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 ■■【『Piet de Weerd 研究』関連資料】■■◇◇◇◇ デルバール系資料A 『木村徳広氏の外国鳩舎めぐりA」=歓待してくれたデルバール=◇◇◇◇ 【出典:『愛鳩の友』誌、1973年6月号P120より引用)】  イレブン  2020年11月3日(火) 3:22
修正
この資料は、津軽系系統確立である木村徳広がデルバール鳩舎を訪問した際の印象を率直に述べた記事です。

モーリス・デルバールの鳩舎の様子やその人柄を見たまま、感じたことをそのまま語っているので実像がよく伝わってきます。

 以下は、本文からの抜粋です。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

●「デルバールさんの人柄から受ける感じからしても、このところ急に日本で有名になったという鳩舎と違って、やっぱり世界のデルバール鳩舎だという貫録が、デルバールさんの体からこう、発散している風に受けるわけです」

●やっぱりデルバールさんも長く飼ているわけだから、こういうタイプの鳩でこういう眼の色にでたとなれば、そういうのは自分の将来の選手鳩として置いといて、駄目そうなのを売るんじゃないかと思うんだけども、オレは悪い鳩は売らないと言ってるわけだよ(笑い)。そこんとこがちょっとわからないわけだ。


●完成されたデルバールの記録鳩とかは別にして、若鳩として日本にきた鳩はどうやハネだ鳩じゃないかという気がするんだよ。デルバールばかりじゃなくて他でもそうじゃないかと思うんだけど。その点はなんともいえない。

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 『木村徳広氏の外国鳩舎めぐりA」=歓待してくれたデルバール=  木村徳広  2020年11月3日(火) 3:31 修正
■木村■ デルバール鳩舎は一日かけてゆっくり見学しようということで、普通の日は2つ見たり3つ見たりだったりで非常に忙しかったわけですが、この日はデルバール鳩舎だけということで、午前10時頃にデルバールの家につきまし た。それで、デルバールさんの家 に入って応接間に通されたわけですけれど、デルバールというのは 日本にも相当、戦後ですが日本にも入ってきてて、なにか初めて行ったんですが、日本人ということで親しみ深いような感じを受けて気持良く歓待してくれたわけです。

 鳩舎に入るというんで上衣の上に着る作業着ですね、それを貸してくれました。それまでに回った鳩舎では作業着を貸してくれて、ゆっくり鳩舎を見せてくれるということはなかったわけですが、それだけにデルバールさん自身も歓迎してくれるし、それだけ日本でも鳩を買っているわけだからサービスも良いということなんでしょうかね(笑)。応接間に入るとすぐにコーヒーをだしてくれて、そこで話を聞いて鳩舎を見せてくれたわけです。

 デルバールさんの人柄から受ける感じからしても、このところ急に日本で有名になったという鳩舎と違って、やっぱり世界のデルバール鳩舎だという貫録が、デルバールさんの体からこう、発散している風に受けるわけです。私も実際にオリンピアードの会場を見て、入賞している鳩がたくさんいるけどその中で系統はなんでしょうか、と出品した人に聞くと、何分の1か仮に4分の1とか、2分の1とか、8分の1とかはデルバールの鳩が入っているんだよ。

 開催されたのはドイツだったんですが、ドイツの鳩を飼っている人も観光バスみたいな大きなバスでデルバールの鳩舎に鳩を仕入れにくるという話も聞いていたけれど実際にドイツでもデルバールの鳩が相当に活躍しているわけですよ。そんなようなことで、大貫録というか、大競翔家であるというような感じをデルバールさん自身から受け取りました。
 
 それならデルバール鳩舎は変っているかというとそうでもなくて、広い工場の上の屋根裏の鳩舎で飼っている。まあ、屋根裏といっても日本の屋根裏とは違うからね。屋根の高さの急勾配で非常に大きな屋根だし、その面積も相当に広いわけです。その中で今までの鳩舎と同じような1坪半ぐらいの鳩舎で、ここには今年やるのが18羽入っていると。それは皆なWシステムの鳩ばかりなわけですよ。

 それで、デルバールといえばナンバー14号だとか、ナンバー1号だとか、デューパール9号だとかは日本で有名になっているわけです。その鳩の子供もウチ(木村鳩舎)にいるわけですから、そういうのも見せてもらいました。だけどね、私がつかましてもらった
のが12号だったか何だったか、わからないんだよ(笑い)。

□デルバール鳩舎の鳩の数は?

■木村■相当いますよ。2、300羽はいるんじゃないですか。鳩舎自体も、デルバールは大きな染色工場を営んでいるわけですけれで、その工場のありとあらゆるところに鳩小屋があるわけですよ。それで、屋根裏の選手鳩、種鳩は別にして、下の方にも全然舎外していないような鳩がたくさんいるんですが、それでも売る鳩はいないというんだ。ここで考えたのはね、行ったのは2月なんだけど、3月とか4月の鳩は全部売らないんじゃなくて巣立ちした時点でもう鳩がわかるみたいなんだよ。それは普通に飼っている人もわかるんだけど、本当に飛ぶか飛ばないか、頭の中までわからないから、やっぱりデルバールさんも長く飼ているわけだから、こういうタイプの鳩でこういう眼の色にでたとなれば、そういうのは自分の将来の選手鳩として置いといて、駄目そうなのを売るんじゃないかと思うんだけども、オレは悪い鳩は売らないと言ってるわけだよ(笑い)。そこんとこがちょっとわからないわけだ。

 私のところに来にきたのは3月頃のが来ているわけだ。これは輸入業者が入れた中から有名な鳩の子供だけを譲ってもらったわけだけれどね。その価格と、その兄弟のなれているヤツがいるわけだ。それを売ってくれと言っても売らないから、なにか俯に落ちないところもあるんですよ。可成り名を遂げた鳩はたくさんいるんですが、これから飛ばそうという鳩でWシステムに入っている鳩は売らないですよ。その兄弟は日本にきている。

 完成されたデルバールの記録鳩とかは別にして、若鳩として日本にきた鳩はどうやハネだ鳩じゃないかという気がするんだよ。デルバールばかりじゃなくて他でもそうじゃないかと思うんだけど。その点はなんともいえない、現にそういう鳩がきていても良い血筋を引いているから飛んでいるんだな。

□親子3代に継がれるデルバール系□

■木村■デルバール鳩舎の鳩は一般的からいくと翼が短かくて、腰がないように見うけられるんですが、手持ちはすごく良い鳩ですね、手持ちが良いということは胸が薄いわけで。要するに品評会にむく体型なわけである。だけれど一般的に見た場合には主翼が短かい。それで胴づまりなように見えるわけです。で、そういう鳩ばかり選んで送ってくるということじゃなくて、むこうにいるのもそうなんです。自慢している鳩も皆なそういう鳩なんですよ。

 だからデルバール系というそれで良いんだということが自分の眼で確かめてこられたわけです。それで、鳩舎を全部見てから、その街の一番有名なレストランに連れて行ってくれて御馳走してくれたわけです。そういう鳩舎はまだ後4日程回ったけれど一度もなかった。特別にデルバールがやってくれたんでしょうね。そこで3時間位、鳩の話しかすることがないんだから、やってるわけです。

□デルバールというのはどんな人?

■木村■体はえらく細いんだけど背が高いんだよ。自分では商売の方も息子さんに任せて、毎日背広をきちっと着てネクタイをしめている人だね。本当の社長さんなんだね。だから大貫録だな。最近はいろんな鳩舎ができているけれど、親子3代、今度の息子で3代目になるという古い歴史もあるし、デルバール系といえばアメリ力でも有名だし、イギリスでも有名だし、結局全世界のデルバールなんだな。

(以上)

 ■■【『Piet de Weerd 研究』関連資料】■■◇◇◇◇ デルバール系資料@『ベルギーの系統ととその歴史』〈PART 21〉[The History 0f the Belgian straine PART 21]Jules Gallez著 『モーリス・デルバール・ロンセ市−世界的な名声とともに−』Jules Gallez◇◇◇◇ 【出典:『チャンピヨン』誌、○年○月号(※調査中)P41より引用)】  イレブン  2020年11月1日(日) 4:42
修正
Piet de Weerdが、2番目に取り上げた銘系デルバール系は、日本鳩界にとっては、ファンブリアーナ系にならぶ、大変馴染みの深い系統です。

 日本人でモーリス・デルバール鳩舎に直接訪問した愛鳩家も多く、鳩界雑誌でも幾度も取り上げられた銘系です。世界的な巨匠モーリス・デルバール自身も、幾度も来日していることもあり、我が国に大きな影響をあたえた存在です。

 ブリクー系の次にピートさんがこのデルバール系を取り上げたのは、ここでも濃密な近親交配によって系統の基礎が形成されているからです。

 この『Piet de Weerd 研究』関連資料では、回想録でピートさんが語っていることをより深く理解するために、関連する資料を可能な限り収集・蓄積することを目的にしています。デルバール系については、現時点でもかなりの資料が揃っています。これから、結構時間がかかると思いますが、全てを掲載する予定です。

 最初の資料は、系統研究の定番『The History 0f the Belgian straine』 PART 21]Jules Gallez著からの引用です。基礎鳩群の詳細な資料が掲載されており、研究の基礎的な資料として重要な文献です。

モーリス・デルバールがどのように「濃密な近親交配」をして系統確立の基盤を形成していったのか、この資料をもとに、ブリクー系で行った系図作成をして調査研究をする予定です。(※関連資料を一通り掲載した後に予定しています)

※なお、デルバール系については、PART 21〜PART 22の2回のわたって掲載されているはずですが、PART 22が見当たらず、現在調査中です。見つかり次第、後でこの頁に追加・編集します。

 『モーリス・デルバール・ロンセ市−世界的な名声とともに−』Jules Gallez・  Jules Gallez・  2020年11月1日(日) 4:47 修正
 モーリス・デルバール氏が、1914〜18年の第一次世界大戦以前にすでに名声を博していたということは、興味ぶかいことです。

 彼はその有名な父親の理論上の後継者であり、650Kから1100K(406マイルから687マイル)の数多いレースで成功をおさめてきたのです。

 この大戦前の作出鳩群にメッヒュレン近郊のプッテに住むデプレーター氏の鳩群が交配され、デルバール鳩舎の基礎鳩群が形成されたのです。

 これをもとにして彼は、1920年から39年にかけて、また第2次世界大戦直後の1期間、彼にもっとも輝かしい翔歴を育てあげたのです。

 モーリス・デルバールが、1940年以前におこなった交配はとても小規模なものでしたが、つぎのような鳩群で、多大な成功をおさめるにいたったのです。

 ■ 基 礎 種 鳩 ■    2020年11月1日(日) 5:16 修正
■ 基 礎 種 鳩 ■

@■AA■゛ウィツトペン″B 26-2204993 B C W■

◎有名なヤボット、ヴィットーホ、ヴィットノイスらの兄弟。すばらしいレーサーであると同時に種鳩でもある。

 この鳩の成績はつぎのとおりである。ブレトイル8位 シャンディリー6位、ノヨン48位 カンブレー3位 ドールダン1位、コンピエーニュ16位、オルレアン3位、リブクール2イ立 ドールダン95位、クレイル62位、クビー4位、カンブレー103位 ブレトイル10位、リブクール7位、クビー4位 コンピエーニュ64位 ブレティニー52位 ブレトイル19位、クレイル29位 ヴァンドーム5位 カンブレー4位、ドールダン32位、アングレーム22位、カンブレー16位、アングレーム4位、オルレアン169位、ブ`レトイル22位、クレルモン44位、クビー11位。

 これらの入賞記録は、ほとんどのレースが1000羽以上参加するロンセの゛ローカル・ユニーク″(ユニーク酒場=鳩クラブ)で勝ちとったものである。
 なおAAはBBの父鳩である。

A■BB■゛グーデ・クヴエーカー″(すばらしい種鳩)B26(28年生まれ)4199357 B ♂ AAとMMの直仔。

◎一度もレースしていないが、すばらしい種鳩でCC、DD、EE、FF、GG、HH、PP、QQおよびRRの父鳩である。

B■CC■ ゛クライネ・ブラウエ″(小さな灰)B27(29年生まれ卜4177004 B ♂ BBとNNの直仔。

◎傑出したレーサーであると同時に種鳩でもあった。

 パリ通過レース、ドールダン、オルレアン、ヴァンドーム、ツールなどのレースで好成績をあげた。長距離レースのおもな成績はつぎのとおりである。

アングレーム6位、アングレーム42位、ボルドー5位、タックス13位、ボルドー2位、ポー106位、ボルドー2位 ボルドー白蘭6位。このレースでは参加2456羽中、当日帰りは6羽だけしかなかった。 

◎この鳩はII、JJ、およびKKの父鳩である。

C■DD■ ゛ド・ビアリッツ″B30-4253761 B ♂BBとNNの直仔

パリ通過レースだけを挙げてみると、つぎのとおりである。ツール72位、オルレアン7位、ビアリッツ71位、タックス7位、ビアリッツ1位、ボルドー378位、タックス67位。

◎現在のデルバール鳩舎の数多くの鳩の父鳩であり、祖父鳩である。またA.プリスニールの゛クライネ・ブラウェ″やシャルル・ファンデールエスプトの゛グーデブラウェ″の父鳩でもある。

D■EE■ ゛トウ・タックス″(タックスにて)B31-4244827 B CW ♂

◎BBとNNの直仔。すばらしい種鳩であり、レーサーでもある。おもな成績はつぎのとおり。

オルレアン66位、シャトロー37位、ツール152位、シ・ヤトロー309位、シャトロー60位、ボルドー25位、タックス2位、ボルドー105位。ドールダン6位、オルレアン52位、ポワチエ4位、タックス14位、ポワチエ161位。タックス80位、アングレーム40位、ドールダン68位、ビアリッツ25位、同d.N10位、ナルボンヌI位、同d.NI位、サンパンサン2位、同d.−NI位。サンバンサン109位。この鳩はパリ以遠のレースで何回も優勝しており、そのうえケルン(西独)の国際オリンピアードで2位を獲得している。

◎現在'のデルパール鳩舎の多くの鳩の父鳩であり、また祖父鳩でもある。

E■FF■゛ド・バリオレ″B19〔32年生まれ〕−61035BW♂

◎BBとNNの直仔。すばらしいレーサーであり種鳩。成績はつぎのとおり。

タックス67位、ルールド158位、ビア。リッツ209イ立、ボルドー16位、アングレーム21位。サンバンサン21位、サンバンサン31位、ナルボンヌ2位、同地区2位、サンバンサン13位、サンバンサン83位。

◎この鳩はデルバール鳩舎の多くの優秀な鳩の父鳩。祖父鳩であった。
GG ゛ド・バルセロナ″B31-4244529 BW 合 BBとNNの直仔で、卓越したレーサーであると同時に種鳩でもあった。バルセロナN36位、ボルドー10位、ビアリッツN24位、ルールドIN14位、同N5位、ポー76位、ビアリッツN9位、ナルボンヌN2位、サンバンサン41位。

◎この鳩はモーリス・デルバール鳩舎の数多くの優秀な鳩の父鳩であり。祖父鳩であった。

F■HH■ ゛クライネ・ゲシエルフテ″B 32-4293562BC ♂

◎現在のモーリス・デルバール鳩舎の多くの鳩の父鳩であり、祖父鳩である。 BBとNNの直仔O破格といえるほどの価値のあるレース鳩、種鳩である。おもな成績はつぎのとおり。

オルレアン37位、ツール82位、アングレーム10位、ビアリッツN9位、ボルドー206イ立、タックス4位、ボルドー3位、ビアリッツN16位、サンバンサン4、3、10位、同1、1、1位O(2位を70分引き離す)。ナルボンヌN9位。
 1947年、この鳩は16歳でなお仔鳩を作出した。二百フランまでのプールを7回も獲得し、ナショナル最優秀鳩とみなされたのである。

G■II■゛グーデ・ゲシエルフテ″B 30-4253765 BC ♂

◎CCと00の直仔で、超一流の種鳩でありレース鳩でもある。

成績:、アングレーム33位、ボルドー2位、アングレーム1位、ポワチエ87位、アングレーム2位、アングレーム258位、リボルヌ179位。同4位、アングレーム18位、ボルドー7位、サンバンサン3位、アングレーム9位である。

◎この鳩舎の数羽の鳩の父鳩であり、祖父鳩である。

H■JJ■゛ディツケ・ゲシエルプテ″B 30-4253766BC ♂ 

◎CCと00との直仔で、超一流の種鳩でありレース鳩である。成績はつぎのとおり。

ボルドー74位、タックス11位。ルールド61位、ダヽソクス43位、ルールド16位、同4位、ボルドー306位、ボルドー1位、ビアリッツ297位、ナルボンヌ65位、同N18位、サンバンサン131位、同92位。

◎いくつかの鳩舎に、父鳩祖父鳩として数多くの鳩を送り出している。

I■KK■゛ド・デルビー″(ダービー)B33-2226416BC ♂

◎CCと00の直仔。すばらしい種鳩であリレース鳩でもある。成績はつぎのとおり。

アングレーム103位、同13位、同92位、同2位。ボルドー25位。リボンヌ179位、同29位。同4位。

◎現在の鳩舎の数羽の鳩の父鳩であり祖父鳩である。

J■MM■゛ド・プリンセス″ B 25-2111418 L B C♀ 

◎同ヒロンセ市のV、ポルトワ鳩舎作の雌鳩で、ボルドー2位入賞鳩の姉妹であり、同じくボルドー1位鳩の娘にもあたる。注目にあたいする超一流の種鳩である。

K■NN■ B28-2523831 B C W ♀ 

◎メッヒエレンのデプレーテル直系で、すばらしい種雌鳩。この血統数羽の最優秀鳩の母親であり、前述BBとのあいだに産まれた仔鳩は、すべてチャンピオンである。

L■00■゛グーデ・ドンケレ・クヴエークスター″B27-4177550 DC ♀ 

◎ロンセ市のV.ポルトワ鳩舎より導入した優秀な雌鳩。

M■PP■゛クライネ・フラウエ″B29-4311693 B♀

◎BBとNNのあいだの娘で、注目すべき種鳩。数羽の雄鳩とのあいだに、チャンピオン鳩をうみだしている。

N■QQ■゛ヴィツトフレツク″(白斑)B32-4293561BC ♀

◎BBとNNの娘。この偉大なカップルの直系の優秀な雌鳩。

O■RR■゛ウィツトペン″B29-4225444 B CW ♀

◎同じくBBとNN直系の優秀な雌種鳩。
P■SS■゛クライン・ジユウエール″(小宝石)B32-042741 LBC ♀

◎ルーボウ市のファンアウトリーヴエ鳩舎より導入したすぱらしい雌種鳩で、あるレースで別荘を勝ちとったゆえに、゛ヴィラ″とよばれる鳩の仝姉妹である。1938年にサンバンサンで優勝した。

Q■TT■゛グーデ・クヴエークスター″B33-4149991BC ♀ 

◎ロンセ市のA.デロウフロイ鳩舎より導入。たいへんすばらしい種鳩で、同鳩舎のグーデ・プラウエほか数羽の優秀鳩の母親である。

(つづく)

 ■種鳩とレース鳩の系譜■    2020年11月2日(月) 4:47 修正
■A■゛フルインオーホ″B38-4422374 B ♂■
 
○父鳩は、有名な種鳩ペアーBBとNNの直仔で、゛ド・バルセロナ゜(GG)。゛ド・バルセロナ゜は、前述のようなすばらしい成績をおさめている。

○母鳩は、ヴィラの娘゛クライン・ジュウェール″SSである。(編集部注:SSの項ではヴィラの全姉妹と書かれ、混乱がみられる)この母鳩はすばらしい種鳩で、つぎのような若鳩を作出している。

@ B46-4235634  L B C 名 ドールダン22位、ヴァンドーム264位、同58位、ツール67位、同8位、シャトロー188位、同32位。

A B46-4235604 B ♀ ドールダン、ヴァンドーム、ツールの1歳鳩レースで入賞している。

■B■゛グローテ・リヒテ″B 39-4464904 L B C ♂■

○父鳩は、GGと00の直仔である゛ドーデルビー'(KK)優秀な成績をおさめた価値あるチャンピオン埼であり、種鳩である。

○母鳩は、゛グーデ・クヴェークスター”(TT)で、すばらしい種鳩であり、直仔にJのほかつぎの鳩がいる。
・B41-4235641 シャトロー・スーティアン48位、シャトリーNEB{アンダンテ・ベルジ}総合優勝。

■C■”ドンカーオーホ″(ダークアイ)B39-4469161 B ♂■

○父鳩ばブラウエ・ボンデ{灰刺}(FF)で、あの有名な種鳩ペアーBBとNNの直仔。ナルボンヌN2位、サンバンサンN21位などの成績を挙げている。

○母鳩はヴィラの娘゛クライネ・ジュウェール″SS。この雄鳩は、Aの父鳩の兄弟と、Aの母鳩から作出されたAの全兄弟であり、近親交配の秀れた一例である。この雄鳩自身も多くの優秀な鳩を作出している。

■D■ ゛ド・バリオレ″B42-214 B CW ♂■

○父鳩は、あの不屈の゛クライネ・ゲシェルプテ”'HHの直仔。1939年にはサンバンサンNレースで優勝しており、すべてのナショナルレースで10回も5位までに入賞している。

○母鳩は、゛グローテ・ゲシェルプテ″B39-2359795というJJとTTの娘である。JJはクライネ・ブラウエ(クライネ・ゲシェルプテの兄弟)の直仔であるから、CCと00の種鳩ペアーの孫鳩ということになる。この鳩にとって父母両血統共通の祖父鳩にあたる鳩の兄弟であるタックスと同じく、すばらしい種鳩であり、デルバール鳩舎のみならずほかの鳩舎にも傑出した鳩を送り出している。

