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ようこそ、「スネークパパの掲示板」へ。お気軽に投稿いただければうれしいです。(『スネークパパの部屋』管理者イレブン)

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 ★★イレブン編『岩田系大研究』プロローグ★★    イレブン  2019年9月6日(金) 3:52
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岩田系は1953年、兄岩田考七の渡米の際の基礎鳩導入からその歴史が始まります。岩田系の基礎鳩16羽の作出が始まったのが1954年、再開後の初レース参加は、1955年春でした。スタート時点から、宮杯全国総合優勝(岩田考七作翔55-138369 Bc♂)、農林大臣杯800K翌日1羽帰り総合優勝(岩田誠三作翔 岩田28号54-135628 RC♂)という驚異的な快進撃が始まります。

以来岩田孝七・岩田誠三の両兄弟による岩田系の歴史は、1984年5月の岩田考七氏の逝去(享年68才)、そして2004年3月の岩田誠三氏の逝去(享年87才)までの半世紀に及ぶ歴史を残しました。

世界には名だたる銘系が多く存在していますが、岩田系ほど、系統確立の初期から最後まで途切れることなくその足跡と理論を鳩界のメデイアに発信し続け、膨大な資料を残している系統は存在していないとイレブンは考えています。系統研究を旨としているイレブンにとっては、これ以上ない研究対象です。そして、そこには、レースという実践を通して勝利し続けてきた、多くの学ぶべき鳩理論が残されていることでしょう。

岩田誠三氏が物故されて15年の月日が経ちました。今では、岩田誠三作出鳩も幾羽も生存していないでしょう。しかし、未だ銘系岩田系の活躍は続いています。これからもその活躍は間違いなく続いていくでしょう。このイレブン編『岩田系大研究』では、現時点で収集・検証できる可能な限りの資料や岩田系研究の成果を公開し、更に、イレブン独自の研究の視点を加え取り組みたいと考えています。また、イレブンが系統確立を目指している源流系の基礎鳩に組み込んでいる岩田系ラインのレースにおける検証も加えて考察を進めていく計画です。おそらくこれから3年から5年はかかる取り組みになるかと思いますが、ご愛読頂ければ幸いです。このスネークパパの掲示板に随時掲載していきますが、「イレブンの研究室」もこの「岩田系大研究」のコーナーを新たに開設し、そこに内容を整理しながら進めていきます。岩田系につきましては、全国に多くのファンや研究をすでにされている方がおられます。ご教示頂ければありがたいです。

 【源流留萌キング号】  イレブン  2019年9月6日(金) 3:54 修正
■父:留萌キング号×CHフェアレディ号

■母:CHフェアレディ号の妹

◎直仔・孫、500K総合優勝、 1000K多数
◎全兄弟の仔:300k優勝、600k総合優勝、1000k優勝、桜花賞総合4位 

※元帝王ロフト種鳩
※03年生まれで16才ですが、今も健在です。2019年春も、2羽作出できました。おそらくこれが最後の仔でしょう。

 系図【源流留萌キング号】の父   イレブン  2019年9月7日(土) 20:46 修正

 系図【源流留萌キング号】の母  イレブン  2019年9月7日(土) 20:48 修正

 ■イレブン編『岩田系大研究』  《 目次構想 》 ■       2019年9月13日(金) 16:17 修正
イレブン編『岩田系大研究』は、かなり大掛かりな研究連載になるように予想しています。完成まで紆余曲折もあると思いますが、この「目次構想」で全体の構成を検討しながら、連載していくつもりです。随時修正していきますので、現時点の目次構想として見ていただけければと思います。ご意見もいただければ助かります。

■イレブン編『岩田系大研究』  目次構想  ■  

第T章 「岩田系銘鳩辞典」 ※画像資料・系図資料を蓄積する。
第U章 「岩田系系統研究」
1基礎鳩研究
(1)岩田系基礎に導入された5羽のJ..L.オペル作出鳩
(2)岩田系初期基礎場鳩導入の経緯
@ 岩田孝七の回想談話より(『鳩友』誌72年4月号、「長距離大レースにかける岩田兄弟」)》
A
B 
(3)初期代表鳩研究
(4)岩田考七鳩舎の代表鳩研究
(5)岩田誠三鳩舎の代表鳩研究
第V章 「岩田系理論研究」 ※公表されている対談・講演・論文等の全文掲載と考察
第W章 岩田系から生まれた銘鳩たち ※画像資料・系図資料を蓄積する。
 

 ・  イレブン  2020年7月12日(日) 13:38 修正

 ■■『Piet de Weerd 研究』006■■  [ピート・デヴィート回想録006「強豪と銘鳩」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1996年5月号 )  イレブン  2020年7月10日(金) 17:23
修正
実は、2004年8月に発刊された『銘血・銘鳩 伝説の愛鳩家ピート・デヴィート』では、現在、『Piet de Weerd 研究』に掲載している「ピート・デヴィート回想録」の部分はその1部を除く大半が省略されています。

『銘血・銘鳩 伝説の愛鳩家ピート・デヴィート』では、本連載の冒頭の「ピート・デヴィート回想録」001と002のみ集録して、003から015までが大幅に省略されているのです。

なので、現在連載中の内容は、当時の『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版を忠実に翻訳していた当時の『愛鳩の友』の1996年2月号〜12月号をお持ちの方しか、その内容を十分知ることが出来なくなってます。しかし、この部分には、ピートさんの鳩理論の重要な内容が展開されています。

イレブンには、この部分の回想録がなぜ省略されたのか、未だに理解できません。そのことが伝わりやすいように『Piet de Weerd 研究』では、回想録006から012までをできるだけ一気に掲載したいと考えています。しばらくの間、2〜3回分の連載をまとめて掲載しますね。

 ■ヨゼフ・ショータースとルネ・マース■    2020年7月10日(金) 17:24 修正
 確か46年から47年にかけての冬のことだったと思います。ジェフ・オウメンスと私はヘーレンタウト(※1)で開かれたルネ・マースのオークションに出かけました。「ザーダイフ(ドーダイフ)」誌が主催してファン・ステーレン通りのアントワープ・コーヒー・ハウスで開催されたのです。その前にあったたくさんの路線バスが発着する巨大な一画はフランクリン・D.ルーズベルト広場と名を変えていました。改名に異議を唱えるものはおりませんでした。とにもかくにも実のところ、彼ルーズベルトは戦争に勝つことに誰よりも貢献したのですから。

 アントワープ・コーヒー・ハウスはよく知られた居心地のよい鳩飼いのたまり場で、場所もよくいつも混みあっており、鳩とは関係のない人たちも来ていました。たくさんの人がひしめき、金曜日から月曜日の夕方(少なくともレースシーズン中)は愛鳩家に出くわすことがありました。冬場は「ドーダイフ」誌やアドリアンセン、フェルメイエンらの会議、それからもちろんオークションが何回も開かれたものです。

 老未亡人のアドリアンセンと二人の息子ヨスとゲラルドは、後のエイントホーフェンのド・ゼーウー家のように鳩関係のビジネスにおいて特別な存在でした(※2)。ルイ・フェルメイェンはアドリアンセン親子が主催する新聞の看板記者でした。座右の銘は「独立自尊」に違いない、と思わせたこの編集者は議論が好きでまたたいそう物知りでした。彼はその鋭い筆のゆえに、多くの人々から恐れられておりました。わざとだろうがそのつもりはなかろうが、足を踏んづけたりしたくはない人物だったのです。私は、彼がヒュースケンとファンリールやオウメンスとファンダインのような、何事かを成し遂げた男たちのことを実のところ羨んでいたのだとは言いませんが、どうにもそのように見えたのです。45年、彼はブレダの(Iフディク通り(オウメンス兄弟が住んでいました)を訪問しています。30年代にヘーレンタウトで生み出された優れた鳩について彼が話をするのはこういう場合でした。そして彼が口にした名前が、ショーダースとルネ・マースでした。


 ■ケンペンの鳩は強し■    2020年7月10日(金) 17:25 修正
 シェフと私はマースのオークションに出掛けました。私の記憶が確かならば、一九四七年の一月のことでした。正確なオークションーリストは忘れましたが、安値の取り引きにはならず、平均で3000ベルギー・フランだったことは確かです。私たちが手に入れられそうだと思ったものは、すべて余りにも高価でした。あるものなどは14ギルダー(※3)にもなったのです。”メストプテッケ“のジェフ・デーケッペルがその鳩を手に入れ、決して後悔することはなかったのです。

***
 私はこういったことをあますところなく書き残しておくことにします。というのは、ヘーレンタウトのある種のタイプの鳩は、おそらくショーダースの「ボルドーヘン」と「デン・アープ」と関係があるからです。このことを一部の人々は本当に信じていました。私はルネ・マースの作出鳩全部が全部”純度”が高いものとは思ってはいません。ヤンセンが行っていた作出とは到底くらべものにはなりませんでした。けれども、これは言っておかなければなりませんが、ルネのトリもまた長距離をこなす非凡なトリでした。ボルドーのレースで、乾いた気候の中、向かい風をついて先頭集団で飛ぶことができたのです。

 1935年のベルギーーオランダ間のボルドーINにもルネは何羽か投入しました。オステンドのシャルレ・ファンデルエスプトが勝ちました。このことを軽んじてはいけません。上位10人の中にアントワープから4鳩舎が入っていました。その10人は、

 1位シャルレ・ファンデルエスプト
 2位J.ベルモート(ウェーベルヘム)
 3位デプーイト兄弟(エールトレイッケ)
4位カトリス兄弟(ムーレ)
 5位サミェルーファンデ・アペーレ(アステーネ)
 6位モーリスーデルバール(ロンス)
 7位J.プッヒエン(ウト(メルクセム)
 8位C.ペルビスト(ボルヘル(ウト)
 9位ヨセフ・ヘレウイン(デオルネ)
 10位C.ヤコブス(サンブリート)

 ……この一覧を見れば、スヘルデ川沿岸にある街では遅い鳩は「お呼びでなかった」ことが分かります。この州だけで愛鳩家は2万5000人おり、強い者はだれにも道を譲る必要はありませんでした。彼らは築き上げた地位をキープし得たのです。

 ファンデクリンゼ、ファンハーフェルメート、デクラーク、その他のそういった類の人々は、マルデーレンのエミール・ド・ワハテルやベーレペンのエドハルド・ヒルゲール、また特にメルクセムのエーヘーヌ・ディールクッセン(……この人はほんとうに強かったのですが)といった人だちと同様に、無視できない連中であったと認めてしかるべきでしょ 私たちがこれらの鳩舎を、新しい種鳩を求めて訪問していたのではないことは断言できます。スタフ・デュサルダインはデルバールとたいそう親しかったがために、ここに心血を注いだのです。彼は。クラック‘のヤンセン・バードがニウ・ナーメンのシャルレ・ド・ヘーンス鳩舎のもとで頭角を顕しはしめたときに。クラック“に会いに行っています。ヤンセンは、少なくともその血が混じってさえいれば、長い距離を飛ぶことができるらしいことが分かりはじめていました。

 ■ピレネーまでも羽ばたけ!    2020年7月10日(金) 17:27 修正
 その時点で誰がそんなことを予期し得たでしょうか? 51年から52年にかけての冬、ファンダインと私との個人的領域でのもめごとは、私たちが絶交するというところまでエスカレートしていました。私たちは以前に鳩を選ぶ作業に関する問題は何も抱え込んだことはなかったのです。彼ファンダインはその件について、また少なくともジェフ・オウメンスや私自身に対しても、ただ単に何の見解も持ち合わせていなかっただけでした。とにかく鳩選びということを思い悩みはしなかったのです。鳩飼いの溜まり場ではそういう感じになりやすかったというわけです。

 ジェフと私は二人合わせて責任を負っていました、つまり私か作出と鳩選びを、ジェフがレース面をというふうに。ジェフは1930年以来その方法をとっていました。彼は当時は20歳の若者だったのです。昨今のサッカーのコーチのように、私はウィールスベーケのジェフ・ファンデンブルッケのところで部屋をあてがわれて下宿し、チームはうまい具合に動き出したのです。

