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ようこそ、「スネークパパの掲示板」へ。お気軽に投稿いただければうれしいです。(『スネークパパの部屋』管理者イレブン)

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 2021年 明けましておめでとうございます。  イレブン  2021年1月1日(金) 6:53
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 皆様、2021年 明けましておめでとうございます。

 今年こそは、皆様方にとっても、イレブンにとっても、明るい希望が開ける1年でありたいと願っております。先が見えない、様々な不安が時代だからこそ、夢や希望を持って生きることが大切になってくると思います。

 レース鳩という趣味は、絶えずそうした夢や希望を持っていける楽しみがあるところが素晴らしいと思ってます。

 今年も一段と源流系の確立に向けて更なる精進と研究の深化に向かって努力していく決意です。
 本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

さて、昨夜大晦日の夜は、定番中の定番、NHK紅白歌合戦を観ました。初めての、無観客ステージでの開催でしたがとても素晴らしい内容でした。掲示板をご覧の皆様もきっと多くの方がご覧になったことと思います。こうした時代の中での開催だけに、人々に元気を与えるような歌が沢山あったように思います。

イレブンは、かつて終戦前後の歴史に関わる研究をしたことがあるのですが、このNHK紅白歌合戦の原型が最初に行われたのはなんと終戦の年の1945年の12月31日だったそうです。終戦僅か4ヶ月後に歌合戦が開催されていたのを知りとても驚いたことがあります。

昨夜の無観客紅白歌合戦を観ながらそんなことを思い出しました。

今年は、静かなお正月となることと思いますが、皆様、良いお年をお過ごし下さいませ。

令和3年 元旦 イレブン

 2020年 大晦日の朝  イレブン  2020年12月31日(木) 7:53
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パンデミックで世界が一変してしまった2020年。12月31日の朝は、うっすら雪化粧でした。

このコロナ禍の状況は、マラソンで例えると、まだ10キロ地点だそうです。まだ先は長いようです。

そんな中で、日本中が「静かな年末年始」を迎えることも、これまで経験したとがありませんね。イレブン家も自宅で静かに過ごす予定です。

寒い朝でしたが、今朝も選手鳩達は元気に飛び立っていきました。しばらくは、帰って来ません。コンデションは上々のようです。

皆様、良いお年をお迎え下さいね。

 ■■『Piet de Weerd 研究』038■■  [ピート・デヴィート回想録038「M.デスメットの栄光」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1999年1月号 )  イレブン  2020年12月27日(日) 8:33
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様々な意味で多くの人々に長く記憶に残されていく2020年もあと僅かになりました。この『Piet de Weerd 研究』を始めたのは、2020年6月19日です。緊急事態宣言が解除されて間もない頃でした。

この半年ほどの間にピートさんの回想録も38回までたどり着きました。月間連載の3年分ほどです。関連資料をできるだけ収集しながらすすめているので遅々として進まないのですがイレブンとしては、結構楽しみな研究となっています。当分は、掲示板に書きっぱなしですが時間がとれるようになったら、キチンと整理したいと考えています。

交通事故で64才で亡くなったマルセル・デズメットに対するピートさんの評価は、デルバールと並ぶほどの評価の高さです。この回でもピートさんは、「濃密な近親交配」の重要性を指摘しています。以下に抜粋しておきますね。

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●しかしながら、玄人ならば多分マルセル・デスメットを推すでしょう。マルセル・デスメットは長距離ではおそらく最も多くの賞をさらいました。それはステッケルボートの卓越したクラスと、マルセル・デズメットがそれらの鳩を使った交配の賜物にほかなりません。同様のことはドイツのハインツ・フルゴニ、ベルギーのエミール・ドウーウェールトにも言えます。

●私たちはヤンセンについて語り、とりわけ近親交配について見てきました。ヤンセンは独占しませんでした。そもそも鳩の育種に特許などというものはありません。

●アロウ・ステッケルボートも同じく大成功をおさめました。近親交配によって活力が失われていると信じている者は間違っています。淘汰されたものは生き残り、いっそう強化されるのです。