■E■゛ディツケ・ブラウエ″B41-196962 B ♂■

○父鳩はベルギーきっての最優秀鳩HHのクライネゲシェルプテ。

○母鳩はジェラーズベルゲンのヘクトール・デズメット鳩舎の灰の雌で、同鳩舎のクライネ・ブラウエの娘にあたり、すばらしいレーサーであると同時に種鳩。1936年一年だけでもこの雌は、つぎのような成績をあげている。ノヨン16位、コノレベイユn位、ドールダン23位、同2位、ヴァンドーム5位、クレイル13位、同1位、直仔には、スプリンター号や、ヴァンドーム優勝の雌がいる。

この灰の雄の母鳩は、ホーボーケンのハヴェニット鳩舎より導入したオリジナル・ハヴェニットである。この雌の姉妹で゛シェール″とよばれた鳩は、超一流のすばらしい種鳩で、1946年のデズメットの競売でヽ19000フランで売られたのである。

■F■B39-4459370 BC ♂■

○父鳩は世界的に有名なレーサーであり、種鳩である゛クライネ・ゲシェルプテ″HHで、1年間で563マイルのナショナルレースに2回も入賞したのは、この鳩だけであった。2回とも2000羽以上の鳩が参加していたのである。

○母鳩はIIの娘で、このIIはクライネゲシェルプテの兄弟であるあのクライネ・プラウエの直仔である。すばらしいレーサーというだけでなく、前述00のグーデ・ドンヶレ・クヴェークスターとともに、種鳩としても優秀であった。

■G■゛シユリンメ″(狡猾なヤツ)B42-192 B ♂ ■

○父鳩ばブラウエ・ボンデFFで、クライネ・ゲシェルプテ、クライネ・ブラウエの兄弟である。この父鳩も、つぎのようなかずかずのすばらしい勝利を誇っている。ナルボンヌINおよびN総合2位、サンバンサン13位、同21位、ボルドー16位、アングレーム21位。彼はやはりBBとNNの直仔である。

○母鳩は、゛グーデ・クヴェークスター″TT。この゛シュリンメ″は、デルバールのもっともお気に入りの一羽で、゛タックス'Kの全兄弟であり、戦後のベルギー鳩界のもっとも優秀な鳩の一羽である。1947年には、タックス3位、モントーバン7位、そしてカルカソンヌ22位という成績をあげている。シュリンメの直仔B43-45146は、1947年にカルカソンヌ41位。モントーバン87位に入賞している。シュリンメはナショナルレースに。立派な鳩を送りだしており、デルバール氏によれば。この血筋はたぶん彼の鳩舎でもっとも優秀な血筋であろうということだ。

■H■B38-4390947 BC ♂■ロンセ市のジョセフ・ポルトワ鳩舎より導入したBCの雄。

○父鳩は、純デルバールの種鳩ペアーからきているG.フアンブッツェル鳩舎よりの雄鳩。

○母鳩は、ウェーバーのT.レーヴィス鳩舎の雌鳩で、彼のグーテ・ゲシェルプテの娘である、トゥーリー2位 アングレーム1位(2位を14分引き離す)などの成績で、この雌の母親は、スタッサールで父親はタックス優勝の直仔にあたり、母親はサンバンサン3位の娘である。

 この鳩H自身は、J.ポルトワ鳩舎で1937年にボルドーNEBで総合優勝しだボルドー″の兄弟である。この鳩は種鳩としては、デルバール鳩舎でもっとも成功した鳩で。多くの実績のある鳩を輩出している血筋である。

■I■゛ド・ゲポツトローデ″B45-457285 PB ♂■

○父鳩は後述の゛ド・タックス″Kで、FFとTTの直仔である。この鳩にはFFのプラウ・ボンテの特徴がよくでているのがわかる。兄弟鳩に優秀な鳩がいなくとも、種鳩としては優秀なケースがしばしばみられる。プラウ・ボンテと、アクセス、オート・タックス、クライネ・ブラウエ、クライネ・ゲシェルプテの場合などのように。プラウ・ボンテは、ナルボンヌIN2位ほかの成績をあげているか、この時のナルボンヌレースでは、オート・タックスか優勝しているのである。

○母鳩はAの娘の灰の鳩だが、GG(バルセロナ)の血筋をとおして、あのふるい種鳩ペアーの血が流れているのである。母方の父親からはTTの血筋をひいている。

 この灰の雄はすばらしい種鳩で、1947年には数多くの鳩の父親となっている。またこの鳩はB46-4235626の父でもあり、ドールダン15位、ヴァンドーム254位、同55位、ツール246イ立 同26位、ドールダン6位、シャトロー24位などの成績をほこり、フライインククラブ主催の展示会の300K以上飛翔鳩の成鳩雄鳩クラスでも1位となった。この雄鳩は、まさにこの世界でも本当のチャンピオンである。

■J■ B41-196981 L B C ♂■

○父鳩はBで、前述のようにKK゛ド・デルビー″の直仔である。したがってCCのクライネ・ブラウェと、00のグーデ・ドングレ・クヴェークスターの筋である。母鳩はあの有名なオート・タックスEEの孫娘である。

○母親(EEの孫)は、デルバール氏の戦前の系統の直系である。゛タックス″は、゛クライネ・ゲシェルプテ″や゛クライネ・ブラウエ″とともに。鳩レース史上かつてないグループである。

 いうまでもなくこのJは、たいへん価値のある種鳩で、ドールダン24位。シャHコー23位、ヴァンドーム628位、同89位、ツール280位、同26位の成績をもつB46-4235622の父親である。この薄い灰胡麻の雄は、1947年にオルレアン68位、アングレーム34位、同7位、オルレアン13位。コニャック578位、同47位という成績であった。

■K■゛ド・タックス″B41-114881 B ♂■

○父鳩は、クライネ・ゲシェルプテとクライネ・ブラウエの兄弟の゛プラウ・ボンテ″FFである。

○母鳩は、優良な雌種鳩であるTT。
 
この鳩は、戦前のベルギーでももっとも優秀な鳩の一羽であり、ツール13位、アングレーム31位、ツール51位。アングレーム175位、タックス3位、カルカソンヌ22位、モントーバン7位に入賞している。

■L■゛ド・スタンダード″B42-208 BLKC ♂■

○父鳩は、クライネ・ゲシェルプテHHの直仔であり、

○母鳩はグーデ・ゲシェルプテIIと、クライネブラウエPPのあいだの娘で、この雌はデルバールの古いペアーBBとNNの娘である。

 この鳩はすばらしいレーサーであると同時に種鳩でもあり、ドールダンからコニャックNレースまで翔びコニャックN34位、モントーバン4位の成績をあげた。
 ナショナル・フライインク・クラブ主催のナショナル品評会で、600K(375マイル)以上のレースに入賞している成鳩雄鳩クラスの1位に選ばれている。

■M■゛ド・クライネ・ブラウエ″B45-457227 B♂■

○父鳩はクライネ・ゲシェルプテの直仔゛ディッケ・ブラウエ”

○母親はN(次項)て'゛タックス″Kの妹。

 この鳩は真の種鳩であり、またすばらしいレーサーであった。ヴァンドームでは6700羽中444位、238位のほか、コニャック59位、ボルドー11位、ドールダン104位に入賞している。

■N■B41-196986 B ♀■

○父鳩は。自身チャンピオンであるあの有名なFF゛バリオレ″で、゛タックス″、゛ビアリッツ”、”クライネ・ブラウエ”、それに゛クライネ・ゲシェルプテ″など一連の兄弟チャンピオンの兄弟である。

○母鳩は。゛グーデ・クヴェークスター″TTである。

■O■゛ショーネ・フラウエ″B42-209 B ♀■

○KやNの全姉妹で、たいへん優良な種鳩。

■P■B42-202 B ♀■

○父鳩ばヘングスト″Zで、ドールダン。タックス優勝の゛リヒテ″B 36-4822149の直仔。

○母鳩はN。

 この雌鳩は、二度と得がたい優秀な種鳩で、ロイヤル・フライインク・クラブの品評会で、成鳩雌の部で第2位に選ばれている。

■Q■B44-348728 B L K C ♀■

○父鳩は、あのナルボンヌN総合優勝、サンバンサンN総合優勝の世界的に有名な゛ダックス″EEの直仔である。この鳩はまたケルンの国際オリンピアード品評会で、2位に入賞している。

○母鳩は、クライネ・ゲシェルプテHHの娘。

 この鳩はデルバール鳩舎でも最優秀の2羽から近親交配で作出された鳩である。

■R■B43-320325 B C ♀■

○エーフェレのジョルジュ・ゴッセンス(グーゼン)鳩舎から選ばれてきたもので。同鳩舎の゛クラック”の娘である。Bとつがいになり、シャトロー優勝鳩を作出している、まさに価値ある雌種鳩である。

■S■ BCの♀■

○父鳩ばバリオレ″D。

○母鳩ばディッケ″T。

ここでもまた近親交配の良い例を見ることかできる。この鳩は、立派な子孫を残したすばらしい雌種鳩であった。
■T■゛ディツケ″B41-114865 B C ♀■

○父鳩は、゛クライネ・ゲシェルプドHH。

○母鳩はジェラーズベルゲンのヘクトール・デズメット氏作の灰の雌で、スプリンターの姉妹にあたる。

■V■B41-196962 L B C ♀■

○父鳩は、デルビーとグーデ・クヴェークスターの直仔゛グローテ・リヒデB。

○母鳩はTである。

 注目にあたいする優秀な種鳩。

■Z■゛ヘングスト″B 39-4459366 B ♂■

○父鳩は、ノヨンからタックスまでの入賞鳩゛リヒテ″。

○母鳩はC.フアンデールエスプトより導入。同鳩舎の最優秀鳩の直仔で。オルレアンR1位のほか、アングレーム(ブリュッセル)では強い向かい風の中で優勝している。この日のレースで良い成績をあげたフランドルの鳩はこの一羽だけであったか、のちに合衆国へ身売りされてしまった。(つづく)

※以下、現在資料調査中です。

 新連載■イレブンの「Epigenetics」」研究ノート■◇◇◇◇ 序 ◇◇◇◇  イレブン  2020年10月30日(金) 21:14
修正
愛鳩家の私たちは、おそらく、一般の人々以上に遺伝に関する経験を多くの持ち、従って遺伝に関する知識や考えを多く持っているとイレブンは思っています。今、遺伝学の最前線で熱い議論を呼び起こしているこの「エピジェネティクス」は、ブラッドスポーツとも云われる「レース鳩」の世界にいる愛鳩家の私たちにとっても見逃すことの出来ない新展開を引き出す重要な鍵になっていくのではないかとイレブンは考えています。

僅か数日前、手元と取り寄せていた書籍に目を通していた時、「獲得遺伝子」の文字が飛び込んできました。そして、その文章を中に「エピジェネティクス」という聞き慣れない言葉に初めて出会いました。

今まで全く知らなかった「エピジェネティクス」という語の意味するところを知るために「検索」を使って、手当たり次第に情報を収集してくなかで、遺伝学の領域で使われているこの言葉は、とてつもなく大きな発見ではないかと云うことが次第に分かってきました。

早速、中尾光春著『驚異のエピジェネティクス』と仲野徹著『エピジェネティクス−新しい生命像を開く』を注文していたら今日届きました。今はまだざっと目を通しただけですがどうも、これはとんでないほど大きな発見のような気がしてきました。

この「Epigenetics」という発現システムの存在を踏まえると今までスッキリしたいなかった数々の遺伝上の謎が解かれていくのです。
そして、レース鳩の様々な理論に当てはめると幾つもの符合する事実が思い起こされるのです。

この新連載『イレブンの「Epigenetics」」研究ノート』では、遺伝学について全くの門外漢のイレブンが、レース鳩の系統確立という観点から、最新の遺伝学の最大のテーマとなっている「Epigenetics」への研究の足跡を綴っていく内容です。主に、「Epigenetics」関連の文献を調べ、その理論の理解に必要な内容やレース鳩の系統確立論に関係があるような記述の抜粋・引用となる思います。可能なところは考察も加えていく予定ですが、基本的にはイレブン自身の研究の為のコーナーと考えていただければと思っています。

興味がある方は目を通していただければ幸いです。ご意見等もレスいただければ励みになります。

随時、文献の引用を加えていく計画です。

この研究ノートの最初に次の言葉を掲載して今後の研究の励みにしていきたいと思います。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇−Column 「次世代の研究を拓く」−中尾光春ー◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 アレイ(※1)技術や高速シークエンス(※2)という先端技術が進歩して,遺伝子やエピゲノムに関する生命情報が蓄積しつつある.今まさに,私たちの生命と病気の解明について本格的にチャレンジできる時が来ている.つまり,研究そのものが,最も面白く,まさに旬のところにある.若い学生や研究者が自由な発想と気概をもって取り組まれることを期待したい.

 ある公開講座において,[どうしたら.やりたいことが見つかるのか]と,ひとりの高校生が研究者側に尋ねた.自分探しの途中にある学生の多くがもっている疑問であろう.年配の研究者が先輩から聞いたとして,次のように話された.[本気でやれば,好きになる.本気でやれば,できることがある.そうして,本気でやっていると,助けてくれる人が現れる」.

 きっかけは何であろうと.好奇心をもったことに専念していたら,ひとりの研究者になっていたという感じだ.私たちか生きる現代は先の見えにくいものであるが,起こってもいないことを先回りして心配して,挑戦しないことは避けたい.むしろ,「何とかなる」の精神で当たってみることで,将来への活路が拓けてくる.(中尾光春『驚異のエピジェネティクス』P206より引用)

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 ■イレブンの「Epigenetics」」研究ノート■001◇◇◇◇中尾光春「まえがき」・「あとがき」◇◇◇◇◇【出典:中尾光春『驚異のエピジェネティクス』、2014年6月1日発行、羊土社、)】 ◇◇◇◇◇   イレブン  2020年10月31日(土) 1:40 修正
最初に「まえがき」と「あとがき」を引用します。

短い文章ですが、ここだけを読んでも「エピジェネティクス」が遺伝学上いったいどんな位置にある発見であるかというあらましが分かってきます。

中尾光春教授がここで取り上げている日本人の身体の変化の事実は、多くの人が素朴に一度は疑問に思っていたことではないでしょうか。

イレブンも口にこそ出しませんでしたが、ずいぶん以前から不思議に思っていたことです。

こうした素朴な疑問の解明をゲノム解析という最新の遺伝学の見地から説明してしまうことが出来るのがこの「Epigenetics」」が切り開いてくれた遺伝の世界なのです。

そして、その研究は、まだ始まったばかりなのです。この「スネークパパの部屋」もようやく最新の遺伝学情報に接点を持つ事が出来たようです。面白くなってきました。

以下に、抜粋した文章を掲載していきます。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

●子どもや若者の中に,顔立ちは端正,背が高く足長で,スタイル抜群の人がいる.そういう人か増えてきたという感覚である.テレビや映画の中の特別な存在ではなく,ふつうに街を歩く人,ふつうの学生,言わば,私たち自身においてである.

●人類の歴史の中で,こんなに短い間に,目に見えるように,ヒトは変わるのだろうか.もしもそうだとすると,現代人は,ヒトとして大きな変化の時代に生きているということである.

●生来もっている「生命のプログラム」とは何であろうか.本書は,この究極の謎に迫ろうとするものである.人類が,その進化の中で,長い時間をかけて獲得してきたDNAを「ゲノム」とよんでいる.ヒトがヒトであるために,私たちは,共通のゲノムをもっている.これが,ゲノムは設計図であるといわれるゆえんである.ヒトのゲノム上には,約2万5,000個lの遺伝子があることがわかきた.|ゲノム」を辞書に例えるならば,「遺伝子」はそこに書かれた単語のようなものである.ところが,単語を無闇やたらに並べても意味をなさないであろう.辞書の中から単語を選んで,文法に従って,意味のある文章をつくることが肝要なのである.

●そう考えると,ゲノム上にある遺伝子を選んで使うという,「遺伝子の使い方」が重要なのではないか.どんなタイミングや状況で使うか.どういう組合せで使うのか.そして,この遺伝子の使い方が変更されることがあるのだろうか.これこそが,「エピジェネティクス」とよばれる新しい考え方の核心である.

●ヒトがヒトであるためには,このプログラムは,安定に“維持"されなければならない.その一方で,生活環境に応答して,柔軟に“変化"する必要もある.しかも,プログラムに異常が起これは,病気の発症につながる可能性もあるのだ.このように,「生命のプログラム」とは,維持と変化が表裏一体になったものである.あたかも流れる水が澄んでいるように,変化することで安定に維持されているようだ.

●生命体は,基本的に「種の保存」という方向性をもっている.もっていると意識に上らないほどに,本能に近いものである.地球上に現存する生物は,子孫を増やすことで,繁栄してきた.これができなくなると,その種は消滅していく。

●生活環境の変化に応じて,もっとも急速に変化を遂げるのが,生物の外観と生殖に関するものといわれている.

●生物種は,環境因子に適応するために,ゲノムの印づけを変えることで,<エピジェネティック>に変わるのではないか.こう考えると,私たちは,新しい生活環境,脳にインプットされた情報などに応じて,自分自身,そして次の世代を質的に変化させる可能性があるのかもしれない.例えば,親の脳が希望する形質を,自分の子のゲノムに刷り込む.そして,子世代もその方向に適応していく,ということだ.これに要する時間は,案外,長いようで,短いのかもしれない.

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

■リンク■熊本大学発生医学研究所「細胞医学研究所」
http://www.imeg.kumamoto-u.ac.jp/bunya_top/medical_cell_biology/

 ◇◇◇◇「まえがき」◇◇◇◇◇【出典:中尾光春『驚異のエピジェネティクス』、2014年6月1日発行、羊土社、P3より引用)】   中尾光春  2020年10月31日(土) 3:03 修正
 旧交のある小児科医が集まったときに,ひとりかこう切り出した「最近,若い人のスタイルが変化してきた?」幾人かかうなずいた.おそらく,そう感じている方も少なくないのであろう.まもなく戦後70年,徐々に身体的な変化が目に見えるようになってきた気もする.ものの見方というか,考え方もそうかもしれない.実際に,日本人は変わってきたのだろうか.

 子どもや若者の中に,顔立ちは端正,背が高く足長で,スタイル抜群の人がいる.そういう人か増えてきたという感覚である.テレビや映画の中の特別な存在ではなく,ふつうに街を歩く人,ふつうの学生,言わば,私たち自身においてである.

 人類の歴史の中で,こんなに短い間に,目に見えるように,ヒトは変わるのだろうか.もしもそうだとすると,現代人は,ヒトとして大きな変化の時代に生きているということである.

 こう考えている時に,文部科学省による平成24年度「学校保健統計調査」の中に,興味深いデータを見つけた.次のページのグラフを見てほしい.8歳,11歳,14歳,17歳の時の体格〔上から身長,体重,座高〕について,祖父母世代(55年前),父母世代(30年前),子世代(現在)を比較したものである.この全国的な調査によると,男女ともに,体格の平均値は,祖父母,親,子の順に高くなっている.確かに体格はよくなってきている.

 やや意外であったのが,この体格の仲び幅は,祖父母世代から父母世代の間で大きく,父母世代から子供世代の間では,少し伸びた程度であることだ.しかも,成長がほぼ完了する17歳の時では,父母世代と子世代の問の差はほとんどなくなっている.スタイルのよさは,子世代の若者に目立つと思っていたが,実は,その父母世代が獲得した特徴というわけである.祖父母から父母の世代間で起こった変化が,父母世代から子世代に伝えられている.掘り下げてみると,これは科学的にどうしてなのだろう.

 もう少し私たち自身のことを考えてみよう.食べる,動く,眠るというのは,いつもの活動であるが,私たちの身体の中では,目には見えないところで,数多くの細胞や遺伝子が必死に働き合っている.1つ1つの細胞が小さな生命をもっていて,この細胞がすべて合わさったものが私たちひとり分の生命になっているのだ.何とも不思議な現実である.

 「ヒトは,単細胞だった?」その通り,元をたどれば,誰でも1個の細胞であった.1つの受精卵として誕生し,それが60兆個もの細胞に増えて,ヒトひとりの身体がつくられている.そして,成長の中では,大体に同じ時期に,立って,歩いて,言葉を聞いて,話すようになる.学習しながら,知識や社会性を段々に身につけていく.

 それでは,人生の終わりについては,どうであろうか.いわゆる平均寿命が示すように,多くの人がその生涯を終える大体の時期がある.その終わり方も,病気を患うとするならば,がん,心疾患,肺炎,脳血管疾患が主な要囚になっている.要するに,人生の中身は違っても,ヒトとしての生涯の枠組みは,誰でもおおむね同じと考えられるのである.

 このように,ひとりひとりに,生まれてから生涯を閉じるまでのラフな予定が準備されている.これを「生命のプログラム(プログラム・オブ・ライフ)」とよぶことにしよう.細胞の集合体としての私たちを運命づけるものである.生命あるものは,一生の間に基本的なイベントがいつ頃起こるのか,大まかに決まっているようだ.このプログラムというものは,いわば,自分の過去であり,現在であり,これからの未来のようでもある.

 私たちの「生命のプログラム」は,生まれつきにすべて決まっているのか? 実はそうではないらしい.食事,運動,嗜好などの生活環境によって,この内なるプログラムは徐々に書き換えられることがわかってきたのである.その際に,プログラムが誤って書き換えられると,メタボや糖尿病のような生活習慣病,がん,脳の病気の発症につながるという考え方が有力になってきたのだ.つまり,このプログラムがどのように働くかで,私たちの在り方が決まってくるというのである.こう考えると,先に述べた日本人の体格の変化について,祖父母から父母の世代間で起こったプログラムの変化が,父母世代から子世代に伝えられたのではないかと想像することもできる.

