されている《系統2表》では、この3羽の系統追跡を『オペル・ブック』を使って、徹底的に調べ上げて一枚の表にしています。

これこそが、超長距離時代に雲霞の如く銘鳩を輩出した7807、335310,335311といった3羽の並河ラインA系の原鳩の母55−3770のオペル鳩としての全貌が明らかにされた貴重な資料となっています。

 この資料をじっくり読み取っていくことで、その銘血の秘密を様々読みとることが出来ます。

(※興味がある方は、この《系統2表》を2枚に分けた画像をアップしていますので、ご自身のPCに一度保存してから画像を拡大されると読みやすいと思います。画像データの原本が必要な方はメールでご連絡頂ければメールに添付して送付いたしますので遠慮無くご連絡ください)

 更にこの論文の分析によって、並河靖が、並河ラインA系を築き上げるために、系統としての相性の問題に如何に心を砕いていたかと言うこともしっかり読み取る事が出来ます。超長距離系が姿を消しつつある今、私たちが学ぶべき点は多いと考えます。

 イレブンは、この『 並河ラインA系におけるオペル系の役割』に、系統研究の資料としての第1級に価値を感じています。

  『 並河ラインA系におけるオペル系の役割』 (『愛鳩の友』誌71年4月号P62〜P68)    2020年7月20日(月) 21:09 修正
 先月号では、並河鳩舎の1300粁鳩68HK812の祖父″CH並河150号″の系統を追うだけで終ってしまった。

 今月は父方の祖母である62−94852の系統を追ってみよう。ここで〈系統1表〉を見ていただきたい。父方の祖父にも祖母にも、55-3770号が出てくる。

 ということは、69年に稚内GN1300粁を飛んだ66KH5141号は3770号の直子×孫という近親配合になる。それにV・ロビンソン×ハフナー系を配合したの今年の1300粁鳩で、いずれも長距銘系といえる。特に3770号はオペル系で、並河ラインA系の基礎鳩であり、多くの銘鳩を作出している。今月は特に、3770号を中心としてオペル系の解説をしてみたい。

 この原稿をまとめるにあたり、オペル研究会編の「オペル・ブック」に大変お世話になった。お礼申しあげます。

 ■■50年間飛ばし続けたオペル系■■    2020年7月20日(月) 21:12 修正

 □□    2020年7月20日(月) 21:20 修正
並河ラインA系には3羽の原鳩がいることは前にふれた。原鳩@58−7807BP♂、原鳩A56−335310B♂、原鳩B56−335311B♀である。この両親が55−5525BP♂(先月号参照)と55−3770B♀である。
 並河鳩舎において3770号の果した役割は大きい。では3770号とは、いかなる鳩であろうか。

 3770号は、名古屋の岩田誠三氏の作出鳩で、ヒナのときに並河鳩舎へ譲られたのである。この鳩は、並河鳩舎で馴致し、使翔したが、56年に佐渡両津400粁レースで近畿総合2位(京都地区1位)、58年相崎300粁1位、深浦700粁農林大臣杯近畿総合3位(京都地区1位)という成績をおさめたのち種鳩としてストックされた。

 □□    2020年7月20日(月) 21:22 修正
 両親はともに、岩田誠三氏の作出であり父親は54−47766RCで、55牟400粁3位、56年奈良尾800粁で初の当日帰還、おしくも2位、57年再び奈良尾800粁に挑戦して西日本地区総合優勝をとげている。

 母親は、純オペル系の種鳩として岩田鳩舎で作出された54-191281Sである。
 3770号の系統は《系統2表》を見ていただきたいが、父親の47766号の両親は、オペル作のMCCA50−669BCとバイツマン作の純シオンAU50KY50684RC♀(この系統は《系統3表》参照)であり、母方が純オペルなので、3770は、3/4オペル系、1/4シオン系である。このシオン系については後述する。

 オペル系といえば、アメリカの首都ワシントン市に隣接するメリーランド州ボルチモア市在住の故J・ルイス・オペル氏が、今世紀初頭から確立してきた系統であることは、すでに皆さんもご存知であろう。

 故オペル氏は、約50年にわたって鳩を飛ばしつづけ、自鳩舎で500哩(800粁)以上を記録した回数が2500回以上という偉業をなしとげている。

 50年以上にわたってコンスタントに飛びつづけ、今日でも世界各国で好成績をあげているオペル系を簡単ながら解説してみよう`

 詳細は『オペル・ブック』に記載されているが、オペル鳩舎の基礎となる鳩は、イギリスの長距離鳩舎として著明なJ・W・ローガン氏のものが多く、それにアメリカ在来といわれているトレントン系などが加えられている。このローガン系というのは1870年代からはじまり、イギリス特有の悪天候の中で長距離を飛ぶようにきびしく淘汰されてきた系統で、今日のイギリスの鳩舎の多くで基礎的な存在として活躍している。後でふれるが、並河鳩舎でも導入し成績をあげているノーマン・サウスウェル系もローガン系を基礎としている。

 このように悪天候の中で淘汰されてきただけに、オペル系は悪天候に強い。これがオペル系の第一の特長といえよう。

 またオペル氏といえば「近親交配」の代表的存在、と多くの人は考えている。事実、オペル氏の交配を見ると近親が多いが、オペル氏は原則として、親子配合、兄弟配合を避けている。普通に行なっているのは、直子と孫、孫と孫の交配である。

 いわゆるオペル系として確立するためにオペル氏は、種鳩〔R〕AからZまで(HとVは2羽)の28羽を中心にして、その組合せから出てきた記録鳩〔P〕121羽を含めて、数多くの組合せを作っている。また近親交配を重ねながらも、オペル氏は異血導入も巧みに行なっている。

 「系統2表」を見ていただきたいが〔RA〕とか〔RB〕と書いてあるのは種鳩で〔P2〕とか〔P10〕と書いてあるのは記録鳩の記号である。この表を見ているとすぐ気がつかれると思うが、ほとんどの鳩が500哩(800粁)以上を飛んでいることである。

 オペル系の鳩の羽色は、灰、灰胡麻、粟胡麻、そして時にシルバーがいる。灰胡麻の鳩には主翼に一枚か二枚の白の刺毛か入るという。

 並河鳩舎において″並河150号″とか5141号に刺しが出ているのは、アイザクソン系の利毛とともに、オベル系の持つ特色が強く出ているということであろうか。

 目色は柿目、赤黄色、ルビーのような赤目、それに銀目が多い。いずれも深みをもっている、という。

 悪天候に強いローガン系を基礎にし、それにアメリカ長距離系として著名なトレントン系をヒラー鳩舎や親友のジョンストン氏から導入し、さらに、バスチン、ハベニス系を入れ、近親交配の弊害を防ぐとともに改良に改良を重ねてきただけに、オペルはどの系統と交配してもタイプがくずれないし、予想どおりの成果をあげてくれる。ただ惜しむらくは、スピードがないということで、好天気のレースになるとトップをとれない可能性が多い。この欠点を克服することが、オペル愛好者の課題といえそうである。

 岩田誠三氏が、純オペル系の種鳩として3770号の母親を作出し、また父親の方はハイツマンシオン系の50648を配したのも、このような考えがあったからではないだろうか。

 いずれにせよ、3770号は、並河鳩舎において見事に開花し、オペル系のすぐれた能力をフルに後世代に伝えているといえよう。

 【3770号追跡系図:2分割画像】  イレブン  2020年7月20日(月) 21:30 修正
□□

 ■■名をあげたシオン系47766号■■    2020年7月20日(月) 21:35 修正
 3770号は3/4オベルと1/4シオン系だが、父方の祖母がハイツマン氏作のシオン系である。

 シオン系というのは、フランスのナンバーワン鳩舎である故ポール・シオン氏と令息のロベール・シオン氏が二代にわたって築きあげた銘鳩で、ヨーロッパではもちろんイギリス、アメリカにも広く愛好家がおりシオン信者は増える一方である。

 戦前、ロベール・シオン鳩舎から直接輸入することのできなかった日本鳩界は、昭和8年、アメリカのハイツマン鳩舎から、関口龍雄氏、岩田孝七氏、並河靖氏が7羽輸入したのがはじまりである。

 世界的にも、シオン系の鳩舎として有名なのは、スコットランドのドクター・アンダーソン鳩舎、アメリカのバイツマン鳩舎などがある。

 戦後も多くのシオン系が輸入されて、華々しい成果をあげたものとして記憶にとどめられているのは、昭和32年、名古屋の岩田誠三鳩舎において800粁農林大臣杯優勝鳩となった54-47766号である。

 この鳩は3770号の父鳩で、47766号の母鳩がハイツマン作のシオンAU50KY50648RC(系統3表)で、岩田鳩舎においてオベル氏のMCCA50-669号と交配された子である。

 50648号の父親は、ドクター・アンダーソン氏作のSURP46W25RCで、″アンバー・ピーク号″と呼ばれる鳩で、ポール・シオン氏作とロベール・シオン作の鳩の直系である。母方はバイツマン鳩舎で戦前から飼育されていたシオンに、フランスから輸入したシオン系を配合してある。

 シオン系がなぜ多くの愛鳩家にもてはやされるのか?
 戦前からシオン系を使ってきた並河氏の言によると「距離の長短を問わず、非常にスピードの出る」ことと「不思議と思えるほど利口で」「逆風に対して強い」ことではないかという。

 鳩飼育の中心がレースである以上、常に優勝、または上位入賞することが飼鳩家の最終の希望である。いかに、形がよく確実に帰ってくるといっても、スピードがなくいつもどんじりで帰っているのでは面白くないであろう。

 そこでシオン系の持つスピード性という特長が多くの競翔家に好まれるゆえんであろう。しかし欠点がないわけではない。それは、悪天候には脆さがでてくる、という点である。

 並河氏自身の経験によると「天気がよければシオンが勝ち、天気が悪ければ在来系が勝つ」ことがたびたびあったそうである。

 この克服は、悪天候に強い系統との交配によって可能であろうし、また多くのレースマンはそうしているそうである。

 シオン系の特長を少しあげてみよう。

 休型は大型で美しいタイプ。骨格が頑強で竜骨が力強い。目は、シオン・アイ、つまりダーク・シオン・アイと呼ばれているものが多い。どちらかというと晩熟型。

 このような性質をもっているだけに、また日本の気候風土への慣れという面から見ても、岩田誠三氏がオぺル系の鳩と交配して優秀な鳩を作出したことは、なるほどと納得がいく。

 ・    2020年7月20日(月) 21:38 修正
 それでは最後に、3770号の配偶鳩として選ばれた61-46233BC♂の系統をみてみよう(系統4表)。

 この鳩自体は300粁レースで6位になったあと、レース中に負傷して種鳩にストックされたが、この弟鳩が61-46312BCW(並河312号)で、63年に竜飛Nで優勝している。

 父鳩の58-128436Bは60年の余市N1000粁で総合7位(近畿1位)という成績をあげた。この鳩はブリクー×バンブロアンにアイザクソン×オペル系にノーマン・サウスウェル系を交配したものである。

 系統図をみていただくとわかるように、46233の父方の曾祖母56-335311号は、前述の58-7807とならんで55-5525×55-3770の直子であり、並河ラインA系の原鳩Bで、深浦700粁3位である。同腹鳩の56-335310B♂も、ラインA系原鳩Aである。

 だから系統をたどると、68KH8126号の父方の系統中、55-3770号の占める割合は非常に大きい。

 127436号の母方はイギリスのノーマン・サウスウェル鳩舎の作出鳩である。
 この鳩舎は、先にふれたように、ローガン系を基礎にして、長距離レースでいつも上位入賞鳩を多数出している。

 NURP56RA4113とNURP55RA1305について詳しい資料がないのでよくわからないが、おそらくイギリス鳩界の銘系が入っているのは間違いないであろ
う。

 46233号の母方の系統まで及ぶつもりであったが誌面がない。ただ母方のNURP57RA605号は、V・ロブンソン鳩舎の作出鳩で、68KH8126号の母方の系統と重なりあってくるので次号に詳しくのべたい。

 《56−335310》  イレブン  2020年7月20日(月) 21:42 修正

 オペル系特集 ありがたいです!  深澤 昌樹  2020年7月19日(日) 11:53
修正
オペル系の配合方法 主に 直子x孫、 孫x孫、、、血統書から見て取れる
参考になりました。
以前に記述されていた「獲得遺伝子」もしオペル氏が生きておられたら、
このことに関してインタビューしたいものです。
オペル、、、名前からしてドイツ系アメリカ人でしょうか!
何のお仕事されていたんでしょうね!
オペルの鳩舎の全貌の写真や鳩舎の内部の写真 その他オペル氏自身の写真があれば是非拝見したいものです。

   イレブン  2020年7月20日(月) 5:47 修正
J.L.Opelに関する情報は、1964年に公開された任秀夫氏の『オペル系は永遠に生きている』とその後に発刊された『オペル・ブック』が全てだとイレブンは考えています。その『オペル・ブック』にも、「オペルの鳩舎の全貌の写真や鳩舎の内部の写真 その他オペル氏自身の写真」は、これまで公開されている以上の画像は、残念なことに掲載されていません。

これまで、J.L.Opel鳩舎の画像を見たいという思いを持ったオペル系ファンは、きっと数多くおられたことと思いますが、それを目にした日本人は誰もいないようです。J.L.Opel鳩舎については、『オペル系は永遠に生きている』に記された以下の文章から想像するしかありません。

「 オベル鳩舎は、2エーカー(約2500坪)の土地の南側に造られている納屋の2階の片隅に建てられていた。
 鳩舎の前面は障碍物がなく見晴らしがよくきくように、すべての樹木を切り払ってあった。

 鳩舎の内部は3つの部分に仕切られ、そのどの部分の鳩舎にも沢山の鳩が収客され、鳩舎の中には水道が設備されて、自由に水浴や飲水ができた。
窓は南側に3つと東側に1つあったが、直接鳩に風が当らないように工夫されていた。

 床には白い砂がカーペットのようにまかれてあり、毎週一回その砂をこして糞が取りのぞかれるようにされていた。この鳩舎は、鳩にとって正に天国であったということができよう。」

ビール兄弟がJ.L.Opel鳩舎の画像を持っていてもおかしくないと思うのですが、そうしたことをJ.L.Opelは嫌っていたのかも知れませんね。

 J.L.Opelが獲得遺伝子についてどのように認識していたかと言うことについてもキチンとした記録は残っていません。しかし、このことは、J.L.Opelの系統理論の中核だったんではないかと推測しています。『OPEL BOOK 2020』の第4章で、イレブンの見解として整理しておくつもりです。

次の資料掲載は「並河ラインA系におけるオペル系の役割 」です。「オペル・ブック」による系統追跡調査が貴重な資料です。

 やっと梅雨が明けるそうです。今日は、蕎麦を食べに行きました。  イレブン  2020年7月18日(土) 14:20
修正
長い長い梅雨でした。1年間で一番管理に気を遣います。もうすぐこの梅雨も明けるとのことです。イレブン家では、梅雨が明けると最初の休みに蕎麦を食べに行くことにしてます。車で1時間15分ぐらいのところある蕎麦屋さんです。蕎麦好きの妻のお気に入りのお店です。梅雨の間、じっと温和しくしていたんで、夏の日差しの下で久しぶりのドライブとなりました。ここの蕎麦は絶品です。

□御蕎麦 ちきた https://www.tabirai.net/sightseeing/column/0009158.aspx

 ・  イレブン  2020年7月18日(土) 14:23 修正

 選手鳩たちです。  イレブン  2020年7月18日(土) 14:29 修正
住宅街なので、よその屋根に止まらないようしつけが必要です。よそに止まるのを見つける度に旗で追うようにしつけてきたので、今は、鳩舎の上か自宅の上にしか、止まらないようになりました。そのかわり、自宅、及び、自鳩舎では決して追いません。

今日は、朝、水浴をさせたので鳩たちは日向ぼっこしています。

来週から近場の訓練を始める予定です。

  ■■『Piet de Weerd 研究』009■■  [ピート・デヴィート回想録009「栗色との交配」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1996年8月号 )  イレブン  2020年7月18日(土) 2:11
修正
この『Piet de Weerd 研究』009から、いよいよ、Piet de Weerd の「系統理論」に当たる内容に入っていきます。