 ***    2020年7月10日(金) 17:30 修正
 私たちは再び、速い若鳩の短距離鳩を使っていました。あの頃、ヤンセンよりも名が知られていたクリスチアンス・ーファンオウルデヘンが取り入れたやり方です。彼はとある小規模なオークションで、雌の種鳩を300ベルギーフランで買いました。そのトリは3回卵を産みました。

 そういえば、15年後にグロンドラース鳩舎で「シャトロー」号の母鳩がしたのとまったく同じです。そのメスはブレダの私の鳩舎にいた58年生まれのヤンセンの鳩です。私は彼女を、あるよく晴れた春の朝にヘイスト・オプ・デ・ペルフのエウジーン・モイレマンから買ったのでした。そして1,2年後にグロンドラースが作ったオプフラーベクの優勝鳩と交換しました(※4)。グロンドラースの手に渡ったメスは、”オード・ブラウエ・ファン48”と、”ショーン・リヒト”の娘で、ヤン・グロンドラースもそういった鳩のことは心得ていました。彼は鳩、特に交配に関してはいつもかなり運が良かったのです。
          *
 ウィールスベーケで飛んだ鳩のベスト・スリーは、「ネロ」「メーンス」そして「ピー卜」の順でした。3羽ともに東フランダース生まれの小ぶりの短距離鳩の血筋を受け継いでいたのです。「ピート」66−3066545の翔歴は

ペリキューN1214四羽中3位、カオールN1290羽中10位および2195羽中5位、ビアリッツーN987羽中6位、サン・セバスチャンーNこ180羽中18位。

 私の”テクニック”がアントワープは無論のこと西フランダースでも調子が良く、後に私かお節介をしたあちこちの鳩舎……たとえばステーンベルヘンのヤン・アールデンの鳩舎などでも好結果を生み出していたにもかかわらず、私はヤンセンを視界から外しはしませんでした。ことさらにアーレンドンクの村を訪れたわけではありません。

 1952年、私はジェフ・ファンデブルッケといっしょに、[ブラウェファン48]を手に入れるべくアーレンドンクに向かいました。連中はそのオスを売ろうとはしませんでした。1、2年して今度は「ショーネ・リヒテ」を買おうと、後にドイツ連邦共和国(西ドイツ)大統領になる(イネマン氏(※5)を伴って再び出掛けました。けれども、あの当時一家のスポークスマンだったルイが、自分はたとえはハイネマンが乗りまわしていたメルセデス・ベンツであろうとこのトリと取り替えたりするつもりはないのだと穏やかな口調で言ったのです。フランクフルトから来たバイヤーのハイネマンには、何のことやらわかりませんでした。その後、偶然テッセンデルローのムーンとプリーズ夫妻のもとでヤンセンの鳩を何羽か見出した折りに、やっと彼も理解しました。でも時すでに遅し、彼は八十歳になんなんとしていたのです。その時点で一体何かできたというのでしょう?   (次号へ続く)

  ■■『Piet de Weerd 研究』007■■  [ピート・デヴィート回想録007「一大ブーム」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》  (出典:『愛鳩の友』1996年6月号 )  イレブン  2020年7月11日(土) 4:56 修正
この ピート・デヴィート回想録007「一大ブーム」では、フェデリコ・テシーオのことが述べられています。

数々の名馬を誕生させた伝説の人物フェデリコ・テシーオについてピートさんも大きな関心を持っていたようです。

イレブンも10年ほどまえ、このフェデリコ・テシーオのことを調べ、『徹底研究:フェデリコ・テシオの世界』としてまとめたことがあります。当時の掲示板には公表していなかったのですが、現在、『イレブンの01号研究室』にその時の研究内容を公開しています。興味がある方は、そちらもご覧頂ければと思います。
●『イレブンの01号研究室』
http://snakepapa.littlestar.jp/inf101930/inf10.cgi

 ■大空の競争馬■    2020年7月11日(土) 5:22 修正
 ベルギーの優秀な短距離鳩について論じた本『大空の競争馬』を、『魅惑の翼』の続編として書こうと決心した時、私はクイーブラン、サンカンタン、ノヨンといった地方で教会の塔の回りを旋回していたチャンピオン鳩も加えるべきかどうか思案しました。そうなれば、真先に取り上げられるのはアーレンドンクのヤンセンにほかなりません。ヤンセンについては、豊富なメモを私はとってあったのですから。

  1955年、新しいシーズン最初のレースで、アーレンドンクのヤンセン兄弟か1位から4位までを独占した!こ
と、私は書きました。この小レースには400羽のレーサーが参加しています。ちなみにその前年、兄弟はシーズン終わりのトゥルンホウト地区主催のレースで「1位から7位」を、ベールでは「1位から5位」までを独占していました。

 同腹の2羽のうち、最初の選択権は顧客にありました。残りの1羽を兄弟がとったのです。この方式はスムーズにおこなわれ、問題は起きませんでした。一方、兄弟の持ち駒の
パワーが弱まるということも全くなかったのでした。


 小さな鳩舎でも実力次第で有名になれる鳩レースの世界にあって、ヤンセンの鳩はその偉大さを遺憾なく発揮していたのです。しかし、ヤンセン兄弟にとってそのようなレース結果は珍しいものではありませんでした。彼らは毎年、平均して30回ほども優勝を手にしていたのですから(※1)。これはまさにセンセーショナルなことです。それ以前の25年間にわたって、彼らはずっと素晴らしい成果を上げつづけてきましたが、続く将来もまたその成果は変わることはないと思われました。が、最も重要なことは、一つの血流を形成したヤンセンの鳩を飼育する鳩舎が至るところに出現したということでしょう。

 ストック・バードの少なくとも半分を、彼らは売ったと思います。若鳩は生後3週間か、時にはもっと早い時期に、彼らの鳩舎を離れました。最近では生後わずか3日で売買されるケースも少なくありません。この場合の利点としては、雌鳩は幼いヒナを我が子のように献身的に育てる、2羽のヒナを育てるよりも1羽の方が成長が早い、新しい持ち主が自分の脚環を装着できる、などの点が挙げられます。

 ヤンセン兄弟は、こんな風にして毎年、100羽、いや、200羽もの鳩を売りさばくことができたはずです。それは間違いありません。いつも多くの希望者が順番を待っていました。でも、兄弟が自分たちのために最高の鳩を確保していたとは考えないでください。誰でも若鳩を注文すれば、望み通りのものを得ることができたのです。

 彼らの財布は厚みを増しましたけれど、誰がそれを非難しえたでしょう。そのやり方が汚いなどと言える者はなかったはず。オランダやベルギーの愛鳩家は、ヤンセン兄弟がかくも永い間、成功し続ける秘密は一体何なのだろうかと自問したものです。 

 ■秘密、それは”常識”!■    2020年7月11日(土) 5:34 修正
 ヤンセン兄弟が誰よりも鳩に精通していると信じている人は数多くいました。比類なきエキスパート、レースを巧みに制する者である、と。小柄な兄弟について、人々は噂しあいました。
  「彼らは近頃、屋根裏部屋に小さな鳩舎を作り、10羽ほどのオス鳩を飼っている」
  「彼らは鳩をより速く、より確実に飛ばす秘密を知っている」……

 1940年代、そこで私はアーレンドンクに足を向けました。J・オウメンスとファンーテュインのコンビ(※2)、その他の注文主のために、高齢の種鳩を何羽か購入したのです。その中には1936年生まれのメス鳩、ヘレントゥホウト在のシェーテルス(=ショーダース)との見事な掛け合わせから誕生した基礎鳩。アウデ・ウィットガー・ファン33‘の姉妹、また濁った銀色の瞳をした”デッケ・ウィットペン・ファン・37”。ブラウェ・ロースタールト“ シャリー・ブラウェ‘などが含まれていました。

 戦前に名声を馳せたこれらの鳩は決して安くはありませんでした。というのも、ドゥリークスケの愛称で呼ばれた老ヘンリー・ヤンセンは田舎者といえども、鳩の相場というものを熟知していたからです。

 メルクセムのオウメンス&ファンーテュインは、ヤンセンの娘婿ティーストから買った翼に瘤のある。シャーリー・ブラウェ‘から若鳩を作出しました。これらの若鳩はクラブで数子フランを稼ぎ出しましたから、優秀な一羽の鳩は決して高すぎることはないと言えるでしょう。

 ヤンセンの鳩は速く確実に飛んではくれますけれど、レーサーとしてよりも種鳩としていっそう優れた能力を発揮しました。今もなおこの評価に変わりはないでしょう。これ以上の種鳩は存在しないと私は思っています。再度、強調するなら、濃密な近親交配に耐えうる系統がヤンセンなのです。

 ■迷い込み鳩■    2020年7月11日(土) 5:36 修正
 余りに長い歳月が流れ、目撃者の記憶も曖昧になった時、真実と伝説とは渾然一体となってきます。系統の名前が怪しい時、また系図の中に未知のチャンピオンが入り込んでいる時は、失踪鳩や彷徨鳩が一役買っている場合か多数あります。

 私は、リエージュープロビンシャルのラボゼーに住むレジューヌ博士が所有していた奇跡のカップルについて書いたことかあります。この迷い込みカップルからホイグネーのブルー・コリンが生まれました。このことについては殆ど知られてはおらず、秘密のベールに包まれていたので、それらの鳩が脚環を付けていたかどうかすら定かではありません。
オスまたはメス鳩が失踪したり、あるいは誰かに盗まれたりといった理由でカップルがいなくなると、博士は毎度のように再び振出しに戻るのでした。が、カップルからは幾多の第二世代が誕生しており、鳩舎の基礎に据えられていたのです。そのほんの一例を挙げると、コリン、ボーフォー、ヘントゲスなどです。この力。プルの成しえたことといったら信じられないほどの素晴らしさです。

 ヤンセンの誠実この上ない系統と、他の優秀な系統の前史を比較するのはとても興味深いものがあります。コリン&アデプテン系の場合はレジューヌ博士、ファンブリアーナ系は博士よりも有名なレースマンで作出者のレールス・ノルトのジュリエン・コミン、ヒュースケン・ファンリールの系統はシェルデ川対岸のサンーアケネのペトルス・ファン・デル・ケイレンによって作られました。

 各々の鳩のタイプには、非常に大きな違いがありました。ステーンペルクやスッテケルボーの系統も、このグループで入れることがきます。

 デルバーとデフレンドも同様です。これらの鳩舎の鳩は、大きな頭文字を付けたカゴから一羽ずつ取り出されては淘汰を繰り返され、次第に均質な鳩が作られていきました。この淘汰の目的は、可能な限り長く、そして、”矢のように速く”飛ぶことでした。ローマへと通じる道は、あきれるほどたくさんの道程をたどらなければならないのです。

 ■テシーオの原理■    2020年7月11日(土) 5:37 修正
 フェデリコ・テシーオは競争馬に誰よりも精通しており、訓練士であると同時にミラノ郊外の北イタリア山中にあるドルメローオルギアータ種馬飼育場の共同所有者で、ラーゴーマギオーレ地方で当時最高の種馬を育てていました。

 彼は2つの原則、つまり1つの基準と1つの原理を持っており、その価値は実践によって証明されました。それはステイヤーすなわち最も重い重量を、できるだけ長く、そして言うまでもないことですが、できるだけ速く運ぶことができる馬を基礎に据えることでした。

 雄馬”テラリーネ”もその一頭でした。テシーオはこの馬を「英国王立厩舎」に譲渡したのです。その後、テシーオは自分の持っている馬の中で最もスピードのある牝馬。”ロマネラ“もイギリスに送り込みました。

 科学的に説明することはできませんが、テシーオの雄馬は他の何者よりも速く走れなくてはなりませんでした。その逆では決して駄目なのです。

 昨日(※3)、私はベルギーRTVで、エリザベス女王ピアノ・コンクールの輝かしい優勝者、二十歳のフランス人ピエール=アラン・ヴォロンダート[Pierre-Alain Volondat]のインタビューを見ました。彼はそのインタビューを通して、天才とは我々凡人が抱いている無数の偏見とは無縁のものであることを明らかにしました。ヴォロンダート曰く、