 では,生来もっている「生命のプログラム」とは何であろうか.本書は,この究極の謎に迫ろうとするものである.人類が,その進化の中で,長い時間をかけて獲得してきたDNAを「ゲノム」とよんでいる.ヒトがヒトであるために,私たちは,共通のゲノムをもっている.これが,ゲノムは設計図であるといわれるゆえんである.ヒトのゲノム上には,約2万5,000個lの遺伝子があることがわかきた.|ゲノム」を辞書に例えるならば,「遺伝子」はそこに書かれた単語のようなものである.ところが,単語を無闇やたらに並べても意味をなさないであろう.辞書の中から単語を選んで,文法に従って,意味のある文章をつくることが肝要なのである.

 そう考えると,ゲノム上にある遺伝子を選んで使うという,「遺伝子の使い方」が重要なのではないか.どんなタイミングや状況で使うか.どういう組合せで使うのか.そして,この遺伝子の使い方が変更されることがあるのだろうか.これこそが,「エピジェネティクス」とよばれる新しい考え方の核心である.

 これから,私たちがもっている「生命のプログラム」について,一緒に考えてみたい.まだわかっていないことが多いので,1つの結論にまとまるものではない.しかし,世界中で最先端の研究が大容量で進んでいるので,驚くべき結果がいつも発表されている.そのため,私たちの生命観に触れる情報やアイデアが満ち溢れている.本書が,生命の不思議な真実について分かち合う一助になれば,この上ない喜びである.

2014年4月 中尾光善

 ◇◇◇◇中尾光春「あとがき」◇◇◇◇◇【出典:中尾光春『驚異のエピジェネティクス』、2014年6月1日発行、羊土社、P206より引用)】  中尾光春  2020年10月31日(土) 21:39 修正
□あとがき□

 本書では,私たちの「生命のプログラム」について,“エピジェネティクス"という研究の最前線をお話ししてきた.新しい分野で日進月歩の途中ではあるが,生命と病気の本質にかかかることから,その全休像の理解に迫りたいと思ったからである.ヒトがヒトであるためには,このプログラムは,安定に“維持"されなければならない.その一方で,生活環境に応答して,柔軟に“変化"する必要もある.しかも,プログラムに異常が起これは,病気の発症につながる可能性もあるのだ.このように,「生命のプログラム」とは,維持と変化が表裏一体になったものである.あたかも流れる水が澄んでいるように,変化することで安定に維持されているようだ.

 やや脇道にそれるが,生命体は,基本的に「種の保存」という方向性をもっている.もっていると意識に上らないほどに,本能に近いものである.地球上に現存する生物は,子孫を増やすことで,繁栄してきた.これができなくなると,その種は消滅していく.

.・私たちの日頃のおしゃれ,美容,ヘアースタイル,ファッションなど,自分の見た日やその魅力を追求する背景には,種の保存が働いているとみてよい.ヒトはその知能が高く,趣味や趣向,美的感覚,仕事柄,年齢など装飾する要素は多いが,その根本の幾分かには,種の保存がかかわるであろう.
 植物・昆虫から魚類・鳥類,そして哺乳類に至るまで,ほぼ例外なく,雌も雄も相手を惹きつけるように進化してきた.

 鮮やかな色,奇抜な形,行動パターン,鳴き声,匂いなど,様々な手段を使ってアピールするのだ.生命体にとって,然るべく優先度が高いのは,種の保存,すなわち,子孫を残すという生殖にあるからである.このため,生活環境の変化に応じて,もっとも急速に変化を遂げるのが,生物の外観と生殖に関するものといわれている.

 生物種は,環境因子に適応するために,ゲノムの印づけを変えることで,<エピジェネティック>に変わるのではないか.こう考えると,私たちは,新しい生活環境,脳にインプットされた情報などに応じて,自分自身,そして次の世代を質的に変化させる可能性があるのかもしれない.例えば,親の脳が希望する形質を,自分の子のゲノムに刷り込む.そして,子世代もその方向に適応していく,ということだ.これに要する時間は,案外,長いようで,短いのかもしれない.本書のまえがきで,子世代,父母世代,祖父母世代で,現代人は変わってきたのかと問いかけた.「生命のプログラム」が変化したならば,日本人の体格は変わるであろう.しかも,その変化は,世代を超えて引き継がれるであろう.確かな回答を導き出すには,もうしばらくの時間と研究が必要のようである.

 本書をまとめるうえで,羊土社の間馬彬大氏に貴重なアドバイスをいただきました.心から感謝の意を表します.また,植田奈穂子氏,波羅仁氏,川治豊成氏,熊本大学発生医学研究所の細胞医学分野の各位から多くの意見を受けましたことに深謝いたします.
                             中尾光善

 ■学問的文献資料■◇◇◇◇ 「ラマルクに対する後世の評価」垂水雄二◇◇◇◇ 【出典:垂水雄二『進化論物語』、2018年2月26日発刊、バジリコ株式会社、P56より引用)】  イレブン  2020年10月28日(水) 4:05
修正
現在、資料収集のために連載を中断している『OPEL BOOK 2020』の中で、話題となった「獲得遺伝子」に関する資料が、昨日読んでいた文献の中に出ていたので研究資料として掲載しておきます。

近年、飛躍的な早さで研究が進んでいる遺伝学に関する問題は、イレブンのような門外漢では、中々正確な情報を踏まえて書くことが難しいジャンルの一つです。そのため、踏み込んでいくのも難しい側面があります。そうした意味からも、イレブンは、できるだけこうした分野の最新の文献に目を通すようにしていますが、今回のように関心のあることに遭遇することは極めて希なことです。

『OPEL BOOK 2020』では、J.L.Opelが1羽の鳩にあれほど幾度も長距離レースの記録回数に挑戦させていった理由として、以前から「獲得遺伝子」を意識してのことではないかという考えがあったことに触れていました。しかし、この獲得遺伝子ついては、現在では、否定的な見解が通説になっているのでそれ以上踏み込んだ議論はできませんでした。しかし、最新の研究でまた、その「獲得遺伝子」の存在の可能性がでてきたらしいのです。

それが、「エピジェネティクス」とよばれる遺伝子発現メカニズムです。検索したらこの分野の文献が結構沢山出版されていることが分かってきました。レース鳩の系統確立に極めて関係があるジャンルなのでこの方面の研究もこの掲示板で進めたいと考えています。

ご意見・感想等、レスいただければ幸いです。

◇◇◇◇本文より抜粋◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

●とはいえ、完全に否定されたかに見えた獲得形質の遺伝について、近年ささやかな復活の兆しか見られる。ラマルク説を決定的に否定した分子生物学のその後の発展が、ヒトゲノム計画以降の詳細な遺伝子発現メカニズムの解析を可能にし、その中でエビジェネティクスという後天的な遺伝子発現調節・修飾機構か明らかになってきた。驚くべきことに、その後天的な遺伝子修飾の一部が遺伝性をもつことかわかってきた。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


■エピジェネティクス(英語: epigenetics)フリー百科事典『ウィキペディア■

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B9

■ほぼ日の学校講座「ダーウィンの贈りもの T」
https://www.1101.com/gakkou_darwin_yokoku/2019-04-03.html

■エピジェネティクスとは?例を挙げて分かりやすく解説■
https://syuyu.work/what-is-epigenetics-your-current-action-influences-future-generation





 ■ラマルクに対する後世の評価■  垂水雄二  2020年10月28日(水) 4:09 修正
 時が経つとともに、無脊椎動物分類学者としてのラマルクの功績は忘れられ、進化論の先駆者、それも獲得形質の遺伝を主張する「用不要説」の提唱者としてのみ、人々の記憶にとどめられることになったのもまた、ラマルクにとって不幸だった。
 ダーウィンの自然淘汰説が、メンデル以降の遺伝学の発展により総合説として洗練されるとともに、20世紀において獲得形質の遺伝は否定され、ラマルク説は正統的な進化論から排斥された。しかし、ダーウィン説に反対する陣営から、ラマルクの名は不死鳥のように、時折頭をもたげるのである。

 ダーウィン主義に対して、生物学の事情に疎い多くの人々が抱く違和感は、進化か偶然任せで、生物の主体性を認めないことにある。人間がそのような無情なプロセスを経て進化したと認めるのは、自らの尊厳か損なわれるような気かするからかもしれない。それに対してラマルクは、生物の側に変化の主体性を認め、努力や教育の進化的な意義を認める。このような違和感を進化の理論として主張するのか、ネオ・ラマルク主義と呼ばれるものである。

 ネオ・ラマルク主義の一つの潮流は、進化の原動力として生物の主体性を認める定向進化説である。この説は、エドワード・コープやヘンリー・オズボーンのような古生物学者
によって提唱された。ウマやソウの化石を年代順位に並べてみると、一定の方向性か見られることからの推論であった。表面的には、まるで特定の方向に向かって進化していくように見えるから、内的な動因を想定したくなるのだ。しかし、後にゲイロード・シンプソッが明らかにしたように、連続しているように見える化石も、実際には多様に枝分かれをした系統の化石を、恣意的に並べたにすぎなかった。また、牙や角が巨大化し過ぎて絶滅した種の存在を、抗いがたい進化的傾向の証拠として定向進化説を主張する学者もいたが、現在では性淘汰のランナウェイ仮説によって巨大化を説明できる。いずれにせよ、定向進化を裏付ける生物学的なメカニズムが見つからないため、いまやこの説を唱える学者はほとんどいない。

 もう一つのネオ・ラマルク主義の潮流は、獲得形質の遺伝を主張するものである。そもそも、1900年にメンデルの法則か再発見されるまで、遺伝のメカニズムについては何もわかっていなかったため、獲得形質か遺伝するかどうか科学的に説明することができなかった。それゆえ、多くの進化論者か獲得形質の遺伝を肯定していた。他ならぬダーウィンでさえ、その可能性を否定しなかったし(それどころか、『人間の由来』の第1版の序で、わざわざ用不用の遺伝的重要性を強調している)、本書の後の章で述べるハーバート・スペンサーもエルンスト・ヘッケルも獲得形質の遺伝を認めていた。集団遺伝学と自然淘汰説を統合した総合説の誕生と、その後の分子生物学の発展によって、遺伝の分子的なメカニズムが明らかになったことにより初めて、獲得形質の遺伝は科学的に否定されることになったのだ。

 しかし、より適応的な変異をもつ個体かより多くの子孫を残すことによって進化か起きるとするダーウィン説よりも、個体の適応的な変異が遺伝的に累積されていくことによって進化か起こるというラマルク的な見方の方が、直感的には受け入れやすい。ダーウィン的な進化は普通、人間の一生のような短時間には見えないからでもある。日常的に生物を観察している生物学者がラマルク的な見方に魅力を感じることは責められない。それゆえ、ダーウィン説を認めながらも、獲得形質の遺伝もあるのではいかと思っている「隠れラマルク主義者」は今でもたくさんいるような気がする。実際に、サンバガエルで穫得形質の遺伝を証明しようとしたカンメーラーを初めとして、これまで数多くの生物学者が獲得形質の遺伝を証明しようと試みてきたか、それらはことごとく失敗してきた。

 にもかかわらず、ネオ・ラマルク主義か現在でもでも一定の人気を保っているのには、歴史的な事情もある。第3章および第4章で述べるように、進化論は生物学の理論としてよりも、むしろ進歩史観、帝国主義・植民地主義を補強する理論として社会に受け入れられたという事情かある。自然淘汰による最適者生存説は弱肉強食の論理に置き換えられ、優越者による劣等者の支配を正当化する論拠とされてしまった。これは本来のダーウィン説とは似て非なるものであるか、ここからダーウィン主義か権力者の主張であり、遺伝的決定謡であるという誤解が生まれた。

 平等な社会を希求する政治的なリベラル派や、教育や学習の効果を重視する社会科学者たちが、一握りの優秀者を進化の原動力であるとするダーウィン主義よりも、個々人の努力の集積によって社会か進化するというラマルク的な進化観に親和性をもっのには、こうした歴史的背累かある。しかし、改めていうまでもないか、ダーウィン説は生物進化を説明できるいまのところ最も矛盾の少ない理論であるが、社会の進化を説明する理論ではない。それは科学理論の誤用である。平等な社会を希求する人々は、ネオ・ラフマルク主義のような誤りであることかわかっている生物学の理論に依拠するのではなく、自らの社会学的な理論をもって対抗すべきなのである。

 とはいえ、完全に否定されたかに見えた獲得形質の遺伝について、近年ささやかな復活の兆しか見られる。ラマルク説を決定的に否定した分子生物学のその後の発展が、ヒトゲノム計画以降の詳細な遺伝子発現メカニズムの解析を可能にし、その中でエビジェネティクスという後天的な遺伝子発現調節・修飾機構か明らかになってきた。驚くべきことに、その後天的な遺伝子修飾の一部が遺伝性をもつことかわかってきた。もちろん、これはラマルク主義的な進化の証拠ではないが、獲得形質の遺伝か絶対的に存在しないわけではないという意味では、一度は完全に消え去ったラマルクの灯火を、小さな豆ランプのような形で現代に甦らせるものと言えなくもない。
 ともあれ、ラマルクの恨みは、ラマルク主義を擁護することによってではなく、ラマルクの業績を彼が生きた時代の中で正当に評価することによってしか晴らされないはずである。

※画像資料挿入:イレブン

 エピジェネティクス:関連資料  イレブン  2020年10月28日(水) 4:29 修正

 エピジェネティクス:関連資料  イレブン  2020年10月28日(水) 4:49 修正

 【エピジェネティクス:関連資料】■学問的研究資料■◇◇◇◇ 社会的環境がもたらす生物学的反応:エピジェネティクス◇◇◇◇ 【出典:松島倫明『WIRED』https://wired.jp/より引用)】    2020年10月29日(木) 5:06 修正
米イリノイ大学のジーン・ロビンソン教授は2009年に発表した論文で、“育ち”が遺伝子に与える影響について実験を行った。彼が注目したのは、非常に気性が穏やかなイタリアミツバチと、集団で人を刺し殺すこともある獰猛なアフリカナイズドミツバチ(以後キラー・ビー)だ。

ミツバチ類は高度な社会性をもつ昆虫で、それぞれの役割は階層により成り立っている。これらのミツバチの見かけにほとんど変わりはないが、キラー・ビーには自分のテリトリーを守るため、非常に攻撃的になるという性質がある。そこで研究チームは、それぞれの幼虫を孵化一日目で別種の巣に移し、2種類のミツバチがどのような性格に育つのか、という実験を行った。

ロビンソンの以前の実験で明らかになっていたのは、孵化したばかりの幼虫ならば、別種でもそれぞれの巣に受け入れられるということ。そして“養子”に出されたイタリアミツバチは、養い親のキラー・ビーと同じようにキレやすく攻撃的になり、逆にイタリアミツバチに育てられたキラー・ビーは、育ての親に倣っておとなしくなるということだった。


ロビンソンは、年を重ねたキラー・ビーがより攻撃的になる性質を受け、警戒フェロモンという“環境的な刺激”が、個体をより凶暴化させることに注目。詳細な遺伝子解析の結果、キラー・ビーの5〜10%の遺伝子は警戒フェロモンに反応し、護衛、兵隊、食料調達などの役割を決めていたことを突きとめた。

驚くことに、キラー・ビーの警戒フェロモンに晒されて育ったイタリアミツバチの遺伝子も、これに影響を受けていたのだ。生まれもったゲノムの塩基配列はもちろん変わっていなかった。しかし、イタリアミツバチは警戒フェロモンの影響により、温厚から獰猛な性格になるように、「遺伝子のスイッチ」が大きく切り替わっていたのである。

環境によって変化する遺伝子のスイッチ。このコンセプトは1942年にコンラッド・H・ウォディングトンにより初めて提唱され、「エピジェネティックス」と呼ばれている。二重らせんで成り立っているDNAや、DNAが巻き付いているヒストンたんぱく質を、有機分子が後天的に化学装飾(DNAのメチル化やヒストンのアセチル化)するもので、これが親から受け継いだ遺伝情報をオンにしたりオフにしたりと調節しているのだ。


この有機分子はひとたび化学装飾が起こると、長い間、時には一生付着することとなる。最近の研究では、ライフスタイル、食生活、社会的変化、環境汚染、また心理的な変化によっても、エピゲノムが変化することが明らかになっている。

遺伝子と環境の間。氏と育ちの隙間。そこにエピジェネティックスが作用する。そして環境からの情報を取り込むことで生じた一部のエピジェネティクスは、なんと次世代へと遺伝することが明らかになってきたのだ。

 ■研究論文の概要■ ” Honey bee aggression supports a link between gene regulation and behavioral evolution(ミツバチの攻撃性は、遺伝子調節と行動進化の間のリンクをサポートします)”[米イリノイ大学教授:ジーン・ロビンソン]    2020年10月29日(木) 5:14 修正
概要

著名な理論は、動物の表現型は遺伝子調節の進化的変化によって生じると述べていますが、この理論が行動の進化にどの程度当てはまるかは不明です。「自然と育成」は、遺伝子発現に対する遺伝的および環境的影響を伴うことが理解されているため、行動表現型、すなわち攻撃性に対する環境的影響が、遺伝子発現の変化を介して遺伝的差異に進化した可能性があるかどうかを研究しました。ここでは、ミツバチのマイクロアレイ分析で、遺伝形式の脳発現を持つ攻撃関連遺伝子も環境的に調節されていることを示しています。ヨーロッパのミツバチ(EHB)亜種と比較して、非常に攻撃的なアフリカナイズドミツバチの間で、何百もの遺伝子の脳に発現の違いがありました。警報フェロモン(攻撃性を誘発する)への曝露に応答して、および老いも若きミツバチを比較した場合(攻撃的な傾向は年齢とともに増加する)、同様の結果がEHBで得られました。これらの3つのマイクロアレイ実験から生成された遺伝子リストの有意な重複がありました。さらに、3つすべての遺伝子リストの遺伝子のプロモーターに同じシス調節モチーフのいくつかが統計的に濃縮されていました。攻撃性は、遺伝的、加齢、または環境(社会的)要因のいずれが原因で発生するかに関係なく、非常に堅牢な脳分子シグネチャーを示します。ミツバチのさまざまな程度の攻撃的行動の進化における1つの要素は、警報フェロモンへの応答を媒介する遺伝子の調節の変化に関係しているようです。

 ソフトバンク3年ぶりリーグ優勝!!  イレブン  2020年10月27日(火) 21:56
修正
ソフトバンクがリーグ優勝しました。3年ぶりです。

圧倒的な選手の層の厚さ、そして、チームとしてのまとまり、そして、勝利への執念、清々しい見事な優勝でした。

試合中の解説者の「努力しても勝てないことはあるが、勝った人で努力していない人はいない」との一言が心に残りました。

コロナ禍で、例年とは全く違う状況下でも、キチンと結果を出すホークスの凄さを感じました!