●”ローセレ”はドゥヴリーントの”ズワルテバンド“やデマレットの”ヴァーレ・ブリクー“(※イレブン:ミュニエ号のこと)と同レベルの鳩でした。種鳩としても両銘鳩と同様に傑出していました。リングナンバーは48−3447865でした。この気性の荒い鳩は、つかんだときに「腹と背に肉がなく翼が薄い」銘鳩の原型でした。ギブアップするくらいなら死んだほうがマシというファイターで、どんな天候のもとでも、どれほど強風が吹こうと、いつも先頭を飛びました。

 ・  □   2020年12月27日(日) 8:46 修正
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 1952年、ワーレヘムのマルセル・デスメットはベルギーチャンピオンの座に輝いた。主に長距離で活躍した彼の強みはステッケルボート系のトリを卓越した手腕で交配し、優秀なレーサーを作出したことにある。”ローセレ“”タンメ“そしてバルセロナIN優勝の”バルセロナ”いずれ劣らぬ銘鳩たちである。

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 ■マルセル・デズメット。気高きチャンピオン■ (前回の続き)  Piet de Weerd   2020年12月27日(日) 8:48 修正
 ”カスタール“は1975年バルセロナINで8301羽中優勝、1980年ペルピニャン1053羽中優勝を果たしました。

 ジュリアンは50年代にレースをバルセロナー本に絞り始めました。それによって彼は成果を上げただけでなく、世界的な名声も獲得したのです。その生涯で達成した最高の結果は、1969年のバルセロナレースです。

 それは困難なレースでした。2日目の夜までに8217羽中24羽しか帰舎しませんでした。放鳩は7月11目午前7時40分でした。このとき、2羽の鳩が分速800メートル以上で飛びました。それらは私が、一番好きなタイプのトップレーサーでした。

 この2羽は3位に1時問も差をつけました。1羽はデスメット=マタイスに由来するマールケ・ケルケム在住オプソール・デメリエールの”バロン”、もう一羽はヘリネス・レ・ペック在住レオポルト・クドゥーのトリです。

 私はフィリップスの代理人で、ワシントン州はミシガン湖に近いフォンド・ドゥ・ラックに住むアメリカ人のロバート・キングを、雪と氷をついて自宅に訪ねたとき、クードゥのこと話しました。それから二人はパートナーシップを結び、成功を収めたのです。

 バルセロナINでジュリアン・マタイスは6位、10位、28位、58位に入賞しました。彼の有名な”ランゲ・バルセロナ”63-3108131は4位でした。この鳩はそれまですでにアングレームでは5回入賞し、バルセロナでも5348羽中5位の成績をおさめていました。

 その父はミッシェル・デスカンプス=ヴァンハステンの”アウデ・アイゼレン”54−3037704と、”ベイテル“の娘56-3019229のペアから生まれた”アイゼレン“59-3433852です。

 ”ランゲ・バルセロナ”63−3108131の母は、オーステンデに住むマウリス・ヴァンデヴェルデのサン・バンサンN優勝鳩と、ジュリアン・マタイスのカオールN優勝鳩の娘とのクロスによって生まれました。この鳩は、オークションで記録的な落札価格で日本に売られました。このときジュリアンは85歳でした。

 私は50年代以前にさかのぼるつもりはありません。当時、フランドルにはデスメットという名のブリーダーが3人いました。ヘラールズベルヘンのヘクトール・デスメット、ワーレヘムのマルセル・デスメット、そしてワーレヘムに近いノーケレに住むヴァレール・デスメット=マタイスです。皆さんが私にどの鳩が一番好きだったかと聞かれても、答えるわけにはいきません。

 しかしながら、玄人ならば多分マルセル・デスメットを推すでしょう。マルセル・デスメットは長距離ではおそらく最も多くの賞をさらいました。それはステッケルボートの卓越したクラスと、マルセル・デズメットがそれらの鳩を使った交配の賜物にほかなりません。同様のことはドイツのハインツ・フルゴニ、ベルギーのエミール・ドウーウェールトにも言えます。

 私たちはヤンセンについて語り、とりわけ近親交配について見てきました。ヤンセンは独占しませんでした。そもそも鳩の育種に特許などというものはありません。

 アロウ・ステッケルボートも同じく大成功をおさめました。近親交配によって活力が失われていると信じている者は間違っています。淘汰されたものは生き残り、いっそう強化されるのです。

