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 ◆当歳1000Kへの挑戦◆《2020年作出鳩》A    イレブン  2020年9月13日(日) 12:17
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 ■父:【源流ゴールデン・モンスター号】  イレブン  2020年9月15日(火) 21:07 修正

 ■母:【源流クインU世号】  イレブン  2020年9月15日(火) 21:27 修正

 っk  イレブン  2020年9月19日(土) 22:06 修正
・・

 ◆当歳1000Kへの挑戦◆《2020年作出鳩》J            イレブン  2020年9月19日(土) 16:47
修正

 ■父:【黄眼号】  イレブン  2020年9月19日(土) 16:53 修正

 ■母:【源流モンスターGG号】  イレブン  2020年9月19日(土) 16:54 修正

 ◆当歳1000Kへの挑戦◆《2020年作出鳩》F          イレブン  2020年9月13日(日) 17:00
修正

 父:【源流モンスターキッド号】  イレブン  2020年9月17日(木) 4:30 修正

 母:【一本刺しクイン号】  イレブン  2020年9月17日(木) 4:31 修正

 ◆当歳1000Kへの挑戦◆《2020年作出鳩》@  イレブン  2020年9月13日(日) 11:34
修正

 ■父:【源流メタリック号】  イレブン  2020年9月15日(火) 20:25 修正

 ■母:【帝王1331号】  イレブン  2020年9月15日(火) 20:36 修正

 ◆当歳1000Kへの挑戦◆《2020年作出鳩》H    イレブン  2020年9月13日(日) 17:01
修正

 ■父:【源流金姫キング】  イレブン  2020年9月15日(火) 4:14 修正

 ■母【帝王9652】  イレブン  2020年9月15日(火) 4:15 修正

 ◆当歳1000Kへの挑戦◆《2020年作出鳩》G  イレブン  2020年9月13日(日) 17:01
修正
《2020年作出鳩》H全兄弟

 ◆当歳1000Kへの挑戦◆《2020年作出鳩》D        イレブン  2020年9月13日(日) 12:20
修正

  『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ Dr.Bordeaux資料D『レース鳩の飛翔能力(L'aptitude au vol du pigeon voyageur. Reliure inconnue janvier 1937 )』◇◇◇◇ 【出典:『ピジョンダイジェスト』誌、1975年3月号P36より引用)】  イレブン  2020年9月12日(土) 3:32
修正
今回、Dr.Bordeaux資料Dとして掲載する資料は、『レース鳩の飛翔能力(L'aptitude au vol du pigeon voyageur. Reliure inconnue janvier 1937 )』です。


これは、前々回の【Piet de Weerd 研究』関連資料として掲載した「ミュニエ号編資料B−1 太田誠彦『PIGEON CUTURE:第7回 Dr.ブリクーとその時代』」に記述されていた書物です。大田誠彦は、この書物について次のように説明しています。

●「デルバールからプレゼントされた「鳩の飛翔原理」という1937年刊行のベルギー最古と思われる著書のなかに、ブリクーの代表鳩の写真が紹介されています。ヨス・ソンビエールとファンデル・シュケルデンとの共著で、ブリクー始めスタッサールやポール・シオンなど、当時の偉大なチャンピオンが掲載され、またその主翼の実寸大のスケッチが掲載された真に貴重なる一冊です。」

モーリス・デルバールが日本に来日した際にプレゼントしてもらった資料で、当時の記事には「今から40年前のレース鳩専門書」として説明されていました。1937年発刊の書ですので、2020年の現在からすると80年ほど昔の書籍と言うことになります。

Dr.Bordeauxのレース鳩に関する資料が余り存在していないことから、この『レース鳩の飛翔能力(L'aptitude au vol du pigeon voyageur. Reliure inconnue janvier 1937 )』に取り上げられているこれらのブリクー鳩の翼の資料はとても貴重なものと言えます。

特に、この5羽については、当時、誰もが知っているほどの銘鳩だったと考えられます。

(A)ドクター・ブリクー鳩舎 ビユグリ号 B27一263603 ♂ 
(B)ドクター・ブリクー鳩舎 リボンヌ号 B28一303973 ♂
(C)ドクター・ブリクー鳩舎 エカイエ4 B31一303806 BC ♂
(G)ネストール・トレムリー鳩舎 ノアール・ブリクー号B31一320965 DC 

しかし、残念なことに、翔歴については添付されている画像資料で分かりますが、どのような系図の鳩なのかは読み取ることができません。何かご存じのことがあれば投稿していただくと助かります。

特に興味をそそるのは、(G)ネストール・トレムリー鳩舎 ノアール・ブリクー号B31一320965 DCです。ミュニエ号の母親がトレムリーの血統でしたから、関係がある可能性がありますね。羽色がDCと言うところも気になります。ブリクーの代表鳩Jules Cesar(ジュール・シーザー)B21-477203が黒胡麻と言うことですから、このノアール・ブリクー号B31一320965 DCは、Jules Cesar号にかなり血統が近い鳩なのかも知れませんね。

 レース鳩に於ける翼の研究(その1)=文献「レース鳩の飛翔能力から」から=    2020年9月12日(土) 3:36 修正
◇◇◇◇◇◇◇◇◇

□  昭和も半世紀目にはいり、各界とも新たな潮流を形成せんとする時期になってはきたが日本鳩界も、鳩レースを通して更に鳩の趣味を追求しようという流れの真っただ中にあると思われる。見てよし飛んでよしの鳩の理想を目指して、今後更なる研究が要求されようとしている。それは、79年度国際オリンピアード日本開催の動きに顕著に表われているといえよう。

 一昨年、本誌の招きで来日した、ベルギー鳩界の巨匠、モーリスデルバール氏、その全国行脚が、各地で大反響を呼んだことは周知の通り。そして、本誌にも貴重な文献をプレゼント。それはデルバール氏の貴重な蔵書(L'aptitude au vol du pigeon voyageur. ”レース鳩の飛翔能力”)である。今から40年前のレース鳩専門書である氏の蔵書には、既にレース鳩の翼の研究の跡が印されていた。当時のベルギー鳩界のチャンピオン達の翼が比較検討されているのである。
 そこで、今号と次号の2回にわたり、この資料を読者諸氏の研究資料とすべく、ここに公表することになった。

□ 翼は、レース鳩の生命に等しい大切な個所であることは自明のこと。愛鳩家の誰しもが鳩をつかんで観察する上で、主翼を拡げて見ない人というのは、まず皆無ではなかろうか。鳩をつかんだら自然と主翼を拡げるという動作は、いわば愛鳩家の本能になっているといえよう。無意識のうちにみている、この主翼から、様々なことが鑑別できることを、意外に見過しているのではないだろうか。
 実は、翼からレース鳩のコンディションを見きわめることができるのである。そればかりではなく、飼育されている環境、雌雄の区別、更に研究すれば、血統まで鑑別することが可能になる。
 このように、真にレース鳩の各部のバロメーターに等しいのが、”翼″だといえる。そこで、前記の事柄についてはいずれ稿を改めるとして、今号ではとりあえず、私たちにとって興味深い、ベルギーにおける40年前のチャンピオン達の翼のサイズ研究にとどめたい。

□ まず我々は、今後の参考のためにも、統一した翼のサイズの測り方を党えておく必要があるだろう。わかりやすいように写真を使って説明すれば、A、Bは正しい測り方、C、Dは間違った測り方である。
 このように、正しい測定方法で測った40年昔の、ベルギーのチャンピオン鳩の翼形と主翼、副翼のサイズは別掲の通りになっている。尚、次号では現在の名鳩達の翼を特集してみたい。
 (例)シルバープライド、モントバーン、ノアール、ジュピター、ユリアナ、ノル
    マン、モナリザ、ドーソートレン、柏栄号
 今回参考とする40年前のチャンピオンは比較的我が国にも馴染み深い鳩舎の、代表鳩にしぼってみた。その結果、左記の名鳩達を参考にすることにしたい。

