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 【『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ Jules Gallez『ベルギーの系統とその歴史』ジュール・ガレス著(The history of the belgian strains by Jules Gallez)第Z章「ドクター・アーサー・ブリクー」◇◇◇◇ 【出典:『チャンピオン』誌、1977年8月号より引用)】  イレブン  2020年8月16日(日) 3:09
修正
今回、『Piet de Weerd 研究』関連資料として引用する文献は、Jules Gallez著『ベルギーの系統とその歴史』(The history of the belgian strains by Jules Gallez)です。

これは、『チャンピオン』誌1977年3月号より長期にに渡って翻訳連載されたレース鳩研究文献の古典的な名著の一つです。今後も『Piet de Weerd 研究』関連資料として、その都度引用していく予定です。

著者Jules Gallezは、レース鳩研究の第一人者に数えられる人物です。氏については、次のような解説文がありましたので紹介します。

●Jules Gallez:ジュール・ガレスは真の歴史家でした。『ベルギーのレーシングピジョンの歴史』と 『101メソッドシリーズ』の著者。これらのコレクションは、ピジョンレーシングゲームで最もよく守られている「秘密」のいくつかをまとめたものです。多くの愛好家は、これらの秘密を探すために生涯を費やしています...そして、彼らはジュール・ガレスの著作を熱心に読み続けているのです。(TCCロフト-サイト:http://tccloft.blogspot.com/ の記事より引用)

このJules Gallezのブリクー系研究の調査資料は、第一級の資料的な価値があるとイレブンは思っています。

 ・  イレブン  2020年8月16日(日) 3:10 修正

 ■まえがき■  □Jules Gallez  2020年8月16日(日) 3:39 修正
第二次大戦(1939〜45)以前のもつとも有名かつ偉大なレースマンは、いったい誰であったろうか。

 それは疑いもな<、ベルギーはもとより全ヨーロッパにおいても、D「。アーサー・ブリクーをおいて他にないであろう。当時の数多いレースマンの中でもレース鳩の配合、作出技術やレースでの成功においてD「。アーサー・プリクーよりも偉大な人を見いだすことはむずかしいであろう。フリクーほどすばらしい成功をおさめた人はいないのである。フリクーの成した業績に比肩しうる成功をおさめた者を見い出すことはできないのである。

 Dr.アーサー・フリクーの突然の死後およそ10年間は、彼を手本としようとするレースマン達を非常に困惑させた。というのは、フリクーの鳩レースにおける輝かしい成功の基礎となった作出、レース、配合のテクニックや秘訣を紹介する書物が一冊もなかったからである。なぜなら、プリクーのそういったものはすべて誰にも明かされることがなく、プリクー自身の記録もなかったからである。

 アーサー・プリクーの死後、鳩舎の維持をしたのはフリクーJr.であったが、フリクー存命中の系統、鳩質を維持することができなかったのは残念なことである。

 Dr.アーサー・ブリクー系を大きく分類すると、三期に分けられる。

 第一期、第一次大戦後より第二次大戦までの系統、つまり1919年〜1939年の20年間の系統で、フリクー自身の手で確立された。

 第二期、1940年の悲しい事故の後、再度プリクーによって建でrされた系統である。

 第三期、1947年頃(不明)の突然のプリクーの死後、鳩舎の管理を受け継いだのは、息子のフリクーJr・であった。しかし非常に残念なことに、彼の息子はそれほど鳩レースに興味をもっていなかった。というのも、息子は事業面において活躍をしていたので十分にレース鳩の研究をするほどの時間がなかったのである。

 結論を先に言えば、Dr.アーサー・ブリクーは、1919年〜1939年の20年間を君臨した、疑いもなく鳩レースのチャンピオンなのである。

 ■■■ 第 一 期 の 時 代 ■■■    2020年8月16日(日) 3:42 修正
アーサー・ブリクーは、大学で医学を学んでいる頃に鳩レースに興味をもちはじめた。その後、50年経ったのちも、彼はいみじくもこう述べた。
 ゛私の鳩レースに対する情熱は、この50年間不変のものであった……″と。

 ブリクーの名前が世間で注目を浴びるようになり四半世紀もの間、彼の名声を不動のものとしたのは第一次大戦後であった。

 第一次大戦中でさえ、ブリクーはNレースや長距離レースにおいて数々の賞を勝ちとっている。

 1930年〜1939年の10年間で優勝14回、2位12回、上位20位以内124回の記録をしているのである。

 ブリクーの優勝、上位入賞したレースの数があまりにも多くすばらしい成功をおさめていたので、多くのレースマンはブリクーが鳩に興奮剤を与えていたのではないかといううわささえ流れた。

 ブリクーが成功し、有名になり始めたのは、基礎系統としてベークマン系とセリエール系を導入したことに発する。後に、ブリクーはヴァルクールを流れたバクレーヌ系やジュメッペを流れたルーズ一系も追加導入している。

 彼はまた、フランスのチャンピオン、ツールコワンのポール・シオンとも若鳩を何羽か交換している。さらに、ブリクーにはグルネー系や初期のブリクー系の最高基礎種鳩の゛ジュール・シーザー″、゛ホワイト・ノーズ″などのジュール・ヤンセン系が導入されていることが古い記録に見られる。しかし、ヽ`ジュール・シーザー”などの系統や記録がのこっていないのは非常に残念なことである。

 また、ブリクーの最高雄種鳩にはカレル・ウェーゲの流れが導入されていることも明らかである。

 そして、その最高雄種鳩の血筋はジュール・ヤンセンにも流れている。

 上記のそれぞれの異血は、プリクー自身によって配合されすばらしい結果をもたらした。ブリクーは近親交配もしたが、異血交配を重要視していた。

 直系や連続的な近親交配は失敗の傾向を示したという。プリクーによれば、異血をあまり入れないでいるとその系統が衰退してしまう。それは、近親交配が強く見られる系統を異血として導入する際には特に重要な事実なのである。一般的には、ある系統を導入する際はその系統の鳩をレースでテストしてから作出にとりかかるべきである、ということであった。

 ブリクーはレース鳩におけるもっとも重要な鳩質は何であるかという質問を受けるといつもこう答えたものである。

゛私は決して体質の弱い鳩や呼吸器系の弱い鳩を認めない。私のもっとも好みの夕イプは筋肉質の鳩で羽毛がやわらかで豊富にある鳩である。さらに長距離鳩としては副翼が十分に発達しているということが絶対条件である。副翼の短いタイプは中距離レースにもあまり向いていない。″ 

 プリクーの好みのタイプは長距離レース用のものである。プリクーは。短距離レースは長距離レースに参加させる前の単なる訓練としての意味でしか興味をもっていなかった。

 上記は真の偉大なる名声を勝ち得た、他に比肩しうることのできない偉大なレースマン、ベルギーの鳩史上において重要な役割を果たした世界的に有名なドクター・ブリクーの経験による代表的な言葉の一部である。

 プリクーの記録や成功は深く追求され研究された秘訣による結果としてのみもたらされていると信じる我々すべてのレースマンにとってよい教訓となることは必至である。

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇    2020年8月16日(日) 3:55 修正
第一期の時代のブリクー自身によって確立された系統はスコットランドのDr.アンダーソン、ベルギー、アイゲンブラッヶルのデマネ(1953年5月死去)、オーデンブルグのネストール・トゥレムリー、シャトレのキャラメン、大富豪でヴィエール・ペルヴィンという城の主であるデュモン・シャサールなどにプリクー直系として流れている。
 ネストール・トゥレムリー、キャラメンについては後章で詳しく述べることにして、ここでは他の三者が導入したブリクーの代表種鳩について紹介しよう。

 ■ Dr.アンダーソン ■    2020年8月16日(日) 3:55 修正
Dr.アンダーソンはブリクーの最高基礎種鳩である゛ジュール・シーザー″の流れを非常に多く導入している。゛ジュール・シーザー″はジュール・ヤンセンの系統であるが、詳しい系統などは古い記録にも残っていないのは非常に残念である。

●゛ブリグース・プライド″RC♂35-2236039

 Dr.ブリター自身によって作出された最高種鳩で当時は300ポンドの雄種鳩として有名であった。
 この雄種鳩ばジュール・シーザー″の近親系で作出された。 Dr.アンダーソンは、この種鳩の直仔は二羽だけしか人に売らなかった。他の直仔はアンダーソン自身で確保しておき、晩年におこなわれた競売で初めて手離した。

●゛チャンピオン・ルイ″RC♂ 37−815

 Dr.アンダーソン作翔、レンヌ545マイルでクラブ5回優勝、地区3回優勝の銘鳩。 (系統図参照) この銘鳩の父方の祖父は有名な゛ブラック・ドクター゛で母方の祖先に゛ジュール・シーザー″が見られる。また母方の祖母゛メラニー″の祖先にはウェーゲ系が見られる。