 Piet de Weerd は、この「回想録」の連載を行う上で、この連載の4分の1ほど使って、系統理論における「異血交配と近親交配」について独自の見解を展開します。ヤンセン系を始めとする、世界の銘系の成り立ちを通してその理論を具体的に述べています。イレブンは、これこそが、Piet de Weerd をして、世界中の愛鳩家がその存在を認めていた最大の理由ではないかと思っています。

 Piet de Weerd は、おそらく、これから回想録で述べていくことを正しく理解してもらうために、冒頭から自分の系統理論を詳しく書き綴ったのだろうとイレブンは考えています。

 幾度も述べていることですが、愛鳩の友社が発刊した『銘血・銘鳩ピート・デヴェールトの回想録』では、この部分がすっぽりと省かれています。イレブンからすると、腹立たしさの域を超えて呆れるてしまうほどの編集方針です。理解できません。

 同書に於いてほぼ大半が省かれているこの『Piet de Weerd 研究009』から『Piet deWeerd 研究025』までの連載内容に目を通されたら、多くの読者の方がきっと同じ思いにたたれることでしょう。

 これからの連載では、毎回、ピートさんの理論をじっくりと咀嚼しながら味わっていくことになると思います。しばらくの間は、毎回、1〜2回分の回想録を掲示板にアップしていきたいと思います。では、早速始めていきますね。

 ■ケンペン原野への郷愁■(『Piet de Weerd 研究』009の続き)    2020年7月18日(土) 2:56 修正
 スレートの羽色は既に1900年以前から系統に入っていました。1928年にはヨゼフ・ショータースは父の鳩をヘレンタルスに住むノールデルウェイク出身の農民デ・ケーラエルの鳩と掛け合わせました。早くも2年後にはそれが大当たりだったことがわかりました。先に書いた通り、”ボルドー・デューヴィン“の由来はわかっています。店先の鳥力ゴに入っていたオスから生まれたのです。その命がわずか数フランで救われたのは全くの偶然でした。そこには未知のファクターが働いたのです。

 ビール醸造者はとても鋭い選鳩眼を持っていましたが、ある閃きからこの鳩を買い、彼の最良のメス鳩と交配させたのでした。1927年、このカップルから3羽のヒナが生まれクウィーブランからボルドーまでのレースに出場しました。”アープ“はボルドー・デューヴィンの直子ではなく、この三姉妹の1羽とデ・ケーラエルの老鳩、”ドンケレ”の間に生まれたのです。ショーダースの選んだ二個の卵の一つから、アープが孵化したのでした。ショーダースは最初、不細工なオス鳩だと思いましたが、後に美しいトリに成長しました。

 フォンス・ヤンセンはジェフ・ショータースから3・4羽の鳩を贈られました。そのうちの2羽を手に入れたアーレンドンクのドリークスケ・ヤンセンは本当にラッキーでした。そのことを彼自身が一番よく判っていたのですけれど。1羽は、ショーダースが16歳まで育てた”アウデ・リヒト”の息子でした。13歳の年には、2位に大差をつけて優勝しています。もう一羽は、”アープ”の息子でした。

 話をジョゼフ・デ・ケッペルに戻しましょう。彼は、ショーダースやヤンセンと共に長距離レースに参加していました。1935年、彼はメルクスプラスの収税吏フォンスから1羽の鳩を買いました。それは、”アウデ・ローステルト“の息子でした。戦後になって、ショーダースおよびルネーマエスと掛け合わせ系統内に採り入れました。

 デ・ケッペルについては幾つかのエピソードがあります。オークションで彼の鳩をルネ・マエスが14000ギルダで競り落とし、自鳩舎の基礎鳩に据えました。そしてこのオス鳩は長距離でクラブの脅威となったブルーのメス鳩”02“の父親になったのです。私はこのメス鳩を、ベルギーの「ナショナル・フライング・クラブ」の品評会で審査したことがあります。(ゲオルゲス・グーセンスは、私がこの鳩を以前、見たことがあると思ったようですが、それは誤りです)

 デ・ケッペルたちは昔ながらのウィドウフド・システムを踏襲していました。父デ・ケッペルは毎朝の舎外のたびにピストルを撃ちました。早朝から響いてくる騒音で眠れないと、近所の人が駐在所に訴えました。火気の使用を禁止された彼は、今度はオオカミを追い払ったりライオンを調教するのに用いる革製の鞭を利用することにします。が、オスの一群は簡単には鳩舎に入ることができませんでした。というのも、入口は切妻屋根の中に入り込んでおり、上には針金がめぐらしてあったからです。

 デ・ケッぺルは鳩の血を浄化するために、ツナノキの花から作ったお茶とカールスバート塩とを用いました。塩のほうは大変効果があると思われますが、お茶の効果はいかがなものだったでしょう。

 ■■ 「血統とは近親交配を許容できるものである」  ピート・デウェールト■■    2020年7月18日(土) 3:01 修正
 近親交配による血統確立について言及する際に、ヤンセンのことを避けて通ることは決してできません。

 既にお知らせした通り、本書ではヤンセンの血統をあの偉大な時代の他の優れた血統と比較するのみでなく、過去及び現在の血統を例にとり詳しく紹介していきます。私の古くからの友人に「ドーダイフ」誌の編集者ヤンーアールスがおります。彼の記事に「交配と
近親交配」と題されたものがあります。このタイトル中の”と”という助詞に意味があります。

 ピジョン・スポーツのベテラン記者だったヤンは、多くの投稿者が犯す「交配か近親交配」といった書き方をとりませんでした。多くの人は、交配と近親交配を対立する手段と考えたのです。つまり、自分の好みと判断で良い鳩を作出するという目的達成のための。

 しかし、何百年間も交配だけおこなってきた鳩舎はありませんし、近親交配しかおこなわなかった鳩舎もありません。いつでもどこでも、2つを併用しているのです。愛鳩家の実践において、交配と近親交配はせいぜい両極端ではあっても、決して対立するものではありません。重点をどこに置くかの違いがあるのみです。

 そこに働くファクターは実に多様です。それらは西ヨーロッパにある莫大な数の鳩舎に匹敵するくらい、多様なのです。

 ヤン・アールスは侮辱されたと感じいささか気分を害しました。彼の記事に批判が加えられたのです。彼は強く反発しました。有名なポール・ジャックメイスンが「スポーツ世界」に書いたルポ「サッカーと鳩」に関する手紙に中でも、この問題に触れています。

 ヤン自身の言葉に耳を傾けてみましょう。

 「何人かの競翔家は、私か彼らに誤った情報を与えたと思い込み、そう述べているようです。というのも私か、自らの系統には血筋の異なった鳩は絶対に入れないとされている鳩舎をからかったことがあるからです。友人ポールは、こう書いていなかったでしょうか。ヤンセンは長い年月の間にせいぜい一組、つまり二羽の新しい鳩を導入したと。
 詮索好きな連中は、私の年代記にアラを探したり難癖をつけたりせずに、そこには多くの心理が書かれていることを知るべきです。実際、ヤンセンについては全くルポルタージュに書かれている通りなのです。私はアーレンドンクに行ったことはありますが、残念ながら未だヤンセンを訪ねていません。できるだけ早く訪ねるつもりです。でも、わざわざ行かなくとも、そこには多数の鳩がいて、長い期間にわたって他の血を入れる必要がなかったということは判っているのです。奇形や退化の兆候のあるものは総て容赦なく淘汰して、できるだけ濃密な血統を保たなければならないのです。さもなければやってはいけません」

 ■実証された戦術■    2020年7月18日(土) 3:02 修正
 ヤン・アールツについてはこのくらいにしておきましょう。私はといえば、ヤンセンの血統や戦術を知り尽くしています。私はアーレンドンクに足繁く通いました。それもヤンセン一家を訪ねる目的のためだけに。それは「ヤンセン兄弟」が話題になるだいぶ前のことです。才気溢れる父ドゥリークスケ・デ・パウがまだ生きていた時分のことです。

 私は冬の夜、心地よい暖炉の前に座って、まだ結婚していない大勢の息子だちと、品種や近親交配の良し悪しについておしゃべりしました。息子たちは、女性にはまるで興味がなく、かわりに「体を切り開いたら心臓の中に鳩がいる」のではないかと思えるほどでした。いつでも彼らは、可能な限り良い鳩を育てて売っていました。

 彼らはレースマンとしてもトップクラスでしたけれど、鳩の作出にかけてはもっと偉大でした。多くの有名鳩舎、たとえばクラーク・リンゼン博士、アルベルト・ファンデル・フレース、アルペルト・ウェンペルク、カレル・デ・ヘンスほか世界中の数十いや数百の一般愛鳩家が彼らのトリを導入しました。そこには多数の短距離鳩がいました。

 ポール・ジャックメイスンが書いているとおり、ヤンセン一家は何年もの間、英国方式の近親交配を応用し、従兄弟・従姉妹をどんどん交配させていたのです。

 二つの有名な成功例をご紹介しましょう。第一の例は1919年、ペルラールの、”フォンヌ“コイレマンの栗色のメス鳩と掛け合わせたものです。兵隊だったフォンス・ヤンセンは、軍隊でルイス・クーレマンス・ジュニアと親しくなりました。ルイスがこのメスをアーレンドンクにもたらしたのです。彼らの血統に栗が入っている所以です。

 ヘーレントホウトの老ベノイト・スヘーテルスの鳩には1900年以前からスレート・ブルーが混じっていました。(※注:イレブン)それはカレル・ウェッゲに由来するもので、今日に至るまで続いています。カポスファール在のアンケル教授は、この複雑な羽色が貴重な遺伝子の担い手かもしれないと考えました。それはフェルフィールスのアンセーヌ系にも度々見ることができます。

(※注イレブン:現在連載中の『OPEL BOOK2020』に登場しているオペル系基礎鳩「オード・スレート号」を理解するうえで極めて重要な記述です。ピートさんはこの「スレート・ブルー」をWegge鳩に由来している指摘しています。このことは『OPEL BOOK2020』の第4章で詳細に検証する予定です。)

 オウデンブルフのテオ・ファンデヴェルデは、この色を見るたびに喜んだものです。かれの娘……と言っても老夫人ですが、今でもギステルのオウデンブルフに住んでいます。残念ながら彼女は鳩を飼ってはいなかったので、この話を裏付けることはできないでしょうが。アイメ・イデ博士と、同級生のジェローム・ファン・リステンボルグなら覚えているかもしれません。    (この項続く)

  ■■『Piet de Weerd 研究』010■■  [ピート・デヴィート回想録010「近親交配の成果」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》  (出典:『愛鳩の友』1996年10月号 )  イレブン  2020年7月18日(土) 3:27 修正
 Piet de Weerdは、いよいよここから「近親交配の理論に入っていきます。

 このドイツ語版翻訳では「異血交配」という言葉が登場しません。「交配と近親交配」という翻訳になっています。

 この回想録においては、「交配」という語は、言葉のままの「交配」ブリーディングという意味の場合(この場合「配合」という語に置き換える方がよい場合があります)と「近親交配」と関係して使う「異血交配」の意味の場合があります。

このことを踏まえて読み替えていかないとと、読んでいて意味が分からなくなります。気を付けて下さいね。

  ■ファブリーとの有名なクロス■    2020年7月18日(土) 4:10 修正
 ショータースの鳩との2度目の交配は、1933年におこなわれました。3度目は50年代で、”ハーフ”ファブリーと掛け合わせました。

 ジョルジュとヴィクトール・ファブリーは種鳩購入のためにアーレンドンクにやって来ました。永い交渉の末、彼らはようやく目的を果たすことができたのです。万事、期待通りに運んだら、ヤンセン一家に素晴らしい若鳩を一羽贈ると、彼らは約束しました。

 ルイスは、リエージュからやって来た二人の紳士に感謝はしたものの、その時のことはそれっきり忘れていました。ところが、間もなくしてヴィクトールは約束の若鳩を持って来たのです。それは、くだんのヤンセンの種鳩と”ポルトス”の姉妹とのペアから生まれたものでした。

 ポルトスはファブリーの鳩舎における最高のレーサーでした。その兄弟が”ファボリート”で、これらは1950年1月31日にピート・デウェールトがブレダで組み合わせたカップルから誕生しました。

 その母親”ヘロイネ(=ヒロイン)”は、サンバンサンからのレースでリエージュのクラブ優勝を果たしナショナル・イヤリング部門およそ2200羽中の4位に入賞しました。

 このトリの脚には割環が嵌められていたのを覚えています。ジョルジュ・ファブリーはこのトリを自分の種鳩鳩舎で飼育する特別許可を持っていました。私はファブリーの元で1回のみペアリングを試みましたが、それが先に述べた日です。

  ”フランク&ヒロイネ“のカップルが、ファブリーとアーレンドンクのヤンセン鳩舎に新しい歴史を作ったのです。私は、ハーフ・ファブリーが、手羽に傷を負った61年生まれの小さなマダラのメスと交配されたのを見たように記憶しています。このメス鳩は、裏庭にある金網で仕切られた小さな鳩舎の中にいました。

 カップルは優秀なトリを数多く誕生させました。なかでも有名なのは65年生まれの。”ヴィットハー”と、”メルクス”’の祖母です。

 ■交配(配合)を軽んじるべからず■    2020年7月18日(土) 4:12 修正
 交配(配合)は時に極めて真剣に受け止めなければなりません。ドゥリークスケ・デ・パウは、鳩に関して格別のエキスパートというわけではありませんでした。この点で、オウデナールデのオメール・デケイザーとは比較になりません。彼の持っていた鳩の数はほんのわずかなものでした。

 ドゥリークスケ・デ・パウの強みは、彼もその息子たちも、近親交配を許容しうる傑出した素材に恵まれていたことでした。一家は近親交配とレースでの淘汰により、不完全な部分を排除していったのです。彼らは均一なタイプを決して求めませんでした。彼らが特に好んだレースは、クィーブランとサンクウェンティンからの短距離でした。パリ北部から放すレースにも何回か参加しました。

 長距離では自分たちの鳩を別のレースマンに託していましたので、そのレース結果には大いに関心をもっていました。彼らが意識的に、徹底的におこなった唯一のことは、近親に次ぐ近親でした。目と手を使っての淘汰にはかなり消極的でした。彼らは一番速く飛ぶ鳩を残し、遅い鳩は処分しました。たとえ痩せ過ぎと見えようが、速く飛ぶことのできるトリを、彼らは「スヘルペン」(ジャーピース)と呼んで、頭を振りながらも残しておきました。

 時に彼らは美しく成長した若鳩を何羽か越冬させました。その一羽が有名な”ウィンター・ヨング“です。が、しばらくしてスピードに難があると思われた時には容赦ありませんでした。

 メッヒエレンに近いボーンヘイデンに住むフランス・ビューレンスは、鳩について全く知識のないことを自認していますが、もう30年以上も同じ方式をとっています。彼自身は過去の人になってしまいましたが、彼の鳩はコルトリーグのシルペール・トーヤの血統に入っており、ハードな長距離で好成績をおさめています。

 ■フランス・ビューレンスの奇跡のカップル■    2020年7月18日(土) 4:14 修正
 1933年、フランス・ビューレンスは奇跡のカップルを持っていました。それはヤンセン最高のトリにも全くひけをとらないどころか、それにも増して、物怖じせず攻撃的ですらありました。

 私は45年前、まさにフル稼働している時分にこのカップルを見たことがあります。ビューレンスはこのカップルで何軒かの家を建てました。ヤンセンはといえば、通りをまるごと買えるほど稼ぎました。

 ヤンセンは老若あわせて30羽以上冬越しさせることは滅多にありませんでした。近親交配によりバイタリティーの衰えるようなことは稀で、肩で相手を押し退けたり、クチバシで引っ張ったりしていたものです。

 1955年の最高の鳩は、1935年の最高傑作よりも猛烈でした。その間、私は総ての鳩を見てきました。1975年の鳩もそうです。この年の最高の鳩は、”メルクス“ 、”ヨングーメルクス”、それに”19”でした。体型こそやや小さくなりましたけれど、相変わらず速く、交配値も低下することは全くありませんでした。

 ティルブルグの有名なソーニャ・ストラートで、私は1972年に生まれたメルクスの娘を買いました。生後約10日のヒナを手に入れたのは、知性はどうであろうか、餌を与えた時の、”耐久力”はどうかを観察するためだけを目的にしてのことでした。

 これよりも賢い鳩は、ヨゼフ・フェルハイエがワーレヘム近くのハーゼウィンドで飼育していた”アウデ・ボント”をおいて他には知りません。それは彼の”スプートニク”の母親だったと思います。20年後にヨゼフを訪れた際に、彼は
  「あの時、あなたに譲らずにおいて本当によかった」
と、語っていました。

 知性と帰巣性、すなわちコンパスとは関係があるのでしょうか。多分、あるとは思いますけれど、確たる根拠はありません。遺伝によって系統内にしっかり植えつけられ、また子孫に容易に遺伝するコンパスが、ヤンセンの血統の最も重要な資質の一つであったと確信しています。

 大げさなことは嫌いですから、読者の皆様にはどうか行間を読み取っていただけたらと思います。ちなみにこのテーマは別の項目で述べてみるっもりです。”耐久力”、体重増加、”タフネス“についても別の機会に譲ります。

 アンカー教授がブダペストで、私にこう質問したことがあります。
  「あらゆる鳩の血統で、最も重要な資質とみなしているのは何か」
  [コンパス、少量の餌で太ること、弾力性、知性、ウェットネス、目の色素の濃いこと、攻撃性、強靭な羽」
 これが私の答えでした。後の2つは、とりわけ長距離レースに適した資質です。そしてヤンセンの最大の強みが最初の2つであったことは間違いありません!