 ■ 非凡なローセレとその仲間たち ■    2020年12月27日(日) 8:49 修正
 1952年のベルギーチャンピオン、マルセル・デスメットがかつて作った最高の鳩は、私の意見では”ローセレ”です。目の縁(ふち)が赤ないし桃色で、見た目は良くも美しくもありませんでした。

 ”ローセレ”はドゥヴリーントの”ズワルテバンド“やデマレットの”ヴァーレ・ブリクー“(※イレブン:ミュニエ号のこと)と同レベルの鳩でした。種鳩としても両銘鳩と同様に傑出していました。リングナンバーは48−3447865でした。この気性の荒い鳩は、つかんだときに「腹と背に肉がなく翼が薄い」銘鳩の原型でした。ギブアップするくらいなら死んだほうがマシというファイターで、どんな天候のもとでも、どれほど強風が吹こうと、いつも先頭を飛びました。

 以下に”ローセレ”の輝かしい黙歴を掲げます。リモージュN2165羽中63位、ブリーブN1921羽中3位、破滅的なチュールNでは4212羽中72位、シャトローN6900羽中5位。このときは鳩舎に入るうとしなかったために、デスメット=マタイスの”クラーレ”に優勝を奪われてしまいました。ブリーブN1423羽中89位、リモージュN1323羽中34位、ブリーブN3465羽中17位、カオールN2293羽中3位。このレースで放鳩当日に帰還した鳩は3羽だけで”ローセレ”は夜10時過ぎに真っ暗闇のなか帰舎しました。リボルヌN1900羽中2位、天気が悪く、雨と霧に悩まされたレースでした。そしてアングレームN51位。

 ”ローセレ”はカルカソンヌNで優勝して自動車を獲得した”バールト”と、”スレヒトペンネ”の全兄弟です。いずれ劣らぬ銘鳩でした。父親はニウウェンホーヴェ・ワーレヘム在住デスメット兄弟のステッケルボートです。この兄弟は当時長距離の強豪として鳴らし、”ドクス“を作出したレミ・ハデイネがその系統を確立する際も助言を与えました。

 この系統からウィールスペーケ在住ヴァンデンブルッケ・ドゥウェールトの”ネロ”が輩出しました。”ネロ”はナショナルで優勝2回、2位と3位各1回という戦績を残しました。

 ”ローセレ”の母親はアロワ・ステッケルボートの純系です。”ブレーケ”34-3236983と、その母”アウト・ズワルチェ”32-3313677という、かつて存在した最高のカップルのひとつから生まれました。
 ”タンメ“48-3447829も素晴らしいレーサーでした。ステッケルボートとドゥヴリーントの配合によって作られました。賞歴はリボルヌN4524羽中7位、リモージュN1948羽中48位、カオールN2313羽中10位、ブリーブN1423羽中59位、リモージュN1328羽中13位です。その間に、ボルドーから2位に半時間の差をつけてコルトレイクに帰還しています。

 マルセルは1957年にアンタント・ペルジュのナショナルチャンピオンになりソワール杯を受賞、その翌年にはクレヘムセンターの準ナショナルチャンピオンになりました。1959年、彼は2羽の鳩をバルセロナに送り、優勝と51位を獲得。優勝した鳩は。”ローセレ”の従兄弟で、1時間ぶっちぎりでした。マルセルはヘイゼヘム在住ブルッセール牧師およびファンブリアーナとの交配で大成功をおさめました。

 マルセルの鳩と才能をもってすれば、長年にわたり全国の上位10位内にランクされたとしても不思議ではありませんでした。しかし、1971年4月10日、交通事故による早すぎる死がそれを妨げました。64歳でした。彼は鋼鉄の肉体を持った頑強なスポーツマンでした。

 友人としては、デルバーにも匹敵しました。誰かが彼のもとにやってきて良い鳩をねだると、いやとは言えませんでした。1959年にバルセロナINで優勝したとき、私はお祝いを言うために彼のもとに行きました。そのときマルセルはおよそ次のような言葉で私に謝りました。

 「ピート、当時僕が君をちっとよく知っていたら、この母鳩(”ローセレ”の妹)は君に譲っていただろう。この鳩がまだ若いときに君が何度も頼むので、僕は良い鳩だということが分かったのだ」。