(A)ドクター・ブリクー鳩舎 ビユグリ号 B27一263603 ♂ 
(B)ドクター・ブリクー鳩舎 リボンヌ号 B28一303973 ♂
(C)ドクター・ブリクー鳩舎 エカイエ4 B31一303806 BC ♂
(D)ジュール・ダルデン鳩舎 ル・サンバンサン号 B35一1041801 ♂
(E)ギユイーム・スタッサール鳩舎 ル・バラダン号 B24−2327046 RC♂
(F)ギユイーム・スタッサール鳩舎 ジュピター号 B32一2400542 ♂
(G)ネストール・トレムリー鳩舎 ノアール・ブリクー号B31一320965 DC (H)ダアールデン鳩舎 ル・コオコオ号 B26−1344680

 それにしても、やはり鳩王国ベルギーである。すでに40年前に、このような研究がなされ、文献として残されているのであるから、日本鳩界との歴史の相違を、まざまざと見せつけられる思いである。が、しかし、感嘆してばかりもいられない。今後の日本鳩界にとって、具体的に学ばねばならない点は、まさに具体的に見習わなければならないのであるから。
次号に於いては、さらに具体的に翼の研究を進めて行きたい。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 資料:「主翼の測り方」・「副翼の測り方」    2020年9月12日(土) 3:38 修正

 (A)ドクター・ブリクー鳩舎 ビユグリ号 B27一263603 ♂     2020年9月12日(土) 3:41 修正

 (B)ドクター・ブリクー鳩舎 リボンヌ号 B28一303973 ♂    2020年9月12日(土) 3:42 修正

 (C)ドクター・ブリクー鳩舎 エカイエ4 B31一303806 BC ♂    2020年9月12日(土) 3:43 修正

 (D)ジュール・ダルデン鳩舎 ル・サンバンサン号 B35一1041801 ♂    2020年9月12日(土) 3:43 修正

 (E)ギユイーム・スタッサール鳩舎 ル・バラダン号 B24−2327046 RC♂    2020年9月12日(土) 3:44 修正

 (F)ギユイーム・スタッサール鳩舎 ジュピター号 B32一2400542 ♂    2020年9月12日(土) 3:45 修正

 (G)ネストール・トレムリー鳩舎 ノアール・ブリクー号B31一320965 DC     2020年9月12日(土) 3:45 修正

 (H)ダアールデン鳩舎 ル・コオコオ号 B26−1344680    2020年9月12日(土) 3:46 修正

 『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ Dr.Bordeaux資料C Wim Van Caester『Is Dr. Arthur Bricoux de beste duivenliefhebber ooit? [deel 2](これまでで最高の鳩愛好家は誰ですか?)』(Google翻訳版)◇◇◇◇ 【出典:PIPA20Years: Articles、Bricoux Arthur】  イレブン  2020年9月9日(水) 2:45
修正
PIPAのサイトにBricoux Arthurについての記事がありました。タイトルは、「これまでで最高の鳩愛好家は誰ですか?」となっています。これはピートさんの回想録の記述にも出てきていた文章です。言語はフランス語で書かれています。それをGoogle翻訳した資料です。わかりにくい文章はそこを推量してお読みください。ブリクーの銘鳩やレース記録の資料も入っている貴重な資料です。

文中には、画像資料「de Rode Barcelona:B284099-46」
が挿入されています。ピートさんが回想録のなかで「ダンハイフエの『ローデ・バルセローネ』は、典型的な『百姓鳩』でした」と解説している鳩の画像です。

このほかにも注目すべき記述があります。

一つはWシステムに関する記述です。
●「 Bricouxがすぐにそれに気づき、今日でも使用されている演奏方法を発明して最初に適用したのは確かです。フランダースの誰もがまだ巣のゲームを練習していたとき、ブリクーは未亡人を長い間競争していました。ブリクーはこれを秘密とは考えなかった。ポットとパイントの間で、彼はこの知識を友人に渡しました。それにより、それはワロニア全体に広がり、その後すぐにフランダース全体に広がりました。」

これによると、Dr.Bordeauxは自分が発見したWシステムという手法を身近な二人の人物に伝えたとあります。そこから、フランダース地方全体に広がっていったとありますから、初期においては、Dr.Bordeauxが行っていた手法そのままの方法がつたえられたと考えることができます。関連資料「不滅の銘鳩ミュニエ号のすべて」に掲載されていたドマレー鳩舎のWシステムの方法がDr.Bordeauxの手法に限りなく近い可能性がありますね。

この記事を語っているのはWim Van Caesterです。下記のサイトに掲載されています。

https://www.pipa.be/fr/articles/14831/dr-arthur-bricoux-de-beste-duivenliefhebber-ooit-deel-2-14831

※上記サイトは、Microsoft Edgeでアクセスしないと画像がみれません。

 「 Dr. アーサー.ブリクーはこれまでで最高の鳩愛好家ですか?」  Wim Van Caester  2020年9月9日(水) 2:53 修正
◇◇◇◇◇◇◇◇◇

これまでで最高の鳩愛好家は誰ですか?これは多くの人が求めている質問ですが、根拠のある答えを出している人はほとんどいません。そのうちの1人がWim Van Caesterです。2つの部分で、彼はアーサーブリクーが彼にとってこれまでで最高の鳩愛好家である理由を説明します。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇

まあ、それは非常に両方の資質を持っている愛好家です。過去と現在のチャンピオンの何人かは、鳩スポーツの両方の分野の真のスペシャリストでした。あなたは両方の資質を学ぶことができますが、より高いレベルでは本当にそれらを感じる必要があります。

彼の分野でこれまでで最高の愛好家は誰でしたか?それに直面しよう:近距離と中距離でこれを客観的に判断することは非常に困難です。私たちのような小さな国でも、違いが多すぎます。たとえば、結果を相互に比較することは困難ですが、このタイトルを1人に割り当てるには主観的な要素が多すぎます。私は、この規律を軽蔑するためにこれを書いているのではありません。それどころか、一部のビテスプレーヤーはその分野の真のスペシャリストです。

これは、長距離と極端な長距離ではまったく異なります。何年にもわたって私たちは全国的な結果を出しており、風向は大きな厄介なものになる可能性があります。しかし、長期間にわたってそれらを研究すると、どのプレーヤーがフォアグラウンドを支配しているかにはっきりと気づくでしょう。

私が基礎とする資格は、Piet de Weerdの資格です。De Weerdは3つの値に依存しています。これは、少なくとも600 km飛行できるハトに適用されます。最初は、品種のクラス/値です。これには、品種が交配しやすい程度、パフォーマンス、品種の性格(恥ずかしがり屋またはかなり飼いならされた)、媒染剤などが含まれます。

値2は品種の開花時期であり、3番目の値は愛好家と一緒にいたクラスの鳩の数です。1人の愛好家が3つの値で最高のスコアを達成しましたが、これまでに比較されていません。

この愛好家は博士です。アーサーブリクー(°1874-+ 1944)-ハイネ県の集落であるジョリモントからの村。ハイネサンピエール、ハイネサンポール、ボワドハイネ、ファイトレズマネージ、ラヘストレなどのエンティティが含まれます。博士Bricouxは一般開業医であり、彼の自由時間はすべて彼の大いなる愛である鳩スポーツに費やされました。

 ・    2020年9月9日(水) 2:55 修正
この愛好家は博士です。アーサーブリクー(°1874-+ 1944)-ハイネ県の集落であるジョリモントからの村。ハイネサンピエール、ハイネサンポール、ボワドハイネ、ファイトレズマネージ、ラヘストレなどのエンティティが含まれます。博士Bricouxは一般開業医であり、彼の自由時間はすべて彼の大いなる愛である鳩スポーツに費やされました。