 1935年生まれの”ラーテ”はずいぶん話題になりましたが間もなく”ラッペ” (迅速)という呼び名に変えられました。フランドル地方では下痢をした鳩のことを「こいつはラッペだ」と言いますが、これは本筋とは関係ありません。

 ラッペはショーダースのスレートの”アープ”に、フォンヌ・コイレマンスの古いヤンセン系のブルーの雌鳩を配合してできた、鳩舎の基礎鳩”アウデ・ヴィットハー・ファン33”の異母兄弟でした。ケンぺン地方で最高のレーサーがラッペでした。日曜日ごとのレースで2位以下を断然引き離して優勝をものにしていきました。どんな風がどちらの方角から吹いてこようと全く意に介しません。ラッペがスパートすればどんな鳩もついてくることはできませんでした。

 ◆◆ピート・デウェールトとの一問一答@(「回想録009」参照)◆◆    2020年7月18日(土) 4:33 修正
【Q】シェフ・ファンリールの4羽の基礎鳩のうち、“オウデ・ヴィッツィンガー”Oude Witzinger”について、もう少し教えてください

【A】.36年生まれのこのトリは、翼に刺のある、大きくて粗野な短距離バードです。見た目に美しくないこともあり私の好みのタイプではありません。が、とある小村でレースを戦い、瞬く間に頭角を現したのです。血統・ラインについては皆目判りません。ゆかりの地を訪問もしてみましたが、無駄でした。

 このトリを購入したのはルイス・ミヒエールセンです。アントワープ郊外のボルヘルホウトに住む金とダイヤモンドのバイヤーは、1940年から45年のあいだにアントワープ地域のチャンピオンを多数、導入しました。戦時中、ヒトラーは秘密保持のために占領地区の鳩を殺戮していきました。が、この地区の鳩はその難を免れたのです。

 ヒュースケン・ファンリール鳩舎での作出は45年に開始されました。その年の8月に、私はオウデ・ヴィッッツィンガーを掴ませてもらいました。シェフは言っていました。
  「この粗野なトリは200羽ほど参加の150マイルレースで2位を10分離しているんだ」

 私は本著の中で、オウデ・ヴィッッツィンガーはやがてダンハイヴ兄弟に売られたと述べました。兄弟は、ヒュースケン・ファンリールの公開オークションで9,000 B Fでこのトリを落札したのです。既に15歳、老空軍兵になっていました。

【Q】ヒュースケン・ファンリール鳩舎での種鳩としての成果は?

【A】配合の相手は小さなメス”ボーリネッケ”(小さな農婦の意味Boerinneke)でした。彼らの持っていたうち最高のメスです。 10歳の時にデスカイマーカー鳩舎が導入しました。
 ペアの最高の直子は”ラーテ・バンゲ”、その成績は以下の通りです。

・ルブールジェ 200マイル  299羽中3位
・・アングレーム450マイル 4,545羽中7位
・リボルヌ  500マイル2,331羽中7位
・リボルヌ       2,481羽中4位
・ポー    600マイル1,096羽中10位

ラーテ・バングの兄“グローテ・リヒデは、
・リレブールジエ 4位 
・コニャック   5位
・リボルヌ2,431羽中5位  等

 またボーリネッケの弟“オウデ・バング”ぱクロンメ“(45−4730883 キールの折れた、の意)とペアになりました。クロンメは、ヨス・ファンデンボッシュから来たメス鳩です。ちなみに、このフアンデンボッシュの住んでいたベルラーンの近くにあるリール(Lier)は、若鳩売買の中心地でアントワープから南に10マイルほどいったところにあります。

 ファンデンボッシュは中距離系として有名で、トリを入手するのはとても困難でした。ずっと後に、カレル・モイレマンが特別に手に入れたのは57年生まれの刺のあるオス鳩です。モイレマンは正直かつ信頼に足る人物です。

 のちにオス鳩は66年のヤンセン・ヘンとペアになりました。 76年に私はこのペアのヒナを3か月でセレクトしました。 R. ヘルメスの基礎鳩となった “ピート”がそれです。 69年から74年にかけて、モイレマンは少なくとも30羽のヒナをこのペアから引き、それにより巨万の富を得ました。

 現在、モイレマンは娘リングとの共同鳩舎“ダーメン&モイレマン”としてナショナル・レースで戦っています。追い風レースでは特に 強味を発揮するようです。近年、ジョルジュ・ボレ(西フラマン在)から1・2羽を導入して成功しました。

【Q】本書の中で“迷い鳩”という記述が時々出てきますが?

【A)当時の何十万もの愛鳩家の大半は短距離レースを楽しんでいました。人が住み、その上空を鳩が飛んでいる限りは迷い鳩が多数生まれます。後に有名になった血統中にもこれらの存在が多数含まれるのです。

(つづく)

 ◆◆ピート・デウェールトとの一問一答(「回想録010」参照)◆◆    2020年7月18日(土) 15:10 修正
【Q】デ・ケッヘルがフォンス・ヤンセンから買った【アウデ・ローステルド】の息子について教えてください

【A】まず“ローステルドとは、尾羽のラフなトリという意味です。ほんの一時、尾羽に乱れのあったその時期につけられた愛称のようです。 30から40年代にいた25羽ほどのドゥリークスケ・ヤンセンの愛鳩と同じように上質な1羽でした。レーサーとしても優れたトリでした。

 デ・ケッヘル氏が、ローステルトの初交配の年にできた子供を手にいれたのは1935年のことです。ブルーのトリでしたね。私自身も、ローステルトの子供を38か39年に導入しました。

【Q】“ナショナル・フライング・クラブ”の品評会で“02”という有名なメス鳩を審査したことがある、とのことですが

【A】はい。小さなブルーのメス鳩で、素晴らしいレーサーでした。この“ナショナル・フライング・クラブ”というのはブリュッセルにあったクラブで30名ほどの厳選されたメンバーで構成されていました。主に大富豪、有名人が集まっており、レースマンとしてピカイチというわけではなかったのです。

【Q】ヤンセン一家は長い間“英国方式の近親交配を応用”していたと書かれていますが

【A】“英国方式”と呼ばれているのは、甥や姪同士の近親交配をメインにするものです。対してベルギーのレース鳩の交配は、最高のレーサー同士を掛け合わせるものです。たとえばそれが父と娘、母と息子であろうと構いません。
 レース鳩や競走馬は、シーズン中は毎週、レースに持ち寄られます。つまり、その結果が毎週もたらされ、セレクションをもたらすのです。セレクションこそが最高の価値……。近親交配は成功も失敗ももたらしますから、セレクションが必須です。

【Q】あなたの良き生徒であるレイムント・ヘルメス氏が96年に再びポーのINで優勝を果たしましたね

【A】ヘルメス氏が初めて私のところを訪ねて来たのは76年のことO一緒に飛び筋を作り上げてくれないか、との依頼でした。端的に言えば、100Kから 700Kまでのドイツのレース・プログラムを制して彼をチャンピオンに仕立てあげる、というのが私の課題となったのです。
  「それなら3年のうちに可能だ」
と、私は答えました。
 熟考の末に、私は手持ちのなかから3羽の最上級のオス鳩を彼に譲りました。さらに、ステーンベルゲン地区の長距離レースで活躍した6羽のメス鳩を彼のために買い求めたのです。総ては私の飛び筋ヤン・アールデンの血を引くものでした。

【Q】当初のヘルメス氏の目標はじきに達成されたのですね
【A】.80年には、彼の地区で最強の地位につき、もはや敵がみつからなくなっていたのです。それで私は新たな提案をしてみました。すなわちINレースへの参加を勧めたのです。が、彼いわく。
  「ベルギー、オランダのレースマンにかなうわけがない。余りに不利な地形条件である」
 確かにそうです。そこで私は言いました。

  「ザールブリュッケンに行ってみては? ここから南西に200K。ベルギーやオランダのエースに桔抗できる手段を私も考えよう」

 ヘルメスは直ぐに、ザール州にある小村ホルンバッハに行き、新しい大きな鳩舎で作出を開始しました。私の譲ったトリと、私か彼のために集めたトリとで。

 マーストリヒトに住むマルセル・プラークハウス氏の所に行ってみるようにとも勧めました。近年のヨーロッパにおける屈指の長距離ブリーディング・ペアを、氏は持っていたのです。このペアを入手することは叶いませんでしたが、生後6週間のヒナ15羽を手に入れました。いずれもプラークハウス氏が自分のためにと温存していたものです。2月のことでしたから、その年の8月には作出を開始することができました。

 うち1羽が“1886464 ” で、このトリにはステーンベルゲンのヤン・デウェールトのオスが選ばれました。私のオールド・デルバールの血統です。ヤン・デウェールトが亡くなった時、夫人は私に、全鳩の公開オークションを企画してくれないかと相談を持ちかけました。それで私はプラークハウスに、その中のオズ72−313744”を購入するよう勧め、彼はその通りにしました。このトリはファンネのメスとペアにされました。こうして世界的に有名な長距離のブリーディング・カップルが誕生します。

 81年、私はヘルメスに“81−1858317 ” の脚環をつけたメスをプレゼントしました。その娘が、彼のペスト・レーサーの1羽“カチャKatja”です。9回INレースに参加し総てに入賞という素晴らしい翔歴の持主です。

【Q】プラークハウスから入手しだ1886464 ” の成果はどうでしたか

【A】その息子から有名な“00647 −2081”が誕生しました。 83年ポーINで優勝したのが2081です。このオス鳩チャンピオンに、ヘルメスは私がプレゼントしたメズ1858317 ” を掛け合わせたのです。つまり“2081&317 ” のペアです。その孫“92−4184”が96年ポーIN優勝鳩です。

【Q】あなたのプレゼント鳩“317 ”の系源は?

【A】オランダのブレダにある私の鳩舎でこのメス鳩は生まれました。父親“70−2150005 ”は老鳩ですが栗色の素晴らしいストック・バードです。ここから5羽の長距離N優勝鳩が出ています。系統はブリクー、ファンデフェルデ、ファンデルエスプト。ペルトゥス・ワイナッカー鳩舎から、私はこのトリを手に入れました。ヘルメスにもワイナッカー氏の住所を教えましたから、彼も0005の兄弟を買うことになりました。彼のトリぱ70−215011”。

 90年バルセロナI N28,000羽のレースで、ヘルメスはワン・ツーを獲得します。優勝鳩に入っているのが215011の血です。

 92年、バルセロナ当日の夕刻遅く、ヘルメスは1羽の打刻を済ませました。直線距離にして、バルセロナとホルンバッハとは951K。しかし、何と難しいコースでしょう。当日帰りの快挙は、この地区では滅多に起こらないことなのです。

 今もヘルメスと私とは強い絆で結ばれています。
 さて,話を戻しましょう。 317の母親をご紹介しておかなければなりません。“ヤスミンYasmine ”77−2592844と名づけられたメスは81年サンバンサンN11位に入賞しています。参加は30,000羽ほどでした。ヤスミンの母73−2290294は75年サンバンサンN12,618羽中12位に入賞しています。

 《系統研究》【OPEL BOOK 2020】006   第1章 オペル系系統調査公開資料の全て ○全文引用資料(5) 『リッピー号とブルーキング号』(宮沢和男編集『世界の銘鳩物語』より)  イレブン  2020年7月14日(火) 21:16
修正
今回、この「第1章、オペル系系統調査公開資料の全て(5)」で引用資料として取り上げるのは、宮沢和男編集による愛鳩の友社発刊『世界の銘鳩物語』の中の「その7」で取り上げられている「リッピー号とブルーキング号」の章の内容です。

この『世界の銘鳩物語』は、ミュニエ号やテキサス号といった、いわゆる「宮沢系」の基礎鳩達を取り扱った冊子です。

 この本は、いまでは、ほぼ手に入れることが困難となっており、国立国会図書館にも全国の図書館にも所蔵されていません。ネット上で検索すると、4年ほど前にオークションで3万円で落札されたとの記録が残っています。イレブンが手元に持っているのは、イレブンの知人の方が所蔵されていた「その7」の「リッピー号とブルーキング号」部分だけのコピー版です。

 内容を見ると、この「OPEL BOOK2020」に既に収録した資料の内容とかなりかぶっています。しかし、掲載されている系統分析関連の資料が結構整理されていて、資料としての価値が高いものとなっています。

 イレブンが持っているコピー版「リッピー号とブルーキング号」はよく見ると2〜3ページ落丁しているようなのですが、ここで取り上げておかないとこのまま埋もれてしまうことになりそうなので可能な限りの引用をすることにしました。かなり長い内容なので後で分節して掲載することになりそうです。

 引用資料(5) 『リッピー号とブルーキング号』(宮沢和男編集『世界の銘鳩物語』より)【1】 ■故オペル氏の最高傑作”リッピー””ブルーキング”■    2020年7月15日(水) 4:29 修正
 故オペル氏が、51年間の長い歳月にわたる独自の配合法によって体型だった作出をつづけ、そして飛ばし続けられて完成させたのが”オペル系”である。

 オペル氏が残した全ての記録を、ここで一つ一つ書き綴ることは不可能である。しかし、もしこれを一言で表現せよといわれるなら、故オペル氏のオペル系こそは、正に”無敵だった”という最高の賛辞を惜しまない。

 実際、オペル氏ほど鳩を愛し、オペル氏ほど自分の鳩を改良し続けた愛鳩家はいない。

 51年間の彼の成績や、彼の鳩についての資料の大部分は現在も世界鳩界の資料として残され伝えられたいるが、彼がその努力の結果、作りあげられた”オペル系”は、”無敵であった”のと同時に、現在も尚世界中の多くの鳩舎に導入されて(※注1:イレブン挿入)、”無敵街道を驀進中”なのである。

※注1:日本以外でのオペル系の活躍の情報を、イレブンは持ち合わせていないので、この記述の根拠が不明です。


 ・    2020年7月15日(水) 5:00 修正
 オペル氏は、1961年8月1日に72歳を持って、その偉大な生涯に幕を閉じた。

 死ぬまで飼い続けた百数十羽の鳩は、後継者といわれているビール兄弟鳩舎へ引き継がれたが、その中の2羽の最高の銘鳩が「リッピー号」と「ブルーキング号」なのである。

 51年間の長い飼鳩生活の中で、リッピー号やブルー・キング号の記録を上回る鳩は、無数にいるに違いない。しかし、オペル氏の最大の目標であるオペル系の完成を実にリッピー号とブルー・キング号にこそ見ることができたのである。何回もの近親交配、そして戻し交配。これによって何代も何代も積み重ねられて、オペル系は次第に完成の域に近づいたのであったが、16重の近親という非常な近交によって、しかも性能の優秀な鳩の作出ちう最終目標がリッピー号という1羽のチャンピオンの雌鳩とブルー・キング号の出現によって、達成されたのである。

 ・    2020年7月15日(水) 20:57 修正
 800粁以上を10回,20回と記録した鳩は.オペル氏の飼鳩生活の歴史の中で,何回か作られている。だがオペル氏の満足は、完全に固定され、作りあげられた自分の系統による大チャンピオン鳩の出現を待っていたのである.