● ゛ブラック・ドクター″ブリクー作 27−263654 BLKC ♂

 29年:アングレームN・ダービー44位
 30年:ボルドー1位、アングレーム7位
 31年:ボルドー9位、ポー32位、アングレーム19位他入賞
 32年:アングレーム32位他入賞
 33年:タックス68位
 34年:ポーN 108位他入賞の記録をもっ銘鳩。

 系図資料:【チャンピオン・ルイ号37-815RC♂ Dr.アンダーソン作翔】    2020年8月16日(日) 4:03 修正

 【画像資料】ブリグース・プライド号    2020年8月16日(日) 4:06 修正

 ■ デマネ(1953年5月死去)■    2020年8月16日(日) 4:08 修正
デマネはベルギーのRFC(ローヤル・フライング・クラブ)の理事をしており、レース面で多く成功していた。
 デマネは。1939年に死去したギョーム・スタッサールとも親交を得ておりスタッサール系を基礎としていた。また、モーリス・アミール系も基礎系統として導入していた。ブリュッセルのモーリス・アミールにはDr、ブリクーの初期の系統が流れていた。
 それは、デマネの代表種鳩である゛グラマー″の系統図を見るとはっきりする。

 ■ デュモン・シヤサール ■    2020年8月16日(日) 4:10 修正
 1940年までの初期ブリクー系は。三期、二大別したプリクー系の中でももっともすばらしく純粋な銘血である。そのブリクー系の代表鳩の一部はヴィエール・ペルヴィンという城の主で大富豪のザヴィエール・デュモン・シャサールによって導入された。

 デュモン・シャサールはプリクー系を多く導入したばかりでなく、自ら作出したブリクー系を多く世に出していた。デュモンによって主催されたプリク一系の競売の売上金は慈善事業に寄附された。

 以下は、デュモン・シャサールが系統確立のためにブリクー系を詳細に研究した古い記録に残っていたものである。ブリクーの代表種鳩が判明できる。

(1)クライネ・ゲショルプテ・ブリクー

 1930年におこなわれたブリクーの競売で購入。
 この鳩はDr.ブリクーのチャンピオン・レーサーの一羽で数多くのレースに入賞した5年間の中で、ポーナショナル優勝を記録している。
 父鳩ばコード・グレイ・ブリクー″23−2024739 母鳩ばサンバンサン″(純ブリクー)である。
 また、この鳩ばジュール・シーザー″の全姉妹で あるOデュモン鳩舎の代表雌種鳩゛コード・ズワ ルト゛44−1213は、この鳩の孫鳩である。

(2)ロード・リボルヌ 28−303973

 父鳩ばゲショルプテ・シオン゛ポール・シオン 直系で母鳩ばショーネ・ロード″ジュール・シーザーの姉妹
 翔歴:1930年:アングレームN・ダービー24位
 アングレームN(コルトレーク)1位
 アングレームN(ブリュッセル)4位
 31年:リボルヌ1位
 32年33年アングレームN(ブリュッセル)1位
 ボルドーN(アンダンテ・ベルジ)1位
 ゛ロード・リボルヌ″ばグレイ″39−91374の父鳩
で、゛グレイ″はデュモン鳩舎の代表種鳩になった前述の゛コード・ズワルト″44−1213の曽々祖父である。

(3)コード・ロード・ブリクー 29−227541

 父鳩ばズワルト・ペン″ジュール・シーザーの兄弟、母鳩ばコード・ゲショルプテ″タックスN7位入賞 コード・グレイ×有名なサンバンサン
 翔歴:1931年:ナショナル・ダービー9位
 アングレームN2位、アングレームNI位
 32年:トゥリー1位、アングレームN4位
 32年:トゥリー1位、アングレームN4位
。33年:オルレアン3位、アングレーム2位
    アングレームN(全ベルギー)64位
 ゛コード・ロード・ブリクー″ばオート・ブリクー″37−201942という1940年のフランス軍による悲惨な大虐殺を逃がれた唯一羽の雌鳩の父鳩である。

(4)ボルドー・ブリクー 1931年生まれ

 Dr.ブリクーのベークマン系直系
 翔歴:1934年:ボルドー2位
 36年:ビアリッツ1位
 37年:シャトロー1位
 38年:サンバンサン1位
 39年:タックス17位
 ゛ズワルト・ブリクー″37−201942の祖父。
 ゛ズワルト・ブリクー″は1940年にトゥレムリーの゛ラング″とペアーにされた。

(5)グロート・ロード 29−227600 ブリクー作

 ゛ドリーム″の兄弟O父鳩はブリクーの゛ド・ポワリュー″で゛ジュール・シーザー″の直仔・母鳩ばヌウーヴエ・ゲショルプテ″で゛ジュール・シーザー″の姉妹である。
 ゛グロート・ロード″は、1933年全ベルギーの最優秀雌種鳩という記録をもっている。
 他のDr.ブリクーの代表種鳩ばホワイト・ノーズ″BCP合34−2239609 ジュール・ヤンセン作純ジュール・ヤンセンで、ノーヨンからサンバンサンまで入賞し、コニャック1055羽中13位、アングレーム7位、サンバンサン13位、ピンシエ13位に入賞した鳩などである。

 ■■■ 第 二 期 の 時 代 ■■■    2020年8月16日(日) 4:12 修正
アーサー・プリクーの競剔生活は、銘鳩を作出し多くの優入賞鳩を作出する偉業を果たしえた、絶え間なくレース鳩を改良することにのみ費やされた。
 プリクーの晩年はいささか悲しい物語である。

 時は1940年、大多数の人々にふりかかった悲惨な大混乱の中でブリクーも疎開者の一人となって逃げた。数週間後、再び我が家へ戻ったブリクーはかつて経験したことのない激しい悲しみに打たれた。それは、ブリクーの疎開中にフランス軍は、彼の全人生を傾けた生きがいの銘鳩をすべて殺してしまっていたのであった。

 プリクーのうけたショックは想像を絶するもので、それが彼の死を早めた原因かもしれないのである。

 その後、何ヶ月たってもブリクーは自分の一番好きな趣味を再び開始しようとする気配さえみせようとはしなかった。それほど、プリクーは気が抜けてしまったのである。

 しかし、幸運なことにブリクーにはフランス軍によって殺されてしまった銘鳩の子孫や、初期のブリクーの代表種鳩を導入していた親友が二人いた。

 彼らはオーデンブルグのネストール・トウレムリーとシャトレのアーサー・キャラメンであった。

 彼らは意気消沈したプリクーを訪れ、レースを再開できるよう彼らの鳩舎からブリクーの欲する種鳩を喜んで提供しようと申し出た。彼ら二人の親切な申し出とブリクーの天才的な才量によって、ブリクーは新たな系統確立に再度着手することができた。

 トゥレムリー、キャラメンの両鳩舎の種鳩はブリクー自身の経験と才能で厳選され配合された。

 そして、それらプリクー自身の手で選び抜いた最高の種鳩から輩出された鳩によってブリクーは再び数々の成功をおさめはじめたのである。

 ■ブリクー晩年の基礎種鳩 ■    2020年8月16日(日) 4:14 修正
ブリクー晩年の基礎種鳩は、1940年にブリクーの銘鳩がフランス軍に殺されてしまい、トゥレムリーやキャラメンが鳩舎再建を助けるため提供したもので、言うまでもなくブリクー初期の代表種鳩を彼らが導入したものである。つまり、第二次大戦以前のブリクー自身が確立した銘血が再度逆導入されたのである。それらは………

●A:オード・ベークマン

 ブリクー初期の基礎系統で、トゥレムリーのポー優勝鳩のボー・ヘンから生まれた銘鳩である。オード・ベークマンは1951年に死亡。

●B:ド・ラング

 トゥレムリー作 二才鳩時、数多くの入賞記録をもつ。1940年、Cとペアーにされブリクーの代表ペアーとなった。

●C:ズワルト・ブリクー

 父鳩ばコード・ロード″、母鳩はボルドーN入賞した鳩である。BXCのペアーはブリクー鳩舎の代表ペアーとなった。

●D:グレイ・キャラメン

 父鳩は有名な゛クライネ・ゲショルプテ″、母鳩はブリクー自身によって厳選されだグレイ・キャラメン″である。
 ゛クライネ・ゲショルブデはプリクーがキャラメンにあげた卵から生まれた鳩で、アングレーム、リボルヌ、ボルドー、ポー、サンバンサンなどの長距離21レース中20回入賞した銘鳩である。