 マルセル・デスメットはそういう男だったのです。あの呪わしい事故のことを聞いたときはショックでした。

 マルセル・デスメットは私のために、ロッテルダムのハンス・ワッセンのために、そしてデルフトのアート・アルセムヘーストが系統を確立するために、ありとあらゆる労を惜しみませんでした。そこで私は、以下に彼の鳩について重要なデータを記したいと思います。
 彼が所有していたステッルボートの母は、1943年の雌鳩で、”アウト・ズワルト” ”フーデ・ブレーケ””フーデ・ズワルテ“そして”オプヘブラーゼネ”にさかのぼります。4羽とも直系の先祖です。リングナンバーはステッケルボートについて書いた箇所に掲げました。

 マルセルはデスメット兄弟を経由して”才プヘブラーゼネ”の直子を手に入れましたが、この鳩は後にワーレヘム近郊のヴェイヴェ・サンテロアに住むマウリス・ヴァンテームセ
牧師のもとに行きました。

 それは1943年の黒鳩でした。この鳩は、私たちが便宜上マルセルの基礎鳩と呼ぶ雌鳩と配合しました。このカップルが作られたのは1944年で、その後数年間一緒でした。そして”ローセレ”48-3447865や、最良の種鳩”ヘブーケン・ペン”44-319647を生みました。私かあまり好きでなかった”プラッテコップ“51-3369057は、ラウヴェの市長ルドルフ・ヴェルフーヴェの鳩舎のチャンピオン鳩、いわゆる”パウ・ファン・ラウヴェ“から出ています。

 マルセルの別の有名な鳩は”ケールケ”50-3047089でした。母親は”43“と同じですが、父親は”ブルッセール”すなわち”コミン”でした。この母親はやはり別の雄鳩との間に、青い雌種鳩を生みました。その子供がアンドレ・ファンブリアーナの53年の有名な”ウィッテリュッヘ”です。彼は常に慎重で、よく吟味しないで買うようなことはめったにありませんでした。

 ”タンメ“48-3447829は4分の3がステッケルボートで、4分の1がドゥヴリーントでした。この雄鳩は”コッピ雌“51-3369353と12年問カップルでした。ルドルフ・ヴェルフーヴェとマルセル・デスメットは一緒に、この雌鳩をなんとかアンドレ・ファンブリアーナから手に入れたのです。

 この雌鳩は”コッピ“と46年の”フーデ・ズワルテ”の娘との間に生まれました。その姉妹は、ヘラールズベルヘンのヘクトール・デスメットのもとであの比類ない”クレイネ・アスフラウウェ”を生みました。
  ”ケールケ“50-3047089は、私の意見では卓越した品質の鳩ではありませんでした。といっても、モントバーンNで6位に入賞したことがあります。

 父親はロベルト・レ・フェビューレの鳩舎の有名な”ブレーケ・パストール”すなわちブルッセール=コミン系でした。私はこの鳩を何回かつかんだことがあります。”ケールケ“は”ローセレ”の母、すなわち43年の”アウト・ステッケルボート“との問に、チャンピオンを生みました。

 兄弟の”ヨング・ケールケ“51-3369038は”ローセレ“の姉妹(私はこの雌鳩が欲しくてでヴァンデンブルッケに・「もし手放す気があるなら、幾らでも払う」と言ったことがあるくらいです)との問に”クラック”53-3301111を生みました。

  ”クラック“の賞歴は、カオ−ルN1709羽中4位、リボルヌN48位、サン・バンサンN979羽中18位などでした。”クラック“は”スホーネ“52-3196506と配合しました。
 ”スホーネ“はマルセル・デスメットの古い基礎鳩の兄弟と、金メダルを獲得した”口-セレ”の姉妹との間に生まれました。この雌鳩は再三話題になりました。その子供を買い、あるいはプレゼントしてもらった人達はみな満足しました。

 バルセロナINでバーレルヘーゲルに住ロベルト・レ・フェビューレの2位に時間の差をつけて優勝した”バルセロナ”55-3369038は、上述した”ヨング・ケールケ”54-3369038から生まれました。“ヨング・ケールケ“はステッケルボートの”ヴィットオーク“51-343681の娘との間に”クラック“を生みました。