 特にリッピー号こそは、彼の生涯をかけた近親交配による理恕的な作出鳩で、しかも.800粁4回,1000粁3回,1120粁優勝という大チャンピオンで.320粁以上の公認記録延飛翔距離11200抒という偉大な競翔鳩である。

 また,リッピー号とその4代先祖までの31羽による800粁以上の記録回数は218回,さらに5代先祖までを含めると312回という世界鳩界に類例のまったくない,すばらしい血統を形成しているのである。

 リッピ一号と,すべての祖父母を同じくする同血統のブルー・キング号の場合も,この鳩自身は800粁3回,1000粁1回の記録しか持っていないが,ブルー・キング号とその4代先祖までの31羽による800粁以上の記録回数は207回,5代先祖までを含めると301回となっている。

 オペル氏は,どんなによくできた鳩でも,必らず自分で長距離を何回も記録させてからでなくては種鳩にすることをしなかった。

 長距離を何回かずつ記録させながら,好成績鳩ばかりを種鳩用に残して,近親交配をつづけ,この世を去るまぎわになって快心の作リッピー号とブルー・キング号を作りあげたのである。

 この2羽の超銘鳩こそは,故オペル氏が心血をそそいで完成させたもので。オペル氏の最大の基礎鳩゛オールドースレート号″(1914年生 スレート雄)の,なんと21重の近親作出鳩であり,さらにオールド・スレート号の母体となった1897年生まれのHN15号(ローガン氏より輪入の灰の雌)から見ると84重という驚くべき近親となっているのである。

歴代が長距離を飛びつづけ,しかも84重もの近親作出鳩――何んとすばらしい血統ではないか.
 「私は死んでも,オペル系は永遠に死なないのだ!」
 と,云いのこした故オペル氏は,オペル系に絶体の信頼をもっているとともに,死後のこの系統の最大の原動力としての夢を,この2羽にかけていたに違いない。
 2羽の超銘鳩は,最後まで彼の鳩舎で飼われていたが,死去したのちは遺言によってビール兄弟の鳩舎に引き取られ,やがて任秀夫氏を経て,私の鳩舎の主要基礎鳩となった。

 日本にも,最近多くのオペル系や.オペル系の流れを汲む鳩たちが導入されているが,故オペル氏の遺作中,最も重要視されてきた2羽はまさに国宝的な存在といえよう.

 では,この2羽の超銘鳩を作りあげた.故オペル氏はどんな人物であったのか,彼はオペル系を,そして2羽の超銘鳩をどのようにして作りあげたのか――これを順にしたがって話をすすめてみよう。

 ◇3ページ落丁◇    2020年7月15日(水) 21:05 修正
イレブンの手元のコピー版では、P184〜P185の2ページが落丁しています。落丁分が見つかり次第、ここに掲載します。

 ■オペル氏作翔鳩の1120キロレース上位入賞鳩一覧■    2020年7月15日(水) 21:11 修正

 ■最後まで飛びつづける優秀な鳩の一族……を■    2020年7月15日(水) 21:33 修正
 MCCAという協会には、専門の放鳩者としてE・R・ホールデン氏(E.R.Holden)がいて、放鳩に関するすべての権限を持ち、放鳩日が放鳩に好適な天候でない日でも、しばしば放鳩される。これは、たとえ悪天候でもMCCAの決定日には放鳩されるという規定によるものであるが、ホールデン氏は名放鳩者として参加者から信頼をうけ,尊敬されていた。

 また、MCCAが主催するスペシャル・レースにおいては、平等をたもつために、1鳩舎から参加は5羽限りと制限されている。そのため性能の悪い鳩は自然と参加させられずに各鳩舎とも特に秀ぐれた鳩のみを参加させるようになったのは当然のことである。

 また、ときには、3回のレースの平均最高分速で勝負を争そうレースがおこなわれた。このレースは大変むずかしいレースで、優勝することはなかなか困難である。あるいはそのシーズンにおける全レースのそれぞれの鳩舎の最高分速を合計し、レース回数で割って最高分速鳩舎が選定されたりした。しかし大抵の場合、アパラチャ山脈という大山脈を横断しなければならず,しばしば大打撃をうけなければならなかった。

 このような背景の中でオペル鳩舎は洗練されていった。

 オペル氏は非常に血統を重んじた人である。しかしオペル氏の云う血統とは「最後まで飛びつづける優秀な鳩の一族」を意味する。
 
 他の鳩舎に優秀な鳩かいないというのではなく、優秀な鳩がいることは知っていたが、ホペル氏は異血導入をせずに、レースに勝つことよりもむしろ自分の満足すべ。鳩を作ることに専念した。

 オペル氏は鳩の記録帖を作っておき、ヒナからレースにいたるまでのあらゆる記録を詳細に書きとっておいた。

 ■ 鳩を女房とし,一生涯を独身ですごす■    2020年7月15日(水) 21:35 修正
 オペル鳩舎は、2エーカー【釣2500坪】の土地の南側に建てられている納屋の二階に造られていた。

 鳩舎の前面には障害物かなく見晴らしがよくきくように、すべての樹木を切り払ってあった。

 鳩舎の内部は三つの部分に仕切られ,そのどの部分の鳩舎にも沢山の鳩が収容され,鳩舎の中には水道か設備されて。自由に水浴や飲水ができた。窓は南側に三つと東卿|に一つあったが,直接鳩に風が当らないように工夫されていた。

 床には白い砂がカーペットのようにまかれてあり。毎週一回その砂をこして糞が取りのぞかれるようにされていた。この鳩舎は,鳩にとってまさに天国であったということができよう。

 オペル氏は、一生涯を独身生活で過ごしたが、非常に若い子供の愛鳩家をかわいがっていた。日曜日になると、きま一つて何人かの子供たちがおとずれて鳩を見学し、気持のよい木陰で、オペル氏を囲んで鳩に関する有益な知識を授けられていた。

 その話の中には、他の愛嶋家の知らない子鳩の作りかたの秘訣、飛ばしかたなどか含まれていたのである.

 オペル氏は一生を独身ですごしたが、オペル氏の最愛の妻はこれらの鳩舎に飼われていた数百羽の優秀なレース鳩たちであった。

 72歳で彼が人生の幕を閉じるまで、その鳩たちは常に一緒に毎日をすごしていた.
 オペル氏は、死の直前に鳩友たちに、
 「わたしは死んでもオペル系はまだ死なない」
 という言葉を残したが、彼は自分の作りあげた系統にどれだけの自信をもっていたかという事実に対する一つの証拠とも言えるだろう。

 この言葉どおり、その後もオペル系の後継者たちは現在もアメリカで飛ぱし続け、オペル氏自身が作った記録に挑戦している、日本においても多数の競翔家によって真価はしゅうぷんに証明されつつある。

このように、故オペル氏は、常に、
 「鳩は私の恋人であり,人生の喜びを与えてくれる唯一のものであるj
 と云い、柊生を一度も結婚することなく独身ですごしており.変人と見られるほどに鳩−筋に生き、自分の鳩の改良、記録更新に一生を捧げた人である。

 ■貴重な資料を残した”オペル・ブック”■    2020年7月15日(水) 21:54 修正
 しかし、このオペル氏の鳩に対する情熱とその偉大な功績を世|こ出したのは、”オペル・ブック”の編者であり、オペル氏の51年間にわたる最愛の友人であり、そしてオペル系の基礎鳩である゛オールド・スレート号゛をオペル氏に提供した故シド・ジョンストン氏の陰の力に負うところか大きい。

 故オペル氏は、大変兼虚で誠実な人で、自分の鳩か達成したすぱらしり記録のかずかずを決して他人に誇ることかなかった。

 オペル系のよき理解者であったシド・ジョンストン氏〔故A・S・ジョンストン氏〕は、生前、日本の某愛鳩家にあでた手紙の中で、

 「”オペル・ブック”を出版したのは、すべて私のアイディアでしたが、この本を発行する許可を得るためには、オペル氏に何回も何回も会って説得したもので、彼はこのように宣伝めいたことをするのが全く嫌いでした。゛オペル・ブック’の刊行はけっして宣伝のためではなく、鳩界に残すべき重要な資料で50何年も鳩を好んで飼育研究してきた者の当然の義務なんだと、やっと納得させたものでした。

 しかし、1949年に”オペル・ブック”が刊行される運びになったとき、オペル氏はそれを大変喜んでくれました。私の苦心のかいかあったのです。

 私には、「64頁のこの本は今後決して書き変えたり、.書き初えたりしてはならない」と云い残しました。この小冊子は、私とオペル氏が二人がかりで,昔からの膨大な記録を振り返りながら編集したもので、大変な努力を必要としました」
 と記している。

 故オペル氏が確立した”オペル系”。この”オペル系”を世に伝えた故ジョンストン氏の努力、この両輪が相侯って世界最高系としての”オペル系”の現在があるのである。この二人の故人か残しだ”オペル・プック″こそが,両氏の死後らこの系統を正しく伝えているからである。

 引用資料(5) 『リッピー号とブルーキング号』(宮沢和男編集『世界の銘鳩物語』より)【2】 オペル系の基礎鳩とチャンピオン鳩たち     2020年7月16日(木) 3:17 修正

 ■最大の基礎鳩゛オールド・スレート号″■    2020年7月16日(木) 5:05 修正
 オペル氏の資料によって,ジョンストン氏が編集しだオペル・ブック″によって,オペル系の基礎鳩と世界的大チャンピオン鳩のいくつかを紹介してみよう。

 (1)オールド・スレート号(14− F20421 スレート・チェック 雄)

 まず第一に挙げなくてはならない鳩である。この鳩は。「基礎鳩A」という略号を冠せられて,長い間オペル鳩舎の基礎鳩として,子鳩の作出にあたっていたが,今日゛世界のオペル系″といわれるこの系統の最大の基礎鳩である。羽色はスレート(茶灰色の胡麻)であったために,直系には灰胡麻,灰,栗胡麻というようにいろいろな羽色の鳩を生じている。

 オールド・スレート号は,オペル鳩舎にあって生涯の間に16羽の長距離(800粁以上)記録鳩を作出した。

 その16羽の直子たちの記録は,オペル・ブックに詳細に述べてあるので,参考までに記してみよう。

@♂,800粁3回。1000粁1回 A♀,800粁2回 B♀,8()O粁4回,1000粁1回 C♂,800粁3回,1000粁3回 D♀,800粁3回,1000粁3回 E♂、800粁5回,1000粁2回,1120粁1回 F♀,800粁3回,1000粁2回,1120粁1回 G♀,800粁3回,1000粁1回 H♂,800粁7回,1000粁6回 I♂,800粁6回,1000粁2回,J♀、800粁2回 K♀,800粁1回 L♀,800粁1回 M♀,800粁2回 N♀,800粁2回 O♂,800粁1回
である。

 この偉大な基礎鳩オールド・スレート号は1914年に当時ワシントンに住んでいたA・S・ジョンストン氏によって作出され,1915年7月4日にボルチモアのJ・L・オペル氏にプレゼントされたものである。

 オールド・スレート号の系統表は上表のとおりである。

 以上の表で判明するとおり,オールド・スレート号の系統は3分の2以上のローガン系であるということができる。

 系統表中の@からBまでは故A・S・ジョンストン氏の作出にかかるものであるが,この基礎鳩自体ローガン氏よりの輸入鳩「97−HN15」を4ヵ所に持つ近親であることに注目すべきであろう。

 オペル氏の先輩であり親友の一人であったジョンストン氏は,1896年には自作の鳩で1000粁を記録させていて,その血液が連綿と続いて最後に残った故オペル氏の銘鳩リッピー号とブルー・キング号に引き継がれていることを思うと、まったく感無量である。

 またリッピー号とブルー・キング号ばオールド・スレート号″の21重の近親であるから,このオールド・スレート号に4重に導入されている゛H N15″ が84ヵ所に入ってくる物すごい近親だということは前述のとおりである。
(つづく)

 (2)A U17−1863号(灰 雄)    2020年7月16日(木) 19:41 修正

 オペル氏の作出鳩で,オールド・スレート号につぐ基礎鳩となったものである。リッピー号とブルー・キング号にもこの鳩の血は導入されている。

 1863号は,1917年にオペル氏の鳩舎で生まれたのち,800粁4回,1000粁2回を記録して基礎鳩となったものである。

 この基礎鳩の直子には9羽の800粁以上の記録鳩がある。そして,その9羽の直子だけの800粁記録回数は43回。1000粁記録回数は7回にのぼっている。その中に800粁以上の記録回数の6回の記録鳩が1羽,7回の記録鳩が2羽,10回の記録鳩と,11回の記録鳩がそれぞれ1羽ずつあるということは特筆に価しよう。

 系統は,父鳩はオペル氏作で母系にトレントン系が入った鳩であり,母鳩はジョンストン氏作でオールド・スレート号と異母兄弟になるような口−ガンの血を強く汲む鳩である。

 ■800粁以上を34回記録した雌鳩■     2020年7月16日(木) 19:47 修正
 (3)ピーレット・ヘン号(MCCA 33−9878 灰胡麻 雌)

 この鳩は,オペル氏と同じボルチモアの愛鳩家アーサー・ピーレット氏によって作出使翔されたが。800粁以上を34回以上帰還したという一世紀に1羽出現するかどうかわからないという陛の超銘鳩であった。

 この超銘鳩も実はオペル氏の鳩の血を引くものであった。つまり父鳩IF26−D1635灰胡麻はピーレット氏作で。480粁1905羽中1位という鳩であるが,この両親がオペル氏作出使翔の記録鳩であった。

 ピーレット・ヘン号は,オペル系の偉大さを語るにじゅうぷんな超銘鳩で,1934年から1941年までの8年間における記録から記録への連続的決戦は,数十年を経た現在に至るもこの鳩を知る世界中の愛鳩家の語りぐさとなっている。

 使翔者のアーサーピーレット氏は,正確なデ−ターを残してなかったので800粁以上の記録と入賞数を裏付けるものはないが,800粁以上の記録34回,そのうち当日帰I)24回という数字はほぼ信じてよさそうである。ボルチモアの故W・Wワイドニ世も,この偉大な雌鳩に非常な関心をもち。記録回数が増すごとに,そのつどオペル氏に詳細をたずねていたという。

 ピーレット・ヘン号の記録のうちで特筆されるものは,1935年と38年の1000粁レースで当日帰りしたことと,1937年の1120粁レースで2位に入賞しだことなどであろう。

 この鳩の最後のレースは1941年の第一回800粁スペシャル・レースであるが,この日は非常な悪天候で,当日帰りなく,翌日1羽(後述するシャマンコーク号の妹鳩),3日めなし,4日め2羽,その後6日めまでにわずか6羽を記録したのみであった。ピーレット・ヘン号は7日目に帰ったのである。このレースを最後として,この偉大な,そして世界最高の記録鳩もまもなくこの世を去ったのである。

 推定される800粁以上の延飛翔距離だけでも、約35000粁と想像され,日本流に200粁以上の公認記録を類計した場合には40000粁を突破しているのではないかとさえ思われる。雌鳩でありながらこれだけの記録を樹立し得たということについて,ある愛鳩家は。
 「わたしたちほ,この偉大な雌鳩をたんに”偉大な記録鳩”として記憶するだけでない。記録から記録への挑戦がいかに困難なものであるかをわたしたちは身をもって体験している。わたしたちは,この鳩が,雌鳩でありながらこのような立派な記録をどうやって樹立していったか。つまり,どのようなテクニックを使い,どんな状態のときに長矩離レースに参加させたかなどの多くの点についていろいろ学ばなければならない問題が残されているようである」と、
まったく,そういう反省をわれわれに与える鳩。それがこの鳩なのである。

 ■延33600粁記録の゛5770号″■    2020年7月16日(木) 19:56 修正
(4)M C C A34−5770号(栗胡麻 雄)

 前記のピーレット・ヘン号には,わずかに及ばないが。オペル氏自身の作翔によっても延公認飛翔距離が,33600粁という銘鳩が作られている。これがその鳩である。

 オペル鳩舎の後半期の代表的種鳩となっていた9117号も,この5770号の孫にあたり,リッピー号もブルー・キング号も,それぞれ父と母の両血統に5770号の血液を見ることができる。また5770号の同腹鳩である5771号も記録鳩として。種鳩としてよく知られている。

 5770号は,1934年にオペル鳩舎で作出されている。系統表は上記のとおり。    

 この栗胡麻の雄は。800粁を10回,900粁を1回,1000粁を7回,1120粁を4回という長距離の記録をもっているが,200粁以上の延飛翔距離は実に33600粁(21000マイル)にも達する。その間,1936年の1000粁レースでは総合6位(69鳩舎595羽中),地区3位。1938年の900粁ナショナル・レースでは総合19位(157鳩舎385羽中),地区1位。1939年の1120粁レースでは総合3位。1940年の1120粁レースでは総合2位。そして1941年のll’20粁レースでも,7歳鳩でありながら見事に記録している。その後,種鳩とされたが,同腹鳩の5771号とともに,幾多の優秀な後輩を作出しているのである。


 ■800 粁以上を2500回以上記録させたオペル氏■    2020年7月17日(金) 2:41 修正
 故オペル氏が作ったチャンピオンや,オペル系の血を引くチャンピオンたちを拾いっづけたら。それはまったく際限のないものである。

 オペル氏が一生涯をとおして作った鳩で,800粁以上記録した鳩は何羽で,その回数は一体何回ぐらいになるのだろうか?