●E:オート・ロスト
 ゛オート・ベークマン″Aの直娘。

●F:ホワイト・ノーズ B C P 34−2239609

 ジュール・ヤンセン作 純ジュール・ヤンセン
 この鳩はトゥレムリー、キャラメンのどちらからブリクーに導入されたのかは定かでない。しかし、ブリクーが戦前に導入し、二者のうちどちらかに譲ったことは確かである。

●G:ロスト・ズワルトスタール♀

ゴード・グレイ・トゥレムリーの直仔×ショーネ

●H:グレイ・シャトロー

A×(A×D)の直仔 ※注イレブン:親子配合となっています。

●I:レッド・ヘン

父鳩ばアス″(゛アス″はB×Cの直仔)母鳩ばナイス・レッド″J

●J:ナイス・レッド

・父鳩ばエアブレーン・トゥレムリー″XE 母鳩ばD″

●K:ゲショルプテ

 A×゛グレイ・トゥレムリー″の娘

●L:グロート・ヴォス

 ゛グレイ・トゥレムリー″の孫
 母鳩ばE″

 幸運にもブリクーに比屑しうる成功をおさめることができたレースマンはネストール・トゥレムリーとキャラメンである。なぜなら、二人はブリクー系を導入する以前にも優秀なレースマンであったが、プリクー系を基礎として導入してからはめざましい活躍しはじめたのである。

 キャラメンは、アングレームとボルドーを上位入賞しだモザイク″どブラウエ″という銘鳩をもっていたが、プリクー系を基礎として導入すると同時にちゅうちょすることなく全鳩を手放してしまった。

 また、ネストール・トゥレムリーも名の知れたレースマンでフアンデフェルデ×グルネーの゛マデロン″、バクレーヌ系の゛モーレナール゛という銘鳩と第一級クラスの鳩ばかりを飼育し、トゥレムリー系確立のために努力していた。

 しかし、プリクー自身より直接導入する機会を得ると同時に、トゥレムリーはプリクー系によって独自の系統を確立しようと決心した。そして、純粋なブリクー系だけを飼育するため、トゥレムリーはキャラメンと同じようにいままで飼育していた鳩を全鳩競売に出し処分してしまったのである。

 つまり、第二次大戦以前の純粋なブリクー系およびプリクーが基礎としていた代表権鳩の直系や自身を受け継いだのはネストール・トゥレムリーとキャラメンのただ二人だけだったのである。そして、彼らが受け継いだブリクーの直系がふたたびプリクーに逆導入されたのである。そして…………

 上記の種鳩A〜Lを基礎として、ブリクーは1940〜1947年頃に第二期のDr.アーサー・ブリクー系を確立したのであった。

 ■■■ 第 三 期 の 時 代 ■■■    2020年8月16日(日) 4:15 修正
アーサー・ブリクーの突然の死後、全鳩は息子のブリクーJr.によって管理された。

 第三期(1947 ? 〜52)は、プリクー自身が確立した系統を維持すること、さらには改良することもとても困難であった。というのは、息子のプリクーJr、が父と同じような鳩レースの経験および深い知識をもっておらず、そのうえブリクーJr.は事業に多くの時間を費やさなければならなかったためにパンドラ一に鳩舎管理を任せてしまっていた。そして、父の友人でもあったレースマンからアドバイスを受けながらかろうじて鳩舎を維持した。

 1952年11月16日、ブリクーJr.によってブリクー鳩舎の全鳩88羽が競売に出された。この競売によってプリクー系の全鳩は、銘血プリクー系を求める全世界の愛鳩家の手に渡っていった。

 しかし、それらの鳩が第二次大戦以前のプリクー自身によって確立された、ブリクー系の鳩とはおよびもつかないものであったことは非常に残念なことである。

 ■なぜ全鳩処分されたか■    2020年8月16日(日) 4:16 修正
 みずからの名前が、確立された血統の銘として世に出る前には、その血筋より幾多の優秀な子孫が輩出されていることが第一条件である。

 しかしながら、鳩質の優れた鳩が十分な経験と知識によって管理されたとしても必ずすばらしい成績をおさめる銘鳩となるとは言いきれない。

 また、優秀な血筋の鳩でも豊富な知識と経験をもたないレースマンに管理された場合にも成功はあまり望むことはできないのである。しかし、その同ヒ鳩が熟練したレースマンの手にかかった場合には、前者と違いその優秀な系統の名声が維持されるのである。なぜなら、・使翔するレースマンの能力が50%作用し、残りの50%は鳩自身の優秀性が作用しているからである。言葉を変えれば。経験豊かでないレ−スマンはハンドラーの助けをかりるが、熟練したレースマンは、自分がパンドラ一に自ら指図したことのみを手助けさせるのである。

 以上のことがブリクー自身とブリクーJr.との大きな差であったのである。そして、プリクーJr.は全鳩を処分しなければならなくなってしまったのであろう。

 次号では、1952年におこなわれたブリクーの全鳩処分のリストとブリクーのレース方法やその秘訣を詳しく紹介する予定である。

 それらは、ブリクーの配合方法や作出方法を研究する上で大いに役立つことであろう。

 2020年墓参り  イレブン  2020年8月15日(土) 16:29
修正
37度の炎天下、、今日は、妻の母のお墓参りでした。毎年恒例となっています。

 ・  イレブン  2020年8月15日(土) 16:43 修正

 ■■『Piet de Weerd 研究』026■■  [ピート・デヴィート回想録026「デュレイのブリクー」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1998年1月号 )  イレブン  2020年8月14日(金) 4:29
修正
ピート・デヴィート回想録026から、ピートさんは、世界の銘系を一つ一つ取り上げ、その系統が確立される経緯と自身の配合理論やヤンセン系との関係を語っていきます。ピートさんの回想録のすごいところは、何よりも、実際に掴み見てきたこと、買い上げ使ったことを元に語っていくところです。

最初に取り上げてたのは、ピートさんが世界最高の系統と太鼓判を押す銘系ブリクー系です。

10数年前、初めてこの回想録を読んだ頃のイレブンは、「ブリクー系」に馴染みがなく、どこかで現在の自分の系統と余り関係がないように感じて読んでいました。今回の再読する際は、薩摩どん太さんからブリクー系についていろいろ教えていただいたお陰でとても身近にブリクー系を捉えて考えることが出来るようになりました。薩摩どん太さんにはとても感謝しています。


さて、『Piet de Weerd 研究』026からは、できるだけその回で話題となった銘鳩や系統の関連資料を調査して、イレブンの方で資料を加えながら進めていく考えです。掲示板をご覧頂いている方の中で、お手元に何か関連資料をお持ちの方がおられましたら、遠慮なく投稿していただければと思っております。宜しくお願いします。

 ■ヤンセンとその他の有名系統■(前号からの続き)  □Piet de Weerrd  2020年8月14日(金) 4:48 修正
 この本では主としてヤンセン系について書いていますが、前号で挙げたチャンピオンも決して端役ではないことは、言うまでもありません。私か彼らに不当に低い役割を押しつけようなどとは決して思っていないことを理解してください。むしろその反対です。もちろん、私は彼らやその鳩について詳しく述べようと思います。彼らはほぼ例外なく大きなナショナルレースで何羽も優勝させましたが、ヤンセンはといえば、彼らは自分の鳩舎では一羽も優勝させたことがないのです。

 今日”同窓生“と呼ばれる彼らの後継鳩舎も優勝を重ねています。彼らは何十というナショナルレースで優勝し、数えきれないほどの車を手に入れました。しかし、ヤンセン自身はただの一羽もレースに出したことがありませんでした。さらに、ヤンセンの血の濃い優勝鳩をも含めると、その数は数百に及ぶでしょう。

 さらに一歩進めて、ピジョンスポーツ界の人間なら誰でも「一度は優勝してみたい」と夢見るレースでの優勝鳩となると、その数は数千に達します。ヤンセンほど多くの鳩舎を育てた者はいません。また、アーレンドンクのヤンセンほど多くのブリーダーを幸福にし
た系統もありません。‘

 ■ブリクーとデュレイ■    2020年8月14日(金) 5:13 修正
 私は本書でブリクー博士についてレースの成績を幾つか紹介しました。ブリクー博士が自分の系統を作り始めたのは第一次世界大戦の後、1919年でした。そして1922年から1932年にかけて、彼は大きな国内レースで名声を博しました。