  「天才の精神性とは、ベートーベンやアインシュタインが人類のために灯したたいまつを燃やし続けることにある」

 天才と狂気とはそれほどかけ離れたものではないようですが、ヴォロンダートの場合はこの命題を実証しているように私には見えました。
 既に戦前に書いたように、国内のビッグ・レースを制するのは、少数のエリート鳩の系統です。しかし、数多くの鳩が作出され、鳩の世界もますます多様化してきました。それらを子細に観察すればするほど、微妙な違いに気付くのです。
              (次号へ続く)

  ■■『Piet de Weerd 研究』008■■  [ピート・デヴィート回想録008「ショータース」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》  (出典:『愛鳩の友』1996年7月号 )  イレブン  2020年7月12日(日) 4:06 修正
このピート・デヴィート回想録008「ショータース」当たりから、ピートさんの論調は、かなり鋭いものになってきます。この『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』の原本は、レース鳩関連の新聞の連載のような感じがするのですが、連載の読者の好反応がわかり始めたことも、ピートさんのペンの走りに勢いを加えていったようにも感じます。

この第8回「ショータース」では、アーレンドンクのヤンセンの基礎鳩にまつわる貴重な伝聞をピートさんは書いています。そして、その行き着く先にDr.ブリクーも基礎としたWegge鳩の話が登場します。現在イレブンが連載している『OPEL BOOK 2020』で話題にしているWegge鳩です。

ピートさんの回想録は、この第8回以降から、ピートさんの系統理論が登場し始めます。この連載も、できるだけ一気にその部分の全文引用をして、考察を加えることができるように編集していきたいと思ってます。

 ■愛鳩家はこうしてトップーフライターになる■    2020年7月12日(日) 4:08 修正
 1948年から49年にかけて、私はペトルス・ファンニアル・ケイレンの持っていたカップルを調べました。ジェフ・ファンリールが挙げた4羽の基礎鳩の先ず第一が。オウテ・ヴィッツィンガー“です。これは散々使い果たした後に、ブリュッセルに住むダンハイヴ兄弟に売られました。粗野でいかつい体つきをしており、”ブルータス“とでもいう名前が似つかわしそうなトリでした。

 次に、”オウデ・バンゲ38”とその1歳年上の姉妹”ボーリネッケ”、そして大型の。クロンメ・ダイフェン“、これは、”ステーノーグ“と同じくベルラールのジェフ・ファンデン・ボッシュの系統です。これらのうち、”オウデ・バング38“と、”ボーリネッケ“の素晴らしさは群を抜いていました。いずれもエケレン・ドンクから五キロ離れたサンマリアブルグに住むフランス・ノイエンから入手したものでした。ノイエンはといえば、ペトルス・ファン・デル・ケイレンから購入したのです。

 ペトルス・ファン・デル・ケイレンはロッテルダム出身の小柄でガッチリした港湾労働者でした。内陸水運業で栄えた町サン・アンネッケの川の左岸に住んでいました。彼は短
距離レースに参加し、クィーブランとサンクウェンティンを得意としていたものです。
  「彼は自分の系統を持っていない。戦時中の失踪鳩を育てていたのだ」
と、近所では噂されていました。しかし忘れてならないことは、ファン・デル・ケイレンは既に1940年以前にそれらのトリを所有しており、短距離で好成績を上げていたという点です。さもなくば、フランス・ノイエンが欲しいとは思わなかったはず。

 それはともかく、平凡な愛鳩家がトップ・フライターになったというのが事の真実というものです。まさに宝クジを引き当てるように、短距離と長距離向きの途轍もない系統が誕生したのです。夢のような現実というのが確かにあるのです。

 ”オウデ・パンゲ38”とその一歳年上の姉妹、”ボーリネッケ”は、ヤンセンと掛けるには理想的だったでしょう。実際わたしは、現代の長距離鳩’で、ヤンセンとのクロスによって改良されない優秀な系統を知りません。ファンブリアーナの有名な、”アウデ・スティール“にも当てはまります。それは、”32”の血を引くジュリアン・コミンヌの鳩だったと思います。

 ■スピードの源はパワー■    2020年7月12日(日) 4:12 修正
 ノイエンとペトルス・ファン・デル・ケイレンを基礎にしたヒュースケン・ヴァンリールの鳩は、かつてベルギーのレース鳩が生んだ最も速い系統でした。偉大なジョリス・フアンデルベルクが自転車レースの選手を見てひらめいたように、スピードの源はパワーです。ヤン・ラースやジュゼッベ・ーサロニはそうした中に含まれるでしょう。

 多分、これらのトリよりもっと速かった口ジャー・デ・フラーミンクの場合は、さらに第三の要素が極めて重要な役割を果たしました。それは抜群の持久力です。では、こうしたことの始原は一体どこなのでしょう。

 ”フォンヌ”コイルマンが、創始者ということになるのでしょうか。彼は1919年に1920年代における戦後ヤンセン系の基礎を作りました。が、もし彼らがベルラールの鳩よりも優秀なトリを持っていなかったとしたら、ヤンセンに関する章は総て、とうの昔に歴史の彼方に消え去っていたでしょう。

 おそらくショータースでしょう。彼は自分の系統をヘレンタルスに近いノルトウェイク出身のデ・コイレールの優秀なオス鳩と掛け合わせました。それは当地では無敵を誇ったダークのトリでした。”24”または、”25”の系統だったと言われています。

 このオス鳩が純金に値すると知ったジェフ・ショータースは、その娘を買いました。一年後にはダークのオス親鳩自身を手に入れ、卵をいくつかとりました。

 1930年、ボルドーからのレースで、2位を2時間ぶっちぎったショーダースの”ボルドー・デューヴィン“について言えば、その父鳩は一羽の老鳩でした。ある家禽業者の店先に雌鳩をたくさん入れたカゴの真ん中に誇り高く座っていたのでした。

 フォンス・ヤンセンがヘレンタルス税務署の飲酒税課に就職したのは30年代の始めのことでした。彼は職務上、ビール醸造者のショーダースを訪ね、やがて、”ボルドー・デューヴィン“と”アープ”を譲り受けたのでした。フォンス・ヤンセンはうまいビールには目がありませんでしたけれど、上等な鳩はもっと好きでした

 ■恐るべき鍛冶屋 ヴェッゲとスヴィッヘルス■    2020年7月12日(日) 4:15 修正
 筆者はこの目でトリを確かめてみようと現地に赴きました。最初に話をしたのはジョゼフ・デ・ケッペル(※第6回参照)です。彼はアントワープ近郊のデルネにあるメストプテケで缶詰工場を経営していました。当時、73。今も生きていればとうに100歳を越えていることでしょう。こういった人からは実に様々な話を聞くことができるものです。

 彼は早くも1898年には鳩を飼育していました。生まれはケンペンの美しい小村ヘレントホウトでした。そう、有名なショータースや(ルネ)マエスの育った土地です。

 マエスとは同姓の、ヴァールロースのビール醸造者マエスも良い鳩を持っていてレースに参加していました。彼自身は全盲に近かったので、彼の妻の協力によるところが大きかったのです。シェフの父ベルノート・ショータースは、デーケッベルの後見人でした。

 デーケッペルは、クイーブランからサンバンサンまでを競っていたクラブのレースに欠かさず参加していましたが、その基礎鳩となったのは常にショーダースでした。のちに世界中にチャンピオンの血を供給したアーレンドンクの”ドリークスケ“ヤンセンと、ヘレントホウトのルネ・マエスの血が加わりました。

 彼がアントワープのクラブで最初の成果を挙げたのは1913年でした。当時、クラブ本部はファン・エルボンストラートのヘンス村付近の”アルカデス”に置かれていました。

 ケンペンの鳩は最初からオールラウンドでした。父デーケッベルと息子のアルベルトは、アーレンドンクのヤンセンが短距離で優勝したのと同じヘレントホウト種を使ってレースに参加しました。

 私は一度、ショーダースの鳩はコンティックのデヘールツであると聞いたことがありますが、父デーケッペルの説明はそうではありませんでした。彼によれば、ペルノートーショータースはリールの純粋な系統ウエッゲを持っていて「ヴェスペラールの恐るべき鍛冶屋」の異名をとるスヴイッヘルスのトリと掛け合わせました。スヴィッヘルスの鳩は、ウェッゲ&グローテルス、すなわち後にジョリモントのDr・ブリクーが使って総てのライバルを打ち負かすことになる鳩とは同系でした。ショーダースの”アープ“は、ケンペン中の最高のトリで、あらゆるクラスのチャンピオンでもありました。このトリは若い時に4回、殺されかけました。飼い主は4回、鳩舎から取り出して、裏庭で首に手をかけたのです。が、鳩は4回とも命拾いしました。

 どうしてこんなことになったのかと読者は気にかかることでしょう。色々な事情が重なったことは言うまでもありません。ジェフ・ショータースは、いつも同じ過ちを犯しました。彼は鳩を殺すことが好きではなかったのです。冬の明るい光のなかで”アープ”を取り出すたびに、彼は哀れに思いました。病気の妻が鳩のスープをとても欲したにもかかわらず”アープ”はその翌シーズンには大変身してチャンピオンとなり、生涯そのポジションを守り通したのです。

 同僚のフェルメイェンは、ショータースについて次のように書きました。
  「忍耐強さ、少数の鳩、徹底した吟味、頑健、整然とした鳩舎、そして健康的な食事。特に食事について、彼はありとあらゆることを試みた。蜂蜜とコーヒー、砂糖と塩、ワイ
ンとコニャック、これは訪問者用である。彼は見かけによらずグルメであった。また、彼は自流の哲学者でもあった。他人は空威張りするのを我慢し、沈着に自分の道を歩んだ。
 彼は常に良い鳩を手に入れるだろう。なぜなら、彼はふるい分けの術を知っているからだ。ショーダースは、まだ彼に並び立つ者のない頃から、既にそのライバルの名が消え去った後まで、常にトップーフライターであり続けることだろう」

 ■ケンペン原野への郷愁    2020年7月12日(日) 4:16 修正
 寡黙なビール醸造者が私に語ったところによれば、シェフの父ベルノート・ショータースは既に1875年に鳩を持っており、リールのホークフェルトに住むミュラー・カレル・ウェッゲから直接、最高の鳩を譲り受けたということです。

 当時、ケンベンの道路はツールド・フランスの”北の地獄”よりもひどく、舗装されているのはほんのわずかでした。たいてい砂地か荒れ地で、冬はぬかるみになりました。殆どの道は徒歩で行くしかなく、こんな謳い文句が生まれました。
  「歩き過ぎて足が痛い。けれど良い鳩のためなら汗の滴も水ぶくれの足も平ちゃら。所詮、リールはベルギーの町。コンゴにあるわけじゃない」      (この項、続く)


 【源流系資料】クイン900号  イレブン  2020年7月10日(金) 3:12
修正
源流系SSライン種鳩

【3代目スネークスター号】の5重近親

 クイン900号の眼  イレブン  2020年7月10日(金) 3:16 修正

 ■父【シリウスブルー号】  イレブン  2020年7月10日(金) 3:28 修正
【光輝号】(3代目スネークスター号の直仔)の孫
【シリウスブル-号】(3代目スネークスター号の直仔)の孫

 母 【源流クイン号】  イレブン  2020年7月10日(金) 3:33 修正
・源流グルズル号×ブラッククイン号

 祖母【源流ブラッククイン号】源流系最高基礎鳩と祖父源流グリズル号  イレブン  2020年7月10日(金) 3:39 修正
上:ブラッククイン号(3代目スネークスター×スネークスタークイン)