 1949年に出版されだオペル・ブック″には,故オペル氏と著者の故ジョンストン氏の両名がしらべあげた1915年から1948年までの記録鳩の系統と記録内容が詳細に記載されているが,そこに掲載されている800粁以上の記録鳩は110羽で,その110羽の総記録回数は800粁538回,1000粁124回,1120粁42回で合計704回という多数にのぽっている。

 その後も,オペル氏は死去するまで飛ばし続けていたのであるが,オペル鳩舎についての詳細な知識を持っているジョンストン氏も亡くなっており,正確な数字はわからないにしても.故ジョンストン氏や,ビール兄弟と文通のあった任秀夫氏は.

 「わたしが手もとの資料を使って調査したところによると,長距離記録鳩は約200羽までをかぞえることができるが。その記録回数は千数百回という数字になる。だが,ビール氏などの話を総合すると,実際には800粁以上を2500回以上記録しているのではなかろうか」

 という一文を雑誌に発表している。

 アメリカは平坦地が多いから鳩が長距離から帰りよいのではないか?あまり大きな数字なので、われわれはまずそれを考える。

 しかし、実際にレースの成績表を見てもやはり長距離レースになると,参加羽数の1〜2割しか帰っていないのであるから,オペル系の偉大さを認める以外にないのである。

 それを如実に物語るのは,戦後日本へ多くの系統の銘鳩たちが輪入されたが,もっとも活躍している系統の一つにオペル系が挙げられている点からも察せられよう。

 京都の並河靖氏も,
 『日本鳩界にその素晴らしい画期的な性能を遣憾なく発揮したオペル系――このオペル系から、オペル氏がいかにその鳩群を繁殖し、いかに近交をうまく使ったかを学ばなければならない――』 と、オペル氏の改良法と,その系統の偉大さを絶讃している。

 引用資料(5) 『リッピー号とブルーキング号』(宮沢和男編集『世界の銘鳩物語』より)【3】《オペル氏の鳩の特徴と近親交配》      2020年7月17日(金) 3:08 修正
【リッピー号関連資料1@】  ・

 【リッピー号関連資料A】    2020年7月17日(金) 3:18 修正

 【リッピー号関連資料B】      2020年7月17日(金) 3:27 修正

 【リッピー号関連資料C】        2020年7月17日(金) 3:30 修正

 【リッピー号関連資料D】  ■リッピー号の5代先祖までの翔歴■    2020年7月17日(金) 3:32 修正

 ・    2020年7月17日(金) 3:38 修正
上(1代〜3代までの拡大図)、下(4〜5代までの拡大図)・

 ■風釆はあがらず頭脳で勝負する鳩■    2020年7月17日(金) 3:43 修正
 オペル系の最大の特徴は,基礎鳩゛オールド・スレート号″の21重の近親。さらに゛H N15″ の84重の近親というように,非常な近親交配の連続によって形成されてきたというところにある。

 世界に鳩の゛系統″は多いが。オペル系のごとく長年月にわたって計画的に作りあげられたものは少なく,またこのように他に頬例のない極度の近交によって,完全に一つの別個の系統として,こんなにも立派に作りあげられたものはない。

 しかし.オペル系の鳩には.テキ・サス号をはじめとしたハフナー系のような立派な立姿は見られない.大抵の鳩は首をちょっとすくめたような.ぱっとしない体型である.
 体は例外なしに小さめである.そして2年間成艮しつづける.

 この系統の羽色は.大体において灰.灰胡麻,うすい栗胡麻が多く,ときには灰栗,灰胡麻に出た場合に,片方の翼に一枚か二枚の白刺羽が出ることがある。

 眼色は,極端なほど表情に富み,大別するとオレンジの薄いルビーがかった橙色と真珠色。ときには薄い紫色(銀眼または石眼と呼ばれている色)がある。

 眼の色は,人を引きつけるような魅力的なものではない。また顔ぼうなども,決して品評会にむくような種類のものではなく,むしろ初心者やきりょう好みの愛鳩家を落胆させてしまうに違いない。

 特に若鳩時代は,休ら小さく,見栄えがしない。
 「見てよし,飛んでよし」
 という理想は。この系統においてはあてはまらない。

 オペル系のよさは,゛系統のよさ″にある。高率をもって長距離から帰還し得る,という執念にある。

 この小さな体,そして立派でない容ぼうのどこにその底力を秘めているのか,と不思議に感じるほど,この系統は強い。

 かつて,名古屋の岩田氏をして.
 『長距離鳩の体力上の必要条件は。最低限度のものでじゅうぶんて・ある……』
 といわしめた原因。それは岩田氏が自身でオペル系を混入させた血液をもって長距離を征覇した体験にもとづくものに他ならない。

 オペル系の最高の長所は”利巧な鳩”という一語につきる。いくつかの銘鳩を基礎鳩として,代々にわたって長距離を何回も飛びつづけた鳩で固め,あるいは近親交配で,あるいは戻し配合によってオペル氏ば”利巧な鳩”を作りあげることに成功したのである。

 オペル系には,主流系も支流系もない。
 ということは,彼の鳩のすべてが,先祖を同じくするからである。全鳩が血族関係にあることは勿論、それが三重にも四重にも。場合によっては数十重にもかさなって,血統的にも体型的にも,そして性能的にも同じようなものばかりなのである。

 オペル氏の鳩は,それがたとえ長距離を飛んでいようが,いまいが,種鳩としての価値は全く等しい,ということになる。

 そのため,オペル系は全く固定されており,他の異血鳩を交配しても,一代めや二代めの作出鳩では,オペルの特徴がほとんど受け継がれてしまう。

 私も,すでにオペルの血をわずかぽかり混入させて成功しているいくつかの鳩舎を知っているが,常に不屈の精神力をもって,そのレースが悪条件のものであっても帰舎しているという事実を熟知している。

 オペル系は,ローガン系を主体とし,それにトレントン系、ジャンサン系,その他2〜3の血を混入させて作りあげられたが、これらの鳩から作られた鳩たちは,オペル氏の鳩舎で五十数年という長い間,10代から15代,16代と優秀な鳩を作出しつづけたのである。


 ■2つの基礎配合と3つの当り配合■    2020年7月17日(金) 3:50 修正
 オペル氏は,独持の,いわゆる゛オペル配合法″という近交を重ねることによって出発したが,彼の血統が全世界に注目されるような大チャンピオンを作りはじめたのは,1918年にA・S・ジョンストン氏から贈られだオールド・スレート号″が作出を開始してからであった。

 1914年生のオールド・スレート号は,オペル鳩舎における大部分を6460号(800粁2回)との配合で過ごさせられたが,その作出鳩のうち,7773号(800粁7回,1000粁6回),4425号(800粁),3300号(800粁2回)の3羽の血統が現在まで伝わつている。

 しかし,これらの直子の中でも,特に異彩をはなつのは,何といっても3300号であろう。自身では800粁2回の記録しか持っていないが,8713号という雄を配偶鳩として,後代に幾多のチャンピオン鳩を作りだし,世界のオペル系を不動の地位に築きあげた原動力のl羽となった。

 ●「8713号×3300号」

 これは,オペル系の基礎作りの段階における当り配合の一つであり,のちに基礎配合となったものであった。

 この配合による作出鳩中、もっとも注目しなければならないのが、5700号と5771号であろう。この2羽の翔歴は,すでに詳細にわたって記載した通りであるが,たんに大記録をもっているということだけでなく,直系に実にすばらしい長距離鳩を残したという点に,この銘鳩の最大の存在価値があった。

 1羽の銘鳩の先祖の記録を詳述することは不可能ではない。しかし,後代のすべての記録を調査することはほとんど不可能の場合が多い。ましてこの2羽の超銘鳩の直系の活躍状況が調査しきれるものでないことは論をまたない。恐らく800粁以上の記録回数だけでもらくに1000回を越えるであろうからである。

 5770号の孫として生まれたのが,9117号である。

 最近のオペル系の鳩には,ほとんどこの鳩の血が流れているといわれるほど,オペル氏はこの鳩の血統を好んだのである。9117号の系統表ばリッピー号の系統表″中を拾っていただけばわかろう。

 オペル系には,2つの重大な意義を持つ基礎配合と,この系統の長所を遺憾なく発揮させた3つの当り配合とがある。

●基礎配合は,「オールド・スレート号×6460号」と「8713号×3300号」の2つ。

●そして,最高の当り配合は,「5770号×9800号」と「5771号×9916号」,それに「9117号×1751号」を加えた3つである。

 この3つの中でも,9117号×1751号の配合は,もっとも最近のものであるだけに,オペル系の愛好者たちが常に探し求めている責重な存在なのである。

 リッピー号とブルー・キング号は,この配合による作出鳩の直子にあたると共に,5つの全部の配合を合せもっている。

 1961年にこの世を去ったオペル氏は,鳩の中に生きてきた51年間のうちに,数多くの世界的記録を,自分の鳩だけで樹立した,

 1.生涯のうちに,800粁以上を2500回以上記録し得たということ。
 2.オペル氏作出鳩の直子。世界最高の記録鳩゛ピーレット・ヘン号″は,800粁以上を34回記録したということ。
 3.オペル氏作翔の5770号は,公認延飛翔距離33600粁を記録しているということ。
 4.1羽の鳩と,その4代先祖までの31羽の鳩の800粁以上記録回数が218回という血統を作りあげたということ。
 5. 1羽の鳩の84重という極端な近親系でありながら,その作出鳩が1120粁レースで優勝しているとフいうこと。
 6.9代連続800粁2回以上記録という偉業をなしとげたこと……など。

 とにかく数えはじめたらきりがない程の最高記録を保持しつつ,オペル氏は去った。

 引用資料(5) 『リッピー号とブルーキング号』(宮沢和男編集『世界の銘鳩物語』より)【4】《”リッピー”と”ブルー・キング”の血統と翔歴》     2020年7月17日(金) 3:55 修正

 ■リッピー号の祖父母までの翔歴■    2020年7月17日(金) 3:58 修正
 2つの基礎配合と,3つの当り配合で作られてきたリッピー号とブルー・キング号は,オペル最高の血統で,しかもオールド・スレート号の21重の近親であることは前述のとおりである。

 ここで,リッピー号と,ブルー・キング号の血統を詳述するにあたり,まず,両親ならびに4羽の祖父母鳩の翔歴をしらべてみよう。

 リッピー号について,゛リッビー号の祖父母までの血統″(別掲)にしたかってのべると,次のとおりである。

 @M C C A48−3323 は800粁を8回記録しているが,その内訳は,1950年の800粁レースで当日帰り3羽,翌日帰り5羽という甦レースでありながら,当日の午後8時3分に帰舎し分速1073ヤードというスピードで優勝(このレースの2位はやはりオペル氏の流れを汲む鳩を使ったマッコイ氏,3位オペル氏。6位グレン・ビール氏,7位ラッセル・ビール氏で,いずれもオペル系であらた)したのをはじめ,そのわずか2週間前に行なわれた800粁レースでも,当日3羽,翌日3羽帰りの難レースでの2位(このレースの1位はローパー氏で4分の1オペル系,3位はマッコイ氏.4位グレン・ビール氏,6位ラッセル・ビール氏で.いずれもオペル系)入賞,当日14羽帰り中の14位,当日13羽帰り中の13位その他1回当日帰り,3日め帰り5位など記録3回の合計8回記録となっている.

 AM C C A47−7528 は800粁を9回記録しているが,その内訳は,1950年6月3日の800粁レースで,当日帰り1羽,翌日2羽,3日め3羽,4日め2羽という雛レースでありながら,見事に当日午後9時11分に帰舎し.分速999ヤードをもつて完全優勝(2位,3位グレン・ビール氏,4位マッコイ氏,5位オペル氏の3323号とオペル系が上位独占)したのをはじめ,当日3羽帰り中の3位,当日13羽帰り中の4位など当日5回,記録4回の合計9回となっている。

 BM C C A40−4360 は,1944年の1120粁レースで13鳩舎59羽中3位(分速657ヤード)入賞したのを含め,1120粁5回,1000粁3回,800粁6回を記録している。

 CM C C A43−884 は,Bと同じ1120粁レース(13鳩舎59羽中)で,分速684ヤードをもって2位入賞したのをはじめ,1000粁1回,800粁4回を記録している。

 DM C C A41−9117 は。1942年,43年,44年,45年および46年の5年間にわたって毎年800粁を3回ずつ記録し,合計800粁15回という大記録をもっている。記録内容は,1943年の800粁協会スペシャル・レース参加44鳩舎184羽中分速858ヤードで6位のほか,800粁170羽参加当日5羽中5位,800粁95羽参加の9位,800粁187羽参加当日8羽中1位,800粁111羽参加当日17羽中1位,800粁95羽参加の15位。800粁94羽参加の9位にのレースでは兄弟鳩9173号が1位),800粁60羽参加の1位と,3回の優勝歴を持っている。最近のオペル主流系の鳩は,ほとんどこの9117号の血を引いてい・るといわれるほど種鳩としても威カを発揮している銘鳩である。

 EMCCA44−1751は、長距離の記録は持っていないが、もどし交配のため持に9117号の配合鳩として種鳩とされていたものである。

 ■ブルー・キング号の祖父母までの翔歴■    2020年7月17日(金) 4:03 修正
 ”ブルー・キング号”についても,`ブルー・キング号刀岨父母までの血統’(別掲)にしたがって応べてみると、

 父@は、1952年と53年に800粁を記録している。

 母Aは、1951年にS00抒,52年に800抒2回(うち1回ぱ当日帰り4羽中の総合3位、地区1位)、53年に800粁2回(うち1回は総合4位、地区2泣)、54年;こ800抒と900粁.55年に800抒と,合計800粁を7回.900粁を1回記録している。

また、この姉妹鳩である310号も800粁4回(うち1回1位)記録している。

 ブルー・キング号の4羽の祖父母たちは、リッピー号の祖父母たちとまったく同じであるから、B〜Eの翔歴は説明するに及ぶまい。

 ■2羽の血統表と交配法    2020年7月17日(金) 4:10 修正
 ”リッピ号ーの血統表”は、リッビー号の5代先祖までの鳩と、さらに基礎鳩”オールド・スレート号”との関係を示すものであるか.父系と母系を入れかえて見れ.ばブルー・キング号の血統表とも云えよう。

 この表からは、オベル氏の交配法を知ることができる。すなわち、同じ近親交配でも、彼は、兄弟交配とか親子配合を避けて、大抵の場合、「直子×孫」または「孫×孫」という段階での交配を最も多く行っているということである.そういった近交が、この1つの系統表の中で何十回となく繰り返されてきているのである。