”ヴィットオーゲ“はステッケルボートの”ヨンゲ・ビヒター”の兄弟”クレヨネ“から生まれました。
  ″ヴィットオーグ”は、オーステンデ在住シャルル・ファンデルエスプトの鳩舎で生まれました。その父親はバルセロナ“46-3099935、ヴァンデヴェルデ=シオンでした。
 
私はこの”バルセロナ”の母親をヴァンデンブルッケのために買いました。この雌鳩は最初はいびつな卵を産み、それから殼の柔らかい卵を産み、やがて全く産まなくなりました。”バルセロナ”は1950年にバルセロナINで6位に入賞しました。
 ”ヴィットオーグ“の母親はヘラールズベルヘンのヘクトール・デスメットが、リュクサンブール在住フランツ・ヘントゲスの非常に古い雄鳩と、ドクター・ブリクーの雌鳩を掛け合わせて作出したものです。このブリクーの雌鳩が生んだ娘は、デールレイクのアングレーム・プロヴィンシャルで高温と逆風に耐えて優勝しました。放鳩当日に帰舎した唯
一の鳩でした。
シャルルーファンデルエスプトはこの雌鳩の半兄弟を二羽もっていました。色は赤とベールトーンでした。この兄弟はサンーバンサ
ンN三位、バルセロナーN十六位、カルカソンヌN四七位、ポーN二三位、サンーセバスチャンN七位などの成績を上げました。


 源流系選手鳩 20-03606  B♂ (ゴールデンモンスター号×クイン2世号)  イレブン  2020年12月19日(土) 17:09
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 ・  イレブン  2020年12月20日(日) 6:01 修正
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 ・  イレブン  2020年12月20日(日) 6:01 修正
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 ・  イレブン  2020年12月20日(日) 6:02 修正
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 ・  イレブン  2020年12月20日(日) 6:03 修正
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 ・  イレブン  2020年12月20日(日) 6:04 修正

 ・  イレブン  2020年12月20日(日) 6:05 修正
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 ■■『Piet de Weerd 研究』037■■  [ピート・デヴィート回想録037「60年代を飾った強豪たち」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1998年12月号 )  イレブン  2020年12月19日(土) 6:14
修正
ピートさん回想録は、1960年代の数多くの強豪達の活躍を語ることで、ステッケルバウトの銘血の伝播を語っていきます。

それにしても、ピートさんがここで紹介していく銘鳩達の桁外れの記録内容には驚いてしまいます。レース鳩の世界において銘血の力の重要性がひしひしと伝わってきます。

まだしばらく、ステッケルバウト系の話題は続きます。

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●最近、1983年サン・バンサンNは破滅的なレースだったと報じた記事を読みました。しかし、実際にはトルンにあるラリュー・ヴァンードールンの鳩舎には夜27羽中20羽が戻り、ヘンフストデイクのベルトゥス・ヴェイネッカーでは14羽、ステーンベルヘンのシャレルチェ・ドゥ・ウェールトでも同様に14羽帰舎していたのです。

●夜間をはさむ1000ロメートルーレースを破滅的なレースなどと呼ぶべきではないでしょう。レースは青空のもとで行われ、天候の異変もなかったのですから。このレースが多くの出場鳩にとって困難だったとすれば、それはそれらの鳩に肉体的な条件が欠けているからです。彼らは山を降りるエネルギーはありあまるほど持っていても、山を昇る力に不足しているのです。

●1981年と1983年のサンーバンサンでは、数多くのヤンセンが入賞タイムで帰還しました。交配組も近親交配組もですが、そのほとんどが交配組だったのは当然です。その年は、交配によって生まれた鳩は近親交配より千倍も多かったのですから。これは統計の問題です。

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 ・    2020年12月19日(土) 6:22 修正
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 西フランドル連盟で連続3回チャンピオンに輝いたミッシェル・デスカンプスト=ヴァンハスデンは、盗難により致命的なダメージを受けた。しかし、その後も彼は銘鳩を次々と生み出している。長距離レースの無冠の帝王ことポール・ボスティンはデスカンプスの最良の友人の一人であった。