下:源流グリズル号

 源流ブラッククイン号の両親  イレブン  2020年7月10日(金) 3:42 修正
父【3代目スネークスター号】
母【スネークスタークイン】

 2代目スネークスター号  イレブン  2020年7月10日(金) 3:46 修正

 スネークスター号  イレブン  2020年7月10日(金) 3:54 修正

 スネークスター号系図  イレブン  2020年7月10日(金) 3:55 修正

 スネークバイオレット号  イレブン  2020年7月10日(金) 3:56 修正

 スネークバイオレット号系図  イレブン  2020年7月10日(金) 3:57 修正

 銘鳩天竜号と竜王5号  イレブン  2020年7月10日(金) 4:00 修正

 2代目ムロタ羽幌号  イレブン  2020年7月10日(金) 4:03 修正
イレブン鳩舎初期基礎鳩

 【参考資料】スネークパール号  イレブン  2020年7月10日(金) 4:05 修正
初期イレブン鳩舎基礎鳩

父【スネークブラック号】(佐々木稚内1号×スネーク号)

母【スネークホワイト号】(スネークスター号×スネークバイオレット号) 

 【参考資料】スネークブラック号  イレブン  2020年7月10日(金) 4:14 修正
佐々木稚内1号(天龍号の直仔)×スネーク号(スネークスター号全兄弟)

 源流モンスター号  イレブン  2020年7月10日(金) 4:20 修正
クイン900号の異父兄弟

 【光輝号】    2020年7月10日(金) 17:40 修正
※上画像【光輝号】(3代目スネークスタ-号×輸入コブ)

◎クイン900号の父【シリウスブルー号】は、この光輝号の孫


※下画像【源流モンスターGG号】:光輝号から5代目に当たる鳩です。(源流モンスター号×源流光輝クイン号)

 《系統研究》【OPEL BOOK 2020】005   第1章 オペル系系統調査公開資料の全て ○全文引用資料(4) 『故オペル氏の最高傑作リッピー号の生涯』 』   イレブン  2020年7月8日(水) 21:30
修正
この 『故オペル氏の最高傑作リッピー号の生涯』は1、968年2月17日、リッピー号12歳で死去した際の特集記事です。

 J.l.Opelが作翔した、畢生の銘鳩リッピー号の生涯をまとめたこの記事はリッピ号を通してオペル系がどういう系統なのか、そして、J.l.Opelがどのような考えを持っていた人物だったのかがわかりやすく記述されています。

またこの記事は、任秀夫氏から、宮沢和男の手に渡って以降のリッピー号の生涯が詳細に記述されています。

この記事は、視点を変えると、リッピー号程の銘鳩が、その寿命を縮めさせられ、系統としての跡形もなく雑種化されていった経過を記録した貴重な資料としても読むことが出来ます。当時の一般的な系統確立の理論的な背景もそこに読み取ることが出来ます。このあたりのことは、あとで、考察として整理するつもりです。


 『故オペル氏の最高傑作リッピー号の生涯』■″リッピー号″は84四重の近親■    2020年7月8日(水) 21:33 修正
  「すばらしい記録鳩を作ることは、完全な血統を作りあげることから比較すれば、はるかに容易な事である」

 オペル氏は、72才の生涯のほとんどを鳩を飼い、飛ばすことによって費やしたが、その間に800粁以上の記録を2500以上も持った。

 そして出た結論が、この言葉となったのである。

 一つの当り交配の作出鳩が、いくらすばらしい活躍ぶりを示しても、その寿命は決して長くは持ちつづけられない。長く好記録を保持できる鳩舎となるには、一群の――その一群の中では、どう配合を変えても飛びつづけ得るという、一つの血統を作りあげなくてはならない……という、当然のことを、オペル氏は一生涯をかけて、自分の鳩群でなしとげようとしたのである。

 オペル氏は、1961年にこの世を去ってしまったが、彼が作った1956年生の雌鳩″リッピー号″は、彼の生涯を通じての最高傑作であった。

 リッピー号こそは、翔歴でも、そしてその血統的にも、まさに彼をじゅうぶんに満足させうる最高のものであった。

 51年間の、彼の長い飼鳩生活の中でリッピー号の記録を上まわる鳩は、
無数にいるに違いない。

 しかし、オペル氏の最大の目標であるオペル系の完全を、実にこの″リッピー号″にこそ見ることができたのである。

 オペル氏は、自分の血統をより完全なものにするために、あらゆる近親交配や戻し交配によって、多数の鳩を作りあげ、そして多くの失敗も繰り返してきた。

 近交になり、血が濃くなればなるほど、不完全な作出鳩の出る数の多くなることも当然であろう。しかし、彼は、たくみな彼一流の交配法によって、作出鳩の退化を防ぎ、ロスの少ないオペル系の確立をめざしていた。

 原鳩のオールド・スレート号の21重の近親。
オールド・スレート号を作りあげた1897HN15号から見れば84重の近親というこの上ない冒険をおかしながら、やっと納得の行く作出法で作りあげたリッピー号。
 彼は、この鳩の将来に大いなる希望を托したに違いない。

 ■5代先祖までで800粁以上312回記録■    2020年7月8日(水) 21:46 修正
 オペル氏が種鳩とする鳩は、800粁以上を記録した鳩に限られていた。これには戻し交配のため他鳩舎から導入された無記録鳩を数羽使用したという例外はあるが、とにかく、近親交配の作出鳩ばかりであるがために、彼は、必らずその作出鳩を長距離まで参加させ、優秀な因子が伝達されているもののみを種鳩としての有資格鳩としたのである。

 リッピー号の系統書を見ても(152頁の表を参照)、4代先祖までの31羽のうち800粁以上を記録した鳩は23羽の多きにのぼっており、その800粁以上の記録合計は218回と驚くべき数字をしめしている。

 また、さらに5代先祖までの800粁以上の記録鳩は39羽で、その合計記録数は何んと312回という、どこの国の鳩の血統にも決して見ることのでできない偉大な数字を示しているのである。

 リッピー号の兄弟も、何羽かが作出されたに違いない。
しかし、この最高血統のもとに作出された鳩達の中の何羽かは、近交の欠陥が見い出されたことによって淘汰されたり、途中のレースで淘汰されたに違いない。

 同血統鳩としては、両親ともリッピー号の両親と兄妹にあたる同血統の″ブルー・キング号″が800粁3回、1000粁1回を記録して残されたが、リッピー号のまったくの兄妹鳩でその後名を馳せた鳩は遂に残ることがなかった。

 オペル氏は、リッピー号の血統にじゅうぶんな満足をしめし、リッピー号の育ちのよさに喜びを感じたに違いないが、何しろ1羽の鳩の84重の近交作出鳩であるがために、体は非常に小さいものであった。
 しかし、能力的には、オベル氏は絶対の信頼を寄せていたことであろう。

 ■リッピー号のすばらしい活躍■    2020年7月9日(木) 4:47 修正
 オベル氏の生涯をかけた近交による理想的な作出鳩として、この世に生まれでたリッピー号は、決してオベル氏の信頼を裏切ることはなかった。

 リッピー号(MCCA56−5725灰胡麻 雌)は、1956年の陽気のよい5月に生まれた。

 父鳩は8才、母鳩は9才に達していたが2羽とも800粁を8回から9回も記録しており、オベル氏の目標とする″記録を達成した鳩″であった。

 リッピー号は、1957年(1才)には320粁、480粁、640粁、800粁、800粁と5回のレースを記録した。

 1958年(2才)は、480粁、640粁そして1000粁を記録。
 1959年(3才)は、320粁、640粁、800粁、1000粁と、3度めの800粁と、2度めの1000粁を記録。

 この頃、クチバシの下にツノコブと呼ばれる特殊な角質の凸起があらわれ、オペル氏をこの上なく喜ばせた。

 このツノコプは、数干羽中に一羽と、ごくまれに現われるものだそうで、アメリカ鳩界では
 ″幸運をもたらす鳩″
 として大変珍重がられているからである。

 果せるかな、翌年1960年(4才)のレースでは、480粁のほか、4度めの800粁と3度めの1000粁記録を達成し、最後の1120粁で総合優勝という栄冠を獲得してくれたのである。

 ■生みの親 オペル氏死去■    2020年7月9日(木) 4:57 修正
 1960年にはいると、70才を越えたオベル氏の体力にも極度の衰えが見えてきていた。

 だが、どうしてもリッピーだけは飛ばせずにはおれなかった。

 最終目標として作出した鳩の一羽であったからである。

 この鳩が飛んでくれれば……オペル氏の心境は、リッビー号にも理解できていたに違いない。

 体は小さいが、スラリとした体型と、いかにも決意と麗利に満ちたリッピー号の表情には、
  「必らず優勝して見せますよ」
 という確信に満ちたヒラメキがうかがわれていた。

 血統が良い――といわれ、ツノコブが出たと評判されたリッピーは、その名声と期待とは、どうしても答えなくてはならなかったに違いない。

 そして、遂に1120粁で総合優勝を遂げたのである。

 「私は死んでも、オペル系は永遠に死ぬことがないであろう」
 と云いのこして、リッピー号が飛び終えた翌年の夏、自分の系統の確立を達成したオ.オペル氏は、リッピー号のいる鳩舎のわきの部屋で長い飼鳩生活に別れをつげて死去した.

 オペル系の集大成であるリッピー号にオペル系の将来の一切を托して…….

 オペル氏の鳩は、死後、幾人かの友人たちに引きとられていったが、リッピー号と僚友のブルー・キング号をはじめ、もっとも大切にしていた何羽かは、遺言によって最も信頼し合っていた鳩友のビール兄弟鳩舎に引きとられたのである。

 ■ビール鳩舎から日本の任鳩舎へ■    2020年7月9日(木) 5:07 修正
 故オペル氏のあとをうけてリッピー号の飼育にあたったビール氏兄弟は、これを手中の玉のように大切にあつかい、わずかばかりの仔鳩を作出したが、1964年になって、かねてからオペル系に目をつけていた、大阪の任秀夫氏が、令弟がアメリカに留学しているのを利用して、ビール氏にリツピー号の分譲を願い入れた。

 しかし、ビール氏は、オペル氏の遺言もあることで、これを断わりつづけていたが再三、再四の懇望に、やむを得ず、同年7月になって、

 「日本の″オベル研究会″の基礎鳩として特に譲りましょう」

との返事をなし、同月中に日本へ送られてきたのであった。こうして、故オベル氏の最高傑作鳩であるリッピー号は、日本鳩界へ登場した。

 当時の日本鳩界は、この大銘鳩の来日にちなんで、本誌に連載された任秀夫氏の″オベル系は永遠に生きている″という紹介記事に感激し、酔いしれていた。

 この銘鳩を手にした任氏は、彼のピルの屋上に建てた鳩舎に収容して種鳩として作出に従事させた。故国のアメリカを違くはなれ、異国の日本での生活も、あまり落ちついたものではなかった。

 十数羽の仔鳩を作出し終えたころ、飼育者の任秀夫氏の都合で、鳩飼育を全面的に中止することになり、1965年8月に愛鳩の友社との交渉もまとまり、数十万円の値段で身売りをしなければならなくなってしまった。

 同年8月20日、百数十羽の友人たちと一緒に、特別にチャーターされた超大型のトラックに、輸送籠につめられたリッピー号は、共こ来日したブルー・キング号、シルバー・キング号、ホワイト・アイ号らの故オペル氏作出鳩や、ビール氏作出の十数羽とともに乗せられた。
 それは苦しい旅であった。日本の夏はムシ暑い。その暑いさなかに籠につめられ、大阪の任鳩舎を出発したのは夕方であったが、夜通しで東海道を東上し、東京の愛鳩の友社へ到着したのは、翌日の昼頃であったろうか。

 輸送される大型トラックのすぐうしろからは随行の乗用車にまもられての旅行は、一見豪華なパレードにも似ていたが、狭い庖の中で、スシ詰め同様の状態で運ばれたリッピーたちの一行にとっては、決して楽な旅行ではなかった。
 「オベルさんさえ生きていれば……」
 きっと、このようにあちこちを転々とする連命を辿ることはなかったであろうと、思ったに違いない。

 銘鳩なるが故に、愛鳩家に珍重されるが故に、リッピー号の居所は定まらないのである。

【続く】

 ■”世界の十大銘鳩″の第4位となる■    2020年7月10日(金) 1:36 修正
 これより先、本誌の1965年7月号に″日本の十大銘鳩″と″世界の十大銘鳩″
を決定する旨の発表があったが、同年9月になって、これに立候補することとなり、10月号に正式に立候補鳩として取りあげられた。