 ・    2020年9月9日(水) 2:59 修正
この愛好家は、1905〜1914年に2000を超える賞を獲得し、1940年まで続けました。彼は、35年、20世代以上にわたって世界レベルで緊張を維持することに成功したブリーダーでした。これまで誰もこれをコピーしていません。成長して、彼は非常に強かった。

 多くのハトが近交系だったが、ブリクーは「新しい血」を持つハトがいつ連れて行かなければならないかを正確に知っていた。彼はフランスのチャンピオンP.シオンのような彼の友人と多くの鳩を交換しました。ご存知のように、ブリクーには淡いハトと赤いハトがたくさんいた。どうしてこうなりました?Bricouxは最初に純粋なGrootersを育てました。彼はまだ若い医者であったときに彼はこれらの鳩を手に入れました。彼はその後、近親交配によって2つの系統を形成しました。後に彼は2つの雄鶏を特定のバクレネと交換し、それらは赤くなりました。

そのカップリングからの若者たちは、世界的に有名な鳩のシリーズ全体をもたらしました。彼は常に近親交配にバクレネの赤い雄鶏を使用し、その結果、ハトのほとんどすべてが赤くなりました(鳩の遺伝学では赤が支配的な色です)。

 ・    2020年9月9日(水) 3:01 修正
博士の2番目に大きな成果 Bricouxはゲームの技術的な側面です。今日私たちが知っている雄ん鶏の未亡人、およびほとんどの愛好家がレース方法として使用していることは、私たちはBricouxのおかげです。未亡人はワロンの愛好家によって偶然に発見されました、そして、それが今日でもそれがブリクーであるかどうかわかりません。Bricouxがすぐにそれに気づき、今日でも使用されている演奏方法を発明して最初に適用したのは確かです。フランダースの誰もがまだ巣のゲームを練習していたとき、ブリクーは未亡人を長い間競争していました。ブリクーはこれを秘密とは考えなかった。ポットとパイントの間で、彼はこの知識を友人に渡しました。それにより、それはワロニア全体に広がり、その後すぐにフランダース全体に広がりました。

 ・    2020年9月9日(水) 3:03 修正
彼の熱狂的なキャリアの終わりは、あまり楽しい話ではありません。1940年に第二次世界大戦がヨーロッパを襲ったとき、ブリクーは家族と一緒に逃げました。数週間後、彼は戻って、彼の鳩の群れが完全に破壊されていたことを発見しました。彼らがドイツの占領者の手に落ちることを恐れていたので、フランス軍は彼のすべてのハトを破壊しました。Bricouxはこれを処理することができませんでした。多くの友人が彼の品種から育った鳩を提供することによって助けを提供しました。このようにして彼は部族を再建しようとしました。残念ながら彼は1944年に亡くなったので、これらのハトをテストすることができませんでした。息子が彼の仕事を続けたいと彼の望みでした。残念ながら彼は父親と同じ感情を持っていなかった。最終的に、すべてのハトは1952年に販売されました。これはブリクーの品種の終わりでしたか?確かにそうではありません。彼の死後、多くの長距離愛好家がこの犬種を強く演じたからです。私は一つの印象的な例を挙げます:

たった1羽の鳩だけが国際バルセロナを2度も勝ちました。この翼の奇跡は、アデロンデマレットの鳩であるリング番号2106367/58の「デベールブリクー」でした。彼はベルギーのオティニーの醸造家でした。ブリクー種の彼の淡い雄鶏は歴史的なパフォーマンスを達成し、1962年と1963年にそれぞれ3300と3599ハトに対して国際バルセロナを勝ち取りました。

以下は、ブリクーからのいくつかのトップ結果と、ブリクーからのハトによるいくつかのトップパフォーマンスです。

ここでは、戦後の長距離クラッパーがもう1つあります

そして、私は続けることができます...

「アレントンクのヤンセン兄弟はどうですか?」これはおそらくこれまでで最も商業的なトップロフトです。繁殖の観点から、それらはベルギーの鳩スポーツにとって大きな価値があります。それを実現することなく、彼らは常に近親交配を続けてきました。この領域では、それらは少なくともブリクーと同じくらい強かった。技術的には、しかし、彼らがこれまでに達成した素晴らしい結果にもかかわらず。


 Bricoux品種はまだ存在しますか、それはどれくらい強く競争されますか?    2020年9月9日(水) 3:17 修正
一部のドイツの愛好家とワロンプレーヤーは、彼らのハトが純血種のブリクーであると主張しています。ただし、競技会には参加しません。彼らの価値はまだ何ですか?非常に小さいですが、それらは純粋なBricouxのものかもしれません。しかし、彼らは遊んでいないので、パフォーマンスで判断することはできません。彼らは手の中で美しい鳩ですが、「手はバスケットの代わりにはなりません」。

真の鳩スポーツ愛好家として、博士。Bricouxは、鳩スポーツの歴史の中で最高の男性ではありません。他の偉大なチャンピオンと一緒に、彼は間違いなくベルギーでこの美しいスポーツの基礎を築きました。そのため、彼は「史上最高の鳩愛好家」という称号に値すると思います。少なくとも今までは、おそらく最高のものがまだ来ていないからです。

 無事でした!  イレブン  2020年9月7日(月) 13:29
修正
今朝のイレブン鳩舎です。夜中、かなり強い風が吹いていましたが、夜が明けてみると鳩舎も自宅も無事でした。今日は一日、強風が吹いていますが、近所も大きな被害はあまりなかったようです。よかったです。


 『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ ミュニエ号編資料B−1 太田誠彦『PIGEON CUTURE:第7回 Dr.ブリクーとその時代』◇◇◇◇ 【出典:『愛鳩の友』誌、1994年9月号P118より引用)】  イレブン  2020年9月7日(月) 13:57 修正
ミュニエ号編資料の第3弾は、大田誠彦の『PIGEON CUTURE:第7回 Dr.ブリクーとその時代』から始まるブリクー系関連の論文です。

大田誠彦の連載「PIGEON CUTURE」は、ミュニエ号を始め、世界的な銘鳩の数々を実際に手がけてきた実績と30回以上の渡欧経験に裏付けられた内容となっており、我が国における系統研究としては、比類なき内容となっています。

特に、ブリクー系の研究としては、この第7回「Dr.ブリクーとその時代」、第8回「ブリクーの戦後とその発展」、第9回「ブリクーと戦後鳩界」と、3ヶ月連続で掲載され、重厚な内容となっています。

この資料から分かったことですが、ジュリアス・シーザー号って栗と思っていましたが、黒胡麻だったんですね。色々考えさせられますね。

ピートさんが回想録の中で取り上げているアーネスト・デュレイとDr.ブリクーとの関係もこの論文に書かれている知識を持っているとより理解が深めるものと思います。そして、何よりも、この3回の連載を通して、ブルクー系が現在の鳩たちとどのように繋がっているのか丁寧に書かれているところに大きな資料価値を感じます。台風10号の影響で今日は仕事がありません。できるだけ、一気に進みたいと思っています。

 太田誠彦『PIGEON CUTURE:第7回 Dr.ブリクーとその時代』    2020年9月7日(月) 13:58 修正
◇◇◇◇◇◇◇◇
 第1次大戦から第2次大戦までのベルギー鳩界は、ピジョンスポーツの爛熟期である。多くの愛鳩家が澎湃として興り、幾多の名鳩が生みだされた。今日の世界鳩界のルーツを辿ればここに至る。このゴールデン・エージの第一人者、ドクター・アーサー・ブリクーにまつわる思い出を語る。
◇◇◇◇◇◇◇◇