 そのほか、いかに慎重に4鳩が選出されてきたかも探知することができよう。それは、少なくとも3歳以上に成長させた鳩を種鳩として蕃殖を重ねてきていることなどから察せられる。多少無理をすれば3〜4年で5代から6代の鳩を累積させることができるのに、オペル氏は30年から40年の歳月をかけているのである。やはり”ローマはー日にてはならない”のだ。――このリッピー号の血統表は、このようにわれわれ愛鳩家に限り)ない夢と希望を与えると同時に、幾多の考えさせる要素を含んでいると云えよう。

 ■リッピー号の5代先祖までの翔歴■    2020年7月17日(金) 4:15 修正
 リッピー号の場合,4代先祖までの30羽とリッピー号自身を合計した31羽による800粁以上の記録の合計は218回にのぽり,この表のごとく5代先祖までを含めると,800粁以上312回記録。ということになる。

 また,1000粁以上だけの記録を拾ってみても86回にものぼっている。とにかく,800粁以上を記録していない鳩は基礎鳩をのぞけばリッピー号の祖母にあたる鳩がl羽いるだけという。こんな見事な血統書は,他の世界中のどんな有名な鳩舎の,どんな鳩を選んでみても絶体に見つけることはできないであろう。

 リッピー号が,これだけ近親系になっていながら.なおかつ最長距離のチャンピオンとなり得るということは。このように代々の種鳩の性能をじゅうぶんに検定したのちにストックさせたからであるといえる。

 また、ブルー・キング号の場合も、自身を含めた4代先の先祖までの31羽による800粁以上の記録合計は207回にのぼっている。

 (註、故すペル氏は800粁以下の記録にばまったく閔心がなく.何らのメモも残されていない)

こうして見てくると.私がここで声を大にして「名実ともに世界最高の血統をもっている鳩はリッピー号とブルー・キング号だ!」
 と云ったとしても、誰も何らの疑義をさしはさむ余地はないものと信じる。

 ・・■リッピー号の5代先祖までの翔歴■    2020年7月17日(金) 4:19 修正

 引用資料(5) 『リッピー号とブルーキング号』(宮沢和男編集『世界の銘鳩物語』より)【5】《2羽の銘鳩の出生と来日と、そして死》    2020年7月17日(金) 4:25 修正

 ■ツノコブを持ったリッピー号の翔歴■    2020年7月17日(金) 4:28 修正
リッピー号(MCCA56−5725 灰胡麻 雌)は、1956年の春にオペル鳩舎で生まれている。オペル氏はこの鳩の一生に大きな期待をかけたが、それは両親鳩が.いずれも彼の血統の第一の主流をなす鳩であったからにほかならない。父鳩はすでに800粁を8回記録しており、母鳩も800粁を9回記録していて.ともにオペル氏の目標とする^記録を達成した鳩であった.

 父鳩は8歳.母鳩は9歳に達していたが.作出されたリッピー号は.オペル氏の念頼したとおりの体型を備えていた。

 しかも,写真でもわかるとおり,くちばしの下にツノコブがあらわれ,オペル氏をこの上なく喜ばせた。このツノコブを持つ鳩は数子羽中に1羽と,ごくまれに現われるものだそうで,アメリカ鳩界でば幸運をもたらす鳩″として大変珍重がられているのである。

 果せるかな,リッピー号は,非。常に血の濃いオペル近親系でありながら,1957年から60年までの4年間に,300粁以上の公認記録延飛翔距離だけでも11200粁に達するという大競翔鳩となり得たのである。しかも,1960年には,オペル鳩舎に,MCCAの1100粁レース(実距離1120粁)総合優勝の栄冠をもたらせたのであった。

 リッピー号の記録は,次のとおり。
 1957年(1歳)には,320粁;480粁,640粁,800粁,800粁と5つのレースを記録している。
 1958年(2歳)は,480粁,640粁そして1000粁を記録。
 1959年(3歳)は,320粁,640粁,800粁,1000粁と3度めの800粁と,2度めの1000粁を記録。
 1960年(4歳)にも,480粁のほか,4度めの800粁と3度めの1000粁,そして最後に1120粁で優勝を遂げたのである。

  ■ブルー・キング号の翔歴■    2020年7月17日(金) 4:34 修正
 一方,ブルー・キング号(M C C A58−7852灰 雄)は,リッピー号におくれること2年,1958年にオペル鳩舎で生まれたが,その後,800粁を3回記録し,1000粁を1回記録している。800粁3回のうち1回は1864羽の参加鳩中の91位であるという記録が残っているが,作出使搦者のオペル氏や,オペル氏の鳩舎の記録に特にくわしかったジョンストン氏の両氏ともにすでに故人となってしまっているために,これ以上の詳細は明らかでない。

 タイプは,オペル系を代表する典型的なもので,オペル氏がよい選手鳩で種鳩として好んだ広い眉間をもっていた。また頑丈な骨組みをしていた。

 しかし,体は決して大きくなく,姿勢もよくはない。むしろ中型の小で,頚部をすくめたような,あまり風釆のあがらない体型といえよう。

 ■故ジョンストン氏の最後の手紙■    2020年7月17日(金) 4:37 修正
 アメリカ最高の系統であり,世界でも今では5大系統の中に数えられるに至っているオペル系の最高鳩を日本へ導入するにあたっては,やはり大阪の任秀夫氏の積極的な努力がなくては実現することがなかったであろう。

 任氏は,故オペル氏とは直接交際はなかったが,オペル氏の先輩であり,親友であり,まだオペル・ブック″の編者であるA・S・ジョンストン氏とは再三にわたって文通を交わしていた。彼は,オペル系について特に知識の豊富なジョンストン氏との文通によって,かなりくわしくこの系統を理解することができたようであったが,調査すればするほど,すばらしい,そして世界に類例のないほどに飛びっづけているオペル系に限りない欲望を燃やした。

 任氏は,オペルの最高鳩を入手すべく,アメリカに留学中の令弟(任秋夫氏)をA・S・ジョンストン氏のもとへ赴むかせたが,残念なことに,そのわずか2〜3週間前に,ジョンストン氏はこの世を去ってしまっていたのである。

 こうなってしまっては,この系統の研究は,ジョンストン氏と交わした手紙や,オペル・ブックや,そしてオペル系の後継者としてオペル氏の鳩を引き継いだビール兄弟の指導をまつ以外になくなってしまった。

 オペル系の入手にあたっても,直接ビール兄弟鳩舎へぶつかる以外に方法がなくなってしまったわけであるが,幸い任氏は。故ジョンストン氏からビール兄弟を手紙で紹介されていたのである。

 しかし。故オペル氏は,友人にさえも鳩を売らない人であったことを知っている任氏は,ビール兄弟からの購入も容易でないであろうことを予想していた。

 それでも,生前にもらった故ジョンストン氏のつぎのような手紙に力を得て,ビール兄弟への交渉を開始した。

 ●故ジョンストン氏の手紙  。

「私は、故」・L・オペル氏とは51年間の親友であり,オペル氏が死去する直前にも会うチャンスを得たことを今もなお喜びとしています。

 オペル氏は,鳩に関しては何でもかんでも知っているベテランの愛鳩家でした。

 1926年に1度鳩を売る広告を出して,彼の飼育する鳩の数羽を手放したことがありましたが,あとでそのことを深く後悔し。その後どんなに有名になっても鳩を売ることを好まなかったというほどの,いわば変り者でした。

 事実,その後,死去しても,鳩を売ることなく,主力をビール兄弟に引き継がせたのでした。

 オペル氏は,生前,日本に鳩を送ったことはありません。彼の系統がアメリカの他の鳩舎からまわって行ったのがあるのでしょう。

 しかし、そうして他からまわっていった鳩が日本で飛んでいるということを聞けば,私以上に喜んだことでしょう。他の異なった地形の国でテストされることは大変意義の深いことです。

 私は,故オペル氏の後継者であるビール兄弟に,日本にオペルの鳩を送るように何回も助言しました。もし,オペル最高鳩の渡日が実現すればきっと,間もなくオペル本来の能力を発揮し,オペルの過去を知る以上に,日本のオペル愛好者に新しい喜びを与えてくれるでしょう。……後略……。 1964年4月   A・S・ジョンストン 』 

 これが,故ジョンストン氏からの最後の言葉であった。

 ■後継者のビール兄弟鳩舎へ■    2020年7月17日(金) 4:44 修正
 手紙をもらった任氏は,さっそく令弟の任秋夫氏をジョンストン氏宅へおもむかせたが,たった2〜3週間前に死去されてしまっていたことは前述のとおりである。

 やむを得ず,オペル鳩を引継いで飼育中のビール兄弟の鳩舎を,ジョンストン氏の手紙をたよりに訪問することとなった。

 任秋夫氏は,1964年6月13日にビール兄弟鳩舎へ到着した。

 ワシントン空港まで出迎えた兄のグレン・ビール氏夫妻に案内されて,ビール一家の住んでいるワシントンの北20粁のロウレル市にむかった。まだ新築したばかりのモダンなレンガ造りのグレン・ビール邸に着いた任氏は,さっそく鳩舎を見せてもらった。

 約5坪ばかりの鳩舎は,家から20メートルほど離れた裏庭の隅にあり,その後方は市の所有する5エーカーばかりの雑木林で,林の中には小川が流れていて,まったく自然に彩どられた理想的な立地条件を有し,鳩ものびのびと芝生の上でたわむれ合っていた。

 令兄のグレン・ビール氏と令弟のラッセル・ビール氏とは隣り合わせに住んでいて,2人の家も鳩舎も,ともに芝生の地続きであった。

 グレン・ビール氏は,ワシントン市の海軍局勤務。ラッセル・ビール氏はロウレル市の郵便局の局長である。

 ビール兄弟が鳩を飼いはじめたのは,1919年で,彼らの父がそれ以前,十数年にわたってやはり鳩を飼っており,現在のグレン・ビール氏の鳩舎は父親が建てたもので,この兄弟は生粋の愛鳩家ということができよう。そんなわけで1926年までは,父親の名前でレースに参加していた。

 彼らが,はじめて故オペル氏に会ったのは1928年であったが,オペル氏から最初に鳩をわけて貰つたのは1940年で,その後,オペル氏が1961年の8月に死去するまで,最も親しい友人として,共に鳩飼育,レース参加に励んできたのであった。

 オペル氏は,終生を独身で過ごしたため,あとを継ぐべき子供もなく,ビール兄弟を自分の樹立したオペル系の信頼にたる後継者として,自分の死後すべての鳩を引き取ってくれるよう遺言を残したのである。

 そこで,約150羽の中,主に種鳩鳩舎の鳩はグレン・ビール氏に引き取られ,選手鳩,若鳩鳩舎の鳩はラッセル・ビール氏の鳩舎に収容された。

 ■遂に交渉成立して日本へ■    2020年7月17日(金) 4:49 修正
 任氏の訪問に,ビール兄弟は,
 『オペル鳩を引継いで以来,オペル氏の健在な頃に氏の鳩を幾度も求めて得られなかった多数の愛鳩家が,このことを伝え聞いて,どんなに高価でも良いから,是非,オペル作の鳩を分けてくれと云ってくるが,オペル氏の遺言を堅く守っている』
 と繰返えすのであった。

 任秋夫氏も,このビール氏の言葉に,先に一本釘を刺された型になってしまい,最初の夜は,銘鳩分譲の件を切り出すことはできなかったということである。

 以下ビール兄弟鳩舎におけるオペル鳩購入交渉の情況を,「愛鳩の友」誌の1965年5月号に掲載した任秋夫氏のアメリカからの手紙を再公開してみよう。

『前略
 代表鳩の購入交渉は非常に難航し,両兄弟とも最初の3〜4日は首をたてにふってくれなかった。両兄弟あわせて約500羽の鳩を飼っているが売る鳩は1羽もいない。まして故オペル氏作出の鳩は,彼の遺言もあり絶体におけることはできなと云って,がんとして受け付けてくれない。

 しかし,こうしてはるばるビール兄弟を訪れてきている自分なので,だまって引き下るのも業腹だし,あなたたちが鳩を分譲してくれるまでは,ここで居候をつづ`けるといったら,さすがに驚いたようであった。

 こうして2日間の予定が,4日ものびてしまったが,その間,オペル氏の残した記録簿や,ビール兄弟の記録誌を調べ,それを参考に,鳩を片っぱしからつかんでみて,よさそうな若鳩,記録鳩をメモすることができた。

 渫在日数がますにつれて,両兄弟も,私の誠意を理解してくれて,まえとは変って好意的な態度を示してくれた。

 こうして,ビール氏作の数羽の若鳩をわけてもらえることになったが,価格のほうは予想をはるかに越える額を要求された。しかし,それをよろこんで承諾するよりしかたがなかった。

 次に,現在最高の種鳩になっている,故オペル氏の秘蔵鳩゛ブルー・キング号″どリッピー号″の一つがいをわけてもらいたいと申し込んだところが,両氏は,あきれたという顔をしながら,固し拒絶されてしまった。しかし,数回のひぎづめ談判のすえ,とうとう待望のこの一つがい,オペル最高の種鳩を譲ってもらえることになったのである。
――中略――
 こうして,まるまる6日間をビール家ですごしたわけであるが,この6日間の滞在は,結果的には満足のできる成果をうる貴重な時間としてすごされ,決してむだなことではなかったと思う。
――後略――」

 1964年7月には,任秋夫氏が購入したりツピー号,ブルー・キング号をはじめとする故オペル氏の作出鳩数羽と,ビール兄弟の作出鳩たちが日本へ到着した。

 任秀夫鳩舎の飼鳩休止によって,アメリカ鳩界の秘宝といわれるオペルのこの一つがいも,私の鳩舎に移ったが,それは1965年8月20日のことであった。
 
しかし,リッピー号の寿命は長くはなかった。17羽の直子を作出し,やがて病気となり1968年2月17日に,東京都内の某動物病院で満12歳に満たない生涯を閉じた。

 ■リッピー号の子鳩作出状況■    2020年7月17日(金) 4:53 修正
 リッピー号を手にした時,私は任氏に,卵は産むのかね……と思わず尋ねたほどきゃしゃな感じの雌であった。
 「卵のうみはとても良いよ」        ゛
 と云った任氏のことばどおり,1966年春から開始したブルー・キ。ング号との作出は非常に好調だ'つた。6月1日までに7羽の子鳩が作出されたのである。その中の2羽を種鳩用に確保できたので,私は次にヨーロッパの銘血との異血交配を考え,ル・ロア号と配合して5羽を得た。

 いずれも,オペル系のタイプの鳩ばかりで。さすがにその血の濃さと遺伝力の強さを物語っているようであった。もちろん中型の小ばかりである。

 1966年暮から翌年1月にかけては,ワールド・キング号と配合されて2羽の雌鳩を作出した。2羽ともリッピー号の若い頃を思わせるような鳩である。

 春になると,ジュピレ2号と配合された。これは私かもう少し立派な鳩を作ってみようと思っておこなったもので,フランスのドルダン氏作の大柄で美しいジュビレ2号との作出鳩を,興味をもって待った。しかしやはI〕オペル・タイプである。

 春の産卵をおこなっている頃から,リッピー号のくちばしのわきにあるツノコブの下あたりに,腫瘍ができた。はヒめは,気にするほどのものでなく,分離して休ませる程度であったが,夏ごろから次第に大きくなり,私は2〜3回切開手術を施した。しかし手術しても,手術しても,2〜3週間もたつとまた腫瘍は大きくなり,とても私の手には負えそうもなくなった。

 リッピー号は,依然元気は失なわず,餌もよく食べて,さはどやせもしなかったが,動物病院へ入院させてやることにした。

 私は,リッピー号の元気さから見て,まさか死ぬとは思っていなかったが,入院させてから,1ヵ月ぐらいたった]968年2月17日,不意に死亡連絡をうけたのである。

 私か作出したりツピー号の直子は,合計17羽で,私はその中の5羽を種鳩用に残した。いずれも一目でリッピーの直子であることが判るような顕著な特徴のある鳩ばかりである。

 「私は死んでも,オペル系は死なない」
 と故オペル氏は云った。

 オペル氏が死去して8年めに遂に彼の遺作中の最高鳩は死亡したが,血統どオペル″の名は連綿と続いて残っていく。

 ■ブルー・キング号の子鳩作出状況(1971年春まで分)■    2020年7月17日(金) 4:59 修正
 ブルー・キング号は,非常に精力的な雄鳩である。やたらに他巣房と喧嘩したりして自分の巣房へは他の鳩を近づけない。与えられた雌鳩とはすぐつがいになり,1968年末までの間,ほとんど無精卵を。出したことはない。