 ″世界の十大銘鳩″決定のための投票は同年11月号からはじめられ、翌1966年2月5日をもって締め切られたが、愛鳩の友社と主催して投票の送付先となっていた日本ピジョン社に送達された総有効投票15940票のうち、755票を獲得して、第4位に決定された。

 ミュニイエ号、テキサス号、ワールド・クイン号に上位を譲ったとは云え、この人気ぶりは、まさに亡きオベル氏の霊を安めるに足るものであったろう。

 リッピー号は、オペル系最高の代表鳩として、これからは、種鳩としての存在価値を高めなくては、これらの栄光の座を保持して行くことはむずかしくなってくる。

 1965年8月20日から、新しい飼育者となった宮沢和男は、この鳩の種鳩としての価値を高めるため、輿剣に配偶雄鳩の選定問題と取り組むことになった。

 宮沢鳩舎の作出方針は、″宮沢系″の確立ということにあったがため、晩年のオベル氏の作出法とは大分相違があった。

 つまり、オペル氏が″オベル系″を作るために取り組みはじめた第一段階の作出法へ逆もどりしたわけである。

 宮沢鳩舎には、リッピー号をはじめ、ミュニイエ号、テキサス号、ワールド・クイン号、ワールド・キング号、名鳩号、誠新号などの主要基礎鳩が多数あり、これらの組み合せによって宮沢鳩舎独特のタイプと性能をもった一群を作りあげようという、もっとも基礎的な交配法から出発するという段階にあった。

 だから、リッピー号などによるオペル系の近親交配が主目的ではなかった。オペルの血液も重要なる基盤とするために、一時的な近交がおこなわれようとも、やがてそれらも次々と他系とミックスされ、新しい血族作りに移っていくことになる。

 今までの、オペル系の代表鳩としてのリッピー号は、宮沢鳩舎においては、新しい血統作りの一基礎鳩として変貌した。

 リッピー号のなきあと、僚友のブルー・キング号との近親交配作出鳩が何羽か残るが、やがて宮沢鳩舎においては、統粋のオベル代表系の姿は消えていく運命にある。
 「私は死んでも、オペル系は永遠に死なない……」
 とオペル氏は残したが、リッピーりの直系は、他系との交配により、新しい形となって行くことであろう。

 ■宮沢鳩舎で 30コを産卵■    2020年7月10日(金) 2:10 修正
 宮沢鳩舎へ収容された当時は、まるで不調であった。筋肉にはたるみがきていて、腹の部分には脂肪のかたまりかと思われるようなふくらみが指先に感じられ、このままでは産卵は不可能なのではないかと危ぶまれていた。

 前飼育者の任秀夫氏にこの点を聞くと
 「来日した時からそんな具合だけど。普通に産卵するから心配ない」
 と云われたが、1965年秋は他の主要基礎鳩など20羽ぐらいと一緒に、2坪弱の鳩舎に雑居させ、巣房は与えなかった。

 1966年になると、体調も良くなったように思えるので、2月20日に、とりあえずオペル同士の作出鳩も何羽か確保しておかなくては……と、宮沢鳩舎の種鳩用としてブルー・キング号との配合で作出開始。

 3月1日と3日(66MM8882、同8852、ともにBCc♀)、3月20日と22日(66MM8822、同8860BCとBで共に♀)、4月5日(無精)と7日(埼玉の斉藤氏へ贈呈)、4月24日(割レタ)と26日(66ST1056B♀)、5月11日13日(66ST1067と同1068、BとBCで共に合)を産卵した。

 このうち、現在宮沢鳩舎に残っているのは、66MM8822BC♀と、66ST1067B♂の二羽のみ。

 この♂1羽と♀1羽の統オペルが、他の血液と交配されろ種鳩となる。

 ついで、リッピー号はブルー・キング号との配合を解かれ、はじめて自分の血族以外の鳩と接触することになる。

 その相手は、。ベルギーの賞金獲得王といわれるジェラルド・ファンネ鳩舎の代表種鳩であったル・ロア号。

 5月30日と6月1日(66ST1065BC♀と同1066BW♂}、6月28日と30日(66ST1084B♀と同85BC銀目♀)、7月25日と27日(中止卵と66ST1097BW♂)を産卵した。

 はじめは産卵を危ぶんでいたが、配合してみると任氏の云うとおり絶好調でこの春だけで16コの卵を産んでいる。
 
 見かけはきゃしゃであるリッピー号が、レース面においても偉大な成績を残し得た片鱗が、このすばらしい産卵能力を見て、うかがい知られるようであった。

 この7月27日の産卵後、4〜5日ギ卵を抱いたのちに分離されて雌鳩鳩舎へ移された。
 約一ヵ月の休息ののち、再び9月1日にブルー・キング号と交配されたが、9月8日と10日に産卵した2コは、ともに孵化後2日めぐらいに仮母の腹の下で死亡。10月12日と14日の2卵は中止卵で、結局1羽も作出できなかった。やはり春の疲れが出ているため、卵が弱いようである。

 10月23日に分離。春の作出鳩は、育ちあがってみても、いずれも小柄である。
 次に、まったく休む暇もなく、リッピー号は11月25目にワールドーキング号(2000粁総合優勝鳩)と交配された。

 12月7日と9日(67宮沢130BC♀と、一卵は中止卵)、翌年に入って1月9日と11日(1卵は孵化後2日めに死亡もう1卵は育って67宮沢144BC♀)と2回産卵し、1月15日に配合が解かれる。

 約2カ月の休息後、3月11日には、フランスのドルダン作のジュビレ2号(ジュビレ号の直仔)と交配され、3月21日と23日(67宮沢159BCと中止卵)4月12日と14日(67宮沢174と同175、ともにBC)、4月27日と29日(ともに割れた)と3回産卵。
  

 ■17羽が育ち、7羽が宮沢鳩舎に残る■    2020年7月10日(金) 2:12 修正
 結局宮沢作の17羽の仔鳩をリッピー号は残した。そのうち現在宮沢鳩舎に残るのはブルーキング号との近交作出鳩が2羽、ジュビレ2号とが2羽、ワールドキング号との仔が2羽、ル・ロア号との仔が1羽の合計7羽で、これが宮沢系を形成する原動力となる。

 他の10羽は、尾内一郎氏に2羽、持丸武司氏に1羽、中沢浩氏に1羽、スーパークイズの当選者に1羽をそれぞれ贈呈し、白山正恵氏に1羽、吉田明史氏に1羽を同氏らの鳩と交換し、腕野勉氏と中本泰光氏と徳田明氏に1羽ずっを分譲した。

 とにかく、このように、ほんのわずかではあるが、小柄で頭脳的な優秀な能力を持っていると思われる仔鳩たちをリッピー号は残しでくれた。

 ■2月17日午前8時!    2020年7月10日(金) 2:13 修正
 しかし、1967年の天皇誕生日である4月29日の産卵を‥以後として、次第に
体調も落ち、やがて顔面の片側、耳と眼の間にできた肉腫が大きくなり、2度、3度の手術にもかかわらず、次第に大きくなる一方であった。

 肉塊は口腔の内側までふくらませ、ついばむ飼料も、のどを通りずらくなってしまった。
 今春の2月13日、動物専門の東京の加膝動物病院に入院。16日に切開手術。しかし時すでにおそく、翌17日午前8時頃満12年の輝やかしい栄光の生涯を閉じてしまった。

 リッピー号を手術した加藤院長は
  「悪性の肉腫で、口の中まで圧迫していました。もう少し早ければ……」
 と語っている。

「血統とは、最後まで飛びつづける優秀な鳩の血族である」
 と、オペル氏は、レースに勝つことよりも、まず自分の満足すべき血族を作りあげることに専念した。

 そして、最後的に満足すべき鳩としで、作りあげたのがリッピー号であった。
 ニェーカー(約2500粁)の土地の南側に造られた納屋の2階の片隅にあるオベル氏の日当りのよい鳩舎で生まれ、育ち、そしてオベル氏の期待にそって飛びつづけたリッピー号は、東京のスモッグによどんだ、往来から自動車の騒嗇の絶えない宮沢鳩舎で、余生を交配、分離、蓄殖のあわただしいうちに過ごして死んだ。

 「私が死んでも……」とオペル氏が云った。「リッピーが死んでも、その血は生かす」
と子孫の飼育者達は語っている。

【以上、全文引用終了】

 ★★イレブンのお薦め名曲動画★★  イレブン  2020年4月12日(日) 4:40
修正
先日から登場しているこの★★イレブンのお薦め名曲動画★★のコーナーは、イレブンがまた聞きたいと思った名曲動画をリンクしてすぐ聞けるようにするために作っているコーナーです。レース鳩とは全く関係がありませんので気にしないで下さいね。

■瀬戸の花嫁を唄うブラジル人女の子
https://www.youtube.com/watch?v=1cCSLGIPiPg
■8歳の子供のすごい歌唱力!
https://www.youtube.com/watch?v=QvSBnAFGV90
■メリッサ・クニヨシ(9歳) 「沖縄」
https://www.youtube.com/watch?v=GQARIn537Wk

■Rock Free Concert - ソウル地下鉄(feat. 山岸潤史)
https://www.youtube.com/watch?v=TcWuNV-wTgI

 ・  イレブン  2020年4月16日(木) 4:43 修正
■奇跡の歌声 山下ヤスミン
https://www.youtube.com/watch?v=OugO9DhdJic

■Yasmin Yamashita 昭和音楽祭 <後半> Full
https://www.youtube.com/watch?v=F5SsjmIZweM

 ・  イレブン  2020年4月18日(土) 5:35 修正
■ミュージックフェア21 森山良子 さだまさし
https://www.youtube.com/watch?v=6FqVBjh394o

■さくら/森 麻季 + LE VELVETS
https://www.youtube.com/watch?v=ykk7dI2cKkA&list=RDOHFOxZcotvg&index=2

 ・  イレブン  2020年4月21日(火) 2:42 修正
■Stand Alone/森麻季 NHK スペシャルドラマ「坂の上の雲」より
https://www.youtube.com/watch?v=dCsx0IiIKi4&list=RDOHFOxZcotvg&index=11

東日本大震災の半年後のコンサートで歌われた動画です。新型コロナとの戦いの今、この歌を聴くと心に響くものがあります。

■Mori Maki Soprano Recital Part1
https://www.youtube.com/watch?v=T95u6feAbYY

■Mori Maki Soprano Recital Part2, 3Ave Maria
https://www.youtube.com/watch?v=_gw_4CMDUsA

■『題名のない音楽会』45周年コンサート 森麻季 川久保賜紀 オーケストラ・アンサンブル金沢
https://www.youtube.com/watch?v=4BQf8tzI8Ow

 ・  イレブン  2020年5月3日(日) 4:37 修正
■さくら(独唱) / 森麻季
https://www.youtube.com/watch?v=57G0AgwTOYk&list=RDOHFOxZcotvg&index=15

■森麻季
https://www.youtube.com/watch?v=d4zUcr2w-c0


 【Shows at Home】民衆の歌 / Do You Hear The People Sing ? - Les Miserables -   イレブン  2020年5月3日(日) 4:43 修正
■ミュージカル「レ・ミゼラブル」主題曲「民衆の歌」
医療関係者の方々を始めとするコロナに戦うすべての方への応援メッセージ
です。感動します。
https://www.youtube.com/watch?v=0Eax4cw6QFA

■Les Misérables Flash Mob - Orlando Shakespeare Theater
https://www.youtube.com/watch?v=Cn8PiqIXEjQ

 ・  イレブン  2020年5月3日(日) 5:10 修正
■Les Miserables at the Classic Brit Awards 2011
https://www.youtube.com/watch?v=VFtMB2iaxqk

 ◇We are the World (2020)◇  イレブン  2020年5月4日(月) 5:56 修正
■We Are The World 2020 - The Quarantine Mix, Long Island