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 ■銘鳩の宝庫■  Piet de Weerrd  2020年12月19日(土) 6:23 修正
 ミッシェル・デスカンプス=ヴァンハステンは1955年に2歳鳩、3歳鳩、4歳鳩を全部盗まれました。たいていの人はこんな不幸に遇えば生き延びられないでしょう。しかし、彼の2番目の鳩舎は、次々と銘鳩を生み出す宝庫だったのです。

 ミブノエルは「西フランドル連盟しで連続3回チャンピオンになりました。3回王座に着けばもう皇帝です。この輝かしい進軍は1960年まで続きました。最後の年、彼はアンタント・ベルジュの国内長距離選手権で優勝しました。その当時彼がもっていた最高の種鳩は。クレイネ・クレヲチ54-3292353で、幾分青ゴマでした。これは、”ヨング・ペイテル“の全兄弟で、リモージュ60-3045153(1963年フランコ・ペルジュ・リモージュ優勝)、Jフング≒フスウェイン≒ ″ヴィットガー”を生みました。

 ミッシェルの60年代における最良の友に、偉大な鳩のエキスパート、ポール・ボスチンがいました。

 60年代の始め、アウデ・アイザレン54-3037704はバルセロナ雌”50-3060621とクロスして大きな成果を生みました。このカップルから生まれた最良の鳩にアイザレンフ24“と、ジュリアン・マタイスの鳩舎を財界的に有名にしたJフング・バルセロナ‘の父がいます。

 この2羽の兄弟と姉妹はファンネのもとに行きました。彼は大変な情熱と厚い札束をもって、良い鳩を探し回っていたのです。

 ヴェレーツケは”724“を買いました。が、このとき彼が支払った金額からすれば、むしろ贈り物にもらったと言うべきかもしれません。

 ”アイザレン724”は1960年ボルドINで2350羽中3位になりました。この困難なレースで”724”より速く飛ぶことができたのは、カトリスの”フィガロ“とデスメット=マタイスの”ドライアー”だけでした。同じ年、”724“はダクスNで870羽中11位、そしてリブルヌINではついに1080羽中優勝を果たしました。それにより”724“はその年のナショナル・エースピジョンとアンタント・ペルジュのチャンピオンになりました。1962年アングレームNでは、この雌鳩は1761羽中8位に入りました。

 ヴェレーツケは”724“のほかに”フィガロ“も買い取りました。オークションがあったとき、私はちょうどブリュッセルにいました。でも、私は”フィガロ”も”90”も買いませんでした。買おうと努めることさえしませんでした。それらの鳩は偉大さの片鱗も
なかったし、そのうえサルモネラ菌をやどしているという噂がとびかっていました。それは本当だったかもしれません。でもでヴェレーツケはまったく意に介さなかったのです。そうしたことは、ピジョンスポーツの世界ではよく起こります。

 ポールーボスチンは”724“の直子を二羽手に入れ、彼の最良の種鳩でベノ元の妹。700“とクロスしました。。700“はボスチンを70年代長距離レースの無冠の帝王にした鳩です。

 ポールは私に白分か所有している。リモージュ“63-3405484(ミッシェル・デスカンプスに由来する純系ステッケルボート)と、カトリスの雌鳩62-3002538のペアから生まれた青の娘をくれました。私はこのトリをエッセン・ルール在住のア(夕Iマンに売りました。

 これには面白い話があります。その雌鳩はペルントーア(ターマンのもとで、私か1年前に持っていったカウェンペルフのつがいから生まれたヤンセンと配合されました。このペアから雄鳩0544177-83が生まれ、第9地区(会員5500人)のマットフェルトに住むディーツ兄弟に贈られました。

 この雄鳩は、”コメート“ (彗星)と名付けられ、平均4000羽が出場したレースで7回の優勝を果たしました。1979年には同地区のエースピジョン(卜とフチャンピオン)となり、同時にドイツ全国伝書鳩連盟のコンテストでもチャンピオンになりました。ア(夕Iマンは鳩はもっぱらブレグにある私の鳩舎から買っていました。

 その結果、ヤンセンとボスチンの配合がドイツ中に広まったのです。ヤンセンとのクロスは、世界いつでも、どこでも勝利をおさめ、その数は実に限りがありません。

 最近、1983年サン・バンサンNは破滅的なレースだったと報じた記事を読みました。しかし、実際にはトルンにあるラリュー・ヴァンードールンの鳩舎には夜27羽中20羽が戻り、ヘンフストデイクのベルトゥス・ヴェイネッカーでは14羽、ステーンベルヘンのシャレルチェ・ドゥ・ウェールトでも同様に14羽帰舎していたのです。