 1930年、彼は成鳩のオークションをおこないました。本当に全部の成鳩を売りに出したのでしょうか。当時は未だオークションに関する連盟の規則はありませんでした。ま
た、”完全な成鳩”という言葉を真に受ける者もいませんでした。根っからの愛鳩家が、金の必要性に迫られてもいないのに、自分の最高の鳩を売りに出したりするでしょうか。まさにブリクー博士の場合がそうでした。ジュリアン・マタイスは私に、
  「人間は数百年来、変わっていない」
と言ったことがあります。彼は物事をよくわきまえていました。
 が、ともかく博士は1930年12月のことだったと思いますが、ブリュッセルのブラッセリー・ドウーサン・ラックの会場で、自分の成鳩の殆どを売ったことにしておきましょう。数多くの鳩舎がリレー競争のようにその系統を引継ぎ、そして30年代に国内レースを猛烈な勢いで制覇していったのです。

 第2次世界大戦の後、この鳩舎はまるで砂上の楼閣のように崩れ落ちました。私は1940年から45年にかけ、かなりの数の”純粋なブリクー“を掴み、研究することができました。それらは当時、まだ世界的なクラスに属していました。なかでも最良の鳩は、国際レースの成績で見ると、ダンハイヴェ在のローデ・デマレットの”ヴァーレ“、そしてクワレゴンのロベール・デュビーが持っていたゴマの”ルードヴェイル“でした。もしも”ルードヴァーレ“がサンバンサンに参加していれば、ヒュースケン・ヴァンリエルがリエージュで1位と3位を獲得したのと同じ日にダントツで優勝したことでしょう。

 私はこの鳩をカペレ・アーン・デーイッセルに住むピート・ヴュイクのために買ったことがあると記憶します。あるいはオーメンス&ヴァン・テューンだったかもしれません。当時、私は彼らのチームに所属していたのです。ロベール・デュビーの鳩は、放鳩当日に唯一、帰還することができました。こうしたことはしばしば起こりましたが、決して習慣とはなりませんでした。

 ●Nチャンピオン”ポーの白い羽”●    2020年8月14日(金) 5:16 修正
 1930年、シャルロワのアングレーム。当時の重要な中心地です。北風の強い国内レースでした。放鳩の日に帰還が確認されたのは1羽のみでした。距離を考えると、正真正銘、過酷なレースだったと言えます。その1羽というのは、シリル・デミル所有の”ドン・ブルー“で、1926年にブリクーのオス種鳩から生まれました。
 同年のポーN、アンタントーベルジュ主催。優勝はエコーシネスのアーネスト・デュレイ、ブリクー系。優勝鳩は”ポーの白い羽”の愛称をもらいました。それは刺しの入った黒ゴマだったのです。

 1931年、ジョリモンのブリクーが優勝、2位、3位を独占。
 同年のポーN。アンタント・ベルジュ主催。エコーシネスのアーネスト・デュレイがまたも1930年の優勝鳩。”ポーの白い羽”で優勝。この鳩は、グラスゴーの東の炭鉱地帯アーマデールに住むスコットランド人外科医ドクター・アンダーソンにより導人されました。価格は5000フラン、約250ドイツマルクという捨て値です。デュレイは金を儲ける必要は感じませんでしたが、1930年に総ての成鳩を売りに出しました。その後、彼はムールアルトとかいう名の友人とチームを組みましたが失敗に終わりました。

 1932年、アングレーム・デザース。ブリュッセルN。アンタント・ベルジュ主催。優勝はアーネスト・デュレイ、2位はブリクー博士でした。
 1933年、アングレーム・デザース。ブリュッセルN。アンタント・ペルジュ主催。優勝はシャルロワ近郊クーイレのオスカー・ブライモン。優勝鳩は”マラド(=病人)”から作出されました。このメス鳩は1945年にまだ健在で、年にふさわしい威厳を備えていました。たとえばヘクトール・デスメが殆ど死にかけるまで飛ばした”プテイ・サーンドル”(小さい灰)よりずっと健康そうに見えました。

 同年、ポーN。アンタント・ペルジュ主催。エコーシネスの上院議員アーネスト・デュレイが今回は”エカイエ・ダンバ”で優勝。デュレイは20の賞をとりました。すなわち優勝、15、20、28、34、51、78、80、121、141、142、152、211、245、255、274、324、339、507位および640位。

 ●ブリクー最高の種鳩を手に●    2020年8月14日(金) 5:18 修正
 1944年から1945年にかけての冬、私はデュレイと何度か長時間話したことがあります。ここでデュレイの話しをするのは、彼がベルギーで最初の世界チャンピオンと見なされるからです。彼は知恵と経験を兼ね備えており、ドクター・ブリクーからウィドーフードシステムを学びました。

 彼が初めてブリクーを手に入れたのは1919年でした。それは「マラド・ジュニア」の青い羽色の孫で(まるで病院のように聞こえますが)、エコーシネスで「ルージュ・カロ」の父親になりました。それは当時最良の種鳩に数えられました。
 しかし、ジョリモンのデュレイが手に入れることができた最高の鳩は「ジュール・セザール」の兄弟と、「クラヴァテ」の姉妹でした。このフランス語から、フラマン語の「クラヴァート」やドイツ語の「クラヴァッテ」が派生しました。これは「ループタイ」を意味します。「クラヴァート」の多い鳩舎がチャンピオンになるのは稀です。ときどきそれほど悪くないのもいます。クラヴァートは現れるのも突然です。人々はこれを隔世遺伝と呼んでいます。

 デュレイは1923年に「クラヴァート」の娘を獲得することができました。このメス鳩はエコーシネスで比類ない種鳩の母親になり、「イデアーレ」という名前が付けられました。その種鳩の名は「レプロデュクトリス」です。彼女は1933年12月17日、ブリュッセルのモーリスー・モニールアレーにあるザイト・パラストで、5000ベルギーフランに競売料を加えた記録的な金額で売られました。
 この「レプロデュクトリス」はまた、有名な「エカイエ・ダン・バ」(下から剥げた)の母親になりました。これは19333年、ポーNで3341羽以上を相手に優勝しました。

 ●デュレイの巧みなブリーディング●    2020年8月14日(金) 5:21 修正
 1924年デュレイは、「ジュール・セザール」の別の兄弟を買いました。その両親のベアが生んだ子は必ずと言っていいくらいチャンピオンになりました。

 デュレイはこれを父側の半姉妹である灰のメス鳩と掛け合わせて、彼の「ルーセザール」を作りました。レースの実績はグックスN3位、アングレームN3位、アングレームN14位、ポーN26位、ポーN35位などです。

 この[ルーセザール]の子は、赤い羽色の 「マリン」です。その成績はアングレーム、デルビーN3位、アングレームN1004羽中23位、ポーN2995羽中25位、アングレームN一1825羽中20位、ボルドーNアンタンテ・ベルジュ二2133羽中8位、ポーN3341羽中28位。これはデュレイの白鳥の歌でした。1933年、このトリは競売にかけられて総額4500フランで売られました。これは不況下の当時としては大変な額でしたが、実際には捨て値同然だったのです。
1924年、ドクター・ブリクーは友人のデュレイにもう一羽の赤い羽色の”デルビー”をプレゼントしました。これは「マラト」の兄弟「リヒテ・ベーケマン」と{クラバーテ」の姉妹との間に生まれたものです。

 ここで近親交配について言うと、私は昨晩このテーマについて、ミッシェル・ドゥシャン=ファンファイステンのロフトマネージャー、カミエル・ドッケルと話しました。彼はかつて自分ほど濃密な近親交配を行った者はいないと言いました。それも確信に基づいてというより、慎重さから行うのです。彼はアロイス・シュティッヒエルバウトに比肩する才能を持っているのでしょう。 (この項続く)

 ■■『Piet de Weerd 研究』027■■  [ピート・デヴィート回想録027「ブリクーの時代」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1998年2月号 )  イレブン  2020年8月15日(土) 1:09 修正
ピートさんの回想録では、このブリクー系の始まりについて第22回「偉大なるブリクー」から記述しています。この回想録26回から28回までの内容は、その続きの内容として読んでいかないとチョットわかりにくくなります。
回想録22回から、以下の文を抜粋しておきます。

●ブリクー博士はまたワルコートのバクレーン兄弟と、それぞれヴェルヴィエールのバンセンヌとブリュッセルのフローテルス(グロータース)の系統の二羽の赤褐色と青白色のオス鳩を、自分の系統の2羽のメス鳩と交換しました。博士は交換した鳩から4羽のヒナを作りましたが、彼はそれらをかつて自分が脚環を嵌めたうちで最も高貴な鳩と呼びました。名前は”クラヴァッテ”(ネクタイまたはループタイの意味)、”ジャンボー“ ”プティ・ルス”、”ルス・ヨウ・ブラン“でした。後の2羽はメス鳩です。