 ■■『Piet de Weerd 研究』029■■  [ピート・デヴィート回想録029「デルバーの輝き」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1998年4月号 )  イレブン  2020年9月18日(金) 4:19
修正
Piet de Weerdの回想録では、最初にピートの理論を述べた後、鳩界に誕生した数々の銘系を一つ一つ取り上げ、その系統の成立過程のなかで自分が直接見てきたそれぞれの銘鳩・銘血ががどのような鳩だったかを様々なエピソードも加えながら綴っています。さらにアーレン・ドンクのヤンセン系との相性やヤンセン系とどのような関係があったのかについてピートさんの深い洞察が加えられています。

Piet de Weerdが最初に取り上げたのは、Dr.Bordeauxの系統でした。ブリクー系は、世界中で「看板を変えながら」今日も鳩レース界を席巻しているピートさんが云うとおり「世界最高の系統」です。

この『Piet de Weerd 研究』で、ブリクー系を取り上げたのは8月15日のことでした。この「世界最高の系統」について、もう1ヶ月近く関連資料の徹底的に調べ上げてきましたが、やっと一段落しました。

Piet de Weerdが、次に取り上げているのは、デルバール系です。デルバール系の成り立ちとその伝播について、ピートさんの様々なエピソードも織り交ぜながら深い洞察を加えて語っています。

ではデルバール編の入りますね。

 ■ロンセの巨人モーリス・デルバー■  Piet de Weerd  2020年9月18日(金) 4:50 修正
 (この項前号より続く) 私は地上での鳩の天国、ベルギーを何度も旅行しました。戦前はそもそも鳩とは何であるかを学ぶために、戦中および戦後は、様々な依頼主の注文を受けて鳩を買い入れるために、国の内外の20件に及ぶ日刊誌や週刊誌に載せる記事を書くために、そしてフランドルやワロン地方で何千、何万という鳩を調べ、掛け合わせるために。私か最後にこの仕事をやめたとき50年間が過ぎており、その間に私は30万羽の鳩を扱いました。

 私は文字通り半生を鳩に捧げました。かつてディーストのギローム・スタッサールトは鳩のことしか考えず、鳩のこと以外は語らない自分の息子について言ったように「ズボンも理性も」

 ■1944年から1946年に■    2020年9月18日(金) 4:51 修正
◎20回のベルギー旅行◎

 シェフ・オーメンスと私は1944年から1946年にかけて、2度にわたって侵攻、占領されたベルギーを約20回旅行しました。その目的は一つは鳩が激減したオランダを助けるため、もう一つは自分たちのためにアントワープで新しい系統を確立するのに必要な種鳩を手に入れることでした(これは1940年からオーメンス、ファン・タイン、デ・ウェールトの組み合わせで行っていました)。

 戦争が続いている間、私たちはたいてい自転車に乗ってシェルデの破壊された港町に行き、そこで鉄道に乗り換え、必要な限りどこまでも行ったものです。私たちの頭の上を多数の爆弾が飛んで行きましたが、人間というものは何にでも慣れるものです。爆弾が落ちて道路に大きな穴があいたときなどは、自転車を背中にかつぎました。それは楽な旅行ではありませんでした。

 天候の悪いときは特にそうです。けれども、それらは忘れがたい思い出と結び付いています。雨や寒さの中に道路わきに立ってヒッチハイクを試みたり、音と臭いがひどい、ぼろぼろの満員バスに乗って移動したりしました。重いトランクとバスケットを持って延々と歩いたこともあります。

 ある晴れた冬の日の朝、私たちは自転車に乗って気分よくブレダからウィヘレンに行きました。そこで老いたアルトゥール・デ・クリッベルのもとに泊まり、鳩舎の横の屋根裏部屋に寝ました。このアルトゥールについては、別の機会に詳しく書くつもりです。彼は確かにそれだけの値がありますから。

 翌日、空は黒ずんで今にも降りだしそうでした。それでも私達は黒パン半切れと焼いたベーコンを胃袋に詰め込んで、狭い街道を口ンセに向かいました。アールスト付近でブリュッセルとベンドを結ぶアウトバーンを横切ったとき、霧雨が降り始めました。霧雨は、東フランドルの丘陵地のがたがたの道路に沿って約50キロメートル進むあいだじゅう降っていました。そして山の麓のオウデンアールデに着いたときは、霧雨は正真正銘の豪雨になりました。
 私たちは山の上に続く自転車専用道を徒歩で上りました。ロバのように重い荷物を背負って坂道を一時間進むと、眼下の谷間にロンセが見えました。両側に樹木を植えたきれいな舗装道路が真っすぐ下まで延びていました。私たちはまるで濡れ鼠のようになって、ヤン・ファン・ナッサウストラートに住むデルバーの家にたどり着きました。

 モーリスは家にいませんでした。彼はフランスとの国境を少し越えた小さい町で自分の鳩を展示するために出ていたのです。折しもドイツのフォン・ルンシュテット将軍は、アルデネンに最後の奇襲攻撃を仕掛けようとしていました。彼の衰退した軍隊の前衛舞台は泥と雪の中をバストーニュとアルロンに向かって進軍していました。

 ●連合軍の補給部隊●    2020年9月18日(金) 4:51 修正
 人々は路上で肩をすくめながら話していました。私たち二人は、トラックと大量の補給物資の間を行進する連合軍の兵隊と同じように、みすぼらしい身なりをして、無関心でした。まるで蟻塚のように人々は休みなく動き回っていました。1日24時間、どんな天候のときもです。レインコートから雨をしたたらせた憲兵が、休みなく行軍する隊列の交通整理をしていました。誰も私たちと同様にそれに興味を示しませんでした。

 私たちは鳩のために来たのです。それが私たちの旅行の目的であり、使命でした。デルバー夫人とそのチャーミングな娘ギスレーヌにとっても、表の出来事を少しも気にかけずに、私たちを温かく迎え、服を乾かしてくれました。赤々と燃える暖炉の上には、湯気が立ち込めました。

 ある人がオートバイに乗って、私たちが来たことをデルバーに知らせに行きました。この親切な人は、日曜日の朝早く、わざわざ自分の鳩をもって来て、私たちに見せました。その日はあっというまに過ぎました。そして翌日の早朝、(彼は前の晩どんなに遅くとも、翌朝寝坊することは決してありませんでした)世界チャンピオンが戻って来たのです。当時、彼以上にこの名に値する人物はいませんでした。


 ●「ピジョンスポーツのジャック・デンプシー」●    2020年9月18日(金) 4:52 修正
 よく話題に上ったモーリス・デルバーは、当時最も成功した長距離レースマンです。彼は無敵の長距離系を保っており、ブリクーやデュレイに匹敵する成績を上げていました。彼はピレネ・レースのチャンピオンでした。破竹の進撃で頂点に立ち、1935年から1940年にかけてその記録は破られることがありませんでした。彼の最大のライバルは、ペルレンヘー、ダース、デルヴィンキール、デュサルダインなど、彼自身の純系の鳩を使ったフライターでした。

 他の系統と交配させることもありました。デルバー系は純粋な品質を豊富に備えていたので、どんな系統でも交配可能でしたが、その筆頭はヤンセンです。このような交配は、戦後特にオランダとドイツで大きな成功をおさめました。

 デルバーは温和な青年の模範でした。肩幅が広く、いかにも健康そうで、スポーツマンらしいがっしりした体格と、はつらつとした顔に筋張ってたくましい首の持ち主でした。知らない人は彼のことを染色工場のオーナーというよりも、競輪の選手か長距離ランナーと思ったことでしょう。彼は節度をもって天賦の才を享受する術を心得ているという印象を与えました。

 夏は鳩レースを行い、冬は大型野獣の狩りをしました。アルデンヌの猟師たちは、彼を自分たちの仲間とみなしていました。彼はイノシシのなかでも特に雄イノシシをねらいました。彼はカービン銃のコレクションを持っていました。それはエチオピアでライオン狩りをしたセロー・モースティーのウィリー・ヘルマン夫人のコレクションにも劣りませんでした。モーリスーデルバーは並ぶ者のない狙撃兵だったのです。

 ■デルバーの傑出した3点■    2020年9月18日(金) 4:52 修正
 デルバーの鳩は次の3つの点で傑出していました。輝く目、比類ない完璧な頭部、そして馬鹿力。その他の点ではごく普通のトリで、おとなしく、幾分不格好で、まるで自分の力をもて余している優しい熊のようでした。粗野ではありませんが、鼻の肉付きが少ないのが目立ちました。流線型や空力学的な体型ではありませんでした。

 力がみなぎっていましたが、彼らは自分の力を慎重に使うことを心得ていました。レース籠のなかでもファイタータイプの鳩と掛かり合うことなく、餌と水に近い場所を取り、寝るときはできるだけ片方の翼の上に体を横たえました。

 目と筋肉と鋼鉄の神経、それがモーリスーデルバーの秘密です。彼の鳩は実に豊富な血と持久力をもって飛びます。正しく餌をやり、十分体を休めたなら、そのパワーは限界を知りませんでした。いったん空中に飛び出したら、機関車のように群れを引っ張らずにはいられません。競輪選手ヘリット・シュルテが彼の全盛期に道路の上で見せたようにです。

 ライバルが力尽きて倒れるまで容赦なく引っ張るのです。胸骨を横切る太い筋肉は引き締まり、しかも良質の天然ゴムのように弾力的でした。「クレイネ・リヒテ」を掴んだとき、それは汗をかいて濡れていました(鳩には汗腺がないにもかかわらずです)。非常にコンディションがよく、そのままバスケットに入れて、逆風のサン・バンサンレースに出場させられると思えたほどです。

 ■デルバーの目覚ましい活躍■    2020年9月18日(金) 4:53 修正
1935年アンタント・ペルジュ主催のダックスNで、デルバ−は2位、7位、11位、13位の成績をおさめました。デルバーがレースに出したのはこの4羽だけでした。自信のあった多くのフライターは、この結果に愕然としました。デルバーはアールストから3羽の鳩をアングレームNに出場させて、1位、2位、3位を独占しました。放鳩日に帰還した鳩もこれらの鳩だけでした。その日はうだるように暑く、しかも激しい逆風が吹いていたのです。私の知る限り、この記録はまだ破られていません。

 1937年には地中海のナルボンヌNに6六羽の鳩を送りました。いずれも兄弟や半兄弟でした。彼は系統の確立にあたり年齢や血縁関係には注意を払わず、ヤンセン流の近親交配を行ったのです。このときの成績は1600羽中優勝、2位、4位、5位、9位、18位でした。

 今とは時代が違っていました。ポケットに3マルクも持っていれば金持ちだったのです。しかも、そんな人は多くいませんでした。ブリーダーは鳩の餌を買う金にも不自由していました。経済危機に見舞われ、節約が至上命令でした。デルバーは1938年にアンタントーペルジュ主催のサン・バンサンNに六羽出場させ、優勝、3位、5位、13位および17位を取りました。

 当時オランダで最強の長距離フライターだったローゼンタールのフェルディナンド・シュールは叫びました。「なんてこった。我々の鳩はみんな糞か。下品な言い方ですみません。けれども、あの男は我々全員をまるはだかにしてしまうでしょう。」

 戦後、モーリス・デルバーは濃密な近親交配で作り出した同じ系統の鳩を持っていました。越冬した鳩を持っていなかったヘクトール・ベルレングーは、早くも1944年にデルバーから20羽のヒナを手に入れました。彼は鳩舎で自分の気に入ったトリを探すことが許されました。

 そのなかに1949年のバルセロナーN優勝鳩「ブラウエ・ベルテン」という純系デルバーの母親がいました。父親も純系でした。、私はこのトリが12才のときにブリュッセルのオークションで獲得しました。このほかに「フーデ・グレイゼン」の母親と、1944年のメス鳩2羽も手に入れました。

 ■地域に広がるデルバーの銘血■    2020年9月18日(金) 4:53 修正
 「ベルテン」の母親はステーンベルヘンのヤンーアールデン系の基礎鳩の全姉妹でした。このデルバー鳩は、ブレダのハーゲデイクでデグフロイ・ヴァン・ヴィングネと交配しました。これはシャルル・ヴァンデレスプト経由のデルバー鳩でした。ヤン・アールデンが1845年に得たヒナは素晴らしく、彼はその後これ以上の鳩を手にすることがありませんでした。

 このメス鳩は後に「38」と「49」の祖母になりました。このメス鳩と最初に掛け合わせた鳩は、ハルステレン在ティースチエ・ストークの純系デルバー鳩でした。名前は「クランケ」でした。それはトーレンのウアーゲマーカーとミッデルハルニスのコニピウスが口ンセから持ち帰ったものだったと思います。

 私自身はその場に居合わせませんでした。ステーンベルヘンのデルバー系の第3の基礎鳩はエッテンのL・デッカースの鳩でした。ゼーウス・フランデーレンの二人の住人、ブルーテのスターフ・デュサルダインとブレスケンスで家畜商を営んでいたゲイスのブラム・ヴァン・ゲイスは、デルバーのところに行き、そこで気に入ったものを全部持ち帰りました。特にスクープはそれらの鳩を使って奇跡を起こしました。タックスNで三回優勝したのです。

 エイントホーフェン近郊のゼールストに住むタバコ製造業者フランス・バーゼルマンスは、欲しいと思ったものはすべて手に入れました。彼は戦前からそうだったのです。

 モーリス・デルバーは鷹揚な人物で、気の毒な人に同情せざるを得ないたちでした。彼は「ノー」と言うことができませんでした。

 ロビンフッドのように大金持ちは貧乏人に施すべきだという考えでした。そういう人々に彼は自分の鳩を捨て値か無償で与えました。私はあるとき、この鷹揚さは報われず、たわわになったスモモの木からスモモを振り落とすように、たくさんの良い鳩をばらまくことができなくなる時がやってきた、と書いた事があります。

 1947年、彼は長距離と超長距離でベルギー公認ナショナルチャンピオンになりました。そして1948年だったと思いますが、リエージュでサンバンサンNに出場し、北西の風をついて2位になりました。これで彼はひと財産得ました。

 私かお祝いの電話をかけると、息子のミックが「パパは転んでもう少しで死ぬところだった」と言いました。彼は鳩舎の階段の下で昏倒していましたが、ピジョンタイマーはちゃんと押してありました。階段は高く急なうえ、踏み板が擦り減って滑りやすくなっていたのです。
           (この項次号へ続く)

 ■■『Piet de Weerd 研究』030■■  [ピート・デヴィート回想録030「デルバー系の軌跡」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1998年5月号 )  イレブン  2020年9月18日(金) 4:56 修正
Piet de Weerdは、この第30回の回想録で、デルバー系の系源について論究しています。そして、そこから明らかになった事実と考察を端的に次のように述べています。

●こうして見ると、モーリス・デルバーのような人物は、多かれ少なかれDr・ボムやDr・ブリクーと同じ血筋を開拓していたことがよく分かります。こうしたすべてのことを子細に見ると、カレル・ウェッゲは、20世紀全体を通して長距離系に不滅の刻印を残した人物でした。ごく少数のエリートファミリーが大規模な国内レースを支配するというのは、いまでも通用するテーゼなのです。

●デルバーは後に近親交配主義者となりましたが、初期は交配もかなり多く行いました。特にエスピエールのエドゥアール・ラッソンやロンセのジェフ・ポルトワの鳩と掛け合わせました。後にはこれにブリクーも加わりました。

イレブンは、ここでも、「ウエッジュはウエッジュで」の原理を想起してしまいます。ピートさんの頭の中では、このことをハッキリと認識した上で、各系統の成立と発展の経過を語っているように感じます。

 ◇地域に広がるデルバーの銘血(前号より続き)  Piet de Weerd  2020年9月18日(金) 5:03 修正
 彼が当時持っていた2羽の最良の鳩は「ボン・ブルー」とその息子「バロン」でした。彼は私に「バロン」の妹をわずかばかりの紙幣で譲ってくれました。この鳩は、ワッケンの食肉業者アルベルト・ベーケラントの鳩舎で、ウィールスベーケにある我々の鳩舎から出たヒューケンスとヴァンーリールの「ストレーク」と掛け合わせました。その子供はバルセロナーNで2位になりました。

 デルバーは「私か熱心に見ていた」と言って、赤い羽色のメス鳩、バーゼクル在ダハイヴエの「ローデ・バルセロネ」の娘と「バロン」の別の妹を私にくれました。赤のメス鳩は「700」と呼ばれ、同腹のまだらの妹がいました。

 その息子のデルバー鳩は1959年か1960年のシーズン末期、それも9月1日だったと思いますが、アングレームNで6000羽中優勝したデルバーを生みました。

  「700」はブリクーとデルバーという黄金の組み合わせから生まれました。デルバーとヤンセンの交配も、特にオランダの数多くのトップフライターの鳩舎で大きな成功をおさめました。が、こちらの組み合わせはずっと簡単でした。なぜならば、第一級のヤンセンはブリクーよりもはるかに多く出回っていたからです。

 ■デルバー系の起源■    2020年9月18日(金) 5:04 修正
 デルバー系はどこから由来しているのでしょう。天から降ってきたものでないことだけは確かです。この系統の起源を探ろうとすると、今から80年ほどさかのぼらなければなりません。第一次大戦前、若いDr・ブリクーはワロニェン地方のジョリモンという村落で、「敵を壊滅させるための武器」を鍛造していました。

 フランドル地方のアルデンヌで、クワレモン、クルースペルク、エデラーレといった地名が周遊旅行で有名になったころ、モーリス・デルバーの父オスカル・デルバーは、ピジョンスポーツの世界で輝かしい名声を確立しました。83歳になった父オスカルはすでに70年前に大型の長距離レース鳩を持っていました。それはパリ周辺を席巻した「ブラウェ・ウィール」でした。オスカルはこの鳩をサン・バンサンに出場させました。

 当時はまだ、レースカレンダーにはサン・バルサン・ドウ・テュロセとフルネームで載っていました。それは1913年、第一次大戦が始まる前の年のことでした。このころの勢力地図は現在のものとは違っていました。

 西フランドルの農民は、まだそれほど優勢ではありませんでした。しかし「ウィール」
は国内で4位になりました。もし戦争がなければ、おそらくもっと良い成績を上げていたことでしょう。戦争中はこの鳩を使って繁殖を行いました。しかし不幸にも「ウィール」の名声はドイツ人の耳にも入りました。

 1918年のある忌まわしい日、ドイツ軍の軍用車が家の前に止まりました。そしてドイツ人は鳩を全部車に積み込んで、ドイツに持ち帰ってしまったのです。その時、このトリの羽一本再び見ることがあろうとは誰も信じませんでした。彼らは地獄の門の前でも、自分たちが盗まれたものを取り戻したことでしょう。

 ■系統の改良を求めて■    2020年9月18日(金) 5:06 修正
 1918年戦争が終結すると、すぐに彼らはラインラントに進駐していた連合軍と連絡を取り、奇跡的にも6羽の鳩を見つけたのでした。そのなかには「ブラウエ・ウィール」の5羽の娘が含まれていました。

 これらの鳩はメヘレン近郊のプッテを拠点とするデプレーター系と掛け合わせました。正確に言うと、プッテはメヘレンからバイスト・オプ・デン・ペルクとハラールに向かう国道沿い、以前から最高の鳩がいたコーニンクスコーイクトとリールからそれほど遠くない所に位置しています。

 私はデプレーターの娘はカレル・ウェッゲとシモン・フランク(ハラール)の鳩と比べて全く遜色ないと間いていました。それが本当で、しかも適切な鳩であったなら、この交配によって系統は劣化するよりも改良されたでしょう。

 このほかにも最高クラスの鳩かロンセにやって来ました。ブリュッセルの強力なレースマン、モレールスの鳩、レーデペルク(ゲント)のフランス・デローフの系統、そしてガヴルのドントという人物の鳩。それから2年後、ロンセのA・ヴァン・オッペンスの二羽の素晴らしい種鳩(ポルトワ・ラッソン系)と、ウアレール・ポルトワ(ヨゼフの父)のトリがラインを強化しました。

 フランス・デローフが誰で、どこから来たかについて、サス・ヴァン・ゲンターの退役軍人グスト・マルキニーより良く知っている者はいません。彼は第一次大戦前にフランスと頻繁に鳩を交換していたのです。それらの鳩は、純系のデンデルモンデのドゥ・リーダース(ウェッゲードゥ・ヘル、パウル・シオンの鳩(すべて世界のトップクラスでした)、そしてレール・ノールの市長ジュリアン・コミン(ヴァンデルデーウェッゲーヴァ −・ツヘ)でした。また、フランス自身は国際家禽審査員をつとめていました。

 彼の友人にはオブウェイクのジーン・ヘイヴァールト(ウェッゲ)やベヴェーレン・アウデナールデのヘンリ・クリステインス(ウェッゲ)がいました。忘れてならないのは、モエルスから程近いアートレイケのデピュイッそしてデヴリーントです。

 こうして見ると、モーリス・デルバーのような人物は、多かれ少なかれDr・ボムやDr・ブリクーと同じ血筋を開拓していたことがよく分かります。こうしたすべてのことを子細に見ると、カレル・ウェッゲは、20世紀全体を通して長距離系に不滅の刻印を残した人物でした。ごく少数のエリートファミリーが大規模な国内レースを支配するというのは、いまでも通用するテーゼなのです。

 デルバーは後に近親交配主義者となりましたが、初期は交配もかなり多く行いました。特にエスピエールのエドゥアール・ラッソンやロンセのジェフ・ポルトワの鳩と掛け合わせました。後にはこれにブリクーも加わりました。

 ■デルバー系の基礎を築いた鳩■    2020年9月18日(金) 5:07 修正
 ポルトワは1920年代に素晴らしいメスの種鳩「プリンセス」を持っていました。苛酷な地区レースにおいてぶっちぎりで優勝した「ボルドー」の娘です。その息子で「プリ
ンセス」と同腹の兄弟は、同レースで2位になりました。これで明らかでしょう。「プリンセス」はモーリス・デルバーのもとで「金の卵」を産んだのです。デルバーはヘクトル・デスメ、シャルル・ヴァンデレスプト、オスカル・デヴリーントとも掛け合わせました。

 特に言及に値するのは、フラマン語の名前を持ったフランス人愛鳩家フェリックス・ヴァン・ユートリーヴェ(ルーベー)のメス鳩です。デルバーは彼の有名な「サン・バンサン」の妹を手に入れました。「サン・バンサン」は「ヴィラ」というニックネームが付いていましたが、それはメキシコの盗賊の首領から取ったものではなく、このトリがピレネーINで優勝して小ぎれいな別荘を獲得したからです。

 つまり、それは「絨毯たたき」や「手ぼうき」とはいささか違っていました。モーリスに言わせると、このヴァン・ユートリーヴェの鳩はまさに自分のタイプでした。当時モーリスは、ベルギーよりもフランスのレースに多く出ていたのです。

 ポルトワの67−4034217について少し書きますと、このトリは1972年にブリーフNで優勝し、同年サン・セバスチャンINで5位に入りました。マールケグールのドゥ・メルリェールのもとで、このオス鳩の孫80−4321030はアルジェントンNで2141羽中優勝しました。

 ヒュースケンス=ヴァンーリールが20年後にそうであったように、1928年にモーリス・デルバーは2組のカップルを持っていて、次々とチャンピオン鳩を生み出していました。そのカップルとは、
(1)「ウィッテペン」26−2204993
(2)「ゲーデ・クウェーカー」28−4199357
(3)「プリンセス」25−211114118
(4)「デプレーター」28−2523831です。(2)の「ゲーデ・クウェーカー」は (1)と(3)の息子です。モーリスがこのカップルから、(2)と(4)でしたように鳩舎一杯のヒナを作らなかったのは悔やまれます。もし彼がこの2組のカップルに数多くの子供を生ませ、それらを互いに交配させたなら1937年の記念すべきナルボンヌレースでのように、長年にわたってすべての国内レースを制することができたでしょう。というのも、これらの鳩にかなうものはなかったからです。

 デルバー系の基礎を築いたこれらの有名な種鳩、すなわち2羽のオス鳩と2羽のメス鳩のうち、レースに出場したのは1羽だけで、その他はレース籠に入ったこともありませんでした。その1羽とは、(1)の「アウデ・ウィットペン」です。このトリがかなり純粋な血筋を備えていたことは、それらの兄弟の 「ヤボット」、「ウィッテニューゼ」なども偉大なチャンピオンであったという事実によって裏付けられます。

 ■■『Piet de Weerd 研究』031■■  [ピート・デヴィート回想録031「デルバーの基礎鳩」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1998年6月号 )  イレブン  2020年10月24日(土) 5:19 修正
秋レースが始まる頃から中断していた『Piet de Weerd 研究』を再開しています。この『Piet de Weerd 研究』は愛鳩の友誌で、10年間に渡って長期連載された「ピート・デヴィート回想録」を元に関連資料を可能な限り掲載して「回想録」の全てを引用しながら進める研究です。