 夜間をはさむ1000ロメートルーレースを破滅的なレースなどと呼ぶべきではないでしょう。レースは青空のもとで行われ、天候の異変もなかったのですから。このレースが多くの出場鳩にとって困難だったとすれば、それはそれらの鳩に肉体的な条件が欠けているからです。彼らは山を降りるエネルギーはありあまるほど持っていても、山を昇る力に不足しているのです。

 1981年と1983年のサンーバンサンでは、数多くのヤンセンが入賞タイムで帰還しました。交配組も近親交配組もですが、そのほとんどが交配組だったのは当然です。その年は、交配によって生まれた鳩は近親交配より千倍も多かったのですから。これは統計の問題です。

 ほかにもステッケルボートの近親交配で業績を残したトップブリーダーがいます。マルセル・デズメット、ヘラルド・ファンネ、アンドレ・リータール、デネイス兄弟、ヴァンテームセ牧師です。ヴァンテームセ牧師はプール地域に優秀な鳩を売り主したが、ゼーグミュラーはそれらの鳩で世界的に有名になりました。

 純粋なステッケルボートで数年間好成績を残した愛鳩家に、ラウヴエに住むフランス・クローツとレミ・ドゥボワがいます。フランスは1943年の”アウデ・ブレーケ”の息子を持っていました。その賞歴はアングレーム優勝、ボルドー優勝、サンーバンサン2位などです。

 が、フランスの”ボレ”はもっと優秀で、強敵を押さえて勝利をおさめた有名な長距離レースは5つを下りません。たとえば、ドールダン(ヘルーヴエ)1109羽中優勝、オルレアン(ルーセラーレ)1000羽中優勝、これらは強力なフライターたちが競って名を揚げようとする有名なレースです。

 ドッテネイスのアルベルト・ドゥハンとエルソーのエミール・デュポンはこれに成功しました。ヴァンブルアーンが彼の”フーデ・ズワルテ“で2位になったとき、フランスは鼻の差で優勝しました。

 フランスは、Wシステムの雄鳩を何度も負かしたことがある俊足の”トゥール雌“も持っていました。レこへ ・デウボワはアングレームで活躍していましたが、ヘラルド・ファンネの訪問を受け、持っていた最良の鳩をすべて彼に譲りました。これについてはいずれ書くつもりです。

 ワーレヘムのマルセル・デスメットは私の良き友人の一人でした。彼は”コーセル”より数年若い妹を持っていました。生後5ヵ月でした。なかなか良さそうなトリでした。私はシェフ・ヴァンデンブルッケに、この鳩を買うよう勧めましたが、何かの理由でうまくいきませんでした。

 マルセルはその鳩を売る代わりに、ある大きなレース――たしかアングレームだったと思いますが――に出場させて金メダルを獲得しました。ところが鳩はそれっきり飛ばなくなりました。その年の冬一緒に夕食を取ったとき、マルセルは私に「あのとき売っておけば良かった」と言いました。その後、マルセルはこの雌鳩のブリーダインクで成功しました。マルセルは気前のいい男だったので、もし当時まだその鳩を持っていたら私にくれたでしょう。といっても宣伝のためではありません。たしかに当時私はたくさんの新聞に書いてはいましたが。

 私かマルセルと出会ったとき、彼はイレーネという18歳の娘と結婚したばかりでした。
 私は父親のジュール・デスメットも知っていました。彼は90歳に手が届こうとする老人で、スタチエ・ストラートに住んでいました。私はこの父親から昔のブリーダーについてたくさんのことを知りました。当時、彼の話に耳を傾けようとするものは誰もいません
でしたが、それらは今では黄金伝説となっています。

 ■マルセル・デスメット 気高きチャンピオン■    2020年12月19日(土) 6:26 修正
 ジュール・デスメットは少なくとも3人のナショナルチャンピオンが正しい鳩を選びだすのを手助けました。