●クラヴァッテとシャポーは卓越したレーサーで、その姉妹は二十世紀前半を通して最高の種鳩でした。ルス・ヨウ・ブランは、カーリエのオス鳩とクロスしました。このカップルから”三銃士”が生まれました。プティールスは1922年にダックス・ナショナルで5位に入りましたが、マラドとその姉妹から生まれた、小型でもガッシリした黒いゴマのオス鳩とクロスしました。

●このカップルから、ブリクーの名前を不滅にした鳩が生まれました。先ず第一に”ジュール・セザール“。小さい赤のオス鳩で”プリムス・インター・パレス“ (すべての中で最上のもの)と称賛され、ボルドー・ナショナルで優勝しました。げれども、ダックス・ナショナルで4000羽中2位に1時間も差をつけて優勝した”ボン・エカイエ”の方がもっと優秀だったのではないでしょうか。この時ブリクー博士は1位と2位を獲得しましたが、放鳩当日に帰還した鳩はなんと4羽に過ぎなかったのですから。

この回想録027「ブリクーの時代」では、次の文章を抜粋しておきたいと思います。

●ここで私はその後確立されたヤンセン系とブリクー系を比較するという課題に取り組みたいと思います。この2つの系統の最大の特徴は完璧な方向感覚と、少量の餌で太ることができる体質です。これらの系統の最良の鳩の目はいずれも輝いていますが、よく見るとブリクー系の目の中には「チョコレート」と「栗」のニュアンスが優勢で、ヤンセン系は汚れたシルバーグレイが優勢であることが分かります。それらは豊満な羽をしたウェットな鳩でした。

 ■ブリクーとデュレイ■  □Piet de Weerd  2020年8月15日(土) 1:11 修正
●赤い羽色の「デルビー」の活躍

 (前号よりの続き) この「デルビー」は1926年、2歳鳩としてアングレームNで優勝しました。この機敏なトリは、その他にも多くの賞を取りました。ノアイヨン1009羽中優勝、ブリュッセルで行われた「ル・マルチネ」によるバンドーム14位、同じ連盟によるアングレームN優勝、ブリュッセルN10位、ポーN4位、ブリュッセルのサルブリス1043羽中優勝など。「デルビー」も「ル・セザール」も淡紅色の鳩で、羽には過剰なまでに黒い斑点や縞を付けていましたが、これは多くの本物のブリクー鳩の特徴でした。

 その黒さといったら、まるでインクびんを投げ付けたかのようでした。それらは華麗な銘鳩で、玄人にはまさにその特徴的な羽によって好まれました。すでに少し年をとっていたこれらの鳩は鳩舎に長くいればいるほど、その印象は強くなりました。これは頭部にも羽にも言えました。
 1925年から1933年にかけて、デュレイは105羽の鳩を長距離レースに出場させて、82回入賞しました。そのうち国内では優勝5回、2位、3位、4位、6位各1回です。
 ★1925年ダックスN1575羽中1、3、7、73、84、85、326 位(7羽同時)
 ★1926年ダックスN1302羽中1、6、10、42、58、60、182位 (8羽同時)
 ★1930年ポーN1082羽中1、4、26、118、120、136、位(9羽同時)
 ★1931年ポーN1196羽中1、17 35、37、117位(69羽同時)
 ★1932年バルセロナIN4994羽中、5、22位(2羽同時)
 ★1933年ポーN3341羽中1、15 20、28、51、78、112、128、141、142、152、211 245、255、274、324、339 507、640位

 ●最も有名な鳩「プティ・ル」    2020年8月15日(土) 1:14 修正
 デュレイは1933年12月にブリュッセルでほとんど全部の成鳩を売りに出した時、彼の生涯で最大の誤りを犯しました。彼の持っている最高のレーサーすべてがこのオークションに出されました。それらはイギリス人やアメリカ人に買われました。その中にはスコットランドのアーマデールに住むドクター・アンダーソンがいました。彼は世界最高の鳩を集めて作出しようとしただけでなく、最高の英国産ブルテリアも手掛けていました。
 私はデュレイに、ドクター・ブリクーの最も有名な鳩は何だったか尋ねたことがあります。彼の答えは「ジュール・セザール」とその兄弟「プティ・ル」でした。いずれも比較的小型の赤い羽色をしたトリです。

 ドクター・ブリクーは、ボルドーからの国内レースで1位から4位まで独占したことがありました。それらは4羽の全兄弟で、「ジュール・セザール」が2位に十分の差をつけて優勝しました。「プティ・ル」はボルドーNで2、3および8位、タックスNで2位と17位に入りました。その間にアングレームからの準国内レースでも3位と5位に入りました。リエージュのサンバンサンNで2251羽中優勝した鳩は「ジュール・セザール」の娘「ラ・シャネット」でした。

 ドクター・ブリクーの最も有名なカップルはこれもデュレイの話しですが「マラド」とその全姉妹から生まれた息子と、1922年にダックスNで5位に入った「プティ・ル」との組み合わせでした。「マラド」とその全姉妹との息子も、少なくともデュレイによって「ドンケレ・ベーケマン」 (暗いベーケマン)と呼ばれました。これは「マラド」の兄弟の「リヒテ・ベーケマン」 (明るいベーケマン)と区別するためでした。デュレイは、この「リヒテ・ベーケマン」から「デルビー」を作出したのでした(上記参照)。

  ●鳩界の将来に対するデュレイの答え    2020年8月15日(土) 1:15 修正
 デュレイ上院議員はブリクーの鳩でどれが一番好きだったかという私の質問には、彼は微笑みながら「ボン・エカイユ」と答えました。ボン・エカイユはタックスNで4000羽中2位に1時間の差を付けて優勝しました。1923年のことでした。

 1944年11月、私はデュレイに鳩界の将来についても尋ねてみました。彼の答えはこうでした。

  「ドクター・ブリクーと私は鳩レースを続けていたら、私たちは年をとりすぎていて、もはや傑出した鳩をストックしてはいなかったでしょう。要点を言えば、誰が最良の鳩を上手に越冬させることができるか、そしてそれらの鳩が誰の手に入るか。それらのオーナーは他のすべての愛鳩家と同様、短距離レースに参加するのか。あるいは新しい世代の長距離レーサーが生まれるか。あるいは、潜伏しているデルバールやカットリーセが今後復活するか。これらは粘り強く活力にあふれた若鳩です。また、リエージュのファブリーやリュクサンブールのヘントゲスはどこにいるのか」

 デュレイがいかに賢いかは、彼が私の質問に反問をもって答えたことからも分かります。彼の系統はブヴリネ在住のアマチュア・レースマンのアンリ・ティルマンを経由して、アンデルリューのレイモン・コブの系統に生き続けています。

 ●躍進するブリクーの銘血    2020年8月15日(土) 1:17 修正
 ここでロマンから現実の世界に戻ることにしましょう。デュレイは1933年12月に行ったオークションで、124,124ベルギーフランを売上ましたが、これは当時の世界記録でした。同じ冬にデュレイはこの金で古い3階建ての豪邸を5軒買うことができたというのをどこかで読んだことがあります。が、これについてレオン・プティは地下室から屋根裏まで空っぽで崩れかかっていたに違いないと言いました。同じようなことは、アントワープのコーネル・ホールマンの巨額の賞金についても言われました。これも単なる作り話しです。本当に家を建てるほどの巨額を稼ぐことができたのは、リエージュのジョルジュ・ファブリでした。彼はそれまで誰もなし得ないほどの復活を遂げたのです。

 多くの識者の観るところ、ブリクーとデュレイは1933年に彼らのキャリアの頂点にありました。同じ年、アーレンドクに住む小柄の煙草職人が、献身的な6人の息子たちに支えられて、系統の確立に取り組みました。その系統は今日に至るまで時間の歯車に抵抗しています。私たちは現在それから50年後に生きており、今ではブリクーやデュレイについて語るものが、いなくなったのも運命でしょう。

 1935年:リモージュNアンダンテ・ペルシュでクーイレのオスカー・ブレイモンが今回は別の純粋なブリクーで優勝しました。これは「ジュール・セザール」の妹から生まれました。私はトーレンの「ベーレンレーンバンク」の出納係アウド・フォッセメールと、彼の友人で、運転手の「ケース・デ・ヴィルデ」と連れ立って、この鳩を見に行きました。それは朝6時から夜12時まで明るい夏の日でした。現在は高速道路が通っている所は、当時は砂と砂利と舗装用の丸石で作られており、所々ヒースが生い茂っていました。ブレイモンの鳩は、私かそれまでに掴んだうちで最も高貴な鳩でした。