関連資料については、取りあえず資料のみを追加掲載する形で進めることにしています。数年後、イレブンが時間がとれるようになったら、それらの資料も関連させながら、考察を加えて整理していく考えです。そして、この掲示板に新しく研究室を立ち上げ、閲覧しやすいように編集する予定です。

それまでは、掲示板に定期的に掲載していくので、過去の分を読むのが面倒な状態が続きますが、ご容赦願います。

もし、この掲示板で『Piet de Weerd 研究』の内容だけ読みたいと思われる場合は、この掲示板の「検索」機能をお使いください。

この機能を使うボタンは掲示板の右上に「検索」という小さな文字があります。ここをクイックして検索のページで検索欄に『Piet de Weerd 研究』と記入して検索をかけると掲載している『Piet de Weerd 研究』の全てを読むことが出来ます。

但し、表示されるページ数に制限がありますので、一番下まで行くと「NEXT」というボタンがありますのでそこをクイックくすると先に進むことが出来ます。現在であれば2度ほど「NEXT」を押すと全てが見られます。

では、ピートさんの回想録のデルバー系編に戻りますね。

このピートさんの回想録では、全体の約1/4に当たる回想録1〜回想録25までに、自身の鳩理論をかなり詳しく展開しています。それ以降は、実際に自分が見てきた世界の銘系の形成過程の紹介を通して自身の鳩理論を検証するような展開になっています。その中心軸は、系統確立における濃密な近親交配の重要性です。

ピートさんが世界最高の系統と位置づけているブリクー系の次は、このデルバール系を対象にあげています。その形成過程において基礎鳩の出所や系統確立の過程での濃密な近親交配をどのようにしていったかということを語っています。

ヤン・アールデン系の元にもなっているデルバール系についてピートさんの重要な記述が続きます。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇回想録31の抜粋◇◇◇◇◇◇◇◇◇

●「ビアリッツ」は濃密な近親交配により3羽のワンダーバードを生みました。いずれも 1937年生まれです。その内の1羽はプリュッセル銀行の頭取、ワーテルローのアドルフ・プリスニエの手に渡りました。別の一羽はメスでしたが、ヘクトル・ベルヘンヘーに買い取られました。彼は東フランドル地方のアスペラーレ村の村長職をつとめる農民で、体重1000キログラムの赤いまだら牛を飼育していました。3羽目はオーステンデのシャルル・ヴァンデレスプトのもとに行きました。

●モーリスは1945年にコールトレイクで行われたオークションの開会の挨拶のなかで、「シャルル・ヴァンデレスプトはその鳩をどうすべきか知っていた」と語りました。シャルルはこれを自分の「ベルギー・オランダ」の娘とクロスし、アウデンブルグのヴァンデヴェルデを主体とする自分自身の系統の枠内で、”デルバー長距離系”を確立したのです。その結果、この歴戦の闘士は数十年もの間、海岸のチャンピオンたちの猛攻を退けることができたのでした。

●「ビアリッツ」は他の鳩よりも大きく重い体つきをしていました。これほど力の強い鳩に出会うことはめったにありません。このようなトリは良いメス鳩に恵まれさえすれば、鳩舎をチャンピオンでいっぱいにします。

●最後に、デルバーがどのような作出方針でこれらのワンダーバードを生み出したか検討するのは興味のあることです。彼はどのようなメス鳩と配合して、このような成績を達成したのでしょうか。その作出にほとんど失敗がなかったことがお分かりでしょう。

●ここで注目すべきは、一度そのような鳩を手に入れた者にとって、近親交配は交配よりも容易であり、しかも近親交配は交配よりも良い鳩を生み出す確率が高いということです。

●父親の学校で経験を通して学んだモーリス・デルバーは、多くの場合、すでに良い鳩を生んでいることを確認できる、かなり高齢のメス鳩と掛け合わせました。

 ■デルバーの6羽の銘鳩■  Piet de Weerd   2020年10月24日(土) 5:44 修正
■「クライネープラウエ」「ビアリッツ」

 (2)と(4)のカップルから、他のトリより優秀な6羽のオス鳩と3羽のメス鳩が生まれました。(*注・編集部 1928年にモーリス・デルバーがもっていた2組のカップルの内の1組。
○(2)=「ゲーデ・クウェーカー」28−4199357、
○(4)=「デプレーター」28−2523831)

 これらの鳩をA〜Fで呼びましょう。Aは、「クレイネ・ブラウエ」です。

 私はこのトリを見たことはなく、少なくともかつてこの鳩を掴んだという記憶はありません。モーリス・デルバーはこの鳩を厳しく育てました。というのも、この鳩はパリの空で非常に速く飛ぶことができたからです。この鳩が年老いてから、ようやくモーリスはその手綱をゆるめました。

  「クレイネーブラウエ」の成績は、アングレーム6位、ボルドー5位、タックス13位、ボルドー2位、ポーIP2位、ボルドー2位。そして1935年ベルギー・オランダ間のボルドー・インターナショナルで2456羽中5位。このレースで放鳩当日に鳩舎に帰還したのは6羽だけでした。

 それは太陽が照りつけ、強い逆風のなかでのレースでした。このときはシャルル・ヴァンデレスプトが、ベールトーンのオス鳩「ベルギー・オランダ」で優勝しました。ラベーウとヴァンプルアーネの鳩舎を築き、若くして死んだウェーヴェルヘムのジュール・ヴェルモーは2位に入りました。私はカットレイス、デピュイト、ドゥグフロイ、あるいはアステンの老カミール・ヴァン・デン・アペーレも、このデルバーとクロスしたと思います。

 この奇跡のペアから生まれた2番目のオス鳩、Bは有名な「ビアリッツ」です。私は「ビアリッツ」は、ナルボンヌーNで優勝した「ダクス」とともに、「クレイネ・プラウエ」に劣らないという印象をいつも抱いていました。

 「ビアリッツ」は濃密な近親交配により3羽のワンダーバードを生みました。いずれも 1937年生まれです。その内の1羽はプリュッセル銀行の頭取、ワーテルローのアドルフ・プリスニエの手に渡りました。別の一羽はメスでしたが、ヘクトル・ベルヘンヘーに買い取られました。彼は東フランドル地方のアスペラーレ村の村長職をつとめる農民で、体重1000キログラムの赤いまだら牛を飼育していました。3羽目はオーステンデのシャルル・ヴァンデレスプトのもとに行きまし た。

 モーリスは1945年にコールトレイクで行われたオークションの開会の挨拶のなかで、「シャルル・ヴァンデレスプトはその鳩をどうすべきか知っていた」と語りました。シャルルはこれを自分の「ベルギー・オランダ」の娘とクロスし、アウデンブルグのヴァンデヴェルデを主体とする自分自身の系統の枠内で、”デルバー長距離系”を確立したのです。その結果、この歴戦の闘士は数十年もの間、海岸のチャンピオンたちの猛攻を退けることができたのでした。

 モーリスはドールニク近郊のプランダインの町長で食肉業者のオジェール・デルヴァンクイールに、1949年バルセロナINで2位になったオス鳩の息子を譲りました。このときの優勝はベルレンヘーの純デルバー「ブラウエ・ベルデン」でした。「ビアリッツ」自身はパリの南で、ごくのんびりと暮らしていました。

 一度「ビアリッツ」がレースに出たときは、天候上の悪条件を克服しなければなりませんでした。「ビアリッツ」はオルレアンで7位に入りましたが、その日は屋根の上のスズメがフライになって落ちてくるほどの猛暑だったのです。「ビアリッツ」はその傑出した兄弟と比べると大きな賞を二度しか取っていません。タックス7位とビアリッツ1位です。マドリッドのレースにも出場しませんでしたが、もし出ていたなら断トツで優勝したことでしょう。

 「ビアリッツ」は他の鳩よりも大きく重い体つきをしていました。これほど力の強い鳩に出会うことはめったにありません。このようなトリは良いメス鳩に恵まれさえすれば、鳩舎をチャンピオンでいっぱいにします。

 ■「ダックス」「バリオレ」「バルセロネ」    2020年10月24日(土) 20:26 修正
 1949年に「極めて苛酷な」バルセロナINで優勝した「ブラウエ・ベルデン」についてはすでに触れました。これは一度ヘクトル・デスメの鳩舎で見たことがあります。1952年か1953年だったと思います。
 ヘクトルはこのトリは繁殖が難しいと嘆いていました。彼は「私の『ブロクトレイン』のように、古風なホーレマンスがいたらいいのだが、今ではもういない」とこぼしました。私は彼と家のなかに入り、一緒にコーヒーを飲みました。そのとき私は彼にこう言いました。
 「アーレンドンクのヤンセンのことを考えてみたまえ。まだ数も多く、毎年半ダースのスーパーピジョンを生み出している。ヤンセンとだったら系統を問わず、どんな種鳩でも見違えるような結果を生む。」

 彼の答えは「そうだな、考えてみるよ」でした。ヘラルド・ヴァンヘーも考えました。でも、彼は決断したのです。アウト・トゥルンハウトのヴァン・ミールトの「ウィッテコップ」がその成果でした。これは多くの例のなかのほんの一例にすぎません。

 Cはデルバーの「ダックス」です。「ダックス」は華麗な白ゴマのオス鳩で兄弟の「バルセロナ」とともに最も美しくスマートで、中距離でも大変な力を発揮しました。私は一生に数多くの卓越した長距離鳩を掴んだと誇張なく言うことができますが、その中でも最も強い印象を与えて私の精神の眼の前を通過した鳩と言えば、この「ダックス」が筆頭にあげられます。

 「ダックス」は1938年、ライン川沿いのゴーデスペルクで行われたピジョン・オリンピアードでも2位に入賞しました。アンリ・バレがこの「ダックス」を一度も写真におさめなかったのは残念です。

 代表的な翔歴を挙げると、ダックス2位、ドゥルダン6位、ポアティエ4位、ダックス14位、ビアリッツ3位、ドゥブラージュN10位、ナルボンヌNおよびIN優勝、サンーバンサン2位、ドゥブラージュN優勝。「ダックス」の子孫はヨーロッパ中にいます。
 モーリスは、どんなに金を積まれても「タックス」だけは売ろうとしませんでした。「タックス」は1945年冬にモーリスの鳩舎で死にました。

 Dは「バリオレ」です。オールドリング19−61305を付けていましたが、生まれたのは1932年です。「バリオレ」はメス鳩のような頭をしたオス鳩でした。「バリオレ」と「ダックス」は羽色を除けば眼、表情、骨格の点で瓜二つでした。主な翔歴は、ボルドー16位、アングレーム21位、サン・バンサン21位、ナルボンヌNおよびIN2位、サン・バンサン13位、サン・バンサン21位です。「バリオレ」の子孫も、国内の様々なチャンピオンの鳩舎で見出すことが出来ます。

 Eは鉄の骨格をもった華麗なブルーバード「バルセロネ」です。品質とデザインの点で、私かこれまでに見た最も美しいオス鳩でした。

 「バルセロネ」の翔歴はバルセロナ4位、ボルドー30位、ビアリッツ2位、ルルドN14位およびIN5位、ポー9位、ビアリッツN9位、ナルボンヌNおよびIN4位、サン・バンサン12位、ナショナル5位などです。

 以上挙げた長距離と超長距離での卓越した成績は、すべてたった一組のカップルから生まれた鳩によって達成されたものなのです。


 ■「クレイネ・リヒテ」    2020年10月24日(土) 20:27 修正
 最後のハイライト、Fは「クレイネ・リヒテ」32−4293562です。デルバーのシンボルともなった有名な鳩です。このオス鳩は17歳になったと思います。このトリが何羽の息子や娘を生んだのか、およそ見当がつきません。1950年には間違いなく50羽ないし60羽いました。これらの鳩も、それらを手に入れた鳩舎の基礎鳩になりました。
 ステーンベルヘンのヤン・アールデンもその一人でした。デルバー系はオーメンス=ドウ・ウェールトの1945年生まれの基礎鳩、ストックの「クランケ」、そしてエッテンのC・デッケルスのオス鳩を経由して、ステーンベルヘン系のなかに受け継がれています。
 ブレダのメス鳩は、デルバーの「ビアリッツ」を源鳩としウィンヘネのドゥグフロイ兄弟を経由した「クレイネ・リヒテ」の孫です。

 「クランケ」の筋肉の感触から判断すると、困難な長距離で常に上位に入賞したアステンのカミール・ヴァンーデン・アペーレの系統が入っています。ヴァン・デン・アベーレは1935年の記念すべきベルギー・オランダで6位入賞を果たしました。

 F(クレイネ・リヒテ)の代表的な翔歴を掲げると、ボルドーIP12位、アングレー
ム10位、シャトールー10位、アングレーム2位、ビアリッツ17位、ナショナル9位。このほかサンーバンサンの成績は4位、3位、10位、2位、優勝、ナショナルで2位に2時間10分の差をつけて優勝。

 デルバーは、「ひと財産かせぎ出したクレイネ・リヒテは、この国で最高のメス鳩とみなすことができる」と言いました。

 最後に、デルバーがどのような作出方針でこれらのワンダーバードを生み出したか検討するのは興味のあることです。彼はどのようなメス鳩と配合して、このような成績を達成したのでしょうか。その作出にほとんど失敗がなかったことがお分かりでしょう。
 ここで注目すべきは、一度そのような鳩を手に入れた者にとって、近親交配は交配よりも容易であり、しかも近親交配は交配よりも良い鳩を生み出す確率が高いということです。

 父親の学校で経験を通して学んだモーリス・デルバーは、多くの場合、すでに良い鳩を生んでいることを確認できる、かなり高齢のメス鳩と掛け合わせました。ここで、それらの最良の鳩を紹介しましょう。

 ■デルバーの素晴らしい種鳩たち■    2020年10月24日(土) 20:29 修正
 (1)ハイネ・セント・ピエールで行われたアレクサンダー・シャルドンという人物のオークションで買った1934年生まれの灰のメス鳩。1928年生まれの「ヴュー・グリ」と高齢のメス種鳩「ドウ・シュレイヴァー」(ラウフ)の娘で、父母ともブリクーの流れを引いていました。

 この鳩に関連して、ラボゼーのDr・レジューヌの迷い鳩をコリン経由で手に入れたルソー・ヴァン・ジェメッペ、デュレイと共同で仕事をしたフラスネスのヴァンデヴェルデス・ヴァン・ムーラルト、それに西フランドルの靴職人カストン・レイラントの名前が聞かれました。

 レインラントはブリュッセルに移り住みましたが、鳩界では「靴の底やかかとに力いっぱい釘を打ちつけるように、ライバルの頭を叩く」と言われたものです。シャルドンの灰色のメス鳩は「クレイネ・リヒテ」とクロスして、優秀なヒナを生みました。

 このカップルの娘を、半ブリクーの「フーテ・グレイゼ」とクロスしました。ここから戦後スペインの最高のレーサーに数えられる、ヘクトル・ベルレンヘーのあの素晴らしい「グレイゼ」が生まれたのです。私はその母親と「ベルテン」の母親を買いました。いずれも1944年生まれのデルバーのメス鳩でした。しかし、私かこれらの鳩を入手できたときには、それらはすでに11歳になっていました。
           (この項次号へ続く)

 ■■『Piet de Weerd 研究』032(1)■■  [ピート・デヴィート回想録032前編「スティッヒエルバウトの系源」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1998年7月号 )    2020年10月25日(日) 1:32 修正
この回想録032は、デルバー-系のまとめ部分が冒頭に入っており、その後はピートさんが取り上げた3番目の系統ステッケルバウト系の話へと添加していきます。そこで回想録の抜粋もそれが分かるように前編と後編に分けて編集することにしました。

 ■デルバーの素晴らしい種鳩たち■※この項前号より  Piet de Weerd   2020年10月25日(日) 1:34 修正
(2)ウィンヘネのドゥグフロイ兄弟の「フェイネン」から生まれたメス鳩。この鳩は当時長距離で鳴らしたエスピエールの農民、ウアルジェこフッソンのメス鳩とクロスさせました。ラッソンはこの優良な鳩をレール・ノールの市長ジュリアンー・コミンからFに入れたのでした。

(3)1932年生まれのメス鳩「プティ・ビジュ」。デルバーはこのトリを友人のフランス人、フェリックス・ファン・ユートリーヴェからfに入れました。これはユートリーヴェが所有していた愛称「ヴィラ」の姉妹です。

(4)ロンセのドゥルヴロイ鳩舎の優良なメス挿鳩。小ぶりのニワトリほどもある大きい青で、9歳のときにデルバーはコルトレイクのオークションで買いました。

(5)ベンド近郊アステネのカミール・ヴァン・デン・アベーレ(牧畜業者)系の2羽のメス鳩。ヴァン・デン・アベーレは有名な長距離フライターで、この2羽は老メス嗚「ウィトガー・ビアリ″ツ」の子孫です。このメス鳩の兄弟は1952年ウーセルヘムのシリール・ノーマン鳩舎にカルカソンヌ・ナショナル2位人賞をもたらしました。

(6)ヘラールズペルヘンのヘクトル・デスメのメス鳩。ブリクー=ハーヴェニス系(トゥスヘール)。

 ■最高の交配デルバー×ヤンセン■  □   2020年10月25日(日) 1:36 修正
 私の意見では、「クレイネ・リヒテ」は1944年にドゥルヴロイのメス老鳩との間に最良のヒナを生みました。このときシャルル・ヴァンデレスプトみずからこれらの鳩を買うために駆けつけました。しかしモーリス・デルバーはこう言いました。
 「だめだ。私が買う。君はその後で自分の気に入ったものを何でも買ったらいい。」
 けれども老鳩「デプレター」に次ぐ最高の種鳩と言えば、「フート・プラウ」35−4202076Wでした。

 このメスは「クレイネーリヒテ」や「タックス」の息子たちと濃密な近親交配を行いましたが、そこから生まれたトリは、ほとんどすべてが優秀でした。しかしそれらは大方売られるか、贈られてしまいました。

 デルバーの鳩はオランダ中であらゆる系統や優秀なレーサーと掛け合わされました。最高の掛け合わせの一つは、レイェンのアルフォンス・メッツァールス鳩舎で行った有名なヤンセン鳩、「18」あるいは「19」とのものです。ここからサンドフォールドの歯科医ヴァン・ドウ・ミューレンを経由して「メーウ」が生まれました。この鳩はヘルモントのDr・リンセンの鳩舎を一躍有名にしました。

 「メーウ」の羽色に見られる過剰な「白」は、ヤンセンに由来するものではありません。なぜならば、アーレンドンクでは組織的に淘汰されてこの色は存在しなかったからです。デルバーの「グックス」は白ゴマです。モーリスはそういうことには全然執着しませんでした。もし四角い鳩が最高だったとしたら、彼は丸い鳩を作るのに無駄な時間を費やすことはなかったでしょう。

 私はDr・リンゼンの鳩舎では、クラックの「ズーン・ヴァン・トゥウィンティフ」が一番好きでした。それはどんな鳩とも交配させることができました。が、それ自身は交配によって生まれたのではなく、純粋なアーレンドンクのヤンセンでした。

 『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ ミュニエ号編資料B 『世界一の銘鳩−ミュニエ号の死を悲しむ(1)』宮沢和男◇◇◇◇ 【出典:『愛鳩の友』誌、1973年3月号P132より引用)】  イレブン  2020年10月19日(月) 5:31
修正
次の500Kレースが日程調整のため3週間ほど間が開くようなので、その間に『Piet de Weerd 研究』を再開することにしました。

まず、連載するのは、ブリクー系関連資料としてのミュニエ号編資料B 『世界一の銘鳩−ミュニエ号の死を悲しむ』宮沢和男です。この資料は、9月の始め頃に、国立国会図書館に資料調査を依頼していた記事です。1ヶ月ほどして手元に届きました。

世紀の銘鳩であり、Piet de Weerdがブリクー系の最高の鳩として自身最も手に入れたかった銘鳩だったと語り残していることもあり、この『Piet de Weerd 研究』では、ミュニエ号に関連する資料を可能な限り収集することにしています。

銘鳩ミュニエ号の最終飼育者である宮沢和男の最大の功績は、このミュニエ号に関する記事を多く書き残したことだとイレブンは考えています。

この記事を読んでいくと以前も書きましたが、やはり当時の日本鳩界には、これほどの銘鳩を生かしていくほど鳩理論が成熟していなかったようにイレブンは感じてしまいます。

Piet de Weerdが、東国の日本という国の鳩界の存在に関わりを初めて持ったのは、愛鳩の友社の明神社長が直接コンタクトをとった2003年の夏のことでした。Piet de Weerdは自身の著書「ヘクトル・ヤンセン」の表紙載せるほどにこのミュニエ号が、「お気に入り」だったのですが、初めて会った日本鳩界を代表する愛鳩の友社の前代の社長がミュニエ号の最終飼育者だったことは全く気付いていいなかったようです。しかし、この出会いも何か不思議な縁を感じさせます。

この宮沢和男の『世界一の銘鳩−ミュニエ号の死を悲しむ』は「”世界の銘鳩物語り”からの転載を主としている」とまえがきに記されている論文です。結構読み応えがある内容となっています。『世界の銘鳩物語り』は現在手に入れることが出来なくなった貴重な書物です。その意味でこの資料を掲載する価値も大きいと考えています。