世界中の有名なアーティストが歌う名曲「We Are The World 2020」感動します。

https://www.youtube.com/watch?v=lTK84KEDMW8

■We are the World (2020) | Together At Home Edition by Channel Aid, KHS & YouTube Artists

https://www.youtube.com/watch?v=0MWNW_a35oY

 John Williams: Star Wars Suite - Slobodeniouk - Tropa Korriban - Sinfónica de Galicia   イレブン  2020年5月6日(水) 4:41 修正
https://www.youtube.com/watch?v=4aVMetrLGZ0

 FULL DVD - Love in Maastricht - André Rieu  イレブン  2020年5月9日(土) 21:11 修正
https://www.youtube.com/watch?v=K80cSfaCBQk

 ・  イレブン  2020年6月24日(水) 19:41 修正

   イレブン鳩舎は、無事ですが、近くでは災害が広がりつつあります。  2020年7月7日(火) 6:40
修正
昨日からの雨がものすごく、河川の氾濫でイレブンの知人も床上浸水などの被害が出ています。イレブンが住んでいるところは幸い、小高い丘陵地なので水害や土砂崩れの心配はほとんど無いのですが、近辺では、河川の氾濫等の危険が迫っています。

桁外れの雨量なのでこれから何が起こるかとても心配な状況です。仕事にも行けそうにありません。

掲示板をご覧の方の中にも、被害やその心配が迫っておられる方も数多くおられるのではないかと心配しています。ご無事を祈っております。

 甚大な被害が出ていそうです。  イレブン  2020年7月8日(水) 3:20 修正
夜中から結構雨が降り続いていたので、ネットで河川の状況を見てみたら、かなり深刻な状況になっていました。

夜が明けたら状況がよく分かると思いますが、……。心配です。

 各地で浸水が多発していました。  イレブン  2020年7月8日(水) 20:04 修正
イレブンの地元でもあちこちで浸水の被害が出て、未だに水が引いていない所もあるようです。被害の範囲が広すぎるので、テレビの情報もごく一部のことしか報道されないので、全体の状況はよく分かりません。

明日の夜からまた激しい雨が降るかも知れないという情報も流れています。予断を許さない状況が続いています。

ご心配をおかけしていますが、イレブンの自宅や鳩舎は無事です。

 ・・  イレブン  2020年7月9日(木) 4:41 修正

 《系統研究》【OPEL BOOK 2020】004   第1章 オペル系系統調査の公開資料の全て ○全文引用資料(3) 任秀夫『オペルは永遠に生きている(最終回) 』  イレブン  2020年7月7日(火) 5:32
修正
この任秀夫氏が書き綴った『オペルは永遠に生きている(最終回)』では、冒頭に、仕事の関係で一時鳩を中断する状況になったことを記述されています。更に、オペル系を始めとする、任氏の銘鳩達を愛鳩の友社社長の宮沢和男に全鳩を譲り渡すことになった経緯にも触れています。

 イレブンは、おそらくこの連載を始める当初より、ある程度この話が始まっていたのではないか、と推察しています。

 アメリカを代表する世界に誇りうる銘系オペル系の最高種鳩を手にしていた任氏にとってこの一時中断をする際、このオペル系を正しく知って間違いがないようこの日本で根付かせたいとの熱い思いのようなものが、この論文の端々に脈打っているからです。

 おそらく、この『オペルは永遠に生きている』をこの時、任氏が書き残していなかったら、その後の日本における数々のオペル系研究の論考もあやふやなものとなっていっただろうし、オペル系そのものも雑種化され、今日、その名さえ人々の記憶に残らず消えていったのではないかとさえ、思っています。

 おそらく、当時の任氏の胸中には、臨終間際に語った「私が死んでも、オペル系は永遠に生きている」とのオペルの言葉が肖像写真とともに息づいていたのではないかでしょうか。

 この連載の最終回には、その任氏の思いが溢れています。では全文引用をしますね。

 『オペルは永遠に生きている(最終回) 』  任秀夫  2020年7月7日(火) 5:37 修正
 前4回にわたって、オペルという人物、そのオペル氏が作り出した″不滅のオペル系″の威力、その驚くべき長距離の記録、そして鳩の死後この系統を受け継いだビール兄弟の活躍などについて筆をすすめてきたが、本誌の前月号で読者の皆さんもご存知のとおり、小生の一身上の都合で飯よりも好きだった鳩の飼育を、一時休まなくてはならないことになり、オペル系の輸入鳩全鳩を含めて、小生の苦心して輸入してきた鳩のすべてを愛鳩の友社を通じて処分しなければならなくなり、この”最終回”を書く筆もにぶり勝ちである。

 「君以外には永久に鳩は売らないから…」と親愛なるメッセージをもらったハフナー氏や、故オペル氏の遺作鳩までも分譲してくれたビール兄弟には、まったくすまない気もするが、涙を呑まざるを得なかった。それでも故オペル氏の作出鳩だけは処分せずに、友人にでもあずけておこうと考えたが、宮沢社長に「中途半端なやめかたでは仕事に身が入らないよ」といわれ、思いきってしまった。

 今後、愛鳩の友社から、これらの私の鳩たちが売りに出されると思うので、これらのオペル系を手にした人たちが、故オペル氏の思うとおり「永遠に生きているオペル系」を、じゅうぶんに活用できるように、私のもっていたオペル系の鳩たちの概略と、オペル系の成績のうち、私か調査できた範囲内についてを記してしめくくりとしたい。

 ■オペル系所見■    2020年7月7日(火) 5:38 修正
 オペル系の鳩には、テキサス号をはじめとしたハフナー系のような立派な立姿は見られない。ここに掲げてあるいくつかの写真を見ても理解できるように、大抵の鳩は首をちょっとすくめたような、ばっとしない立姿である。体は例外なしに小さめである。眼色については前記してあるが、総じて薄い感じのものが多い。

 顔ぼうも、決して品評会にむくような部類のものではなく、初心者や素人の愛鳩家にはきっと落胆する人が多いに違いない。特に若鳩時代は、体も小さく、魅力的ではないということを言っておかなければならないであろう。

 「飛んでょし、見てょし……」ということがよく言われるが、このオベル系に関しては、この理想はあてはまらないと敢えて言わなければならない。

 オペル系のよさは、系統のよさにある。必らず長距離から帰還し得る、という執念にある。この小さな体、そして立派でなぢ容ぼうのどこにその底力を秘めているのか、と思われるほど、この系統は強い。

 かって、名古屋の岩田氏をして「長距離鳩の体力上の必要条件は最低限度のものでじゅうぶんである……」と言わしめた原因。

 それは岩田氏が自身でオペル系を混入した血液をもって長距離を征覇し得たからにほかならない。

 オペル系の最大の長所は、「利巧な鳩」という一語につきる。いくつかの銘鳩を原鳩として、代々長距離を何回も飛びつづけた鳩で固め、あるいは近親交配で、あるいは戻し配合によって、オペル氏はこの「利巧な鳩」を作りあげることに成功したのである。

 故オペル氏は、自分の鳩を他へ分譲することを好まなかった。妻帯もせず、したがって子供もない彼には、鳩だけが最愛の友だったのである。

 そのため、一羽の選手鳩は何回も何回も、オペル氏は「その鳩が喜んでレースに出発し、放鳩地からたのしげに帰ってくる間」飛ばしつづけたのである。

 レースで幾多の武勲をたてたのちに、その鳩は種鳩にされて、老後は配偶鳩とともに鳩のすべてを鳩を引き取ってくれるよう遺言をし、約150羽の中、主に種鳩々舎の鳩はグレン・ビール氏(兄)に、選手鳩・若鳩鳩舎の鳩はラッセル・ビール氏(弟)の鳩舎に収容されたのであった。

 その後、ビール兄弟にはアメリカの各地から、オペル系の分譲の依頼状が殺到したが頑として販売に応じなかった。1963年末と64年6月の2回にわたって、このビール氏と故オペル氏の鳩が、ビール鳩舎から私の鳩舎およびオペル研究会に導入することができたが、故オペル氏の先輩にあたるA・S・ジョンストン氏が「若しオペル氏が生きていれば、自分の鳩が気候、地理条件の異なる他国でどのような成果をあげ得るかを必ず試すであろうから……」と、ビール氏に進言したために、本当に例外的に輸入が実現したのであった。

  ■オペル主流系■    2020年7月7日(火) 5:41 修正
 オペル系には、主流系も支流系もない−ということがよく言われる。ということは、オペル氏が亡くなる頃に使っていた種鳩や選手鳩のすべてが、先祖を同じくするからである。全鳩が血族関係にあることは勿論、それが3重、4重にもかさなって、系統的にも体型的にも同じようなものばかりなのである。

 「オペル氏の鳩やビール氏の鳩は、たとえ長距離の記録鳩であろうと、なかろうと、またどの種鳩の鳩であろうとも、それを導入して種鳩にする場合の価値は全く等しい」と、言われる理由がここにある。

 オペル系に関する1948年頃までの資料は、オペル氏と、彼の先輩A・Sジョンストン氏の二人の偉大な愛鳩家が生前に編集した「オベル・プック」に残されているが、これによると、オペル氏の種鳩は、A・S・ジョンストン氏の作出したローガン系であり、これらの鳩から作出された鳩たちはオペル氏の鳩舎で51年間の長い間、10代、12代と優秀な鳩を作出しつづけたのであった。

 オペル氏は独特の、いわゆる″オペル配合法″をもって作出をつづけたが、彼の系統が全アメリカに注目されるような大チャンピオンを作りはじめたのは、1918年にA・Sジョンストン氏から導入した”オールド・スレー卜号″が作出を開始してからであった。

 この鳩は、20421の脚環をつけたスレートの♂であるが、現在ビール氏が使用しているオペル系、そして私が導入したオペル系の鳩は、ほとんどこのオールド・スレート号の近親交配によって作出されている。またこの鳩の血を受けていない鳩は1羽もいない。

 たとえば、現存するオベル氏作の最高鳩である″リッピー号″のごときは、オールド・スレート号の何と16重の近親になっているのである。このような近親でありながら、その作出鳩がなおチャンピオンたり得るというところに、故オペル氏の配合法のうまさがうかがえる。

 ″オールド・スレート号″の生年については明らかでないが、オペル氏の鳩舎に収容された時には、すでに5才を過ぎていたと予想される。この銘種鳩は、オペル鳩舎においては、ほとんど6460号(800粁2回)と配合されていたが、その作出鳩のうち、7773号(800粁7回、1000粁6回)、4425号(800粁)、3300号(800粁2回)の3羽の血統が現在まで伝わっている。

 【図表1】はオールド・スレート号の直仔と孫との配合図であるが、この配合で作出された493号と9916号は、のちに種鳩として使用され、現在までオベル系の系統書の中に生きている。

 しかし、オールド・スレート号の作出鳩の中で、異彩をはなつのは、何といっても3300号であろう。自身では800粁2回の記録しか持っていないが、8713号という栗胡麻の配偶鳩を得て、直仔、孫、曾孫に幾多のチャンピオン鳩を作りだし、世界のオペル系を不動の地位に築きあげた原動力の1羽となった。


 ◇ 図表2、図表3を図表1と合わせて見ると、いずれも非常な近親系であることが発見できよう。◇    2020年7月7日(火) 5:42 修正

 ■8713号と3300号の配合■    2020年7月7日(火) 5:46 修正
 オペル系の基礎作りの段階における当り配合の一つである。この配合によって最も注目しなければならないのは、銘鳩5770号と5771号の作出であろう。

 5770号については、本年6月号の124ページで紹介しておいたが、このMCCA34−5770栗胡麻の♂は、800粁10回、900粁1回、1000粁7回、1120粁4回という大記録をもっており、公認延飛翔距離は、何と33600粁にも達している。また、同腹鳩5771号灰胡麻の♂も800粁4回、900粁1回を記録している。

 しかし、この2羽は、大記録をもっているということだけでなく、直系に実にすばらしい長距離鳩を残したという点に、この銘鳩の大きな存在価値があったのである。

 ■銘鳩5770号と5771号の直系■    2020年7月7日(火) 5:47 修正
 オールド・スレート号の孫にあたり、栗色の基礎鳩、713号の直仔にあたる、銘鳩5770号の直系の活躍状況を調べようとして、私は「オペル・ブックク」や手元にある輸入した鳩たちの系統書を開いただけで、それをいちいち紹介することは紙面の都合上、とても不可能であることを知った。それほど無数の記録鳩を書き抜かなくてはならないことになるのである。