 ■鳩の師と海外研究■  □太田誠彦  2020年9月7日(月) 14:01 修正
 ベルギー鳩界の黎明期は1800年代の後期であり、その爛熟期というべきピジョンスポーツが開花した時代は1910年から第2次世界大戦が勃発する1940年頃です。この期間に多くの優れた愛鳩家が澎湃として興り多数の名鳩が誕生しました。

 先月、先々月号で述べたモーリス・デルバール氏は、実際に観て、感じた体験をもとにした私の研究活動の過程で出会った多くの愛鳩家のなかで、私が尊敬の念を抱いた、真に知的な愛鳩家でした。第2次大戦の前後をつうじて豊富な経験を積み、その人柄は東洋の儒教がいうところの『仁義』に通じるようなキャラクターの持主であり、家族ぐるみの密度の高いお付き合いをしていただくなかで、私は鳩の「師」との気持ちを抱いたものでした。そのデルバール氏が逝去されてすでに十年が経とうとしています。彼から学んだこと、また彼の鳩舎についてもっとおしゃべりをしたいのですが、誌面の都合で概要を述べるにとどめます。

 私かデルバール作出の鳩を導入したのは、私か23歳の1961年のことでした。私は外国のチャンピオンの写真を観たり、血統を研究することが好きで、また物事を探究することにかけては旺盛な意欲をもっているようです。興味をもったテーマの疑問を解明するにあたり、なんでも自分の目で観て結論を出さないと気が済まない。この生来の性格が私の今日を来たらしめているのでしょう。

 デルバール系を導入する2年程前に、英国の首都ロンドンの近郊に住むトミー・バックからシオン系の鳩を輸入しました。当時の私はシオンに憧れていたからです。バックというのはブリーダーで、英国の名鳩収集家のドクター・アンダーソンや、またベルギーのブリクー、ジュール・ヤンセン(注@)、フランスのシオンなど、優れた系統を収集し、作出しておりました。

注@:ベルギーのナショナル協会の初代会長を務めた人物。近代レース鳩の父ともいうべきウェッゲの娘婿であり、その名血の影響を強く受けた。近年注目を集めるアーレンドンクのヤンセン兄弟とはまったく無縁の人物。

 忘れもしません。私かバックから輸入した灰栗の雄鳩はアンダーソン作出の純シオンでした。51年生まれのその雄を、私はチャレンジャー号と命名しました。配合雌はフランスのフェーノイヤーの作出です。20歳そこそこの私か初めて持った輸入鳩のカップルです。フェーノイヤーというのは、第2次世界大戦が始まったとき、シオンが戦火から鳩を守るため疎開させた鳩舎です。

 シオン系に青年時代の私が憧れたというのも、当時の愛鳩の友誌に掲載されていた写真に魅せられたからです。関口龍雄さんが故岩田孝七さん並河さんらと共同で、アメリカのバイツマンから1933年に導入したシオン系の輸入鳩の写真が掲載されていました。56、7年のことです。また関口さんがFCIの会議に出席されたおりに輸入されたロベール・シオン作翔の名鳩ボスを、その翌年58年に拝見し、私は強いカルチャー・ショックを受けました。鳩の理想というか、モデルとしてボスは脳裏に刻みこまれ、今に至るも離れません。それほど私にとって強烈な印象でした。その後、シオンという人が大変な富豪であり、青年の私か直接鳩のトレードを交渉するのがはばかれるほどの人物であることを知りました。そこで英国のバックからチャレンジャーを導入するのです。

 アメリカのチャールズ・ハイツマンは確かに優れた名系収集家であると同時に競翔家です。しかし、私は研究の結果、英国のバックの方に優れた血統の鳩がいると結論したのです。つまりバックはアンダーソンを通じ鳩を継承した人であり、そのアンダーソンは、口ーガンの名鳩収集の方法を踏襲している。つまり欧州の鳩の正統を継承しているからです。
 ローガンは1800年代の終わりごろ、ベルギーの悪天候レースで勝った多くのチャンピオンを収集したことで有名です。彼は集めた名鳩を大きな運動場つきの鳩舎で飼育し、繁殖しました。その運動場には樹木が植えられ、自然な環境で運動ができたという記述から空前のスケールが推し量れます。

 本家のシオンから直接導入できないのなら、富豪で知られたローガンのその手法を継承したアンダーソンが収集した血統をバックから導入する方がよいと私は考えたのです。ここにレベルという重要な問題があります。ものごとを判断するには、その地域性や組織のレベル、また歴史などの背景を見抜かねば誤った認識を持ちやすいものです。昨今、人気のあるJリーグは、世界のレベルには遠いものがあるようです。これと同様のことが鳩にもいえると考えます。誤解のないようにつけ加えれば、戦前、関口さんらが導入したバイツマンのシオンが当時の鳩界に大きな影響を及ぼし、好成果をもたらした功績は厳然たる事実ではありますが・…

 トミー・バックをつうじて青年時代の私は、ヨーロッパの名血鳩を手に大きな夢を膨らませたものです。本場の鳩に実際に触れてみたいとの願望は日増しに強まり、その願いはやがて30数度の渡欧となり、今日の私を形成していく原動力となりました。

 ■初めて輸入鳩ペアを手にした頃■    2020年9月7日(月) 14:04 修正
 私はバックを介し当時ヨーロッパの5大名血とされたブリクー、スタッサール、バスチン、アベニスそしてポール・シオンを知りました。今日、改めて考えれば、バックという人は真に優れたブリーダーでした。しかし、当時の私たちは、情報不足の日本にあって、ヨーロッパ鳩界に精通していたわけではありません。

 ものの道で上達するには、優れた師、先達の指導というものが不可欠です。最初に触れ合う人物によって、その辿る道は大きく変わる。余談ですが、私の鳩の師は警察官からある会社の重役に転身した柴田さんという方で、温厚で寡黙な人です。高等学校時代の私にとって、鳩の趣味の先達として得難い人物に出会えた幸運をつくづくと思います。善意の伝承…師、鳩とともに好い環境が整わなくてはいけないものです。私のヨーロッパにおける師は、モーリス・デルバールです。渡欧以前の私にヨーロッパの鳩に対する夢を与えてくれたという意味において、関口さんは得難い人でありました。

 バックとの交流をつうじて私はシオンを知り、スタッサールそしてブリクーを知りました。世界の5大血統といっても、当時、それらの愛鳩家はみな物故しておりましたから、私は面識をもてません。が、いずれブリクーについては本物を自分の手に掴み、視覚と触覚で研究してみたいとの渇望に似た期待を育みました。

 前述したように、バックは素晴らしい情報を私のもとに送ってくれたのですが、満足できませんでした。もっと好い鳩がいるはずだと考えたのです。好い鳩を手にすることで、欲望の高まりが強くなってしまったのです。

 ちょうどレースを始めたばかりの人が幸運にも優勝してしまったようなものです。わけも判らず勝って天狗になり、もっと優れた鳩や血統を使えば、さらに成績は向上するはずだとばかりに、次々といろいろな鳩を入手したくなる。バックの鳩について私は、同様の過ちを犯したようでした。今にしてみれば、本当にバックの鳩は素晴らしいものでした。

 バックから鳩を導入する一方で、私は多くの著作にあたり、知識を吸収していきました。ブリクーに関して、アンダーソンの著作のなかに興味ある一文を発見しまし。た。ブリクーが理想としたレース鳩の条件です。

 それによれば「ボディは卵形であること」とありました。目や翼の形状など、今日の日本の愛鳩家のようなことは述べられていません。卵形というのは、シャンボ・ジェットないしは飛行船の胴体のような円筒形、空気抵抗の少ないボディということです。