 1936年:アングレーム、デザースNアンタンテーペルジュ(2325羽)で、ラールヴィエールのアルフレッド・マッスルが 「ル・カポラル」という名の純粋なブリクーで優勝しました(これは多分ナポレオンの俗称「リトル・コーポラル」だったでしょう)。後にこの鳩はヘクトール・デズメが買い取ったと思います。当時彼は「ブリクーの時代」にありました。

 1937年:アングレームNアンタンテ・ベルジュ(2382羽)。ヘラルズペルヘンのヘクトール・デズメが、赤い羽色のブリクー「ル・ボス」(ドイツ語で「デア・ブッケル」)で2位と8分差で優勝。

 1938年:サンバンサンNアンダンテ・ペルシュ。ジョリモンのドクター・ブリクーが優勝。放鳩日に帰舎した鳩は一握りしかいない苛酷なレースでした。
 1939年:アングレーム、デザースNアンダンテ・ペルシュ。マース川沿いのディナン地方のファルミニュールに住むオクターヴ・フートがブリクー・トレメリーで優勝。私は彼に会いに行きましたが、この鳩をサン・ルイのジェローム・フェレーケに売ったと言ったのを覚えています。

 それから10年後の1949年・・サンバンサンNアンタンテ・ベルジュ。ヒュースケンスとファン・リェル組がアントワープの「ユニオン」ですべての記録を塗り替えました。彼らはリエージュのサンバンサンで1位と3位を取りました。

 ブリュッセルNで人々は日曜日の朝8時に打刻しました。しかし、土曜日の朝に、申告時間内に鳩舎に戻ったのはベルギー中でたった一羽でした。それはカルニョンに住む炭鉱夫ロベール・デュビエが所有する赤いオス鳩でした。私はこの鳩がまだ雛のときにわざわざ見に行ったことがあります。

 この鳩がリエージュの国内レースに参加し。この真のチャンピオンに掛けたなら、2位にざっと2時間の差をつけて優勝してオーナーに5万マルク設けさせたことでしょう。が、このオーナーはモンスの古い鉱山で働く障害のある炭鉱夫で、アマチュアに過ぎませんでした。かつて、ヴィンセント・ファン・ゴッホもこの地方で働いたことがあります。とこ
ろでこの赤い鳩はと言うと、それは最高級のブリクー=デミル・カラミンでした。

 ●フローベルと瓜二つ    2020年8月15日(土) 1:18 修正
 私は1930年にはミッデルハルニスの上級実科学校を卒業しました。私たちのフランス語の教師は身長が1メートル六十センチにも満たない小柄なベルギー人で、サン・トライデン出身のドクター・J・J・A・フレダフスでした。彼は死刑判決を言い渡された政治亡命者で、1918年にオランダに逃げ込んできました。それ以外の点では非の打ち所のない人間でした。私たちは未熟だったので、当時の政治情報について全く無知でした。

 その後、情勢が変わったのでしょう。1940年5月、彼はベルギーに帰り、故郷の町の町長になりました。しかし、1945年に状況は再び一変し、敵軍に対する武装協力のかどで銃殺刑に処せられたと聞いています。

 1930年に私はシャフケ・フレイダフスにドクター・ブリクーの写真を見せて、「この人を知っていますか」と尋ねました。彼は一瞬ためらった後、「ああ、『ボヴァリー夫人』を書いたギュスターブ・フローベールだ」と答えました。フローペルはこの本で世界的に有名になり、私の本のリストに載っていました。そこで試験管のF・J・クロップ牧師はフローベールについて質問しましたが、それはベルがなる直前でした。

 このときドクター・フレダフスはこう言いました。「この受験生は熱狂的な愛鳩家で、ピジョンスポーツの世界チャンピオンがルーアンに住むフロベールと瓜二つだと信じているのです。」この逸話から、ヤンセンが彼の系統の確立に取り組み始めた当時の世界チャンピオンがどのような顔をしていたかお分かりでしょう。

 ここで私はその後確立されたヤンセン系とブリクー系を比較するという課題に取り組みたいと思います。この2つの系統の最大の特徴は完璧な方向感覚と、少量の餌で太ることができる体質です。これらの系統の最良の鳩の目はいずれも輝いていますが、よく見るとブリクー系の目の中には「チョコレート」と「栗」のニュアンスが優勢で、ヤンセン系は汚れたシルバーグレイが優勢であることが分かります。それらは豊満な羽をしたウェットな鳩でした。

 ブリクー系は中距離と長距離専門に発達しましたが、ヤンセン系の場合はそうではありませんでした。しかし、事実が示すように、ヤンセン系は少なくとも配合においては、どんな距離や条件にも適したオールラウンドな鳩でした。ブリクー系はどちらかと言えばアヒルの体型を思わせるところがありましたが、ヤンセン系はそうではありませんでした。しかし、だからと言って「背中がない」とか「掴みごたえがない」といった批判は聞いたことがありません。

 ■■『Piet de Weerd 研究』028■■  [ピート・デヴィート回想録028「伝統継承と進歩」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1998年3月号 )  イレブン  2020年8月15日(土) 1:28 修正
戦前、戦後、そして現在に至るまで銘系ブリクー系はこの回のタイトルのように「伝統継承と進歩」を続けてきました。しかし、その系統の全体像については、ブリクー系の特異な形成史の影響のため、資料としてキチンと残されているわけではないようです。

ピートさんの回想録は、ベルギーのレース鳩の歴史についてある程度の基礎知識を持っていることを前提に話が進められています。そこで、今回の『Piet de Weerd 研究』を進めていく上では、関連資料をできるだけ掲載しながら回想録の内容を理解していきたいと思っています。

このブリクー系編ともなっている回想録22、26、27、28の関係資料としては、以下の資料を追加します。結構な量になると思いますが、研究の貴重な資料となると思っています。

@『ベルギーの系統とその歴史』ジュール・ガレス著(The history of the belgian strains by Jules Gallez)第Z章「ドクター・アーサー・ブリクー」
A銘鳩ミュニエ号関連資料

 ■伝統受け継ぐ強い鳩たち  □Piet de Weerrd  2020年8月15日(土) 1:29 修正
 ダンハイフエの「ローデ・バルセローネ」は、典型的な「百姓鳩」でした。恐ろしく強く広い肩幅をしていますが、目は特にどうということはありません。同じことは羽に言えます。内気でも柔順でもなく、目立って個性的というわけではありません。彼はバスケットの蓋が開くのを見て、こう独りごちたことでしょう。「さあ闘いの始まりだ。だがあくまでも冷静に、力を使い果たすな」と。

 このトリは状況を見通し、冷静さを失わない鳩、という印象を与えました。この鳩はある世界選手権で、ロードの強制労働者の異名を取る自転車レーサー、ブリク・ショッテのようにデビューしました。その成績はサン・バンサンーNで3位(1098羽)、ビルバオーNの過酷なレースで7位(4425羽)、バルセロナーN優勝(3339羽)、サンーセバスチャンーN3位(2929羽)等々です。

 その最良のヒナは、デルバーの「バロン」の妹との間に生まれました。デルバーが自分の取り分として受け取った2羽の娘のうち、まだらの方はロンセでアングレームNの優勝鳩(6000羽)の母となりました。

 私ならばむしろデマレットの「ファーレ・バルセローネ」の方を買ったでしょう。これはヘンフストデイク在ウェイナッケルの鳩の間に生き続けていますが、これらの鳩の中にもデブリーントの赤やベールトーンが混じっています。色は飛翔技術よりも遺伝しやすいのです。とは言え、それらは輝かしい伝統を受け継ぐ恐ろしく強い鳩たちです。

  「ファーレ・デマレット」は私ならばブリクーの全系統の中で最も欲しいと思う鳩です。このオス鳩は、大きな「デカラジュ」(羽の間の透き間)のある長い翼を持っています。彼は激しく攻撃的な気性をした並ぶもののないトップレーサーでした。ヤンセンはこのような鳩を持っていませんでした。ヤンセンの鳩はいずれも体型が短く、豊かな筋肉をしていました。

 このオッティニーの「飛行機」は、私にデブリーントの「ズワルテバント」を思い出させます。それは何よりも筋肉によってです。脚環番号は58−21006367で、1962年と1963年にバルセロナNで優勝しました。第1回目の優勝では、このトリは西ヨーロッパ全体で40分の差をつけました。1963年のとき、当時キュルゲム・センターの所長を務めていたファン・タインは、ブレダのバロニーラーンに住むレース主催者に電話して、1時間半も前に1羽の鳩が鳩舎に戻ってきましたが、2羽目はまだ見えないと伝えました。そして、私にその鳩がどれだか言い当てられるかと聞きました。彼は私を迎えるために娘のオルガをアントワープによこしました。当時彼女は新しいパッカードを運転していました。正午を少し過ぎた頃、私たちはオッティニーのル・ドゥ・ブランーリに到着しました。