 そこで、″リッピー号″の一枚の系統書に出てくる直系の記録状態だけを【図表4】 (次頁)に表わしてみることにした。

 つまり、リッピー号は父系、母系ともに銘鳩5770号の5代めにあたるが、その間、1羽の無記録鳩もなく、父系においては800粁を合計31回、900粁を1回、1000粁を合計13回、1120粁を合計8回記録している。また母系においても800粁を合計43回、900粁を1回、1000粁を合計12回、1120粁を合計7回記録というすばらしいものである。

 リッピー号の系統書一枚を調べただけで5770号とその直系はこれだけの記録を持っているのであるからすべての5770号の直系を調査したら、一体どのくらいの記録鳩がいるのか、読者の皆さんもちょっと想像しただけで驚かれるに違いない。

 ■銘鳩9117号■    2020年7月7日(火) 5:49 修正
 銘鳩5770号の孫として生まれたのが9117号で、栗胡麻の♂である。自身で800粁を15回記録し、その中の3回を優勝している。また同腹鳩の9116号も800粁7回、1120粁2回の記録鳩である。最近のオペル系の鳩には、ほとんどこの銘鳩9117号の血液が流れているといわれるほど、故オペル氏はこの鳩の血統を好んだ。オペル系の鳩に栗色のものがあるが、これは大体において、9117号の血を引いていると言える。

 【'図表5】は、オペル主流系のうち、一連の栗色の血統をもつ銘鳩9117号の系統図である。母鳩8451号については【図表2】を参照願いたい。

 ■「9117号×1751号」の配合    2020年7月7日(火) 5:50 修正
 オペル系には、2つの重大な意義を持つ基礎配合と、この系統の強味を遺憾なく発揮させる3つの当り配合とがあった。

 基礎配合は、「オールド・スレート号×6460号」と「8713号と3300号」の2つ。

 そして最高の当り配合は、「5770号×9800号」と「5771号×9916号」、それに「9117号×1751号」の3つである。この3つの中でも、9117号×1751号の配合は、一番最近のものであるだけにオベル系の愛好家たちが常に探し歩いている貴重な存在なのである。

 私が導入した鳩のうち、リッピー号、ブルー・キング号、シルバー・キング号(以上故オベル氏作)、ビール・オベル4号(ビール氏作)の4羽が、この当り配合の作出鳩の直仔にあたっている。これは今はすでに故人となったA・S・ジョンストン氏の助言によって、無理にビール氏から分譲願ったものたちであった。

 ■私の導入鳩と当たり配合■    2020年7月7日(火) 5:52 修正
 故オぺル氏とビール兄弟が、いかに前記3つの配合を重視しているかという証拠の一つとして、私が導入して最後まで種鳩に使用していた故オベル氏作の鳩のうち4羽と、ビール兄弟作の鳩のうち5羽の鳩に、どのように当り配合を利用しているかを調べてみょう。

◎「9117×1751」この配合を【A配合】
◎「5770×9800」の配合を【B配合】
◎「5771×9116」の配合を【C配合】
 として説明しよう。

●[リッピー号]   【A配合】…1カ所、【B配合】…2カ所、【C配合】…1カ所
●[ブルー・キング号] 【A配合】…1カ所、【B配合】…2カ所、【C配合】…1カ所
●[シルバー・キング号]【A配合】…2カ所、【B配合】…2カ所、【C配合】…2カ所
●[ホワイト・アイ号] 【A配合】…1カ所、【B配合】…2カ所、【C配合】…1カ所
 (以上は故オペル氏作出鳩)
●[ビール・オペル2号]【A配合】…2カ所、【B配合】…4カ所、【C配合】…2カ所
●[ピール・オベル3号]【A配合】…3カ所、【B配合】…3カ所、【C配合】…3カ所
●[ビール・オペル4号]【A配合】…3カ所、【B配合】…4カ所、【C配合】…3カ所
●[ビール・オペル5号]【A配合】…1カ所、【B配合】…2カ所、【C配合】…1カ所
●[ビール・オペル6号]【A配合】…1カ所、【B配合】…4カ所、【C配合】…1カ所
(以上はビール兄弟作出鳩)

 ■オペル系は世界最良の系統!■    2020年7月7日(火) 5:53 修正
 1961年の8月にこの世を去ったオベル氏は、その生涯のうちの51年間を鳩だけのために費している。
 そして51年間のうちに、数多くの世界的記録を、その系統をもって樹立している
 その記録については、すでにたびたび述べてきたが、最終回にあたって、ここで再びまとめてみると

1、一生涯のうちに、800粁以上を2500回以上記録。
2、オベル氏の系統を引くピーレットヘン号(♀)は、ピーレット氏の使翔によって800粁以上を31回記録、うち24回当日帰り。
3、オベル氏自身、5770号(♀)をもって公認記録の延飛翔距離33600粁を記録。
4、5代、31羽の800粁以上218回 記録。

 とにかく数えはじめたらきりがない程の好記録を保持しつつ、オペル氏は去った。
 オペル氏は非常に血統を重んじた人である。しかし彼の言う血統とは、常に最後まで飛びつづける優秀な鳩の血統を意味するもので、彼の系統書は常に多数の記録でうづめられるものであった。

 アメリカのMCCAという、オペル氏の所属する協会では、決定された放鳩目には、その日がたとえ雨であろうとも放鳩されるというしきたりがある。レースは大低の場合アパーラチャ山脈という大山脈を横断しなければならず、しかも800粁以上の長距離になると、毎レースで1割か2割ぐらいの記録鳩しか生まれないという、困難な条件のもとで、彼は2500回以上の800粁を記録したのであった。

リッピー号の系統書の5代めまでの31羽を見ると、5羽の基礎鳩と3羽の種鳩以外は、すべて1羽の例外もなしに800粁以上を記録している。その合計回数は218回で、一羽当り平均7回記録という驚くべき世界一の翔歴。一体このような系統書が世界中のほかのどこの鳩舎にあろうか。

 ■故オペル氏の1120粁レース成績■    2020年7月7日(火) 5:54 修正
 MCCAの非常に困難な条件下にあってオペル氏は800粁レースで連戦連勝を遂げたことはあまりに有名であるが、MCCAの最長距離レースである700マイル(1120粁)レースの成績はどうであったろうか。
 この最長距離レースにおいてもオペル氏は常に勝ち続けていたのである。1940年からのオペル鳩舎の成績は、
1940年、優勝と3位。
1941年、2位と3位。
1942年、優勝と2位。
1943年、2位。
1944年、2位と3位。
1945年、優勝。
1946年、優勝と3位。
1947年、優勝。
1948年、2位。
(1949年から51年までの成績不明)。
1952年、優勝と2位と3位。
1953年、優勝。
(1954年以後の1120粁レースは特別長距離レースのため成績表は発表されて。いないが、それ以後オペル氏はこのレースで優勝2回、2位1回、入賞3回を記録している)
 ということになっており、まったくオベル氏の行くところ敵なしの感であった。

 ■むすび■    2020年7月7日(火) 5:56 修正
 5回にわたって連載してきたこの″オベル系は永遠に生きている″も、これをもって終りを告げるが「オペル系は死なない」といった故オペルル氏の言葉が筆をおくにあたって感無量である.

 オペル氏はこの世を去ってしまったが、私の場合、事情があって鳩をやめ、最愛のオベル系やハフナー系を手放さなくてはならなくなったとはいうものの、再びいつかは鳩を手にすることができるという希望がある。

 オベル系に関して交した故A・S・ジョンソン氏やビールご兄弟との友情、ハフナー系を特に分譲してくれたハフナー氏などのことが次々と思いおこされるが、新しい仕事が一段落さえすれば、また情熱を燃やして皆さんの仲間入りがさせてもらえると思っていろ。
 私が世界最良の系統と信じ、多額の銭を注ぎ込んで輸入したオペル系やハフナー系は全国の愛鳩家のためにきっと役に立っていくに違いない。
 では皆さんにしばらくの間「さようなら……」を告げておきたい。     (おわり)

 《系統研究》【OPEL BOOK 2020】003   第1章 オペル系系統調査の公開資料の全て ○全文引用資料(2) 任秀夫『オペルは永遠に生きている(1)偉大な大競翔家−J..L.オペル氏 』(『愛鳩の友』1964年12月号P123〜P1505より引用)  イレブン  2020年7月6日(月) 3:05
修正
日本に於いて、オペル系の系統としての紹介をキチンと述べられたのは、オペル作の銘鳩リッピー号を始めとする数々の銘鳩を導入された任秀夫氏です。

イレブンの所持する資料の中で、その最も最初の論文がこの『オペルは永遠に生きている』です。この論文の公開によって、日本中の愛鳩家がオペル系の全貌を初めて知ることになりました。1964年の年末から翌年2月までの連載でした。

1964年と言えば、既に、岩田系によるオペル系の活躍や銘鳩リッピー号やブルーキング号の導入などの話題でオペル系への関心が全国的に高まっていた時代でもあります。

この連載は画像のような「特別読み物」として記述されています。50年以上前の資料ですので、イレブンの手元にあるのはその最初と最後の連載だけです。(何とかして全てそろえたいと考えています。もしお持ちの方がおられましたらコピーを送っていただけませんか)

 『オペルは永遠に生きている(1)偉大な大競翔家−J..L.オペル氏 』 ■その一■  任秀夫  2020年7月6日(月) 3:15 修正
 本文に入る前に、レース鳩に関する私の主観を一応述べてみたい。

 戦後、日本鳩界はいちじるしい発展を続けてはきたが、それぞれの個人鳩舎における成長を考えるとき、一部の愛鳩家をのぞき、それほど成長したとは見えないのである。

 私自身、鳩に関してこれから学ばなくてはならないことが、あまりにも多いことに気づき、これから、こうして皆さんと共に大いに研究していきたいと思っている次第である。

 戦後、日本鳩界は、輸入ブームによって、数千羽、数十系統の鳩が輸入されたが、はたしてそれらの輸入鳩が種鳩としてどれだけの価値があったか?

 すなわち、作出者の鳩歴、翔歴基礎鳩(種鳩)、配合法、鳩の特質、長距離での帰還率、秘訣などの裏づけされた鳩であったか?