 私かその後の名鳩導入やヨーロッパ研究のなかで、このブリクーが理想とした条件をもっとも備えていたのがデルバール系であると思います。デルバールの代表鳩のブルーNo1やプティ・ブル・No14などがブリクーの理想に合致する鳩でした。

 加えてブリクーが指摘しているのは、羽毛質が滑らかということでした。しかしこの点は直接、鳩の性能に結びつくことではないので、彼が理想とした条件の一つと解釈しました。その後、現実に手にしたブリクー系の鳩には羽毛の豊富な鳩が多かったことも事実です。また、デルバールからプレゼントされた「鳩の飛翔原理」という1937年刊行のベルギー最古と思われる著書のなかに、ブリクーの代表鳩の写真が紹介されています。ヨス・ソンビエールとファンデル・シュケルデンとの共著で、ブリクー始めスタッサールやポール・シオンなど、当時の偉大なチャンピオンが掲載され、またその主翼の実寸大のスケッチが掲載された真に貴重なる一冊です。ピジョンスポーツの発祥の地であるベルギーには、意外にもこうした出版物が少ない。私がピジョン・ダイジェスト誌を発行していた当時、私の研究熱心さにデルバールが、厚意から譲ってくれたこの本を、師の鳩に関する情熱の伝承と受け止め、私はとても大切にしています。この本のなかに収録されている写真から推測するブリクー系の鳩体は、大ぶりではなく、むしろ中庸の鳩が多いと思います。ウェートでいえば500グラムくらいまでの鳩ではないでしょうか。

 ドクター・アーサー・ブリクー……、その逝去は第2次大戦後の1947年です。享年74歳とありますから、生まれは1874年(明治7年)となります。1899年生まれのモーリス・デルバールより25歳年長です。私かピジョンスポーツの研究に入った当時、すでに鬼籍にはいっていたうえ、まとまった文献が無きに等しいなかでのブリクー研究は、時に想像の力もかりなけれぱなりません。

 ■ブリクー伝説と悲劇の終幕■    2020年9月7日(月) 14:06 修正
 ブリクーの系統的なベースはジュール・ヤンセンを介したウェッゲであり、ベックマンにパークレール、さらに後年1930年代に交流をもったポール・シオンであるとされています。が、実際、どこの鳩舎の何という鳩であるのかが判らないのです。というのもブリクーが活動した時代は1900年初頭から第2次大戦までです。ベルギーで協会が脚環を発行するのは以前述べたように1910年のナショナル協会発足以降のことですから、ベルギーの初期の時代は鳩を特定する術がなかったし、多くは口伝で不正確なことも多い。ちなみにベルギー国王の後援を得て、ベルギー王立協会と改称するのは1923年のことです。

 例えば、ブリクーの黄金期の最高傑作ジュリアス・シーザー(注A)という黒胡麻の雄鳩について、私は1959年に資料を入手していました。空飛ぶオランダ人「フライング・ダッチマン」の異名をもつピート・デヴィートは彼の著書「ヘトラス・ヤンセン」の中で、ソフト帽と口髭を蓄えたブリクーの写真を掲載しています。ドクターという敬称のつくブリクーが医師であったことは確かですが、一体なにを専門にしたのかは不明です。

  注A ボルドーN優勝のチャンピオン、
  直子カバネ。卜29年サンバンサンN優勝、
  孫ラ・プリューム・ブランシエ・デュ・ポー(後述)、曾孫ル・エカイェーデン    バス=33年ポーN優勝、兄ル・プティ・ルー=ボルドーN優勝、3位、8位他

 1800年代の後期のピジョンスポーツの黎明期において、記録的に最もキチンとしたものが残っているのがアレキサンダー・アンセーヌでしょう。代表鳩のクリケ(バッタの意)という鳩は、1977年から1884年までの8年間にサンバンサンやリボルヌなどの長距離レースで好成績をあげています。ブリクーはアンセーヌの次代の愛鳩家であり、その活動時期は第1次大戦から第2次大戦の勃発までの、ベルギー鳩界の爛熟期です。しかしその詳細は確たる書物にまとめられるなどの形では残されてはいません。1918年から40年にかけて10数回の長距離レースの優勝をとげたと伝えられています。当時の長距離界の第一人者として尊敬を集め、現在なおブリクーは伝説として語り継がれています。

 また同世代の競翔家のエルネスト・デュレーは、1930年と31年にかけてラ・プ
リューム・プランシュ・デュ・ポーという灰胡麻羽白の鳩で、2年連続ポー・ナショナル優勝をとげ勇名を馳せました。この鳩の系統を見ると3/4をブリクーが占め、残りはポール・シオンです。ベルギーの議員を務めたデュレーの社会的身分の高さと相まって、ブリクー系の優秀さと名声を天下に知らしめることにデュレーの存在は一役かっています。ちなみにベルギーはじめヨーロッパのピジョンスポーツの基礎をなした人は、。紳士であり、同時に理論と実戦の両面で優れた人が多いのです。関口さんはこうしたヨーロッパの伝統をわが国に継承するべく、紳士淑女の会にしたいと、現在の協会を作ったと語っていました。私は名鳩ボスを観ることで、その関口さんの精神と歩まれた歴史を継承するのだとの思いで鳩を飼い今日に至っています。

 ブリクーは第2次大戦が勃発するや、大きな悲劇に見舞われます。世界鳩界的な悲劇といってもよいでしょう。フランス軍がベルギー国内に侵攻したため、プリクーは避難したのですが、ある日、残した鳩が心配になって帰ってみると彼の鳩はすべてフランス軍によって殺されていたのです。敵方の諜報活動を利する伝書鳩と考えられたからです。愛鳩家としてブリクー博士の悲しみは想像するに余りあります。終戦後、彼の鳩群を再建することに躍起となるのですが、全盛期を再現することは遂にできませんでした。(以下続く)

 『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ ミュニエ号編資料B−2 太田誠彦『PIGEON CUTURE:第8回 ブリクーの戦後とその発展』◇◇◇◇ 【出典:『愛鳩の友』誌、1994年10月号P96より引用)】  イレブン  2020年9月7日(月) 14:11 修正

 ■ドクター・ブリクーを考察する■  大田誠彦  2020年9月7日(月) 14:13 修正
 先月号にドクター・アーサー・ブリクーにまつわる私自身の思い出を語りながら、ベルギー鳩界の黄金期の鳩界事情と第2次世界大戦にまつわるブリクー悲劇について述べました。すでに周知のように近代ピジョンスポーツの黎明期は、19世紀:1800年代の中葉であり、1900年代の初頭、第1次世界大戦後に黄金時代を迎えました。

 医師ブリクーがその黄金期(ベルギー鳩界の黄金期でもあるのですが)に生みだした最も有名なチャンピオンが、ジュリアス・シーザーであることを先月号で触れました。ボルドー・ナショナルにおいて、ブリクーはシーザーとその兄弟とをもって優勝から4位までを独占しました。シーザーの直子カバネットは29年のサンバンサン・ナショナルで2551羽の参加鳩のトップを極め、また孫にはドクター・ブリクーの分家というべきエルネスト・デュレーの代表鳩プリューム・プランシエ・デュ・ポー(写真99頁参照)があります。この鳩は1930年と31年の2年連続優勝という歴史的快挙をなし遂げました。

 1974年に生まれ、第2次大戦後間もなくの1947年、74歳でこの世を去ったドクター・ブリクーと、残念ながら私は面識を持てませんでした。従ってその後、1968年に初めてヨーロッパの地を踏んだ私は、ドクターと交流をもった愛鳩家の話や、さまざまな著書、文献をとおして考察する以外にこの巨星の生前を偲ぶよすがはありません。