 ■ 卓越したファーレ・ブリクー■  □Piet de Weerrd  2020年8月15日(土) 1:30 修正
 アデリン・デマレットは鉄道員でした。彼は家の裏庭にある階段付きの小さい鳩舎の上に立って、心配そうに青い空を見つめていました。その表情は、自分の鳩か打ち立てた世界記録など彼にとってはどうでもよいかのような印象を与えました。「ファーレ・ブリクー」はあまりに力強く、荒々しい飛び方をしたために、両翼の外側の風切羽が上方に湾曲してしまっていたのです。トリは以前は金色が混在した栗色の目をしていましたが、今では淡いチョコレート色ないしクリーム状の白味を帯び、瞳孔の緑は青みがかった褐色をしていました。血色と虹彩の色は、それまで見たこともないほどに、すっかり消え失せていました。

 トリはあれほど厳しく過酷な時間を経た今でも、その卓越したクラスの徴候をみせていました。この肩幅の広い巨大な闘士は、嘴の先を軽くつまんだだけで激しく抵抗しましな彼は非常に短気で、そういったことが全く我慢ならなかったのです。

 この鳩は、ディッケブスに住むダニェル・デフォスに売られました。この男は「太ったキッネ」のニックネームを持っていましたが、それもそのはず体重が280ポンドもあったのです。それから約一年半の後、この鳩は最後に極東に売られました。(※注イレブン:銘鳩ミュニエ号のことです)

 私だったら、このような鳩をどんな相手と掛け合わせたでしょうか。ヤンセン系の鳩で言えば、1951年の「ショーン・リヒト」か、1958年のメス鳩でしょう。このメス鳩というのは、1964年の聖霊降臨祭にヘイスト・オプ・デン・ベルクのユージーン・ミーレマンスから買ったもので、1年後に再びヤン・フロンデラエルスに売りました。フロンデラエルスはこのトリから「シャトル」を作出しましたが、これは彼の生涯で最高の鳩のひとつでした。この鳩については、本ぶの別の箇所でお話しすることにしましょう。

 ■ブリクーで活躍・カラミン■    2020年8月15日(土) 1:31 修正
 シャトレのアルトゥール・カラミンは、1930年から1940年まで、まるまる10年間、ブリクー鳩の素晴らしいコレクションを持っていましたが、その名前は完全に忘れられてしまいました。その訳は、彼の場合、故郷から離れようとしなかったためでしょう。シャルルロアだけでレースに出る機会は十分あると考えていたのです。そのためハードな長距離用の鳩が中距離レーサーに仕込まれましたが、これらの鳩はとりわけ暑い日や逆風で強みを発揮しました。

 たとえば、1939年、そのような天候の日に、シャルルロアでRUPレースが行われました。このとき優勝した鳩は分速974メートルで飛びました。レースの成績は次のとおりです。
 シェルマン氏(シャテリノー)、純ブリクー:1、5、6、7、23、34、37、39、51、52、59、60、72、73、82、99、100、102、107、117、123、125、138、147、150、151および166位。おめでとう、グレゴワール!。
 カラミン氏(シャトレ)、ドクター・ブリクーの最も重要な支脈:2、4、11,12、14、30、33、41、42、55、56、67、74、80、93、111、121、140、159呼び165位。かくして、2人合わせて48羽入賞し、そのうち9羽がベスト15位に入ったのです。

 カラミン鳩を長距離レースに使った愛鳩家がいました。カルニョンのロベール・デュビーもその一人でした。彼はボリナージュの古い炭鉱で働いていた障害をもつ炭鉱夫でした。その境遇から推して、彼の生活は決して豊かであったとは言えませんが、ここでそれにつ
いて語るのは冗長にすぎるでしょう。いずれにせよ、1949年にリエージュのサンーバンサンNに出ていれば、彼の鳩はぶっちぎりで優勝したことでしょう。しかし、レースには出ませんでした。

 でも、私はこの鳩を見たことがあります。確かステーンベルゲンのヤン・アールデンと一緒だったと思います。トーンチエ・ショウテレンはいませんでした。私は彼を後で一度リンケペークのファン・カルスター兄弟の所に連れていったことがあります。この兄弟は、当時フロール・カナエルツ・ムーレのデブリーントを経由してファン・タインから奇跡の鳩を手に入れました。それは部分的には母方と同じ系統でした。
 この鳩を使ってレイモンド・ヘルメスは1983年、ハム・ジークでハードなパオNを制したのです。

 ■緩慢さがチャンスを見逃す■    2020年8月15日(土) 1:32 修正
 巣に卵を残してレースに出場した「ローデ・デュビー」は、たとえ売りに出たとしても、何か何でも手に入れたいという鳩ではありませんでした。私はこのトリの中に、ヘラールズベルゲン在ヘクトル・デスメットの「ブッケル」と共通するものをみましたが、全く同じ系統でもこの国際レース優勝鳩にはより多くのパワーが潜んでいました。

 私はときどき、ブリクーの鳩は赤い羽色のデブリーントかヤンセンだと思うことがありました。それらは極めて柔順で育てやすい種鳩で、子孫に伝える品質をふんだんに持っていました。人々は「ありあまっていた」とさえ言います。デュビーの鳩もそうした鳩の部類でした。

 ヤンセン系のスーパーピジョンを、上に述べた特質を備えたブリクー系の鳩と掛け合わせたなら、すべての切り札を手にすることになったでしょう。ゲームに勝ち、ときにはとっておきの切り札で相手のカードを収ることもできたでしょう。競争馬の世界ならば、こうした交配をやらないはずがありません。

 が、私の見るところ純粋な品種の進歩があまりに緩慢なピジョンスポーツでは、数え切れないほどのチャンスが見逃されているのです。

 ピジョンスポーツに関係のある人々はこのことを知ってはいても、正しく認識はしていません。雑種共生を求め続けたファンヘーのような男は、アウト・トゥルンハウトのアルベルト・ファン・ミールトのケースでは、その「ウィッテコップ」によって強化されたのに相違なく、しかも彼は正しい道を歩んでいるのだと確信していました。「ウィッテコ″プ」は、ホーレマンスの「ウィルデ」や「フローテ・フォンテーヌブロー」のような鳩でした。これらの鳩は中距離の最も強力なライバル(リエルのハフオ)に15分の差をつけて優勝することができたのです。

 ■ロンセの巨人モーリス・デルバー■    2020年8月15日(土) 1:33 修正
 ここで私は世界チャンピオンのもう一人の巨人について書きたいと思います。ロンセのモーリス・デルバーです。彼のチャンピオン鳩とアーレンドンクのヤンセン系との交配は例外的なものではありません。むしろオランダでは頻繁に行われ、しかも大きな成果を上げているのです。

 たとえば、スタフ・ドゥサルダインの鳩舎では、シャルル・ダーネンスの鳩と交配させました。それらの鳩はルーセルから得た「クラック」たちでした。スタフはそれによって自分の鳩がより安定し柔順になったことに気付きました。しかも、その飛翔距離はいささかも失われることなくです。これは、スタフにとって特別大きな意味を持っていました。なぜならば、彼は中距離には決して興味を示さなかったからです。

 私かデルバーに初めて会ったのは、1935五年、ティルブルフの「チャンピオンデー」においてです。

 C.T.デーゼーウとフランスー・ゼルマンスからアドバイスを受けたルイ・ドンデールが彼を招待したのでした。彼らは、スタフからデルバーが「前途有望な男」であることを聞かされていたのです。ミデルハルニスから北コ・ニピウスもこの小さいサークルのメンバーでした(彼はいつもかなり野心的でした)。そのほかに、デ・シェーマエッカー、ロッテルダムのクラッツとワッセン、ローゼンタールのシュールとブラート、ブレダのハリー・オーメン、ニムウェーゲンのドクター・ボルとベルナルトーブルゲルスがいました。以上で、このサークルの最も重要なメンバーはおおかた尽くされているでしょう。

 私か初めてデルバーの鳩を掴んだのは、ゼールストのタバコ製造業者フランス・バールマンの鳩舎でした。彼はモーリス・デルバーから籠いっぱいの鳩をプレゼントされたのです。このような贈り物はこのときが最初ではなく、恐らく最後でもなかったでしょう。

 ベルギーとオランダの国際的なブライング・クラブ(本当のエリート集団でした)は、夕食会やその他の集まりを通してI「ブリック・リレーション」の分野で大いに貞献しました。なかでもモーリス・デルバーは、困難な長距離レースにかける意気込みと、その印象深い人柄によって、愛鳩家と国際的組織との良好な関係の促進に一方ならず寄りしました。彼はまた7年間キュルゲム・センターの所長を務めていました。この後に、私か戦争末期にデルバーと彼の鳩について書いた事柄が続きます。
           (この項次号へ続く)

