第二次大戦(1939〜45)以前のもつとも有名かつ偉大なレースマンは、いったい誰であったろうか。
それは疑いもな<、ベルギーはもとより全ヨーロッパにおいても、D「。アーサー・ブリクーをおいて他にないであろう。当時の数多いレースマンの中でもレース鳩の配合、作出技術やレースでの成功においてD「。アーサー・プリクーよりも偉大な人を見いだすことはむずかしいであろう。フリクーほどすばらしい成功をおさめた人はいないのである。フリクーの成した業績に比肩しうる成功をおさめた者を見い出すことはできないのである。
Dr.アーサー・フリクーの突然の死後およそ10年間は、彼を手本としようとするレースマン達を非常に困惑させた。というのは、フリクーの鳩レースにおける輝かしい成功の基礎となった作出、レース、配合のテクニックや秘訣を紹介する書物が一冊もなかったからである。なぜなら、プリクーのそういったものはすべて誰にも明かされることがなく、プリクー自身の記録もなかったからである。
アーサー・プリクーの死後、鳩舎の維持をしたのはフリクーJr.であったが、フリクー存命中の系統、鳩質を維持することができなかったのは残念なことである。
Dr.アーサー・ブリクー系を大きく分類すると、三期に分けられる。
第一期、第一次大戦後より第二次大戦までの系統、つまり1919年〜1939年の20年間の系統で、フリクー自身の手で確立された。
第二期、1940年の悲しい事故の後、再度プリクーによって建でrされた系統である。
第三期、1947年頃(不明)の突然のプリクーの死後、鳩舎の管理を受け継いだのは、息子のフリクーJr・であった。しかし非常に残念なことに、彼の息子はそれほど鳩レースに興味をもっていなかった。というのも、息子は事業面において活躍をしていたので十分にレース鳩の研究をするほどの時間がなかったのである。
結論を先に言えば、Dr.アーサー・ブリクーは、1919年〜1939年の20年間を君臨した、疑いもなく鳩レースのチャンピオンなのである。
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