 ■第2次大戦後のプリクー系継承■    2020年9月7日(月) 14:15 修正
 ブリクーが第2次大戦前にあげた輝かしい成果、その人柄、そして鳩にたいする造詣の深さに傾倒する愛鳩家が多かったそうです。ブリクーの鳩、血統の優秀性を認め、ほとんど全鳩をブリクー系にしてしまった代表的な愛鳩家はエルネスト・デュレー、トレムリーとカラマンの三人です。

 一般にベルギーでは、成績か挙からないと一気に全鳩処分をして、新しい鳩に入れ換えるというやり方をする人が多い。私などは優れた血統があるとした場合、まずチャンピオンを導入し、次いでその親や兄弟を導入するという方法をとります。こうした方法にたい
し、ヨーロッパ大はその鳩舎の代表的なカップルの直子のヒナを一腹ずつ買って、それを育てていくのです。ですから、一気に20羽、30羽の鳩を導入することになります。

 前述のデュレーはベルギーの上院議員を務めたたほどの社会的地位の高い人物です。これをとっても、当時ベルギーのピジョンスポーツが社会的にいかに高尚な趣味であったかが偲ばれます。この歴史的な名鳩が飛んだ1930年代は、今日のベルギー人の使翔法の主流を占めるシステム・ドーヴバージュ(雄ヤモメ方式)が開発された頃で、ナチュラル方式と両用の時代でした。デュレーが飛ばした前述のプリューム・ブランシエ・デュ・ポーは灰胡麻刺の美しい雌鳩です。

 このデュレーのように、ブリクーの鳩と人柄に傾倒し、2次的また3次的な継承鳩舎となった愛鳩家はじつに多数にのぼります。今日にいたる大きな流れを述べてみます。まずネストール・トレムリーです。ここからウイリイー・ヘルマン、アデラン・ドマレー、そしてドイツのレイムント・ヘルメスヘと名血は継承されて今日に至ります。ドマレーの鳩舎で、1962年と63年のバルセロナ・インターで2年連続優勝を遂げた名鳩ミュニイェ号が誕生したことはいうまでもないことでしょう。この名鳩は後65年に、私がトレードすることになりますが、稿を改めてのべていきます。ともあれ、ヘルメスはこのミュニイェの直系(七代目)で1990年のバルセロナ・インターを制しました。血統というものは誠に恐ろしいものです。

 またブリクーを継承した一方のカラマンからはロベール・ウイロケー、・さらにコルトレーに住んでいるロペール・ルフベール(55年バルセロナ・インター2位、70年代後期ポー・インター優勝)へと血は流れ、ルフベールからトーマス・ペータースが名血を継承します。1973年と75年のベルギー・サンバンサンーナショナルで優勝したエールヴァンクールを生み、その同腹の直子にクライネン・サンバンサンという同名ナショナルの6位7位入賞のチャンピオンを作りました。

 先述のエルネスト・デュレーから名血を継承した鳩舎にはレイモンド・コブーがあります。わが鳩界に馴染みの深いこの愛鳩家は、昨年、高齢と健康上の理由で飼育生活にピリオドを打ちました。

 このように戦後から現代まで、ブリクーの名血が生みだしてきた活躍が、いかに偉大なものか、お判りいただけたでしょうか。

 ■ブリクーの悲痛な晩年■    2020年9月7日(月) 14:17 修正
 ブリクーの死後、かれの名血は幾多の優秀な愛鳩家に継承され、チャンピオンを生みだしていくのですが、第2次大戦後のブリクーの晩年は、みるべく成績がありません。

 この要因は先月号に述べたとおり、開戦と同時にドイツに対抗するべくベルギー国内に進駐したフランス軍によって、最愛の鳩を失ったことにあります。当時のレース鳩は、戦時下には通信の手段ともなりましたから、フランス軍にも相手のドイツ軍にとっても利用価値があります。このことから、一時避難のため家を留守にしたブリクーの鳩群は、フランス軍の手によって殺されてしまったのですから、愛鳩家ブリクーの悲しみがどれほど深いものか…想像は容易なことでしょう。

 私はかねてより、人と鳩とが一体となってひとつの鳩舎が維持できるものと考えてきました。時代にあわせ、どのような種鳩を選定し、また異血を導入するかは鳩舎の栄枯盛衰に直接かかわる問題です。同時に飼育者がどれだけ厳しい態度で鳩に接しつづけられるか、これも非常に重要なことです。

 戦後、ブリクーは自鳩舎の復興に晩年の情熱のすべてを注いだはずです。この間のブリ
クーに深く関与したのがトレムリーでした。しかし戦前の黄金時代は、ついに再び巡っては来なかった。1947年死去、晩年のブリクーの心中は悲痛なものだったに違いありません。ドクターの死後5年間、その飼育鳩は子息によって維持されたものの、ついに52年、オークションに付されました。ヨーロッパにおいては後継者がいない鳩舎の場合、死後ただちに処分のための競売がおこなわれるのが通例です。おそらく2代目は父の遺志を継ぐべく努力はしたものの、父ほど鳩にたいする情熱の持主ではなかったのでしょう。

 ■戦後の日本とブリクー系■    2020年9月7日(月) 14:18 修正
 私か鳩飼育を開始し、海外の名系、名鳩について研究を開始した当時、ドクター・ブリクーはすでにこの世の人ではありませんでした。私かブリクーについて知識を得たのは先月号で述べたとおり、英国のトミー・バックを介してのことです。彼が英国の偉大な研究家で、また競翔家であったドクター・アンダーソンの鳩を継承した関係から、シオンやブリクーについての情報を得ることができたのです。私かバックから鳩を導入したのは1959年のことでした。先月号で述べたように私はアメリカ経由の鳩より、英国のアンダーソンの鳩舎を経由した血統の方が、より本流に近いと考えておりました。 当時、わが国では岩田誠三氏がアメリカのアカルディから導入したブリクー系を使っ、1955年の奈良尾800キロで翌日帰りの優勝を遂げ、農林大臣賞の全国優勝を受賞しておりました。54年生まれのこ25628号、栗胡麻の雄鳩です。父はオペル作(ローガン近親系)の3622、母が46年生まれの44号、この雌鳩がブリクー系です。岩田氏は偶然オペル×ブリクーの交配を試みられたと思います。因みに英国の有名な力−クーパトリック系がプリクーを主流に、ローガンを交配して確立された名血であることを認識しておいて頂きたい。

 その頃、大阪の葉 東峰氏が所有したバック作出のブリクー系のマッチレス号(次頁参照)は、その名もブリクー・プライドという代表鳩の直子同士交配生まれた素晴らしい鳩でした。その後、多くのスーパー・チャンピオンを手掛けてきた私の目でみても葉氏所有のブリクー系は本当に素晴らしいものでした。ちなみに現代のヨーロッパには、当時の鳩のような魅力に溢れた鳩が少なくなってきたと私は思います。

 話は余談で恐縮ですが、鳩界にはダーウィンの進化論のような考え方をもって、レース鳩そのものや性能が進歩していると意見を述べる人がおります。しかし、レース鳩は野性動物とは違います。また近代レース鳩が改良されてきた歴史はたかだか百数十年にしかな
りません。確かに、日本のレース界は1960年以降、優秀な鳩を大量に輸入し、定着させて飛躍的に鳩質を向上させました。しかしそれをもって進化とはいえません。一方、ベルギーにおいても、その始原から歴史を繕いてみると1930年代から70年代までの40年間が近代レース鳩の振興期であり、ひとつのピークであり、その後の鳩質向上はあまり顕著でないと私は考えます。

 19世紀の中期、ウェッゲから始まり、ピジョンスポーツの黎明を開き、第1次世界大戦後の黄金期を現出したアレキサンダー・アンセーヌやドクター・ブリクー、フランスのポール・シオンなど、今日の鳩界の土台を作ってきた愛鳩家が当時持っていたエネルギーや知性は、現代の私達には及びもつかないほど大きく偉大なものでした。