 私の鳩舎へ収容されるや,仮鳩舎の雑居生活の中で,ハフナー号を配偶鳩として自ら選び,まず1羽を作出した。             ・

 やがて,新しい種鳩鳩舎に落着いてリッピー号と配合されると,1966年の春7羽を作出し,ホーノレウイット号と7月に1羽,暮にはエタロン2号と2羽を作出した。このエタロン2号との作出で出来た灰胡麻雄(67一宮沢127)は,私か特に期待をかけるような素晴らしいものであった。

 1967年春は,ウェルデン6号との作出で過ごした。
 その秋は休養のため,まったく作出されていないが,翌1968年は,1年間に4羽の雌鳩と,つぎ

【以下資料落丁の為引用終了】

 5羽のオペル系 岩田系 基礎鳩  深澤 昌樹  2020年7月14日(火) 6:34
修正
岩田孝七氏が1954年に持ち帰った5羽のオペル系鳩の貴重な写真をありがとうございます。この鳩達が日本へ送られていたとはジョン ルイス オペル氏は
知る由もなかったであろうと 前述した資料等々からうかがえます。
数えたらきりがなかろう日本でのオペル系鳩の活躍を もしオペル氏が生前に知ったら つぶさにその内容を調べて喜ばれたと思います。
静岡の地では小林勇氏を経由してオペル系鳩が浸透して多くの稚内1200キロを飛翔帰還鳩を輩出しています。
オペル様 ありがとう !!! 何度でも繰り返し申し上げたいです。
また、オペル系の特集を組んでいただきましたイレブン様へも
ありがとう!!! 感謝感謝です。引き続き何卒よろしくお願い致します。

 小林勇鳩舎の基礎鳩5910号にまつわる伝聞  イレブン  2020年7月14日(火) 16:56 修正
岩田考七がアメリカより持ち帰った5羽のオペル鳩の一羽、5910号がどういう経緯で小林勇鳩舎に導入されたのか。このことについてイレブンはかつてこのように聞いたことがあります。その真偽を含めて、小林勇の地元ではどのような話になっているのか、ご存じのことがあればレスして頂けませんか。

イレブンがもう40年以上前、伝え聞いた話はこうでした。

(※なお、イレブンは故人となられた方の名前表記については、敬称を付けないで表記するという慣例に習って記述することにしております。ご了承ください。)

 そもそも、小林勇と岩田孝七は幼馴染の関係にあり、考七が海外渡航から鳩を持ち帰った頃から、オペル鳩を始めとするそれらの輸入鳩の存在を知っていたらしい。
 そんな親しい人間関係でもあったので、日本海号などの活躍以降、門外不出となった777×619の直仔、383193号もかなり早い段階で小林鳩舎に導入していた。
 5910号については、小林勇のお気に入りで、何度も譲ってくれという話をしたが、さすがに岩田孝七は首を縦に振ることはなかった。
 しかし、ある日、孝七からいきなり「今すぐ30万円(20万円だったかも知れない)が用意できるんだったら、5910号を持って行ってもよい」との電話があり、小林勇すぐさま現金を用意し5910号を持ち帰った。
、という話です。

 イレブンは、この話を静岡の小林勇鳩舎に訪問して、小林勇自身の口から直接聞いたと言う人物から伺いました。ずいぶんと以前の話ですが、地元ではどのように伝わっていますか。もし小林勇鳩舎の基礎鳩に関して何かご存知のことがあれば教えていただけませんか。

 リッピー号を悼む MCCA51-5910 RC  深澤 昌樹  2020年7月12日(日) 22:33
修正
イレブン様、、、、(スネーク パパと勘違い)
オペル系に心酔している者としてはリッピー号の日本での最後に関しては悲しく何ともやり切れない気持ちでいっぱいです。
小生が考察する岩田系の基礎鳩であるオペル系は、J.L.OPEL氏が懇意で渡した愛鳩家が鳩のディーラーであるアカルディー氏の熱意により(岩田孝七氏がどうしても必ず帰還する長距離系の鳩が欲しいという強い要望に応えて)極秘でオペル氏に内緒で譲った。だから、その後 岩田孝七氏に譲渡した5羽のオペル系の輝かしい異国日本での活躍をオペル本家本元のジョン ルイス オペル氏へ伝える事は出来なかった。これも何ともやり切れないフラストレーションのたまる事実ではなかろうか!
1600キロ優勝のビービークイン号の血統書には岩田孝七氏から小林勇氏へ譲渡されたMCCA51-5910 RC OPEL x 56-383193 BC(777 x 619)の直子
60-33076 RC ♀が2重に母親鳩に流れています。
きっと ジョン ルイス オペル氏は 天から見守られて解っておられると思います。オペル鳩永遠に不滅ですとね^.^
そして小生が縁あって巡り合ったオペル系の末裔が静岡東の地域で今も力強く空高く羽ばたいていると!!!
GOD BLESS OPEL STRAIN !!!

 イレブンも同じように考えていました。  イレブン  2020年7月13日(月) 4:32 修正
深澤様と同じようにイレブンも考えていました。あくまで、推察ですが、こう考える以外に、あの岩田孝七が3622や619の生みの親のJ.l.Opelにコンタクトがとれなかった理由が成立しません。

おそらく、岩田兄弟を始め、日本鳩界の全ての人が、任秀夫氏のリッピー号の導入による「オペル系は永遠に生きている」の論文を目にするまで、J.l.Opelの人物像とその系統の全貌をだれも知らないままの状態だったのではないかと考えられます。

岩田兄弟自身も、「オペル系」という名称は岩田系初期の段階では使っていません。活躍鳩の系図に書かれているのは「オペル作のローガン系」と記しています。

A.S.JohnstoneがJ.l.Opelと相談しながら編集した『THE OPEL BAIRDS』(『オペル・ブック』の原本の表題名)が発刊されたのは「1949年」だったとされています。

 そうすると、岩田孝七が鳩を持ち帰った1954年2月より1964年の12月任秀夫氏の論文発表までの約10年間も、ボルチモア方面で圧倒的な長距離レースの大チャンピンであったJ.l.Opel・「オペル系統」の存在やその全体像を知ることが出来なかったことが、なんとも釈然としません。

 仮に、アカルディ氏が何らかの事情でJ.l.Opelや「オペル系統」の存在のこと意図的に隠していたとしても、当時の日本鳩界の系統研究者の多くは、『American Racing pigeon News』誌を通じてアメリカ鳩界の情報を入手していたはずですので、いくらでも直接J.l.Opelとコンタクトを取ろうとすれば出来たことではないかと考えられるのです。

 岩田兄弟がおられない今となっては、このあたりの事情を推察する唯一の手がかりは、『オペル・ブック』前書きに「日本における『オペル研究会』の諸君へ」として掲載されているA.S.Johnstoneの手紙文しかありません。後日その全文は掲示板でも取り上げますが、A.S.Johnstoneの手紙には、次の記述が記されています。

「生前のオペル氏は決して自分の鳩を誇らしげに自慢したりは致しませんんでした。自分の思いにかなった理想の鳩を作ることに全力を注ぎ、またそれが達成される事に大変満足していました。そしてオペル氏によって作出使翔された、宝石にも匹敵する素晴らしい鳩達は、惜しげもなく彼の業績を賞賛する、多くの愛鳩家へ贈呈されたのでした」

このA.S.Johnstoneの手紙記述から、ここで取り上げている疑問の回答を次のように推察することが出来ます。

(1)「生前のオペル氏は決して自分の鳩を誇らしげに自慢したりは致しませんんでした」ということから、おそらくアメリカ鳩界のメジャー誌の取材を一切拒否していてJ.l.Opelのことが雑誌に載ることはなかった。J.l.Opelは、雑誌の載ることで自分の作ったオペル系が商売に利用されてしまうことをなによりも嫌っていたと考えられます。

(2)「オペル氏によって作出使翔された、宝石にも匹敵する素晴らしい鳩達は、惜しげもなく彼の業績を賞賛する、多くの愛鳩家へ贈呈されたのでした」ということは、アカルディが岩田孝七を連れて行った「オペル系を専門に飼っている鳩舎」が持っていたオペル鳩はそうした鳩だったと言うことになります。アカルデイが余りに熱心にいうのでオペル氏から贈呈されたオペル鳩を内緒に譲ったと推察できるのです。故に岩田孝七が持ち帰った5羽のオペル鳩は、あくまでオペル氏には、内緒に譲渡された鳩だったと考えられます。

 事実、このA.S.Johnstoneの手紙の全文を読む限り、日本に1954年段階でJ.l.Opel作のオペル鳩が渡っていて、既に大活躍しているという事実には全く触れていません。当然、1961年8月に亡くなったJ.l.Opel本人も、自分の鳩が遠い日本の地で活躍していたことを亡くなるまで知らなかったのではないでしょうか。

 更に考えられることは、このオペル系の全貌を明らかにした『THE OPEL BAIRDS』は、一般に公開販売されていたのでなく、完全な私家版として発刊され、オペル系を愛好していた関係者の間だけで読まれていたのではないかと考えられます。

 それは、日本人が初めてこの本を目にしたのは、リッピー号導入時のことだからです。おそらく、任秀夫氏の令弟秋夫氏がビール鳩舎に訪問した際、始めて手にしたのでは無いかと考えられます。任秀夫氏はご存命なのでこのあたりの事情はご本人がよくご存じのはずです……。

 このように考えていくと、岩田孝七がニューヨークの小鳥屋さんにインコを探しに行った事から始まる日本鳩界とオペル鳩との出会いは、なんとも不思議な縁で結ばれた出来事だったと思えてなりませんね。

 この時のオペル系との出会いがなかったら、日本人がオペル系の存在を知ることもあり得なかったし、オペル系の導入がなかったら、ビービークイン号を始めとする数々の超長距離鳩が誕生する歴史が綴られることは無かったのですから。

 そして、きっと、21世紀の今日、インターネットの掲示板でこのように、J.l.Opelの鳩のことを話題に盛り上がることもあり得なかったでしょうから。

 J.L.Opel リッピー号  深澤 昌樹  2020年7月12日(日) 12:14
修正
オペル系特集 拝読させていただきました。ありがとうございます。
いまさらに思うのですがリッピー号は日本へ譲渡されるべきではなかったと思います。ですが、リッピー号が日本へ来たことによりリッピー号の情報が我々に届けられて日本語記述が残り、今 リッピー号の哀愁に浸る事ができる。
当初リッピー号が12年の生涯を終えたのは短いと思いましたが、、、日本へ譲渡されてから当時の日本の愛鳩家による飼育管理が未熟であった事につきます。残念で仕方ないです。せめて東京の銘鳩収集家へ譲渡されることなく小生の勝手な思いですが、岩田誠三氏へ預けて頂けたらリッピー号の遺伝子が今も普遍的な力で我々の傍らに存在し得たような気がしてなりません。

ところで岩田孝七氏が1953年に欧米へ渡り16羽の鳩(内5羽がオペル系鳩)を土産に帰国、、、その中からアカルディー777号xオペル612号のカップルから3羽の岩田系の幹になる鳩が生まれた。その後のご活躍は言うまでも有りませんが、、、岩田孝七氏はどの様にして5羽のオペル鳩を入手されたのか知りたいです。なぜなら当時のJ.L.オペル氏は鳩を譲渡しない姿勢を貫いておられたからです。
小生の想像だとオペル氏が淘汰した払い下げ鳩をアカルディー氏を通じて入手できた????
オペル氏は、岩田兄弟によるオペル系の活躍を知らなかった?事を考察すると、、、やはりオペル氏が淘汰した鳩を何らかの形でアカルディー氏が活かして岩田孝七氏へ譲渡した???
そこのところが不思議でなりません。
スネーク パパ様 いかがでしょうか!

 J.L.Opel が知ったら、どのように嘆き悲しんだことだろうと胸が痛くなります。  イレブン  2020年7月12日(日) 14:16 修正
お尋ねの件は、丁度昨年9月頃より着手した『岩田系大研究』の「(2)岩田系初期基礎場鳩導入の経緯  @ 岩田孝七の回想談話より(『鳩友』誌72年4月号、「長距離大レースにかける岩田兄弟」)》」のところで調査をしていた内容でしたので、過去ログから引っ張り上げました。

過去ログは、この掲示板の最後のところに数字が列挙されている所をクイックするとそのページが開きます。「岩田系大研究」22〜25当たりからその記事が沢山出てきます。こうした記事は、時間がとれるようになってから、それぞれの連載単位で読むことが出来るように編集する予定です。今はまだその時間的な余裕がありません。

さてお尋ねの件は、岩田孝七の回想談話によると、5羽のオペル鳩は、どうも、アカルディさんが知っている「オペル系専門で飼っている鳩舎」に岩田孝七さんを連れて行ってそこで購入したと言うことになります。

 イレブンは、岩田孝七がアカルディを通して手にしたJ.L.Opel 作の5羽について、J.L.Opel が「間引き」の為に業者に売り裁いた鳩では無いと判断しています。

 おそらく、J.L.Opel が「鳩を売らなかった」との意味は、そうした間引き鳩の販売をしていなかったと言う意味ではないかと思っています。

 その根拠は、毎年あれ程の記録鳩を出し続けてたと言う事実です。あれだけの記録鳩を出し続けていたと言うことは、作出した鳩を全て訓練やレースに出し続けていたと考えられるからです。

 そして、何らかの人間関係がある人物に限り、自分の作出鳩としてキチンと譲っていたのではないかと考えています。そのくらいの人物でなければ,今も生き続ける本物の血統オペル系を確立することはできなかったとイレブンは考えています。

 更に、日本に持ち帰った後の驚異的な岩田系オペルの活躍そのものが第1級のオペル鳩だったことをなによりも物語っています。

 こう考えるとオペルは鳩を分譲していなかったと伝えられていますが、身近な数名の方には鳩を譲っていたというのが事実のようですね。しかし、アカルディが連れて行ったその鳩舎の名前は、帰国後の岩田孝七から一度も明らかにされていません。

 777×619を始めとするオペル系がいきなり活躍したのですから、当然、岩田孝七はオペル鳩を手に入れようとアカルディにも問い合わせたに違いないのですが、そのことを示す資料はまだ目にしたことがありません。何よりも不思議なのは、J.L.Opel は1961年8月1日まで存命していたわけですから、岩田兄弟が何らかのコンタクトを取ったとしても不思議ではないのですが……。

リッピー号は、1965年8月20日に東京の宮沢和男鳩舎に引き取られています。

ブルー・キング号との配合でその最初の雛が作出されたのが1966年3月19日です。

それから、その年の年末まで、ほぼ20日間隔で連続14回産卵させています。全てリッピー号は産卵だけさせて仮母に育雛をさせるという正にブロイラー並の扱いです。

体内リズムは完全に波長を崩し、精神的なストレスも相当かけ卵を産ませ続けるその様子をJ.L.Opel が知ったら、どのように嘆き悲しんだことだろうと胸が痛くなります。

その翌年も、1月から、産卵させ続けられ、体調を崩した後も少し休ませた後更に配合され4月中旬までに4回の産卵をさせられ、ついに、限界に達して病院で手術そして退院また手術を繰り返し、正に廃人ならず廃鳩のようになって1968年2月17日、宮沢鳩舎に来て2年半後に死亡しています。

深澤様がおっしゃるように、リッピー達オペル作の銘鳩達が岩田誠三氏に預けられていたら、21世紀の今日でもきっとリッピ号やブルーキング号のラインが生き残っていただろうと思います。

※なお、スネークパパさんこと竹中啓一氏は、現在本業の陶芸家として専念されています。もう2年以上この掲示板には登場されていません。そこで、スネークパパさんへのお尋ねでしたが、イレブンの方でお答えしました。

 【参考資料】岩田系のオペル系基礎鳩  イレブン  2020年7月12日(日) 16:09 修正

 『岩田系大研究』《第U章「基礎鳩研究}》1 岩田系基礎に導入された5羽のJ..L.オペル作出鳩   イレブン  2019年9月11日(水) 22:02
修正
岩田系におけるオペル系の存在は極めて大きいものがあります。基礎鳩として活躍した5羽のオペル鳩の特徴を把握した上で、岩田系鳩を解釈する必要があるとイレブンは考えています。