※挿入画像はイレブンの手持ちの資料からも掲載します。

 『世界一の銘鳩−ミュニエ号の死を悲しむ』(1)  宮沢和男  2020年10月19日(月) 5:33 修正
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 これはミュニイェ号の物語りである。最近私がまとめあげて出版しだ”世界の銘鳩物語り”からの転載を主としているが,写真は同書にも掲載しなかったものを撰んで掲載した。したがって,ミュニイェ号について,更に詳しく研究したい方々には同書をおすすめしたい(広告欄参照)。なお、この記事は今月と次号との2回にわたって連載の予定。

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 ミュニイェ号が、名実ともに世界第一の銘鳩であるということを知らない愛鳩家は世界中のどこにも居ない。最も伝統の古いヨーロッパの鳩界史のどこを見ても、ミュニイェ号ほどの輝やかしい記録をもつ鳩は一羽も見当らないし、今後も永久にこの鳩の持つ記録を打ち破る鳩は出ないであろう。
 生けるもののすべてに死は待っている。この世界一の銘鳩も、ついにこの1月24日に一生の幕を閉じることとなったのである。1958年、ベルギーのアデラン・ドマレー鳩舎で産声をあげて以来、満15才めを迎えようとしていた時であった。鳩の年令を、人間の場合にあてはめるのはむづかしいが、大体6?70才ぐらいに相当しようか。ここ1、2年は、ほとんど雌鳩(ウエンデル6号)と一緒に老鳩ばかりを収容してある一鳩舎に入れたまま、自由に生活させていたが、この1月にも最後の仔を育てあげた(1羽は仮母で)ばかりであった。ヨーロッパの鳩は、おおむね長命だといわれているが、それにしても途中で大病を患ったミュニイェ号が、晩年比較的元気に1年に2〜5羽ぐらいずつの仔を作っていたことに気をよくし過ぎ、いくら暖かく日当りのよい鳩舎だったとは云え、真冬に仔を育てさせたことが、くやまれてならない。ちょうど、今までなにかと良く面倒を見てくれていたハンドラーがやめて、管理が行きとどかなかったからでもあろう。ここで私も、皆さんとともに、この銘鳩の一生をふりかえって、思い出にふけってみたいと思う。

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 ■■2度と起り得ない奇蹟の大記録を持つ世界1の銘鳩■■    2020年10月19日(月) 5:35 修正
 ●シルバーの美しい雄鳩が誕生

 鳩王国ベルギー、オチェー市の一角にあるアデラン・ドマレー氏(Mr.Adelin Demarert)
の鳩舎のある巣房で、1958年7月のある日、一羽のヒナが孵化した。

 長ずるにしたがって、次第に羽色はシルバーとなり、非常に美しい一羽の雄鳩となった。
 この鳩舎のほとんどは濃い灰胡麻か、濃い栗胡麻の鳩で占められており、飼主にとっては珍らしい羽色の、しかも他の鳩より一段と骨格もよく美しいこの雄鳩には、少なからざる期待を寄せたのは当然のことであろう。

 そして、期待どおり、3歳の春にはマルセーユ(実距離822粁)インターナショナル・レースで、全ヨーロッパの精鋭3500羽が参加する中で堂々総合10位に入賞し翌年(1962年)春の全ヨーロッパから参加する世界最高の権威をもつレース、バルセロナ(実距離1051粁)インターナショナルで総参加羽数3300羽中総合1位を遂げた。
 
バルセロナ・インターナショナル・レースで一度総合優勝すれば、その鳩の相場はすでに100万円以上である。

 驚くべきことに、ドマレー氏は、この莫大な財産を、難レースが予測されるその翌年 (1963年)春のバルセロナ・インターナショナルにも敢然と参加させたのである。
 過去においてこの大レースの総合優勝鳩を再び、バルセロナへ送ったという例はない。

 ドマレー氏も、絶体の自信をもって参加させたのには違いなかろうが、ここで奇蹟がおこった。″BELG58−2106367″の脚環を装着したこのシルバーの美しい雄鳩が前年に引続いて二度めの総合優勝という、聞く人の耳を疑がわせるような古今未曽有の大記録が樹立されたのである。
 この時の総参加羽数は三五九九羽であった。
 それまで″バルセロナ号″とドマレー氏によって呼びならされていたこの鳩は、この時から”ミュニイェ号”(MEUNIER)と正式に愛称がつけられた。

 ”世界第一の記録鳩!”この奇蹟的な超大記録が伝おったとき、全世界の愛鳩家は、ミュニイエ号を、そう呼ぶことに少しのためらいも感じなかった。
 そして、この世界一の地位は、直系の目覚ましい活躍によって、ますます高められつつはあっても、少しのゆるぎすら見せてはいない。
 このミュニイエ号は、いかにして作りあげられたか――彼の生いたちからふり返ってみ

 ■中距離スピード鳩から作出された長距離スピード鳩■(ミュニイェ号の血統)    2020年10月19日(月) 5:36 修正
 □戦前のベルギー2大系統の一つブリクー系の純粋血統□

 銘鳩は、作られるべくしてできるのであって、決して偶然にできるものではない。
 ミュニイェ号も、戦前のベルギー2大系統といわれた、ドクター・ブリクー氏の系統と、ギョイム・スタッサール氏の系統のうちの前者の血統を正確に受継いだ鳩である。
 ミュニイェ号の父系は、数代にわたってドマレー氏が作出を重ねてきたブリクー系で性能的には長距離よりも、むしろ中距離上位入賞が得意という中距離スピード鳩に改良されてきていた。

 一方、母系は、ブリクー系で好成績を得ていた戦前派のトレムリー鳩舎の鳩を導入し
たウィリー・ヘルマン氏の作出鳩で、やはり、純のブリクー系である。

 ドマレー氏は長年月にわたって、ほとんどブリクー系を主体として飼育をつづけているが、彼が作出しつづけたブリクー系(父系)に、たとえ同血であっても、他鳩舎での飼育が長く体質的に相当に変化している鳩との、いわば一種の″もどし交配”によって世界一の大記録鳩″ミュニイェ″の作出に成功したのである。

 父系の、ドマレー氏のブリクー系の鳩には、竜骨の浅いつぼめタイプの細長い、主翼の長めのものが多く、ミュニ″エ号の父鳩であるブロソカート号(主要基礎鳩)や、ローサ号(補助基礎鳩)もその例外ではない。

 トレムリー氏のブリクー系は、そのタイプをやや異にし、胸部や腰部がよく発達した鳩であって、ミュニ″工号は、両者の中間体型を持っている理想的な鳩である。
 ドマレー鳩舎では最近、毎年のようにバルセロナ・イソターナショナル・レースで数羽を記録させているが、ミュニイェ号の母鳩が導入される以前はむしろ中距離に重点を置いた飼育がなされていた。

 ミュニイェ号の母鳩がヘルマン鳩舎から導入され、第一番に作出されたのがミュニイエ号で、次いでル・アルジェントン号(BELG60−2388202)栗胡麻刺雄などが作出され、現在では、ミュニイエ系とこのル・アルジェントン号らの血統作出鳩を長距離レースにあてているようである。

(つづく)

 □完全なWシステムの飼育訓練で育てられる□    2020年10月20日(火) 5:15 修正
 ミュニイエ号は、こうして計画的なもどし交配にょってこの世に生をうけることとなった。

 この鳩が生まれたのは、ようど、4年のちには彼自身がそのレースで名をなす、例のバルセロナ・インターショナル・レースが開催さた月の、1958年7月だった。
 
ベルギーの鳩舎という大鳩舎ばかりと想像するが、アデラン・ドマレー氏の鳩舎は大きくなく一坪半ぐらいの鳩舎を数コ持ち、飼育羽数も常時100羽前後。そんな比較的小規接な鳩舎で、並みいるベルギーの強豪鳩舎を相手に、最高の権威ある、そして世界的にも注目されている。。バルセロナ・インターナショナル・レースに2連勝の奇蹟を起したのだからまさに驚異的であるとともに、悪天候や難レースに強いといわれてきたブリクー系の底力を如実に示したものと云えよう。

 それと同時に、ドマレー氏の常日頃の飼育管理や訓練方法のすばらしさを賞讃せずにはおられまい。

□春のレースを終えた選手鳩から作出された□

 ミュニイエ号の生まれたのは七月である。
 通常、ドマレー鳩舎の場合選手鳩からの作出は春のレースのはじまる前の、2月中旬から下旬にかけて配合が決定されて作出にかかるが、特に子鳩を作出させたい鳩からは、レース終了後に1回作出することがある。

 ミュニイエ号の場合、その母鳩がウィリー・ヘルマン氏からやっと入手できたばかりであったことと、この雌鳩が老令に近づいていたため、父鳩が春の中距離レースを終えて、一休みしたあとの7月、特に配合して作出されたもので、ドマレー氏がこの配合作出鳩の出現を待ちかねていた様子がはっきりとわかるのである。

 □レースに参加させられなかった1年半の生活□    2020年10月21日(水) 3:51 修正

 ドマレー氏は、早生まれの鳩の場合は丸1ヵ年間、おそ生まれの鳩の場合は少くとも丸1年半はほとんど、どんな短距離レースにも出場させないことを原則としている。ミュニイエ号も生まれた年(1958年)は、舎外運動に明け暮れ、翌年も120粁までの訓練をうけただけであった。

 その間の飼料は、ドマレー鳩舎で標準食と呼ばれるもので、トウモロコシ3.3、小麦1.7、アメリカ豆1、イギリス豆0.7、コーリャン0.8、エンドー豆1.7、ソラマメ4.5、サフラワ0.15、ナタネ0.15の割合で配合されたものであった。

 これが舎外訓練中や換羽期間中に与えられていた。
 やがて1958年の冬がきた。冬がくればこの鳩舎の習慣として飼料の配合も変る。

 トウモロコシ3.2、大麦1,7、小麦1.6、コーリャン1.6、イギリス豆1.3、ソラマメ0.6となり、脂肪分の強いものは一切食べさせてもらえない。

 1960年に入り、2月になると、ミュニイエ号のような2歳めを迎える若鳩には、はじめて雌鳩が与えられ、4歳以上の鳩は半年ぶり、あるいは1年ぶりの愛妻との再会がおこなわれる。

 ミュニイエ号にも。一羽の栗胡麻の雌が興えられ、飼料も標準食にかわった。

□レース参加のための本格的な訓練に入る□

 こうして愛妻を得たミュニイエ号は、第1回めの卵を育て、第2回めの卵は、前年のおそうまれの1つがいに抱いてもらい、それと同時に愛妻は完全に雌鳩鳩舎に分離されてしまった。

 Wシステム用の選手鳩鳩舎は、その頃、どのつがいにも同様の方法がとられ、完全に雄鳩ばかりのヤモメ鳩舎となった。

 雌鳩は、雄が舎外運動などで舎外に出たときでも、決して見ることのできないように造られている雌鳩鳩舎に収容されていて、雄鳩だけが、愛の巣房に取り残されてしまったのである。

 これからが本格的な訓練に入る。
 ミュニイエ号を含めた、この春の選手鳩たちは、まず訓練の第一歩として規則正しい舎外運動をおこなう。

 朝5時半ごろからと、夕方の6時ごろからの2回。それぞれ40分から1時間にわたって、特に強制されることなく行なわれる。

 朝の舎外運動から帰ると、エサが待っている。これは1羽当り約30グラムの標準食である。昼には、サフラワとナタネとコーリャンを3分の1ずつ混合した補強食の少量が与えられる。

 夕方には、4時半ごろ、標準食を満腹になるまで、じゅうぶんに与えられ、その後で舎外運動に出る。

 舎外に出たあと、まだ餌箱の中に残っているエサは全部引きあげられ、約1時間の舎外運動を終って舎内に入るとこんどは少量の麻実をもらうことができる。

 この舎外運動が、ドマレー氏の訓練方法の基礎になっていて、特に行なう放鳩訓練やレースの時を除いては、大体においてほとんど同じ型で翌年2月の配合時期まで続けられるのである。

 ただし麻実を与える時期はレースーシーズン前とシーズン中および、換羽の時期に限られている。

 こうして、雌を遠ざけられた雄の選手鳩たちは雌を追いまわしたり、ヒナを育てたりする労力をついやすことなく、飛ぶことのみに専念した毎日を過ごすことになる。

 □1960年は短距離で小手しらべ□    2020年10月21日(水) 3:55 修正
 舎外運動や何回かの放鳩訓練ですっかりコンテ″ションをととのえたミュニイエ号は6月12日の200粁レースに参加するため、まず前々日の10日に水浴をさせられた。

 そしていよいよ、レース前日、11日の持寄りの日の夕方、ミュニイエ号らの選手鳩を寵に入れる5分から10分前に、それぞれの巣房内に裏返しになっていた巣皿が表に返される。

 ついで、2〜3分前になると、雌鳩がそれぞれの夫の巣房に入れられ、しばしの別れを惜しませられるが、雄鳩が愛のささやきを交している間に(交尾する前に)雄鳩(選手鳩)は持寄り用の龍に入れられ、持寄場へ運ばれてしま なお、ベルギーでは、ほとんどの鳩舎がこのようなWシステムをとっているが、この場合、残された雌鳩たちは一切舎外運動をさせていない鳩舎が多いが、ドマレー氏は選手鳩を送り出したあとその配偶鳩たちを1週間に1回ぐらいの割合で30分から45分ぐらいの舎外をさせている。

 この初陣のレースではミュニイエ号は参加362羽中、43位という普通の成績で終った。

 これを皮切りに、1960年には、ミュニイエ号は200粁レースばかり5回も参加しているが、4回は参力羽数の1割以内に入賞しており、このシーズン中一緒にレースに参加した、父鳩のブロンカート号と先をあらそっていた しかし、1週間に1回ずつ200粁レースに参加させているという経過を考えると、ドマレー氏はミュニイエ号をもって、こんな短距離で期待するより、訓練がわりに参加させ底力を養成しようと考えていたのであろう。

 日本においては、2歳鳩ということになれば、当然最長距離レースへ出場させる絶好の年令と考えている人も多いが、欧米のベテラン愛鳩家たちは、レース鳩の完全な成長は3歳にしてなる……と考え、3歳未満の鳩には長距離レースを強いることは少ない。

 完全な育成の前に苛酷な経験を持たせることは順調な発育を阻害し、真のベテラン鳩を作ることはできないと考えている。それでこそ、外国鳩は長命で、しかも最長距離を何回も記録させることが可能となっているのであろう。

 とにかく、ミュニイエ号も2歳鳩時代をこうした短距離レースで過ごし、1961年には、すっかり充実した選手鳩として長距離レースに参加するのである。

 ■ バルセロナ・インターナショナル2連勝まで ■    2020年10月21日(水) 3:58 修正
 □マルセーユーNで3500羽中総合10位□

 ベルギーではほとんどの鳩舎がWシステム(ヤモメ方式)でレースに参加している。
 Wシステムなら、鳩のスピードを増すことができ、また長年にわだっての長距離レースに耐えさせることもできるこれは、雌をほとんど与えておかず、レース参加の時だけ見せるため、巣房へ帰れば雌が待っているのだという性衝動を利用してスピードを出させ、また平常は営巣などに労力を使わないため、競翔としての生命が長持ちできるという合理的な強化合宿的訓練法である。
 ミュニイ二号は、Wシステムで3歳めの春を迎えた。
 前年は200粁ばかり5回も、レースに出されたミュニイエ号は、この年(1961年)いよいよ長距離へ挑戦した。
 200粁、500粁(503羽中4位)、500粁、600粁と、かなり慎重に途中のレースに参加させられたのち。難コースと云われるマルセーユ(Marseille)インターナショナル・レースに出場させる予定をドマレー氏は組んでいた。
 前年は200粁レースに1週間ごとに出場させられていたミュニイエ号は、この年はレース距離も伸ばされたために、レース間隔も2週間から3週間、長い時には1ヵ月近い間をおいてじっくりと参加させられていた。
 帰ってくるたびに今春2月に配合された愛妻は巣房の中で待たされていた。
 最初に帰ってきた時は、愛のささやきをゆっくりする暇もなく雌はまた隔離されてしまったが、3回めに帰った時には、たのしい時間を10分ぐらい持つことがゆるされ、600粁を帰った時には、ブドー糖を混ぜた水がまず与えられ、雌鳩と一緒に30分以上。アベックで舎外を散歩することがゆるされ、巣房へ入って落着いたところで、さらにじゅうぶん吟味された小粒飼料が与えられるという特別待遇がとられ、帰ってきた他の選手鳩にも順々に同様の待遇が与えられた。
 好物の小粒飼料を食べたのち、ミュニイエ号は雌と共に巣房に入っていると、巣房の口はほとんど閉ざされて巣房内は暗くなり、やがて、そっと雌鳩がつかみ出された時もミュニイエ号は平静さを乱されることはなかった。
 やがて、マルセーユ・インターナショナル参加の日は近づいてきた。
 例のとおり、持寄りの前日に水浴をおこなったミュニイエ号は、愛着の深まった巣房をあとにして旅立って行った。
 早く帰ろう……一週間ばかり前の、久しぶりのだのしさを思い出しながら放鳩地マルセーユでミュニイエ号は強い郷愁の念にかられていたに違いない。
 止まり木も展望台もなく、片隅に食塩の入った小ワンと給水器が置かれただけのドマレー氏の殺風景なWシステム鳩舎。しかし、朝夕2回の掃除の行きとどいた清潔な鳩舎や、清潔な巣房はWシステムの操作によって、ミュニイエ号の脳裏に焼きついてはなれない楽園となっていた。
 マルセーユは、バルセロナより距離は短かいにもかかわらず、バルセロナ並みの低帰還率しか挙げ得ない山越えの難コースである。
 しかも、ヨーロッパ各国の精鋭。ベテラン鳩たちがひしめくインターナショナル・レース。参加羽数3500羽。そのほとんどがWシステムで飼育され、訓練をうけてきており、ミュニイェ号と同じように愛巣心の強い鳩ばかりである。
 だがミュニイェ号は負けなかった。生まれながらの体力と精神力は、ベテラン鳩たちを抜き、国際レース初参加にして堂々総合10位という大手柄を立てたのであった。

 □ 1回めのバルセロナIN総合優勝 □    2020年10月21日(水) 4:02 修正
 1962年。この年にミュニイエ号は、バルセロナ・インターナショナル・レースに参加させられることになっていた。   ‘
 これは、前年のマルセーユで好成績を収めたミュニイェ号にとって、負わなくてはならない宿命であったかも知れない。
 前年長距離を経験させたミュニイエ号には、さらに長距離を訓練させる必要はないと飼育者のドマレー氏は判断した。そのため、バルセロナ参加以前にミュニイエ号がこの年飛ばされたのは200粁1回と300粁2回だけである。バルセロナ・インターナショナル(ドマレー鳩舎は公称1100粁)が開催されたのは、この年は7月7日であったから、ミュニイエ号号にとっては、ちょうど満4歳の誕生日に近かった。
 参加した鳩は、ベルギーをはじめとして、ドイツ、オランダ、イギリス、フラソス、ルクセソブルグなどから集まった3300羽。その総合1位。
 全ヨーロッパにおける最長にして最大の国際レースであるバルセロナ・イソターナショナル・レースは、世界でもっとも権威あるレースとしてその伝統を誇っているが、1960年にベルギーで総合優勝(モナン鳩舎のギャマン号)したのち、1961年にはオランダに総合優勝の栄冠を持ち去られていた。
 それが再びミュニイエ号をもって、鳩王国ベルギーはその栄冠を取りもどすことができたのである。
 当時のベルギーの鳩界誌は「われわれの祖国の名誉はドマレー氏の愛鳩にょって保つことができた」
 と伝えているが、レース鳩のメッカといわれるベルギー鳩界は、挙げてこの鳩の総合優勝を喜び合った。

 □2回めの参加直前にミュニイエ号を見た日本人□    2020年10月21日(水) 4:03 修正
  このバルセロナの世界的チャソピオソが、翌年の1963年の同レースに再出場するらしい……という噂がヨーロッパにひろまったとき、大多数の人は「まさか」と頭から信じようとはしなかったが、それを信じたごく一部の人たちも、その壮挙を「馬鹿なことをするものだ」としかしか云わなかった。
 欧米の愛鳩家にとって、レース鳩は財産である。鳩を飼うことは単に趣味だけでなく鳩レースで獲得した賞金や、鳩の売買にょって得た利益が多少なりとも生活費のある部分を占めている場合が多いからである。
 年間の生活費の3分の1以上が、鳩に関する利益で占めている、いわゆるプロ愛鳩家が非常に多く、こういう人たちにとっては、1羽の有能な選手鳩を失なうことは大変な損失となる。
 まして、世界的なチャンピオンとなったミュニイエ号を、帰還の非常にむずかしいバルセロナ・レースに再度出場させようとするドマレー氏の決意は狂気の沙汰と思えたに違いない。
 しかし、ドマレー氏の場合、ささやかではあったが鉄道従業員として生活は安定していたし、鳩の利益を生活費のために期待してはいなかった。
 つまり、損得にかかわりをもたない″趣味としての鳩飼者”が、ドマレー氏を勝負師にしていた。
 1963年のバルセロナ・インターナショナルの持寄日であった6月30日にドマレー鳩舎を訪れた一人の日本人があった。
 日本のベテラン、名古屋在住の岩田孝七氏である。
(以下次号)

 Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ ミュニエ号編資料A 『世界一の銘鳩−ミュニエ号の死を悲しむ』(2)宮沢和男◇◇◇◇ 【出典:『愛鳩の友』誌、1973年4月号P104より引用)】  イレブン  2020年10月21日(水) 4:05 修正
・・