 前に愛鳩の友にも連載されたことのある「オスマンの教訓」の中にある種鳩の選びかた−について今一度考えてみる必要がある。

 輸入自由化の現在、大抵の鳩はお金さえ払えば手に入るだろう。しかしお金で買えない「忠告」「教訓」は、鳩そのものを手に入れるより重要性を持っていると私は考えたい。

 ここに、オぺル系に関する2年間の調査データーを発表することは、日本鳩界の愛鳩家が、この点に留意して、どのような系統の鳩を手に入れるにしても慎重な態度で望まなくてはならないという自覚を持ってもらいたいからでもある。

 ■偉大な大競翔家J・」オペル氏■    2020年7月6日(月) 5:27 修正
□”無敵だった”□

 最近の過去十年問の日木鳩界において、非常に輝かしい成績を残し、一躍脚光を浴びた″オベル系″――、それ以来、私たち日本の愛鳩家には”オペル系”という名の系統はおなじみとなっている。

 しかし、この″オペル系″を正しく理解している愛鳩家は非常に少ないのではなかろうか。
 私は、″オペル系″を研究するとともに、”アカルディ系”についても、調査できる範囲内でのデーターを集めてみたところ、アカルディ氏はたえず新しい優秀な異血の導入をおこなっている鳩舎ではあるが、完成された″アカルデイ系″とまでは言えないようだ。
 これに対して、″オペル系″は、51年間の長い才月にわたる独自の配合法を持って体系たった作出が続けられ、そして飛ばし続けられ、今日の光栄ある″オペル系″を完成させていると言うことができる。

オペル氏が残したすべての記録を、ここで一つ一つ書き綴ることは不可能である。しかし、もしこれを一言で表現せよと言われるのなら、私はJ・Lオペル氏こそは正に″無敵だった″という最高の讃辞をおしまない。

 ■その生涯■    2020年7月6日(月) 5:29 修正
 J・Lオベル氏は、1889年にアメリカのボルチモア(Baltimore)市で生まれ、1961年8月1日72才でこの世を去ったのである。
 アメリカン・レーシング・ピジョン紙は、オペル氏の死去に際して「アメリカ鳩界は最も著名で、最も好記録をもっている愛鳩家の一人を失なった――」と報じた。

 ■その鳩舎位置■    2020年7月6日(月) 5:30 修正
オペル氏の鳩舎は、1910年ごろは大西洋岸にあるアメリカの首都ワシントンから北へ約30マイルばかりのメリーランド州ボルチモア市リーデス街に建てられた。

 これはニューヨーク市にあるアカルディ氏の鳩舎からは南方約200マイルの距離にあった。

 この鳩舎位置は、短距離レースにおいて無数の優勝をたし非常な成功を彼にもたらせたのである。

 しかし、20年後の1932年に、オペル氏は鳩舎をボルチモア市の西方にあるカー・トンスビルに移転させなければならなくなった。

 ボルチモアが鳩舎位置としてレース・コースに非常に適していたが、移転したカートソスビルは、レース・コースから離れていたために、短距離レースにおいては鳩の集団性から抜けだすことはむづかしく、オペル氏自身「レース方向は南西であるが、私の鳩はほとんど南東から帰ってくる」と述べていた。

 このようにオペル氏の鳩舎位置が短距離レースに非常に不利であったために、その後とくに長距離レースや難レースの鳩舎位置の不利が影響しないようなレースに力を注ぐこととなり、地形上の悪条件を克服した抜群な業績を残し得た銘系を作りあげたのである。

 オベル氏は、一番最初はウェスト・エンド・クラブ (West End Club)に所属していたが、その後イルビングトン・クラブ(Irvington Club)に移り、さら1912年にはリバーティパーティークラブ(Liberty Club)に入り、それ以後の生涯をこのリバーティークラブとMccAに所属していたのである。

 (注)MCCAとはMonumental Ctiy concourse Associationの略で 一つの独立した協会

 ■MCCAのレース■    2020年7月6日(月) 17:27 修正
 1918年にMCCAの合同レースが始められたが、オベル氏はこの協会か開催する成鳩合同レースには何時も参加していた。この地方ではMCCAが一番大きなレ’‘スをおこなっていた。

 ボルチモア近辺の愛鳩家は、熱心で活溌であり常にどのレースにおいても優勝しようと非常な努力をはらっていたのでレースはいつも激戦であった。

 またそれだけに、皆が優秀な鳩を飼育していたのである。

 MCCAレースは、毎年100〜200〜300〜400〜500〜600マイルであり、また特別レースとして随時500〜700マイルーレースがおこなわれた。

 いずれも非常に大きなレースで、自分だもの鳩のテスト・チャンスでもあった。一例をあげると1923年の500マイル(800粁)レースでは4908羽が参加し、1922年の1000マイル (160粁)レースでは7574羽が参加している。

 この頃の1000マイルでオペル氏の鳩の3羽入賞が記録に残されている。

 ■協会のレース方法■    2020年7月6日(月) 17:33 修正
 MccAという協会には専門の放鳩者としてE・Rホールデン (E.R.Holden)氏があり、放鳩に関するすべての権限を持ち、放鳩日が放鳩に好適な天候でない日でもしばしば放鳩される(たとえば悪天候であってもMCCAの決定日に放鳩される)。ホールデy氏は名放鳩者として参加者から信頼をうけ、尊敬されていた。

 MCCAが主催する特別レースにおいては、平等をたもつために、一鳩舎から参加は5羽限りと制限されている。そのため性能の悪い鳩は自然と参加されずに各鳩舎とも特に秀れた鳩のみを参加させるようになったのは当然のことである。

 また時には、3回のレースの平均最高分速優勝杯レースがおこなわれた。このレースは大変むづかしいレースで、優勝することはなかなか困難である。あるいはそのシーズンにおける全レースのそれぞれの鳩舎の最高分速を合計し、レース回数で割って最高分速鳩舎が選定されたりした。

 しかし、大抵の場合アラパチヤ山脈という大山脈を横断しなければならず、しばしば大打撃をうけなければならなかった。

 ■オペル鳩舎■    2020年7月6日(月) 17:41 修正
 このような背景の中でオペル鳩舎は洗練されていった。

 オペル氏は非常に血統を重んじた人である。しかしオペル氏の言う血統とは、最後まで飛びつづける優秀な鳩の血統を意味する。

 他の鳩舎に優秀な鳩がいないというのではなく、優秀な鳩がいることは知っていたが、オペル氏は異血導入をせずに、レースに勝つことより屯むしろ自分の満足すべき鳩を作ることに専念した。

 オペル氏は鳩の記録帳を作っておき、ヒナからレースにいたるまでのあらゆる記録を詳細に書きとっておいた。

 オベル鳩舎は、2エーカー(約2500坪)の土地の南側に造られている納屋の2階の片隅に建てられていた。
 鳩舎の前面は障碍物がなく見晴らしがよくきくように、すべての樹木を切り払ってあった。

 鳩舎の内部は3つの部分に仕切られ、そのどの部分の鳩舎にも沢山の鳩が収客され、鳩舎の中には水道が設備されて、自由に水浴や飲水ができた。
窓は南側に3つと東側に1つあったが、直接鳩に風が当らないように工夫されていた。

 床には白い砂がカーペットのようにまかれてあり、毎週一回その砂をこして糞が取りのぞかれるようにされていた。この鳩舎は、鳩にとって正に天国であったということができよう。
 オペル氏は、一生涯を独身生活で過ごしたが、非常に若い子供の愛鳩家をかわいがっていた。

 日曜日になると、きまって何人かの子供たちがおとずれて鳩を見学し、気持のよい木蔭で、オベル氏を囲んで鳩に関する有益な知識を授けられていた。

 その話しの中には、他の愛鳩家の知らない仔鳩の作りかたの秘訣、飛ばしかたなどが含まれていたのである。

 話しがはずんで、時の経つのも忘れ、日暮れがすぐにやってくる………子供たちは希望と興味に小さな胸をふくらませて次の訪問日を約束して帰っていった。

 オペル氏は一生を独身で過したが、オペル氏の最愛の妻はこれらの鳩舎に飼われていた数百羽の優秀なレース鳩たちであった。

 72才で彼が人生の幕を閉じるまでその鳩たちは常に一緒に毎日を過していた。
 今から3年と少し前の、1961年8月に、駆けつけた鳩友たちに述懐した、

  『わたしは死んでもオペル系はまだ死なない』という言葉は、オペル氏が自分の作りあげた系統にどれだけの自信をもっていたかという確信の一つともなろう。

 事実、オペル系の後継者たちは、現在も飛ばし続け、オベル氏自身が作った記録に挑戦しているし、日本においても幾人かの競翔家によって真価は十二分に証明されたのである。
 つぎに、この系統の徴特を述べてみよう。

 ■オペル系の特徴■    2020年7月6日(月) 17:44 修正
 オぺル系の鳩の羽色は、大体において灰、灰胡麻、うすい栗胡麻が多く、ときには灰栗、灰胡麻に出た場合に、片方の主翼に一枚か二枚の白刺羽が出ることがあるようだ。

 オペル氏の種鳩は、A・S・ジョンストン氏の作出したローガン系であり、これらの鳩はオペル氏の鳩舎で51年間の長い間、5代、6代と優秀な鳩を作出しつづけたのであった。

 最初のうちは灰や、灰胡麻の鳩が多かったようである。

 だが種鳩の一羽にIF28年C8713号という栗胡麻の雄がいたが、この鳩からは灰栗、栗胡麻が多く作出されていた。

 オペル氏は独特の、いわゆる″オベル配合法″をもって作出を続けたが、こうして作られたすべての鳩は大成功を収め、大競翔家としての真に価値ある″天才!″としての栄誉をもたらせたのであった。

 オぺル系の鳩の眼色は、極端なほど表情に富み、大別するとオレンジの薄いルビーがかった橙色と真珠色。ときには薄い紫色(関東では銀眼、関西では石眼と呼ばれている色)が多い。

 眼色は、ヒナから巣立ち期間を経過し、生後六ヵ月ぐらいまでは固定しないが、六ヵ月をすぎると定まった眼色をしている。よく眼色でその鳩の性能を識別する人がいるが、少くともこのオペル系に関しては眼色によっての良し悪しは言えないとのことである。

 体型は中型がほとんどで、二年間成長をつづける。

 この系統はすでにほとんど固定されており、他の異血鳩を交配しても、一代めや二代めの作出鳩ではオペルの特徴がほとんど受継がれている。

 オペル系の特徴のうち、最も著しく、しかも最も価値あるものは、この系統の鳩はレース面において、不屈の精神を持った系統であるということであろう。そのレースがたとえ相当の悪条件下のものであったとしても、この系統の鳩は必ず何羽かが帰還鳩だもの中にあり、しかも上位入賞のチャンスを多くもっているということであろう。

 オベル系は、もはや”ローガン系”ではなく、”オペル!”と無雑作に呼ばれ、世界に誇らしげに輝く『オペル系』という伝統と歴史とをもった立派な系統であると言いうるものである。

※筆者:任秀夫氏は鳩協・なにわ連合会所属。写真撮影は任秋夫氏

 杉本33号  KY  2020年7月5日(日) 18:29
修正
41号の血統書ブログの方にアップしましたのでご覧ください。

 41号の血統書  イレブン  2020年7月6日(月) 2:43 修正
資料公開ありがとうございます。今後の研究の参考にさせて頂きます。

 『OPEL BOOK 2020』の目次構成を変更します。  イレブン  2020年7月6日(月) 2:12
修正
 新連載『OPEL BOOK 2020』の目次に第4章を加えることにしました。第4章のタイトルは次のようなことを考えています。

□第4章□ 「WeggeはWeggeと」の原理とオペル系

当初、こうした視点でのオペル系に対する考察は、それぞれ各章の展開での考察として記述するつもりでした。しかし、先日からの【追加資料】の話題を展開しようとしたとき、今後、かなりの検証も必要になってくることが見えて来ました。そこで、新たに章として起こすことにしました。

 特に、この第4章で述べることは、イレブン独自の見解となると考えられます。他の章をオペル系に関する公開資料の蓄積という客観的な事実に重点を置き、その上に立って、第4章でイレブンの考察を記述するという構成にして、書く内容をハッキリ分離した方がよいと判断しました。

 尚、この第4章については、第1章から第3章の記述と同時並行で記述を進めていくようにしたいと思っています。これまで【追加資料】としていた内容を【第4章】として継続的に記述していく予定です。

 これまで同様、ご意見・感想等遠慮無く投稿頂ければ嬉しいです。

 ◇◇ 『OPEL BOOK 2020』 目 次  ◇◇    イレブン  2020年7月6日(月) 2:14 修正
第1章 オペル系系統調査の公開資料の全て 

※この章は、新たの資料が入手出来次第、随時追加していきます。

○全文引用資料(1)「オペルはいまも生きている」
○全文引用資料(2)「オペル系は永遠に生きている(1)」
○全文引用資料(3)「オペル系は永遠に生きている(4)」
○全文引用資料(4)「故オペル氏の最高遺作リッピー号の生涯」
○全文引用資料(5)「リッピー号とブルーキング号」
○全文引用資料(6)「並河ラインA系におけるオペル系の役割」」

第2章 原本『THE OPEL BIRDS』 by A.S.Johnstoneの解読

○『オペル・ブック』挿入資料の解説
○『THE OPEL BIRDS』の原本全文(英文)
○『THE OPEL BIRDS』の全文翻訳及び解説
○『THE OPEL BIRDS』の分析資料の全て

第3章 オペル鳩の全貌(フォトギャラリー)

○日本に導入されたJ.L.Opel作のオペル鳩
○ビール兄弟・マッコイ・ユーベル等各鳩舎のオペル鳩
○日本で活躍したオペル鳩

第4章 「WeggeはWeggeと」の原理とオペル系

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