 ■ミュニイエにプリクーを学ぶ■    2020年9月7日(月) 14:23 修正
 第2次大戦後のブリクーは遂に、往時の再来を招くことはできませんでした。しかしその名血は、ブリクーの悲痛な思いをよそに、素晴らしいチャンピオンを生みだしました。
 1965年4月、私か手にしたアデラン・ドマレーが作翔したミュニイエ号は、畢生の名鳩でした。彼はトレムリーから流れた純粋なブリクー系を継承しており、戦後ベルギー鳩界が生んだ同系の最高チャンピオンであり私にとって生涯忘れえぬ鳩となりました。

 ミュニイエは美しい灰栗の雄でした。完璧なバランスを持った非常に軽い鳩です。恥骨の締まりがよく、キールが長いのも特徴です。掴むと尾翼が長く、やや下げ気味で、腰部はブリクーが理想とした卵型の形状をなしている。しかし私にとってミュニイエの最大の特徴はその主翼にあらわれていると思われました。チャンピオンに関して「素晴らしい翼を持った鳩」との表現をよく見受けます。ミュニイエの翼は、滑らかというのか、柔軟というのか…ビロードのようなソフトで緻密な羽毛によって構成されておりました。その一枚一枚のタッチから「これがブリクーの羽毛質なのだ」と学び、同時にブリクーが羽毛に関してどれほど厳しい考えをもっていたかを私は知ることができました。また後年、ヨーロッパを訪ね、ブリクーの鳩体論を聞くにおよんで、益々私はその確信を深めたのです。

 1968年以降、私は30数度の渡欧を重ね、多くの名鳩を掴み、導入しましたが、’いまだにミュニイエ以上の主翼を持った鳩にであっておりません。58-12106367は言うまでもなくミュニイエのリング・ナンバーです。現在、私の自宅の電話番号がその下4桁です。上の210を局番にできればさらによいのですが、私の住む大阪にこの局番は存在しません。閑話休題。  (以下続く)

 『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ ミュニエ号編資料B−3 太田誠彦『PIGEON CUTURE:第9回 ブリクー系と戦後鳩界』◇◇◇◇ 【出典:『愛鳩の友』誌、1994年11月号P128より引用)】  イレブン  2020年9月7日(月) 15:18 修正

 『PIGEON CUTURE:第9回 ブリクー系と戦後鳩界』    2020年9月7日(月) 15:19 修正
◇◇◇◇◇◇◇◇

 世界鳩界に冠たるバルセロナーインターで62年63年の二年連続優勝を遂げたミュこイエを65年に導入。ブリクー系が生んだ戦後最高の名鳩にまつわるエピソードから、ヘルメスのディローテまでを語る。

◇◇◇◇◇◇◇◇

 ■ ギャマンそしてミュニイェ■  太田誠彦  2020年9月7日(月) 15:21 修正
 1965年の4月、私はブリクー系の強い影響を受けていたアデランードマレー作用の62年、63年と連続でバルセロナーインターを制したミュニイェ号を導入しました。当時の「愛鳩の友」の6月号誌上にミュニイェ導入は大きなニュースとしで採り上げられています。トミー・バックからドクター・ブリクーについての知識をえた私は当初プリクー自身の作出鳩か、アンダーソン作出のブリクーの主流血統の鳩を手に入れたいと考えました。ところがブリクーが死去したのは四七年のことであり、最後の作出鳩もおよそ20歳近く、ブリクー作出鳩の導入は望めません。そこでブリクー系の強い影響を受けた鳩舎の鳩を狙うより他に手だてはありませんでした。

 ミュニイェ導入の3年前、62年の10月にアルベール・モナンから、60年のバルセロナ・インターの優勝鳩ギャマン号を私は導入しています。ギャマンは日本鳩界におけるバルセロナの優勝鳩導入の第1号です。代価は105万円でした。当時の大卒男子の給料か13000円ほどだったと記憶しています。外国のCHが矢継ぎ早に導入される今日と違い、輸入鳩が貴重であった当時の感覚は、現代の愛鳩家には理解しにくいと思います。ギャマン導入の3年後に、私はミュニイエを導入したのですが、真にセンセーショナルな出来事として世界の耳目を集めたものでした。

 ミュニイエが最初のバルセロナの優勝を遂げた62年、ギャマンを買うつもりでいた私に、当時大阪好鳩会の大先輩であった故細川英次郎氏はこうアドバイスしたのでした。
 「そんなに高い鳩を買うのはやめて、私の近くの土地でも買いなはれ。ギャマンー羽と土地300坪が同じ値段でっせ」
 細川さんの勧めた土地というのは、大阪郊外の奈良に近い美しい田園地帯にありました。細川さんのアドバイスは、ごく常識的な親切心からでたものです。いくら鳩好きでも、またバルセロナの優勝鳩とはいえ、100万円もの大金は常識外だと細川さんは諭したのです。約32年前の当時の100万円といえば、そういう感覚を持たせる金額であり時代でした。しかし24歳の私は一顧もせずに細川さんの勧めを断りました。若い私にはバルセロナのチャンピオンの方が大きな価値があると。世界最高峰のバルセロナ優勝鳩のギャマンを買えばもはや私には買うべき鳩はいない、と。事実、それだけの覚悟を要する買物でした。
 「でも、バルセロナを二年連続で優勝するような鳩が生まれれば話は別ですが…」
と、私は当時の友人達にハツキリ話しました。その翌年にミュニイエがバルセロナで連続優勝を遂げるとは神のみが知ることです。私の知識には、ポーナショナルで二年連続優勝をとげたエルネスト・デュレーの歴史的名鳩ラ・プリューム・ブランシューデューポー(先月号参照)の存在がありましたが、よもやミュニイエがポーのように連続優勝をとげるとは思いもよりません。翌年、ミュニイエがバルセロナ史上空前の連覇を達成し、かくして私は宣言通り、ミュニイエを購入することになるのです。

 ■ドマレーの人柄に触れる■    2020年9月7日(月) 15:26 修正
 初めてミュニイエをみた日本人は故岩田孝七氏です。一九六三年の六月、ミュニイエがバルセロナに参加する日、それも持ち寄り直前に岩田さんはドマレー鳩舎でミュニイエを実際に手にする幸運に恵まれました。

 帰国後、岩田さんは自身が掴んだ灰栗の雄が再度のバルセロナ優勝をとげたことを知り、驚くとともに導入を計画されました。私もミュニイエの連覇を知るや導入の交渉に着手しました。しかし、ミュニイエは作翔者ドマレーと同じベルギー人で、富豪で知られたダニエルーデボスに逸早くトレードされてしまいます。これには手も足もでないと岩田さんは諦められました。しかし私は、その後もデボスに手紙を書き、またベルギー在住の朝倉晃仁さんに、私の代理人としてデボス邸を訪ねてもらったものの、しかし、答えは当然のことながら「ノー」。私の交渉は暗礁に乗りあげてしまいました。

 その一方で、私はドマレーにミュニイエの直子を2羽、さらに両親のトレードを申し込みました。ミュニイエの母はウィリー・ヘルマンの作出鳩です。ヘルマンはトレムリーからブリクー系を継承した鳩舎です。ミュニイエの母方祖母はトレムリーの鳩で、アムステルダムのオリンピアードにベルギーの代表鳩として出場し、1位になったとあります。しかしミュニイエの母は52年の生まれで、当時すでに11歳と高齢で作出は無理と思われました。そこで父のブロンカートのみを指名したところドマレーから承諾をもらい、ミュニイ工導入の不首尾の溜飲を些か下げることができました。こちらは57年生まれの雄で28回のレースで入賞したチャンピオンです。このブロンカートも代々ドマレーが作出を重ねてきたプリクー系で、その父ル・592号も800キロ前後を含め19回の入賞鳩です。ブリクー系導入に強い意欲をもっていた私は、このブロンカートと後のミュニイエ導入によって、奇しくも念願を叶えることになったのです。