 『世界一の銘鳩−ミュニエ号の死を悲しむ』(2)  宮沢和男  2020年10月21日(水) 4:07 修正
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 私は、一度自分の鳩舎の基礎鳩と定めたら絶対といっていいほど、再び手ばなすことはしない。その鳩が、かりに良い直系を生まなかった場合であるとしても、その鳩が死ぬまで手元において飼育していたいのである。こうした私の鳩舎の基礎鳩り一羽にミュニエ号がいた。
 いたというより、ミュニエ号という世界一の超銘鳩が手入できたからこそ、宮沢系などという″おこがましい血統″を作ろう……などという考えが出たのであるから、私の種鳩群の中でも最高の鳩であったことは勿諭である。この大黒柱が死んだ。生きものだから死ぬのは当然であるが、やはり気の抜けたような気持に陥いっていることは確かである。
 しかし。たとえミュニエ号は死んでも、彼の残した偉大な記録と、その名声は、世界に鳩飼いの存在する限り語りつがれるであろう。晩年のミュニエ号には、彼の勇姿は見られなかった。しかし、直仔や孫には、彼の面彫を残したものが幾つか私の鳩舎に残っている。今春、私は久しぶりに数十羽の選手鳩群をレースに参加させている。幸い、短距離においては抜群のレース成績を挙げ得た。選手鳩の90パーセントまでにミュニエ号の血液はたとえ少しずつでも入っている。私は、ミュニエ号が死んだ今年こそ、これらの彼の子孫たちを便って是が非でも。輝かしい成果を挙げなくてはならないと思っている。このミュニエ号物語りを読んで下さるとともに、私の鳩舎の今春の成績もぜひ注目して頂きたいものと思う次第である。では皆さんと共に前回につづいて、彼の一生をふり返って見よう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 ・    2020年10月21日(水) 4:10 修正
 『ファンブリュアン鳩舎を辞したその足で、私はつぎにドマレー鳩舎に行ってみました。その日は、ヨーロッパ最大のレースであるバルセロナ・イソターナショナル・レースの送り出しの日で、ちょうど発送する一時間ぐらい前でしたが、またあの鳩を参加させるらしいのには驚ろきました。例の昨年のこのレースの総合優勝鳩を

 「インターナショナル優勝鳩をまた発送するから……あと一時間もないから、早く見てくれ」

 と云われ、遠慮なく見せていただくことにしました。ですから昨年の優勝鳩の発送直前の鳩の体の状態などについてよく観察することができました。状態は非常によかったので、きっと帰るだろうと思います』

 この記事は、愛鳩の友誌の1963年11月号に掲載された岩田氏の談話であるが、こうして岩田孝七氏は日本人として、ミュニイエ号を最初につかんで見ることができたのであった。

 岩田氏は1963年の6月30日にドマレー鳩舎を訪れ、7月4日には日本へ帰っている。このバルセロナ・インターナショナル・レースは、その後の7月5日に放鳩された。本誌の編集部が、岩田氏からこの談話をとったのが1963年の7月18日の夜であったから、その時は当の岩田氏ですらも、まさかこの昨年の総合優勝鳩が、連続してこの年も総合優勝をしていようとは夢にも思っていなかった。

 ■奇蹟的な2回めの総合優勝■    2020年10月21日(水) 4:13 修正
 ドマレー鳩舎の昨年の優勝鳩(まだ名前はつけられていなかった)が2連勝を遂げたということを知ったのは、7月25日頃ベルギーからの成績表が日本に到着した時であった。
 この第1報がもたらされた時、その成績の偉大さに、日本の愛鳩家も電話する声がふるえた。
 ベルギーからの第1報では、この春のバルセロナーN(インターナショナル・レー
ス)は7月5日に放鳩されたが、優勝鳩はドマレー鳩舎にとのことであったが、第1報
を追いかけるように到着した第2報によって、このレースの全ぼうがはっきりした。
 この模様を1963年の愛鳩の友誌11月号はつぎのように伝えた。

 『全ヨーロッパにおけるメインエベントであるバルセロナIN(距離は1000粁前
後)は、この春ヨーロッパで(各国からよりすぐられた3599羽の参加をもって、7月5日に放鳩された。このバルセロナIーNにおいて、いまだかつて連続優勝という記録はないが、驚くなかれ、ベルギー・ブラッセル市から北へ40粁のオチュー市に住む愛鳩家アデラン・ドマレー(Adelin Domarct)氏は、62年度(前年度)バルセロナ総合優勝に引き続き、今春のレースにおいても優勝し、2年連続総合優勝の大偉業を成しとげた。
 しかも、昨年と同一の58年産のシルバーの雄鳩2106367をもってこの偉大な記録の樹立したものであって、ドマレー鳩舎の飼育管理もさることながら、この世界鳩界史上にかつてない最高の記録鳩だりえたこの鳩には最大限の讃辞をおしまないものである。

 この春は、イギリス346羽、オランダ660羽、ドイツ168羽、フランス66羽、ルクセンブルグ78羽、ベルギー2281羽の総合計3599羽が、平均約1000粁の距離にあるスペイン・バルセロナに集結したのであった。
 放鳩予定時間は7月4日の午前5時であったが天候悪く、翌7月5日の午前6時20分に延期されてょうやく放鳩された。当日は無風状態であったが、視界悪く、翌日6日朝になってぽつぽつと帰還し、第1番めに記録されたのがベルギーのドマレー鳩舎の前年度総合優勝鳩で58−2106367であったが、時間は午前7時38分であった。分速は約940米余となり、2着鳩を記録時間にして約30分、分速にして約150米引き離したことになる。
 とにかくこの春のバルセロナレースは難レースで、参加3599羽中の10位鳩が記録されるまでに、2時間を要するという状態であった。
 このレースの正式発表がまだないので、分速その他の詳細は目下不明であるが、7月9日付のル・ソワール紙によると総合5位までの鳩舎と帰着時間はつぎのとおりである。

 1位 ドマレー(白)  7時38分 
 2位 トロソクーイ(仏)8時08分
 3位 ファソロイ(蘭)10時52分
 4位 ペロッケソ    8時58分
 5位 ルール      9時18分
  この毎年挙行されるバルセロナは、ピレネー山脈を横断することを強要されるため、莫大な犠牲が出るのであるが、ドマレー氏は3羽参加させ3羽とも記録させたが、ベルギーのダーク・ホースと云われていただけに今後も大いに期待されよう』

 日本でも、1000粁のような長距離レースで連勝したという記録はない。この日本と較べてはるかに参加羽数も多く参加鳩舎もづベテラン揃いであり、世界一の規模と権威を誇る全ヨーロッパのメインエベント・レースで、前年は参加3300羽中の総合優勝、この年は3599羽数の総合優勝という、ケタ違いの2連勝を成しとげたのであった。

 バルセロナーNの直前に名古屋の岩田孝七氏を案内してドマレー鳩舎をたずねたベルギー在住の朝倉氏は、訪問の模様を、
 『私か岩田氏とドマレー鳩舎をおとずれたのは6月30日でした。はじめ、岩田氏から是非ドマレー鳩舎をたずねてみたいとの話があったときに、私は前に2度ほどドマレー氏をたずねているが、仔鳩でも馬鹿に高値だし、また代表鳩のバルセロナ優勝鳩は岩田さんのあまり好きではないシルバー色の鳩だからおやめなさい、と云ったものです。
 ところが岩田氏は、徹底的に実力第一主義を貫ぬきたいという意見でありましたので、遂に氏の熱意にひかれてファンブリューアン鳩舎から長駆140粁ですっ飛ばすことになりました。
 ドマレー鳩舎へ到着したのは午後5時頃でしたが、再度のバルセロナIN出場を目前にした昨年度の優勝鳩を手にして、岩田氏も感無量であったでしょう。
 私は勿論、岩田氏も、ドマレー氏でさえも再び優勝しようとはよもや思ってもみなかったことでしょう。ドマレー氏は相当自信があったかも知れませんが、総合優勝とは……」

 こうして岩田氏や朝倉氏が訪問して間もなく、世界最高の記録鳩BELG58−2106367シルバー雄記録が達成された。
 ドマレー鳩舎が生んだ世界最高の鳩――は、間もなく”ミュニエ号”(Meunier)とドマレー氏より命名された。


 ■高く評価されるドマレー氏の決断とミュニエ号の性能■    2020年10月21日(水) 4:14 修正
ヨーロッパの愛鳩家たちは、中距離レースに賭けて楽しんでいる。たしかに、こういうレースは、シーズンを通じて数限りなく行われて、これお裏書きしている。
 しかし、毎年1回7月初旬に開催される恒例のバルセロナ・インターナショナル・レースが年間最大のメインエベントとされるのは、なぜであろうか。
 中距離の賭け金レースは、ギャンブル好きなヨーロッパの愛鳩家たちにとって、かっ こうな遊びであることは違いないが、競翔家の生きがいを 最も痛切に感じさせるものが バルセロナ・イソターナショナル・レースであるから、という理由にほかならない。
  ”競翔家の生きがい!”それは、自分の作りあげてきた愛鳩たちの能力の限界を試すことであり、自らの腕の限界を試すことでもある。
  ミュニエ号は、世界鳩界史上空前の能力を発揮して、愛鳩家万人のあこがれの的と なった。
 それは、この鳩がマルセーユINで総合10位に入賞したときでもなければ、また、
はじめてバルセロナーNで総合優勝してチャンヒオンになったときでもなかった。2度めのバルセロナIN総合優勝を境にして、はじめてミュニエ号は、ただのチャンピオン鳩ではなくなったのである。
 毎年、一羽のチャンピオン鳩は必ず生まれる。「コンデションが好かった。運がよかった……」と、ねたみ半分でそのチャンピオン鳩を批判する人もある。しかし、ミュニイェ号の2度めの総合優勝を知っては、心ない鳩界雀たちも一言もないであろう。一羽の鳩によるバルセロナ・インタ・ナショナル2連勝の記録は、これまで全くなかったし、今後も世界鳩界のこれまでの歴史以上の年月を要しても、おそらく永遠に出ないであろう。

 同じ一羽の鳩でも、1964年のバルセロナINで総合優勝したベルギーのファングリム・ベルゲン鳩舎のバルセロナU号のように、前年の成績が2位であったとか、往年のポー・ナショナルで2年連続1位と2位になったデューレー鳩舎のラ・ブリューム・ブラシュード・ポー号、同じくポー・ナショナル2年連続1位と2位のロピンソン鳩舎のマドモアゼル号の記録などは、ミュニエ号の記録には比較することもできないものである。なぜなら、大抵の場合、2位の記録のほうが先に達成されており、それだからこそ、回も続けて参加させられるのであって、売る気になれば100万円もの価値のあるこのような大レースの総合優勝鳩を引き続き参加させることのできる鳩舎など、そう、ざらにあるものではない。

 鳩のレースは、そのぐらい難かしいものであって、いくらチャンピオン鳩といっても、コンディションの良、不良とか、ちょっとしたミスで帰れない場合もあるし、バルセロナのような長距離レースで野外に1泊しなけれぱならないような場合の猛禽類あるいは猫などの襲撃も考慮に入れておかなければならない。

 また、たとえ出したとしても、また無事帰還したとしても、2回連続1位は至難の業である。
 したがって、ミュニエ号の輝やかしい2連勝の記録は、この鳩の性能を高く評価するとともに、作出使翔者であるアデラン・ドマレー氏の飼育管理と決断をもたたえなければならない。事実、それまで地味な、あまり名の知られていなかったドマレー氏は、ミュニエ号の快挙を境にした、世界のアデラン・ドマレー氏になったのである。

 ■日本へやってきた世界一の銘鳩ミュニエ号■    2020年10月21日(水) 4:15 修正
□トレード合戦の末、富豪愛鳩家デボス氏へ□

 ”ミュニエ号”が2連勝―の報が世界へ伝わると同時に、この文字どおり世界一の銘鳩となったミュニエ号に対するトレード合戦も火ぶたを切った。
 1960年度のバルセロナ・インターナショナル総合優勝のギャマン号(ベルギーのモナン氏使翔)は105万円で日本へ、1961年度の同レース総合優勝のリヒト号(のちのフライング・ダッチマン号で、オランダのクルート氏作翔)は約80万円でイギリスのフランク・ジョージ鳩舎へ譲渡され、バルセロナ・インターナショナル・レースの総合優勝鳩はいずれも100万円前後でトレードされるのが最近の常識のようになっていたが、さてこの2年連続総合優勝という常識を越えたような超銘鳩のミュニエ号は、一体どのくらいの値段で、どこの鳩舎にトレードされるかということは、世界中で競翔家の注目するところとなったのは云うまでもない。

 ミュニエ号が2連勝の記録を樹立後、日本の愛鳩家で第一番に購入希望の名乗りをあげたのが前記の岩田孝七氏である。岩田氏は2回めのバルセロナINレースに参加直前に。ドマレー鳩舎でミュニイエ号を見ており、その場で「帰ってきたら譲ってほしい」との口約東をしておいたものと推察されるが、2度めの総合優勝という予想外の結果になってしまったために、この話はご破算となってしまったことは当然であろう。

 その後も7月下旬になって岩田氏は再び改めての交渉を開始している。
 これにやや遅くれて、当時ギャマン号を輸入して大旋風をまき起していた大仮の大田誠彦氏が話し合いを進め、8月中旬になって東京の2、3の鳩舎も輸入交渉の火ぶたを切った。
 日本だけでもこのように数鳩舎が購入希望の名乗りをあげたのだから、その他アメリカやイギリス、フランスなどの希望者をまじえて、このトレード合戦は相当に苛烈をきわめた。
 しかし、何しろ前例のない2連勝鳩であるだけに、つけた値段もまちまちであった
が、これらの愛鳩家たちが、提示した購入希望価格は、どれも飼育者のドマレー氏を満足させるに足るものではなかったようだ。
 そのどの鳩舎へもドマレー氏からは
  「今のところ手放す気はない」
 という断り状が送られてきた。
  10月になって最初はイギリスへ売られてしまったという情報が入った。
    (以下次号につづく)

 『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇ ミュニエ号編資料B 『世界一の銘鳩−ミュニエ号の死を悲しむ』(3)宮沢和男◇◇◇◇ 【出典:『愛鳩の友』誌、1973年5月号P122より引用)】  イレブン  2020年10月23日(金) 1:41 修正

 『世界一の銘鳩−ミュニエ号の死を悲しむ』(3)  宮沢和男  2020年10月23日(金) 1:44 修正
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 鳩界誌の編集に携わる者にとって”銘鳩”という言葉は最も使いにくい言葉である。あるいは最も使いやすい言葉であるといってもいいだろう。それはどんな鳩にも形容できる言葉であるからだ。
 ここに〃銘鳩〃という言葉に関して各自の見解があるだろうし、銘鳩論争なるものを企画しても面白いことだろう。それならばお前は”銘鳩”という言葉をどのように解するかという疑問が生まれる。例えば少年レースマンがいるとする。彼にとって大人のレースマンのように1000粁を分速千何百j―トルで帰るような鳩はいない。が、たまたま大人にまざって500粁レースで優勝できたとする。彼にとってこの500粁優勝はとても素晴らしい鳩に思えるであろう。
 この”とても素晴らしい鳩”というのが〃銘鳩”という言葉に、どこかその延長線上で結ぱれているように思う。勿諭、500粁優勝鳩は例えその参加羽数が5000羽であったとしても銘鳩とは呼ぱれないであろう。各自の自慢の鳩は各自の鳩舎に存在している。さらに広く地区を見るならばその地区の優秀な鳩はいる。日本に限ってみるならぱまた日本の優秀な鳩がいる。そしてベルギーには、オランダには、フランスには……各国の優秀な鳩がいる。そして世界の愛鳩裏がだれもが望んでいるような記録を握るような鳩、そのクラスに残る鳩が銘鳩の名を冠せられるのではないか。銘鳩の死は愛鳩家にとって一様の悲しみではないだろうか。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

しかしこれはその後、誤報であることがわかり、結局、同じベルギーの、イープル地区に住む財閥のデボス氏の手に渡ってしまった。
 あるイープル出身の上院議員が、このデポス氏に、彼の買った価格に、さらに2000ドル(邦貨約七三万円)のプレミアをつけるから譲ってほしいとの交渉をしたが、デボス氏はこれをあっさりと断わった。
 こうして世界一の銘鳩ミュニイエ号は、作出使翔者のアデラン・ドマレー氏からデボ
ス氏へと渡ったが、その推定価格は約200万円と見られている。


 ■やっとの思いで日本導入が成功■    2020年10月23日(金) 1:45 修正
 ミュニイエ号は、5年間にわたって住みなれたドマレー氏の鳩舎から、ベルギーの富豪愛鳩家といわれるデボス氏のもとに移った。

 自分の鳩は他人には余り見せたことのないといわれている変り者のデボス氏の手に渡り、われわれにはもう永久に見ることもかなわないと思われた。

 しかし、このミュニイエ号が、ついに日本にやってくる日が来たのである。それは、1065年の4月5日のことであった。輸入した愛鳩家は大阪の大田誠彦氏であった。
 大田氏は、1961年にギャマン号を輸入したが、それは”それが最高のチャンピオン鳩であるから″であった。
 思えば、愛鳩家の願望とは際限のないものである。ミュニイエ号が2年連続バルセロナ征覇の情報をにぎった時から、彼は国際電話にしがみつぎそれが何回に及んだか知れない。国際電話での交渉はしつように続けられたが、ミュニイエ号は遂にドマレー鳩舎からデポス鳩舎へ移ってしまった。大田氏は「膝詰談判のできる同国内のデボス氏との競い合いでは到底勝めがなかった。デボス氏の手に落ちた後は、鉾先を転じて今度はデボス氏攻略に終始し、それが今回やっと成功したわけだ」と当時の事情を語っていた。
 日本へ到着した日、羽田空港から東京の某所に運ばれてきたミュニイエ号には、大田氏と私が付きそっていた。
 実に気高い鳩であった。そう……ほかのいかなる表現よりも″気高い″という言葉が一】番ぴったりするような崇高な雄鳩であった。
 幾日かの旅の疲れなどはまったく見られず、そうかと云って頑強なタイプではなく、気品のある美しさと落着きのある知性と、弾力のある胸筋とゆるやかに伸びきっだ主翼の立派さだけが私の目を射た。

 ミュニイエ号は、その日のうちに大阪の大田氏の鳩舎へ引き取られていったが、それから、わずか4ヵ月半ののちにその鳩が私のものとなろうとは予想だにできなかった。
 

 ■大田氏と岩田氏のミュニイエ号評■    2020年10月23日(金) 1:48 修正
 ″ミュニイエ号日本到着″の報は、愛鳩の友誌1965年6月号によって日本中の愛鳩家に知れわたったが、同年8月号には、大きくクローズーアップされたミュニイエ号の顔写真がカラーで表紙に採用された。

 カラー印刷に、被写体の色をそのまま表現させるのは非常にむずかしい。撮影の段階で多少色彩が変り、印刷の過程でまた相当の差違がでてくるものであるが、このミュニイエ号のカラー表紙においては、非常に幸運にも実物と全く同じ色調を出すことができた。ミュニイエ号の眼色、頭部の形状、くちばし、羽色の明るさなど、全くそのままで、当時の所有者の大田氏にほめられたものである。

 大田鳩舎に落着いたミュニイエ号を観察した大田氏は、その8月号に″内容外観ともに最上級の鳩”と題して、つぎのように批評している。

 『バルセロナIN2年連続優勝という、世界鳩界史にない、ミラクルに等しい大記録を樹立した″ミュニイエ号″とは一体、どのような鳩か、輸入する前から、私にとって大変興味深いものがありました。

 私が過去に輸入した数々のヨーロッパのチャンピオンと比較してどうだろうか、と、いろいろ、とりとめもない想像をしていました。

 ミュニイエ号こそ不世出の銘鳩と信じて、過去2年間、抱きつづけてきたトレードの野望が、今春4月5日に実現しました。待ちに待ったミュニイエ号鳩、ついに日本へ、そして、ついに私の鳩舎へやってきたのです。

 私は、期待と興奮のうちにミュニイェ号を手にとりました。胸に、コツンと去来するものがありました。

 それは、私が想像していた以上の気品に満ちあふれた、すばらしい鳩だったのです。

 やや、おでこ気味の頭部から、尾翼部にかけての巾広い背線の美しさは、かつての数々のチャンンピオンにない、すぱらしいものです。

 胸筋、腹部は、よく引きしまり、長い竜骨は恥骨の中までくい込んだように通っており、竜骨と恥骨との間隔も、もちろん、ほとんど皆無といった状態です。

 眼色は、シルバーという羽色によくマッチしたダークがかった濃い金眼(宮沢注・金眼というより濃い柿眼といった表現のほうがよいのではないかと思うが…)で。大変魅力的です。

 この鳩が、これだけの大記録をたてた最大の要因は、頭脳的なことはもちろんですが外部的には、そのすばらしく発達した長い翼にあると、私は考えています。

 豊富な羽毛、よくととのった軽い体、気品のある理智的な鋭い眼。ミュニイエ号を総体的に批評すると、要するにこういうことだと思います』

 また、さきに日本人として一番最初にドマレー鳩舎でミュニイエ号を見た名古屋の岩田孝七氏は。愛鳩の友誌1963年12月号で

『その鳩は.灰栗(シルバー)で立派な鳩でした。軽い鳩でした。大きくもありません。長めの体をもった胸の浅い鳩。どちらかというと綺麗な鳩でした。少しおでこです。

 両親の鳩も見ましたが、実にいい鳩でした。灰栗の優勝鳩(ミュニイエ号)のほかにも、その兄弟でやはり栗胡麻の鳩ですが、バルセロナを帰っている鳩もいました。

 また、その他にもバルセロナを帰っている鳩も見ましたが、やはり優勝鳩の2106367号(ミュニイエ号)が一番いいと思いました。

 ジイーと顔を見ていると、なるほどいい鳩だなー、という実感が湧いてきます。何とも云えない眼の底に理智が働くような顔をしていて、まったく感動させられます。ドマレーという人は、競翔家としては地味な人であったかも知れませんが、鳩の選びかたも鳩の作りかたも一流と感じました。優勝鳩もいいし、またその兄弟鳩も、仔鳩もなかなかよく出来ています。私はこの優勝鳩の直子の栗などを数羽手に入れました』