 炎天下のイレブン鳩舎  イレブン  2020年8月14日(金) 16:39
修正
暑いですね……。鳩たちもうだれるようにじっとしています。熱中症にならないのかな〜と心配になるほどです。

 《源流系画像資料》【源流モンロー号】 親子配合  イレブン  2020年8月13日(木) 5:40
修正

 源流モンロー号親子配合作出鳩  イレブン  2020年8月13日(木) 21:45 修正

 ・  イレブン  2020年8月14日(金) 4:19 修正

 【『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇関口龍雄「レース鳩の系統について」◇◇◇◇【出典:『レース鳩」誌、1983年4月号P8より引用)  イレブン  2020年8月12日(水) 16:38
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 この関口龍雄先生の論文は以前も一度取り上げていたように思いますが、ピートさんの近親配合論と読み合わせると、より一層味わい深い文章になってきます。

●私の50年間の近親交配の体験によれば、良質の鳩であれば近親交配をしても差し支えないと思う。良質でない鳩は、4回も近親交配を重ねれば、前述したように体羽が減少し、繁殖力もなくなりレース鳩としての必要性能が喪失してしまう。

●近親交配の継続によって生じた欠陥の補足について、シルヴェン・ウイツークは次のように述べている。良質の異種系統の鳩を三代に渡って交配してその血液を1/8とする。この1/8の血液を全鳩に導入することによって、原種の特殊性を失うことなく固定し保存することができると言っている。

 ご自身がシオン系を基礎として戦前、戦後を通じて、近親配合を実施され「鳩作り」を続けてこられた事実が、この論文の一言一言に重みを加えています。確か、種鳩に残す鳩は全て700キロ以上の記録をした鳩だけという方針を実施されていたとどこかで語っておられました。

1983年当時、近親配合論で、これだけのことをキチンと述べられていることに、時代を卓見されていた存在の大きさを感じます。

 「レース鳩の系統について」  関口龍雄  2020年8月12日(水) 16:39 修正
 「系統を外視しててレース鳩を飼育することは、富くじを買うに等しい」とは、カーネル・オスマンの言葉であるが、蓋し、名言である。

 一般に英国人は、動植物の育成に天才的才能をもっている。鳩についても同様のことが言えると思う。短距離鳩のスキナムや現在のショウ・レーサー鳩の作出に就いても私は高い評価をしている。

 系統、即ち一族問の血統に就いて考えてみることにしよう。

 近親交配を重ねてきて固定された一族であっても、レースの成績が不良であれば鳩界では、系統として認めていない。一般に近親交配を何代も継続して行うと、レース鳩は立派な体型であっても貧弱な小型になり、体羽も減少し、特に腹部の羽毛は無くなるばかりでなく翼や内臓等に多くの疾病を生ずるものである。勿論レース成績も不良になってくるのが普通である、然しながら、良質のレース鳩では、これ等の現象が少ないので、注意深く配合して行けば、レース鳩としての良質を固定させることができると思う。

 近親交配を継続して行くと鳩は、その性温順となり、レース鳩としての精悍さを失ってくる欠点を生ずるものである。ローデンバッハは、近親交配は、遺伝に先だって疾病を生ずるとして、近親交配の弊害を説いている。然しながら、フェリス・ージゴーは。その実施方法さえよければ、レースに必要な一切の良性能を遺伝させられると言っている。

 私の50年間の近親交配の体験によれば、良質の鳩であれば近親交配をしても差し支えないと思う。良質でない鳩は、4回も近親交配を重ねれば、前述したように体羽が減少し、繁殖力もなくなりレース鳩としての必要性能が喪失してしまう。良質の鳩とは、前述のうちの良い点を満たしている鳩の系統であると思う。

 良い系統の鳩であっても近親交配を継続して行くと、性質が温順になってくる。人に馴れるのは良いが、やや小ぶりになりがちで、レース鳩としての精悍さが欠けるきらいがある。このようなレース鳩をレースに参加させても近年のレースでは、優勝することは極めて困難であると思う。

 近親交配の継続によって生じた欠陥の補足について、シルヴェン・ウイツークは次のように述べている。良質の異種系統の鳩を三代に渡って交配してその血液を1/8とする。この1/8の血液を全鳩に導入することによって、原種の特殊性を失うことなく固定し保存することができると言っている。

 しかし、レースに参加させるためには、一代目でもその効果が現われるものと思う。

 次に、推奨す可き系統についてを書くことになっているが、この問題は実に難しいことであり、差し障りの多い問題でもある。

 ウランが作出した鳩の子孫のうちで、世界的に有名であり且つ現在でもその子孫が活躍している系統であればどれでも推奨に値すると思う。 .

 毎回のように、大レースに優勝して.一躍有名になった愛鳩家の中には、数年たつとその名前が成績の上位から姿を消してしまうことが屡ある。その原因は何であるか研究してみる必要があるだろう。

 現在の愛鳩家の多くは異種交配をしている。「良鳩の作出は血液の混合にある。」という昔からのベルギーの掟があるが、この掟に合致した無難な作出方法であると思う。

 たびたびの優勝で、気を良くした愛鳩家が、異血導入を怠り、自‥鳩舎内の交配を続ければ上位入賞は不可能となるであろう。近親交配を続けている鳩舎も同様に、他の優秀な系統の鳩との交配によって生れた鳩をレースに参加させることによって、上位入賞の希望がでてくるものと思う。

 以上の記述は、私の60年に亘る飼鳩生活と昭和8年からの近親交配の体験によるものであるが、ベルギーの昔の著名愛鳩家の意見も少し加えたものである。

 最近の日本の鳩界も発展して世界的のレベルに達しつつあることは喜ばしいことである。毎年諸外国から数多くの良不良鳩が輸入されてくる。そのうちから良鳩を入手するのは日本にいる愛鳩家の選鳩眼である。諸外国の愛鳩家の中には、他鳩舎でレースに参加した鳩を購入して、自分の鳩舎からその鳩をレースに参加させた例がいくつもあるが、日本では、購入した鳩は種鳩として使用する場合が多い。レースで優勝した鳩必ずしも種鳩として成功するとは限らない。飛ばなかった鳩必しもよい種鳩にならないとは誰も断言できない。このことは、経験のある愛鳩家ならば皆肯定するところである。

 日本では、超長距離(1000キロ以上)を飛翔した鳩を好み賛美するが、その体型は、800キロまでの鳩とは少し異なることである。

 人間の好む鳩の体型は現在のところところ800粁までの鳩の体型である。従って、品評会の規定もこの従って、品評会の規定もこの体型に合うように出来ている。

われわれが選鳩する場合、最高の系統の鳩を選ぶとともに、以上の記述も参考にする必要があると思う。

若き愛鳩家のご参考になれば幸いである。

 源流系画像資料【銘鳩モスクワ号×源流3690号】(自身×孫)  イレブン  2020年8月12日(水) 1:29
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 源流モスクワU号  イレブン  2020年8月12日(水) 1:32 修正

 源流系画像資料【秘蔵岩田号×帝王GPダイヤモンドレディ (秘蔵岩田の孫)】(自身×孫配合)    イレブン  2020年8月12日(水) 1:06
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上画像:秘蔵岩田号(岩田日本海号系5085、3727の直孫)
下画像:帝王GPダイヤモンドレディ 1000K総合優勝(秘蔵岩田号の直孫)

 帝王705号  イレブン  2020年8月12日(水) 1:18 修正
秘蔵岩田号×GPダイヤモンドレディ

 秘蔵岩田U号  イレブン  2020年8月12日(水) 1:21 修正
秘蔵岩田号×GPダイヤモンドレディ

 イレブンのBGM動画集  イレブン  2020年8月11日(火) 16:04
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■Joe Hisaishi in Budokan - Studio Ghibli 25 Years Concert [HD] [1080p]
https://www.youtube.com/watch?v=Gpr_ISfWFsk

■Studio Ghibli Summer Night Piano Collection Piano Covered by kno
https://www.youtube.com/watch?v=7voSN82FGF0

 源流系画像資料【秘蔵岩田号×(秘蔵岩田×9390)(親子配合)】  イレブン  2020年8月11日(火) 11:43
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2020年配合《秘蔵岩田号親子配合(父×娘)》

上画像右:【秘蔵岩田号】
上画像左:【秘蔵岩田×9390】
下画像:【秘蔵岩田×9390】

 2020年作出鳩【源流秘蔵岩田号】親子配合作出鳩  イレブン  2020年8月11日(火) 11:46 修正

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