 ・  イレブン  2019年9月11日(水) 22:04 修正

 (2)岩田系初期基礎場鳩導入の経緯  @ 岩田孝七の回想談話より(『鳩友』誌72年4月号、「長距離大レースにかける岩田兄弟」)》    2019年9月13日(金) 16:30 修正
777号そしてJ.Lオペル作の5羽などの岩田系初期基礎鳩の導入の経緯については幾度も記事なっているので、岩田孝七氏が渡米のおり、弟誠三氏に依頼されていたインコを購入する為に立ち寄った小鳥店を通してアンソニー・アカルディに出会い、そこから基礎鳩導入が始まったことはよく知れ渡っています。しかし、その詳細については知られていないことが結構あるようです。

しかし、このことについて、鳩界誌『鳩友』72年4月号に特集された「長距離大レースにかける岩田兄弟」の中で岩田孝七氏ご自身がその経緯を詳細に亘って語ってられます。イレブンが知っている資料の中では、この記事が最も具体的な内容が書かれています。これまで、余り知られていたかった事実や777×619が配合される経緯も記されています。岩田系ファンに取っては興味深い内容がいくつも語られています。抜粋して引用しますね。


「=戦後= 私が戦後派とを飼い始めたのは、昭和28年(1953年)のことである。まあ、これから皆さんがよく言われている岩田系の第一歩が記される訳です。

私は戦前、ハイツマンの輸入鳩を購入した頃から、今度始める時は輸入鳩でスタートしたいと兼ねてから思っていた。そんな頃、丁度、商用でアメリカへ行く機会ができた。

弟は、その頃小鳥を飼っていて、アメリカで小鳥を買ってきてもらいたいと頼まれた。それで、アメリカで商用を済ませた後、小鳥屋でインコを買おうと訪ねてみた。ところがインコは手に入らなかった。そこで、鳩を飼っているプレジネントを知らないかと聞くと、それはよく知っているとの言葉が戻ってきた。そこで紹介してくれたのがアカルディ氏であった。ニューヨークには25日間滞在し、アカルディ氏とは日曜日ごとに会っている内に優秀な鳩がいるのなら導入してみようと思った。それで、アカルディ氏に3回目にあったとき、思い切って鳩を譲ってくれないかと話した。

アカルディ氏もかなり乗って来てくれ「どのよう鳩がいいか」ということになり、それから数日、アカルディの鳩舎にいって鳩を見せてもらうことになった。

訪ねてみると比較的大型な鳩ばかり飼っていた。私は、戦前の鳩に対するイメージから、どうしても1000Kを飛べる鳩が欲しかった。そこで、アカルディにその点だけを強調した。

すると、アカルディは意味が飲み込めなかったのか「どういう鳩がいいのか」ともう一度尋ねてきた。

私は「1000Kを帰ってくる一番信頼の置ける鳩を譲って欲しい」とズバリ答えた。それでやっとこちらの気持ちが伝わったのか手を顔の近くで振って頷いているようであった。そこで、鳩舎から持ち出してきたのが777と755の2羽であった。

アカルディがテーブルをたたいて示すには、これは絶対に負けない777と755は絶対に負けない鳩だということであった。

しかしながら、その鳩を手に取ってみると、それは誠にお粗末な鳩であった。私は幾分ガッカリしたが、アカルディがしきりに「絶対に負けない」とジャスチャーを含めて力説するので、私はその言葉を信じてそれを入れてみることに決めた。

他の鳩舎を紹介してくれないかと尋ねると「オペルがいい」と言われた。オペルのことはそれまで何の知識もなかったので、オペルはどういう鳩なのかと聞くと、「オペルは長距離を帰ってくるのに非常に優秀だ」と言うことだった。そこで、アカルディに引き連れられてオペル系を専門に飼っている鳩舎を訪ねてみた。そこでも「オペル系は絶対だ」と力説するので、それではオペルも面白いだろうということで入手することにし5羽のオペルを入れた。※注1(イレブン)

後は戦前入れたハイツマンからシオン1羽とブリクー、スタッサールを1羽ずつ入れて、次の訪問国、英国の鳩舎をアカルディに訪ねると「エドモンドソンとロビンソンとチーサムを訪ねなさい」と言われた。※注2(イレブン)」

岩田孝七の回想談話はまだ続きますが、ひとまずここまでを引用します。

この回想談話で基礎鳩導入の経緯が次のような内容だったことが明らかになっています。

@「1000Kを帰ってくる一番信頼の置ける鳩を譲って欲しい」との岩田孝七の熱意が伝わってアカルディが鳩舎から持ち出してきた鳩が【777】と【755】の2羽だったこと。

A「他の鳩舎を紹介してくれないか」との岩田孝七の依頼でアカルディが引き連れていったオペル系専門の鳩舎で購入したのがJ.L.オペル作の5羽。このオペル系専門の鳩舎の名前は不明。

B「ハイツマンからシオン1羽とブリクー、スタッサールを1羽ずつ」とあるのでハイツマン鳩舎から3羽(直接か間接購入かは不明)

以上、最初の訪問国アメリカで購入したのが10羽となります。


 (3)岩田系初期基礎場鳩導入の経緯  A 岩田誠三の回想談話より(CH誌81年10月号「私の懐鳩譚」より)  イレブン  2019年9月13日(金) 21:12 修正
先の岩田孝七の基礎鳩導入の回想談話の10年後、『チャンピオン』誌81年10月号で弟の岩田誠三が基礎鳩導入の経緯を弟の目を通した経緯が語られています。CH誌の記事によると、本当は兄弟両氏同席の上で取材をする予定だったようですが、兄岩田孝七の仕事の都合で同席できず、誠三だけの取材となったようです。しかし、この岩田誠三の回想談話が加わることによって逆に基礎鳩導入の経緯の実像がより明らかになっています。では、早速、抜粋して引用しますね。

「【戦後〜現代】戦後しばらくは、仕事を軌道に乗せることで忙しくて、とても鳩を飼える状態ではなかたですよ。
戦後、53年に鳩を入れるに当たっては、戦前のあの体型の大きいシオンで苦労したと言う経験から、どちらかというと、大形のトリよりは中か中の小位のトリのほうが使いやすいだろうという先入観がありました。今どんどん入ってくるような、座談会にでるようなそういう鳩は、戦後目標にしていなかったですね。もちろん頭にはありましたけれど、いわゆるベンジャミンスタイルのバーンとした鳩は、日本ではすぐ通用しないと思って、系統的にとにかく1000Kを立派に帰るということ、体型的なものよりむしろ頭脳的なものにウェイトを置いていたですね。でも、体型的なことについても、戦前の経験がありますから、一応バランスがいい鳩ということを基準にして、兄は導入する鳩を選んでいたようですよ。

その年、兄は、アメリカ、英国、ベルギーと廻って17、8羽の鳩を入れてきたのですが、実を言いますと、この時兄は鳩を導入するつもりは全然なかったんです。全くの偶然だったんですよ。というのは、その頃私は、やっぱり生き物が好きだったですから、インコを飼っておったんですよ。それで、兄が商用でアメリカに行くというものですから、私が、日本にまだ入っていないこういう可愛いインコを買ってきてくれとたのんで、写真と名前を書いた紙を持たせた訳なんです。そういうことで、兄がニューヨークの小鳥屋さんを歩いていて、たまたま小鳥屋さんの紹介でアカルディに会いまして、そこでやはり鳩の話が出て、それでは鳩を買おうか、と向こうで考えたんですよ。インコを買わずに鳩を買っちゃったんです。唯、聞くところによると、日本での手続きを全然せずに向こうで鳩を買ったもんだから、どうやって送っていいもの分かんなくて、困った兄が、ホテルの中で餌と水をやって飼ってたというんです。

そいうことだから、今のいわゆる岩田系の源鳩の導入については、私の考えは全く入っていないんですよ。100%兄の考えです。この鳩が家に来たときは鳩舎なくて、着いてから慌てて鳩舎を作ったもんです。」

岩田誠三のこの回想談話を合わせ読むと、我が国の長距離レースに最も大きな影響を与えた岩田系が「全くの偶然」の重なりから誕生したことがありありと伝わってきます。それにしても、鳩を買ったものの日本に持ち帰る術も見通しがつかない中で旅先のホテルで10数羽の鳩に毎日餌と水をやって鳩を眺めながらほくそ笑んでいた岩田孝七の姿を想像すると並外れた鳩キチガイぶりが伝わってきますね。しかし、イレブンが出会った方で、出張や旅先での鳩との出会いがきっかけで再開したという方は幾人もおられます。きっと多くの方が「オレも同じようなことをしただろうな」という気持ちで、後先を考えない岩田孝七の基礎場鳩導入の経緯を読まれたことだと思います。

 3)岩田系初期基礎場鳩導入の経緯  B アンソニー・アカルディ(愛鳩の友誌71年2月号「外国通が語り合う欧米鳩界裏ばなし」)  イレブン  2019年9月14日(土) 5:00 修正
ニューヨークの小鳥屋さんの紹介で岩田孝七が出会ったアンソニー・アカルディの実像について、愛鳩の友誌71年2月号「お好み対談:外国通が語り合う欧米鳩界裏ばなし」の中で興味深い記事がありました。対談の相手は、当時愛鳩の友社の相談役だった高野文太郎です。興味深い内容が載っていますので、当時、欧米鳩界の視察から帰国したばかりの岩田孝七が語っている基礎鳩購入に関係する所を全文を引用しますね。

「□あれやこれやのアカルディ氏□
■高野■アメリカなんかもヨーロッパからイギリスからも入れていますね。
■岩田■アカルディなんか特に色々なものを入れていますよ。人によっていろいろですわな。あれやこれやと手を出して入れる人と、自分の鳩で何処までも一本槍でやりたがる人と性格的にいろいろあるからね。アカルディなんか割合気が多い方で、いろんなものを手に入れて、よく知ってますわ、いろんなことをね。いわゆる一流鳩舎ばっかりで、よく研究してるね。あんまり研究しすぎて、いろんなものを手に入れすぎるものだからあとで鳩がきまらんですね。
■高野■あの方はニューヨークでしたね。ブルックインでしたか。
■岩田■今はプリンストンという所に移ったですね。ブルックリンというところは5階建てのマンションで不便だよね。今度はプリンスストンで広い約500坪ばかりの芝生の地面の上に鳩舎を並べてそこで飼ってるね。鳩を飼うために移ったんじゃないですか。
■高野■日本じゃアカルディといえば岩田さんがご紹介してから、アメリカの一流鳩舎ですからね。私の友人でフィリップ・ロバーツ・サイモンというのがニューヨークにいたのですが、それがよく知っていました。アカルディは役員でよくやってくれると言っておりましたね。
■岩田■そう、4,50年やっているんじゃないですか。ちょうど私が最初に会ったときにね。私の鳩の飼いはじめと同じくらいだなと思ったですからね。鳩なんか5年も飼えばいいんだからね。40年も飼う必要はないんでねえ(笑い)。実際の話はそうなんですから(笑い)。まあベテレンですよ。感心することは世界の鳩をよく知っていること。いわゆる外国通だ、アメリカにおける(笑い)。そして、いろんな鳩を手に入れているところ。鳩が好きですね。

 ・  イレブン  2019年9月14日(土) 5:37 修正

 ・  ・・  2019年9月14日(土) 10:25 修正
■高野■あの方自身はエドモンドソンの鳩は入れなかったのですか。
■岩田■僕は見なかったなあ。アメリカのどこかで経過がいいことを知って私に勧めてんじゃないですか。最初行ったときにそこへ行けというので行ったんですから、私は、苦労したですからなあ。
■高野■エドモンドソンというのは、当時の英国人はエドモンドソンnバーカーという風に言っていますね。
■岩田■当時は有名でしたからね。今はどうかな、ちょっとは落ちたでしょうけどね。死んだしね。
■高野■名は残っていますよ。
■岩田■そうでしょうね。
■高野■あとはサーベジィ・バーカーというのがいますがエドモンドソンのバーカーというのは残っていますね。死んだ時、残った鳩は全部、日本に送ったんだそうですね。
売る前にいいんはむこうで引込めたということですね。地元にいいのは残した。かなりオルトソンの近郊では持っているんじゃないでしょうか。
■岩田■ええ、あるでしょうね。オルトソンの近郊、マンチェスターあたりの有名鳩舎はそらくあそこの生まれじゃないですか。
■高野■そうでしょうね。
■岩田■エドモンドソンというのは恐るべき近親ですからね。私、最近思うのだけれど近親というものはかまわんと言う感じがするんです。ただひとつ条件があるんだ。Bクラスの鳩で近親しちゃいかんということだ。
■高野■そうですね。
■岩田■一級品ならどれだけ近親してもいいんじゃないかという気がしているだ。これは自分の鳩舎の中じゃ、それほど自慢するようなことも言えないけれど、外国などを見てあきれるような近親を繰り返していますな。鶏でもそうですよ、アメリカ人は。それで何の退化をした様子もないですよ。むしろ進んでいるという感じですよ。
あれを見ていて思うことは、近親は鳩を選べばかまわんんじゃないかと思います。まあ、相当のベテランじゃなきゃイカンということであるが(笑い)……考えられない近親ですよ。無茶苦茶ですよ。これとこれをつけてやったらきっといいと思うんですわと、涼しい顔をしていうからね。顔見ちゃうよ。コイツ何を言っているだろうってね。涼しい顔しているので、ハーッてなっちゃうけどね。
■高野■(笑い)……ファンブリアンでも近親をかなりしていますからね。
■岩田■やっぱり猛烈に近親して作ってきた鳩の子孫で花が咲きますね、私の体験上。エドモンドソンのバーカーがそうでしたし、オペルもそうですし、当たる率がいいんだな。これは理論的にもそうですし事実ですな。結果は理論道理でます。
だから、そういう鳩の中で自分気に入り、体型が完全な鳩をつくっていくということを進めているのですがね、私も好きだから。
■高野■ファンブリアンあたりでは、まだ老鳩もかなりおりましたか。
■岩田■おります。
■高野■どんな鳩が。
■岩田■ファボリーがいたな。13羽いたと思ったがな。
■高野■56,7年でしたかね。
■岩田■なにしろ、十何才で、まあ、一見して年食ってますけれど、雌付けて、雛を自分で育てているんですね。タマゲタですよ。
■高野■それを向こうではやるんですね。エンクという鳩はいませんでしたか。
■岩田■エ・ノ・ク?
■高野■灰の鳩で、羽をちょっと痛めているんですけども。
■岩田■見なかったな。なにか有名な鳩なんですか。
■高野■アングラを3回優勝したんですけども、ファンブリアン自身が。
■岩田■向こうは距離を言わないからな。頭を取ればいいんだからな。
■高野■ブルは20才まで仔を取ったというますけれど、あり得るんでしょうかな。
■岩田■そういう事実は特殊な技術があるな、理由はね、餌ですよ。
■高野■ダリですか。
■岩田■日本で言わせれば篠の葉だ。向こうに言わせれば、日本じゃ栄養の取り過ぎているということだ。
モナンなんかは麻の実もやるようなことを言うけれども、私はアメリカでも英国でもベルギーでも、麻の実と言うものを見たことないな。
■高野■かわりになるものは亜麻の実ということでしょうね。茶色で平べったいんですよね。レースの前にやる。
■岩田■カナリヤシードのような、形は違うけれどもね。
■高野■ええ、あれのチョット丸みのあるようなものですね。
■岩田■あれが麻の実の代わりでしょうかね。
■高野■やはり、同じようなものですね。脂肪分の多いものですね。やはり餌でしょうね。
■岩田■餌がね。監禁鳩舎と選手鳩舎とでは監禁鳩舎は餌をうんと落としています。だから、鳩が太らないことが一番大事なこととしています。ヨーロッパでもアメリカでも、太らしちゃイカンゾということですね。これが健康管理のポイントです。(おわり)

 ・・  イレブン  2020年7月12日(日) 13:40 修正
・・

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47  過去ログ全 2505件 [管理]
スネークパパの部屋