 私と同様に、岩田さんもミュニイエの代わりに直子や兄弟を十数羽購入しました。ここに私は少し疑問を持ちました。ドマレーは小規模な鳩舎の愛鳩家なのに、短期間にそんなに沢山のミュニイエの直子が作出できるものだろうか、……早速ドマレー宛に手紙を書きました。やがて詳細をきわめた返事がドマレーから届いて私の疑念は氷解しました。つまりドマレーは、繁殖に関し稚拙だった当時の日本の愛鳩家には考えられないマルチーブリーディング(多重交配)を実施していたのです。ミュニイエに朝夕、違った雌を交配し同時進行で何腹もの直子を作出したのです。

 手紙で私の疑念が晴れると同時にドマレーの篤実な人柄に触れ、ますますミュニイエを手にしたいとの思いが募りました。その後、朝倉さんに交渉再開を依頼し、私も毎月のようにデボス宛に手紙を書ました。一年以上に亘る粘り強い交渉により、1964年の12月、ついにデボスが折れた。

 「根負けした。ただしミュニイエの引渡しは来年の4月、私か買った倍の値段でよければ契約しよう」

 この返事に念願が叶い私は雀躍する思いでした。早速に送金。当時はドルの入手も困難でしたが、年内に契約を成立させたものです。

 ■ミュニイエからディローテ■    2020年9月7日(月) 15:27 修正
 ブロンカートとミュニイエはともに、中型で、軽く、羽毛が豊かという点で、ブリクーの特徴をよく体現していました。頭部はブロンカートがなだらかなカーブであるにたいして、ミュニイエはややオデコ気味です。先月号で述べたように、ミュニイエは尾翼が長く、掴むとやや尾を下げ気味にするのが特徴です。

 一般にブリクー系は黒胡麻、栗胡麻が多く意外に灰の鳩が少ないものです。また目色については濃いブラウンやマロンなどダークなものが多い。近年、注目を集めているヤンセン系に多い白い石目や、また黄目は少数です。

 4月7日、約束通り私の手の物となったミュニイエに私はすっかり心酔し、愛鳩家としてどれほど幸福な日々を過ごしたかはいうまでもありません。しかしその後、私は事情で鳩飼育を中断します。周知のとおり導入4か月後の8月20日、ミュニイエ父子は当時愛鳩の友社社長の宮沢和男さんの種鳩となりました。不世出のミュニイエ導入を果たしたこ
とで私は名鳩導入における目標を失った。つまり念願を達成し虚脱した状態でした。またミュニイエの名血を活かすには当時の日本鳩界の器はあまりにも小さいと痛感しており、同じ日本でも私の住む近畿より関東の方がまだしもミュニイエの血を活かすには適しているとの考えからトレードの決断に至るのです。余談ですが、ミュニイエ父子を含む全鳩の譲渡価格は550万円です。私はその大金を事業を始める鳩友のために無担保、無利子で融資しました。私はこういう一面を持った男なのです。しかしミュニイエとの別れにあたって、私は愛鳩家として「掌中の珠」を失う辛さを感じたことはいうまでもないことです。

 ミュニイエは希代の名鳩です。63年、バルセロナで2度目の優勝をとげた後デボスの種鳩になり、その間に作出された直子の1羽が今日、名鳩を生みだしました。ドイツのレイムント・ヘルメスが作翔した1990年のバルセロナ・インター優勝鳩ディローテは、ミュニイエ7代目の直系にあたります。その6代前の1羽の雌、デボスから直子を導入したのはポールマンJrでした。一般に種鳩導入に投資をしないオランダにあって、このポールマンの買ったミュニイエの直子は、今日にいたるまで、オランダ鳩界が導入した最も筋の通った名血であると私は思います。

 ポールマンはその直子に、フールス鳩舎の1971年のバルセロナ・インター優勝の雄
を交配しました。この血統が、ディローテの母方に流れていきます。もし1963年の段階で、私かミュニイエの導入に成功していたらどうでしょう。今日ディローテは存在しないはずです。鳩というものは誠にインターナショナルな繋がりをもったものです。

 ■蘇る血統ブリクー■    2020年9月7日(月) 15:27 修正
 ドクター・ブリクーの血統で、近年活躍した愛鳩家で忘れられない人に、レイモンド・コブーがあります。彼の鳩舎へは私は度々訪ねておりますが1981年の訪問のおりに、彼の血統について話を聞きました。コブーのベースをなす血統はデュレーであり、かなり濃厚なものだそうです。コブーがほとんど異血を混じえずにきているのがその要因です。デュレーはブリクーが黄金時代を築いた30年代に分化した鳩舎です。コブーの鳩には胡麻刺が多く生まれますが、それがデュレーの特徴だと語っていました。

 私かコブーの存在を知ったのは1968、9年の頃です。その後、訪問をくりかえし、彼の代表鳩を実際に掴んできました。私か1950年代に観たアンダーソン経由のブリクー系や、ミュニイエなどさまざまな鳩を掴んで得たブリクー系に関する総合的な判断からいえば、コブーの鳩は中型ないし中の小で。また軽く羽毛が豊富なのが特徴です。

 またコブーの性能的な特徴として80年前後から切れ味が際立ってきました(注)。それ以前は、どちらかといえば安定性に優れた鳩舎との印象でした。ちなみに私の鳩舎で導入後に作出し使翔したミュニイエの直系は、悪天候に強く、また晴天下でも好成績を挙げてくれました。今でも忘れることのできないのが、67年の地区ナショナルです。この年の優勝鳩は、近畿としては当時最高の1381メートル(藤田俊博鳩舎・神戸)をマー’クする高分速の展開でした。私は完全に見逃してしまい鳩舎に上がった時には既に入舎した後でした。成績は4027羽中の25位…この鳩はミュニイエとアローの孫でした。

注:80年モントーバンN優勝、同年ブリーブN2位のモントーバン号、81年CB紙ベルギー長距離エースピジョン1位のプティ・カオール等が誕生した。

 コブーは80年前後から突如、切れ味を示しだし、私か理想とする多重上位入賞する鳩を輩出しだします。この現象はブリクー本来の「秀才血統」としての性能が、コブーの交配によって先祖がえりというような血統の蘇生を果たしたのでしょう。コブーという人は異血をほとんど入れず、また交配にしてもそう大きな変化を持たせる人ではないからです。
 ミュニイエ導入から10年後、1975年に私か導入したトーマス・ペータースのエールヴァンクール号(73年75年サンバンサンN優勝)の母はグーデン・グリジエと呼ばれるモザイクの鳩で、ロベール・ルフベールの作出した雌です。この鳩の血統を調べると、デルバールの1936年生まれのボングリの直系であり、このボングリはブリクーから間接的に血の影響を受けていることが判りました。

 モザイク(グリズル)や栗というと「色鳩」と毛嫌いする傾向がベテランに多いようです。私の先輩の細川英次郎さんは勢山系の後継鳩舎です。勢山系に灰が多いことから「鳩は灰」といっておりました。しかし鳩を羽色で選別していては、優秀な性能を始めから排除しているようなものです。栗の鳩の血統はブリクーやシオンに辿りつくはずです。またモザイクの血はウエ″ゲから間接的に影響を受けたブリクーに僅かながら流れています。色鳩が不当に毛嫌いされる中で、色鳩こそ由緒正しい名血だと、私は主張したいのです。

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スネークパパの部屋