 と述べている。

 □非常にラッキーだった私□    2020年10月23日(金) 1:56 修正
 やっとの思いで導入に成功した大阪の大田氏はそれまで集めた世界の著名系統の代表鳩をほとんど手放し、方針を変えて、ミュニイエ号とその父鳩であるブロソカート号を中心としたドマレー鳩舎の血統と、それに対する交配系統としてのモナン氏の血統との二本立てで新しい鳩作りをしようと思った。

 その頃、愛鳩の友誌で「日本の十大銘鳩」と「世界の十大銘鳩」を決定しようと、候補鳩を募ったところ、当然のことながら大田氏はミュニイエ号を立候補させた。

 「世界の十大銘鳩」の決定とその順位は。翌年2月5日をしめ切りとする投票で定められることになっていたが、大田氏は急に一身上の都合で折角あつめた銘鳩群を手放して鳩の飼育を休まなくてはならなくなった。

 私は非常に幸運だったのである。

 大田氏は飼鳩休止に際して親しく交際していた私に全鳩処分の相談を持ち込んできた。
 大田氏は親友の任秀夫氏と共同で新事業を始めるために任氏ともども全鳩を処分することになったものである。

 この話を受けたときに、これだけの銘鳩が手に入るならいっそのこと世界中の超銘鳩を集めて″宮沢系“を作ってみようと思いたった。
 世界一の銘鳩が自分のものになる1愛鳩家なら誰でもが描く夢であろう。
 大田氏の希望値段はかなり高いものであったが私は彼の条件を快諾し、1965年8月20日、ミュニイエ号を自分のものとして、誰への遠慮なしに腕の中へ抱くことができたのである。

 大田氏の全鳩と、任氏の全鳩、合計157羽を一手に引受けた私は、8月20日の夕方10数この輸送籠に分けて大型トラックに乗せ、私自身はトラックのすぐうしろから乗用車で、まるで鳩たちを護衛するかのように追随して大阪を出発し。翌日昼ごろ東京の私の家に到着した。

 自分の鳩舎へ収容して、改めて見るミごIイエ号のすばらしさは、また格別だった。
 前額と後頭部のよく発達した頭部に、濃い橙色の眼、アメ色のくちばしをもっている。
 主翼は非常に長く、巾広い主羽10枚めの長さは20センチ。
 肩の筋肉(上勝筋)は堅固、胸の筋肉(大胸筋)は弾力性に富んで豊富である。
 骨格は、全体的に強固で、竜骨(胸骨)は長く恥骨との間隔は一横指がやっとという理想的なものである。恥骨は完全に閉鎖し、固い。竜骨のカーブは浅く、したがって脚は短かめで腰が低く落着いている。
 体は総体的に非常にバランスがよく、胴引きのある長めの鳩体は、いかにも長距離鳩らしい印象を与えてくれる。


 □「世界の十大銘鳩」の第一位に□    2020年10月23日(金) 2:01 修正

 私はその年(1965年)の暮までに、10坪の種鳩鳩舎を完成させると共に、宮沢系確立のための計画を練って今まで飼育していた鳩の中の数羽と、大田、任の両氏からの157羽中からミュニイエ号、ブロンカート号、テキサス号、リッピー号らの数羽を残してその他を完全に整理しその他の世界的超銘鳩を、少しずつ入手しながら、。宮沢系”の基礎鳩となる鳩を着実に集めていた。
 翌、1966年2月には、
 「世界の十大銘鳩」と、その順位を決定する投票もしめ切られ、ミュニイエ号”は予想どおり、第1位の座を獲得したのである。

 □ミュニイエ号の子鳩作出状況(1970年春までの分)□    2020年10月23日(金) 2:05 修正

 一方、1965年8月20日にミュニイエ号を手に入れてからの、この鳩の作出は順調であった。
 ミュニイエ号は、新鳩舎が同年暮に完成するまでは古い種鳩鳩舎に収容され、補助基礎鳩。DDD号”(ベルギーの富豪愛鳩家デボス氏の作で、同氏がミュニイェ号を飼育している頃に配合してあった雌)との配合で、同年秋に4羽のヒナを作出した。作出鳩は非常に綺麗な鳩ばかりで、体型的には、ズングリ型のDDD号に近寄ったタイプのものが多かった。しかし一番仔の雄「904401」は主翼は長めで大きく、堂々とした特にすばらしいものであった。
 1966年は、新鳩舎の第2巣房に収容され、配偶雌鳩が3度とりかえられて作出されている。
 最初の雌はワールドークイン号で、3月から5月にかけて6羽が作出されている。この配合作出鳩は、DDD号との作出鳩ほど見たところは立派ではなく、中には眼ぶちが少し赤味を帯びているものもあったが、体がミュニイエ号よりすらりと長めでレースに使い易そうな実戦型の鳩が多かった。
 同年5月中半からミュニイエ2号(ドマレー氏作のミュニイェ号の直子)と交配され3羽のヒナを作った。
 親子交配の貴重な作出鳩なので3羽とも種鳩用に残されていたが、ミュニイエ号によく似た1羽の雄、ミュニイエ2号によく似たデコ型の頭部をもった2羽の雌とも、体は多少小さくなっているが、私は気に入っている。(雄は間もなく死亡)
 次はローサ号(ドマレー氏作)と交配され7?8月の間に3羽を作出している。最初の雄は非常に立派な鳩で、今でもその美しい容姿が目にうかぶが某氏に懇願されて譲ってしまった。あとの2羽は体も丈夫でなく、またタイプも私の好みとは違っていた。

 ここまでは、世界一の銘鳩ミュニイエ号の蕃殖は順調であったが、秋を迎えるころから調子がおかしくなり、その秋はもちろん、翌1967年は1羽も作出できなかった。
 ミュニイエ号は、自分だけにあてがわれた約半坪の鳩舎の中や、日光浴のために入れられる寵の中で、あちこちの羽の抜けてしまったみじめな姿で数ヵ月を過ごしたのである。
 私も必死の思いで、あらゆる治療をほどこした。皮膚に鉄冷鉱泉を塗ったり、軟膏をつけてみたり、また良いといわれればすぐその薬を呑ませたりした。病名は、内臓疾患からくるトリコモナス症ではなかろうかということであった。
 1968年に入ると、暖房をきかせた冬期の管理と治療法がよかったのか、やっと快方にむかい、3月にウェルデン6号を配合し、おそるおそる蕃殖を再開するまでになった。
 こうして、4月に2羽、6月と7月に1羽ずつの計4羽を作出した`。
 8月には、新しく主要基礎鳩として私が購入したエバー・オンワード号と交配されたが、1個の軟卵を産しただけで遂に一羽の子鳩もとれず、エバー・オンワード号はもう少し休ませることとして、11月に再びウエルデン6号と交配し、12月に2羽を作出した。
 ウエルデン六号との作出鳩は。眼色も実にすばらしく、ミュニイエ号によく似た美しさと知性とを兼備えた中型のバランスの良い鳩ばかりで私を満足させた。
 以上のとおり、1968年末までに私は22羽を作り11羽を残した。
 1969年には再び、待望のエバー・オンワード号と配合され、やっと1羽、シルバーの雄が作出された。
     (中略)
 世界の愛鳩家が待望するミュニイエ号の直系の活躍を、私は重大な責任を感じながら何とか果そうと努力をつづけている。      (了)

 〈参考資料〉【源流768号】 20-03768 BC♀ 20年8月17日生 (源流秘蔵岩田号×帝王パイドU号)   イレブン  2020年10月18日(日) 20:27
修正

 ■父:【源流秘蔵岩田号】09DA31432BCW♂  イレブン  2020年10月18日(日) 20:29 修正
源流系岩田ライン最高基礎鳩

 ■母:【帝王パイドU号】11YA00296  イレブン  2020年10月18日(日) 20:37 修正
源流系帝王ライン基礎鳩

●【08SA200009】坪井作モンローキング号異父兄弟×【帝王パイド7396号】10YA07396の直仔

※ツノコブ

 ■祖母:【帝王パイド7396号】10YA07396BCP♀  イレブン  2020年10月18日(日) 20:44 修正
帝王ロフト作 最高基礎鳩 帝王稚内3号系 ●95ゴールデンアイ親子配合

 2020年秋 300Kレース   イレブン  2020年10月15日(木) 6:01
修正
本日が日程を繰り上げて300Kの持ち寄りとなりました。今回も追い風のようです。高分速レースとなりそうですね。

 300Kレース結果  300K一般連合会9位入賞! 参加7羽 記録4羽(57%)  イレブン  2020年10月16日(金) 21:19 修正
本日、8時30分放鳩でした。昨年秋200Kレースで連合会2位(1位同着)した19-5393BC♀が連合会一般9位で入賞しました。全体としては5割程度の帰還率でした。天候は、曇天で日暮れから小雨が降り出しました。イレブンの地域では、毎回、300キロまでに一度は、帰還率が悪いレースとなる傾向があります。

今回の参加は7羽です。他は、全鳩、この秋は、200Kまでで終わりです。

今年は、來春の戦力を蓄えるため、200K時点で、秋最終まで戦うチームと、秋200kまででレースを止めて来春に備えるチームに分けました。秋レースでこれまでに失った鳩は、合計10羽です。

●100K……参加41羽・帰還40羽・失踪1羽
●200K……参加39羽・帰還33羽・失踪6羽
●300K……参加7羽・帰還4羽・失踪3羽


【300Kレース結果】
○自鳩舎順位〈連合会順位〉
【当日】
@〈一般9位〉19-5393BC♀[分速1249.502m](モンスターキッド×一本刺しクイン)
A〈一般18位〉19-5363BC♀[分速1198.244m](異血241×クイン900)
B〈菊花36位〉20-3214BW♀[分速1199.774m](モンスター×SSクイン)
C〈菊花42位〉20-3604スレート♀[分速413.821m](パイド5680×パイドU号)

■上画像:〈参考資料〉源流系種鳩【源流0416号】(源流秘蔵岩田号×源流クイン号)
■下画像:〈参考資料〉源流系岩田ライン基礎鳩【源流16号】(源流秘蔵岩田号×帝王81号)※源流秘蔵岩田号親子配合作出鳩

 @〈★9位入賞★〉19-5393BC♀[分速1249.502m](モンスターキッド×一本刺しクイン)  イレブン  2020年10月16日(金) 21:34 修正
2019年秋
100K、不参加
200KA【連合会2位】〈連盟総合4位〉分速[1443.077m]
300KL【連合会67位】分速[723.780m)
2020年春
100K記録、
200K、G【連合会79位】分速[1091.145m]
300K、D【連合会94位】分速[1142.096m]
500K、C【連合会33位】分速[1057,048m] 
2020年秋
100K記録、
200K記録、
300K9位

 A〈18〉19-5363BC♀[分速1198.244m](異血241×クイン900)  イレブン  2020年10月16日(金) 21:36 修正
2019年秋
200KI【連合会82位】分速[885.685m]
300K@【連合会22位】分速[1267.580m]
2020年春
100K記録
200K記録
300KF]【連合会106位】分速[1125.383m]
500KB 【連合会29位】[分速1072,758m] 

 B〈菊花36〉20-3214BW♀[分速1199.774m](モンスター×SSクイン)  イレブン  2020年10月16日(金) 21:36 修正

 C〈菊花42〉20-3604スレート♀[分速413.821m](パイド5680×パイドU号)  イレブン  2020年10月16日(金) 21:38 修正
【95ゴールデンアイ×帝王1918号】95ゴールデンアイ親子配合の3重近親

 2020年秋 200Kレース  イレブン  2020年10月5日(月) 22:03
修正
持ち寄りが延期となり、本日が200kレースの持ち寄りでした。
イレブン鳩舎は39羽の参加です。ここ数年200Kは毎回好成績が続いていますが、今回はどうでしょうか。天気予報では、晴天追い風のようです。

 2020年秋 200Kレース速報 参加39羽 2日目18時時点:33羽帰還(記録率85%)  イレブン  2020年10月6日(火) 15:08 修正
本日8:00放鳩でした。

◆全体としては7割ぐらいの記録率だったようです。ちなみに1位は分速1627.185m、。上位4位までは分速1600m代でした。高分速レースでした。
イレブン鳩舎では分速1500mを超えたのは初めてでした。何とか3羽はトップ集団についてきています。

○自鳩舎順位〈連合会順位〉
【当日】

@〈32〉20-3219BC♂ [分速1504.378m] (モンスターキッド×一本刺しクイン)
A〈33〉19-5447B♂[分速1503.258m](ベルデンサンセット×帝王7966号)
B〈34〉20-3646B♂[分速1502.888m](ゴールデン3代目×ピンクパール)
C〈51〉20-3601BC♂[分速1439.814m](メタリック×帝王1331号)
D〈52〉20-3611BC♂[分速1439.814m](帝王6869号×2代目ブラッククイン)
E〈54〉19-5363BC♀[分速1439.814m](異血241×クイン900)
F〈67〉20-3218B♀[分速1416.247m](モンスターキッド×一本刺しクイン)
G〈68〉20-3651B♀[分速1350.554m](19帝王レッド号×源流343号)
H〈69〉20-3640BW♂[分速1350.102m](金姫キング×帝王9652号)
I〈71〉20-3217B♀[分速1349.796m](ゴールデンモンスター×クインU世)
J〈78〉20-3211BC♂[分速1349.498m](黄眼号×モンスターGG号)
K〈79〉20-3227BCW♂[分速1324.849m](帝王705号×帝王5717号)
L〈84〉19-5393BC♀[分速1324.553m](モンスターキッド×一本刺しクイン)
M〈85〉20-3663B♀[分速1303.597m](帝王705号×帝王5717号)
N〈87〉20-3606B♂[分速1303.319m](ゴールデンモンスター×クインU世)
O〈88〉20-3610BCW♀[分速1285.614m](ゴールデン3代目×ピンクパール)
P〈92〉20-3228BC♂[分速1285.204m](帝王705号×帝王5717号)
Q〈100〉20-3653BC♀[分速1256.924m](帝王8402号×帝王GNクイン)
R〈103〉20ー32220B♂[分速1225.262m](19帝王レッド号×源流343号)
S〈104〉20-3213B♂[分速1199.895m](モンスター×SSクイン)
(21)〈105〉20-3214BW♀[分速1199.774m](モンスター×SSクイン)
(22)〈108〉20-3639BC♀[分速1199.061m](金姫キング×帝王9652号)
(23)〈109〉19-5329BC♂[分速1183.018m](ゴールデン3代目×パール)
(24)〈121〉19-5359DC♀[分速1182.207m](ゴールデン3代目×パール)
(25)〈127〉20-3215B♂[分速1061.967m](モスクワU×SSシルバースター)
(26)〈128〉20-3614BC♀[分速1025.549m](帝王7968号×クイン900)
(27)〈129〉19-5379BC♀[分速1025.377m](パイド5680×モンスターGG)
(28)〈130〉19-5408BC♀[分速1019.077m](帝王8402号×帝王1331号)
(29)〈164〉20-3681BCW♀[分速1010.569m](ゴールデン3代目×ピンクパール)
(30)〈167〉20-3230BC♀[分速489.086m](帝王8402号×帝王GNクイン)
(31)〈173〉20-3609DC♂[分速423.279m](ゴールデン3代目×ピンクパール)
(32)〈174〉20-3604スレート♀[分速413.821m](パイド5680×ツノコブ号)

【2日目】
(33) 20-3648BC♂ (帝王7968号×クイン900)

 ■@〈32位〉20-3219BC♂ [分速1504.378m] (モンスターキッド×一本刺しクイン)  イレブン★★★  2020年10月7日(水) 4:58 修正
◎源流系SSライン基礎鳩【源流モンスター号】孫
◎源流系岩田ライン基礎鳩【源流秘蔵岩田号】の孫×孫

※姉19-5393BC♀
19年秋200K総合4位300K当日
20年春500k当日

[2020年秋]○自鳩舎順位〈連合会順位〉
■100k:A〈40位〉[分速1375.782m]
■200K:@〈32位〉[分速1504.378m] 

 A〈33〉19-5447B♂[分速1503.258m](ベルデンサンセット×帝王7966号)  イレブン★★★  2020年10月7日(水) 5:36 修正

 B〈34〉20-3646B♂[分速1502.888m](ゴールデン3代目×ピンクパール)  イレブン★★★  2020年10月7日(水) 5:38 修正

 C〈51〉20-3601BC♂[分速1439.814m](メタリック×帝王1331号)  イレブン★★  2020年10月7日(水) 20:29 修正

 D〈52〉20-3611BC♂[分速1439.814m](帝王6869号×2代目ブラッククイン)  イレブン★★  2020年10月7日(水) 20:31 修正

 E〈54〉19-5363BC♀[分速1439.814m](異血241×クイン900)  イレブン★★  2020年10月7日(水) 21:06 修正

 F〈67〉20-3218B♀[分速1416.247m](モンスターキッド×一本刺しクイン)  イレブン★★  2020年10月7日(水) 21:08 修正
■@〈32位〉20-3219BC♂ [分速1504.378m] の同腹

 G〈68〉20-3651B♀[分速1350.554m](19帝王レッド号×源流343号)  イレブン★★  2020年10月7日(水) 21:11 修正

 H〈69〉20-3640BW♂[分速1350.102m](金姫キング×帝王9652号)  イレブン★★  2020年10月7日(水) 21:13 修正

 I〈71〉20-3217B♀[分速1349.796m](ゴールデンモンスター×クインU世)  イレブン★★  2020年10月7日(水) 21:24 修正

 J〈78〉20-3211BC♂[分速1349.498m](黄眼号×モンスターGG号)  イレブン★★★★  2020年10月7日(水) 21:38 修正

 K〈79〉20-3227BCW♂[分速1324.849m](帝王705号×帝王5717号)  イレブン★★★  2020年10月8日(木) 4:27 修正

 L〈84〉19-5393BC♀[分速1324.553m](モンスターキッド×一本刺しクイン)  イレブン★★  2020年10月8日(木) 4:30 修正

 M〈85〉20-3663B♀[分速1303.597m](帝王705号×帝王5717号)  イレブン★★  2020年10月8日(木) 4:37 修正

 N〈87〉20-3606B♂[分速1303.319m](ゴールデンモンスター×クインU世)  イレブン★★★★  2020年10月8日(木) 4:40 修正

 O〈88〉20-3610BCW♀[分速1285.614m](ゴールデン3代目×ピンクパール)  イレブン★★★  2020年10月8日(木) 4:42 修正

 P〈92〉20-3228BC♂[分速1285.204m](帝王705号×帝王5717号)  イレブン★★★  2020年10月8日(木) 4:43 修正

 Q〈100〉20-3653BC♀[分速1256.924m](帝王8402号×帝王GNクイン)  イレブン★★★★  2020年10月8日(木) 4:44 修正

 R〈103〉20ー32220B♂[分速1225.262m](19帝王レッド号×源流343号)  イレブン★★★★  2020年10月8日(木) 4:46 修正

 S〈104〉20-3213B♂[分速1199.895m](モンスター×SSクイン)  イレブン★★★  2020年10月8日(木) 5:23 修正

 (21)〈105〉20-3214BW♀[分速1199.774m](モンスター×SSクイン)  イレブン★  2020年10月9日(金) 5:16 修正

 (22)〈108〉20-3639BC♀[分速1199.061m](金姫キング×帝王9652号)  イレブン★★★  2020年10月9日(金) 5:18 修正

 (23)〈109〉19-5329BC♂[分速1183.018m](ゴールデン3代目×パール)  イレブン★★★★  2020年10月9日(金) 5:24 修正

 (24)〈121〉19-5359DC♀[分速1182.207m](ゴールデン3代目×パール  イレブン★★★★  2020年10月9日(金) 5:27 修正

 (25)〈127〉20-3215B♂[分速1061.967m](モスクワU×SSシルバースター)  イレブン★★★  2020年10月9日(金) 5:32 修正

 26)〈128〉20-3614BC♀[分速1025.549m](帝王7968号×クイン900)  イレブン★★★  2020年10月9日(金) 5:55 修正

 (27)〈129〉19-5379BC♀[分速1025.377m](パイド5680×モンスターGG)  イレブン  2020年10月9日(金) 18:32 修正

 (28)〈130〉19-5408BC♀[分速1019.077m](帝王8402号×帝王1331号)  イレブン  2020年10月9日(金) 18:55 修正

 (29)〈164〉20-3681BCW♀[分速1010.569m](ゴールデン3代目×ピンクパール)  イレブン  2020年10月9日(金) 18:58 修正

 (30)〈167〉20-3230BC♀[分速489.086m](帝王8402号×帝王GNクイン)  イレブン★★★  2020年10月9日(金) 18:59 修正

 (31)〈173〉20-3609DC♂[分速423.279m](ゴールデン3代目×ピンクパール)  イレブン★★★★  2020年10月9日(金) 19:01 修正

 (32)〈174〉20-3604スレート♀[分速413.821m](パイド5680×ツノコブ号)  イレブン★  2020年10月9日(金) 19:01 修正

 (33) 20-3648BC♂ (帝王7968号×クイン900)  イレブン★★★  2020年10月9日(金) 19:02 修正

 ◆34◆200K不参加@◆19-05424B♀(パイド5680号×モンスターGG)  イレブン★★★  2020年10月10日(土) 6:31 修正

 ◆34◆200K不参加A◆20-03620BC♂(メタリック号×帝王1331号)  イレブン★★★★  2020年10月10日(土) 12:04 修正
※80キロ訓練後日(20日目帰還)尾翼負傷

 ◆34◆200K不参加C◆20-03603BC♀(スーパークラック号×源流パール号)   イレブン★★  2020年10月10日(土) 12:16 修正

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