 一人はワーレヘムに住む友人で同僚でもあるアルフォンス・ブロンデール。ブロンデールはジュールと同じように、くず鉄の商いで金持ちになりました。

 あとの2人はヴィヒテに住むジュリアン・マタイスとその息子のマルセルです。ジュリアンは1983年、96歳で亡くなりました。彼には兄弟と姉妹が1人ずついましたが、2人とも100歳になりました。

 ジュリアン・マタイスは尊敬すべき高齢にもかかわらず、終生その名声を汚すことはありませんでした。彼は95歳になっても、第1次世界大戦の前のことや、1914年に自分の伝書鳩が全部ドイツ軍に差し押さえられたときのことを何時間でも語ることができました。

 「フォンークルックとかいう右翼の指揮官だった。粗暴でぞっとするような男だったと、マルヌでそいつを殴ったガリエニが言っていた。自分は一度も見たことはないが……」。

 ジュリアン・マタイスは、いついかなるところでも最良の鳩を買いでボロボロになるま
で交配しました。

 彼はコッペンス、デロムバールデやヨス・ヴェルホイエから鳩を買い、レオ・ベカールト、ドッテネイスのアルベルト・ドウハン、メルクセムのヨゼフ・ホーレマンスから、そしてコルネール兄弟からも買いました。コルネールからは純粋なヴィンセント・マリェンスを手に入れました。ヴァンデヴェルデとコミンヌの鳩は以前から持っていました。

 ジュリアンはとにかく気に入ったものは片っ端から買い、そのためには天国でも地獄でもでかけて行く男でした。頭が丸く、上腕は短く、筋肉が発達し、広い背中と胸を持ったほぼ標準的な体格の鳩を好みました。あたかもウナギのような筋肉を求めました。彼はひたすら筋肉を追求しました。なぜならば、鳩は筋肉で仕事をするからです。

 脚がとてつもなく太い”フォーロイト”は、”アウデ・スラッペン“に由来するものでした。このトリはブリーフNで2回優勝し、しかも2回目のときは2位に40分もの差をつけて帰還したのです。

 「フォーロイト」のような比類ないクラスを手に入れる前に、ジュリアンがクロスした偉大な長距離系の数は十三を下りません。このクラスは”バルセロナ”73−3025064と、アントーンとリリアンヌ・カルペールの”カスタール”76-3089112に受け継がれました。      (次号に続く)

   サウスタイム  2020年12月13日(日) 23:14
修正
イレブン様

いつも楽しくブログを拝見しております。

ここ数日のあいだに過去のブログ@~
Bまで読み多くの気付きがありました。 

特に竜王5号を関東のかたが広島まで足を運び
記事にしていた内容は超長距離時代を知らない
私にとって大変興味がわきましたし、なにより
探し求めていた答えを発見することができました。

それは、鳩の背中の広さについてです。

私の地元で80年代から90年代ごろまで多くの
実績を出していた岩田孝七氏作の鳩が大変背幅
が広くその事について飼い主に聞きましたら広島
では鉄板とよばれいい鳩の証だと教えて下さいました。

しかし、具体的に背幅が広いと何が良いのか聞いて
いなかったために答えを知るまで大分時間が掛かりま
した。

これからも宝探しのごとくブログを読んで行きたいと思います。

最後に源流SSプラチナ号の目まるで宝石のような
魅力的な輝きを放っておりますがssが名前に着いて
おりますので勢山系ですか?

素晴らしいのひと言につきます。

 源流プラチナSS号   イレブン  2020年12月14日(月) 4:55 修正
過去ログを見ていただきありがとうございます。全てに目を通すとかなりの時間がかかるかと思いますが、貴重な資料としてそのまま掲載しています。
「鉄板」の理論は、岩田系愛好家の方々の中で語られている重要な理論の一つですね。イレブンもいろんな方から教えて頂いたことがあります。

源流プラチナSS号は、平田基哉鳩舎で種鳩として大切にされていた広島在来銘血の結晶で出来ている銘鳩です。その銘血の根幹は、勢山庄太郎の勢山系すなわちSSです。このSSの銘血の鳩質をそのまま体現してしている銘鳩だと思い「SS」の2文字を付けています。

勢山庄太郎の勢山系の銘鳩達について、かつて細川英次郎が「本当に素晴らしい鳩たちだった」としみじみ述懐していた記述が残っています。

日本陸軍が、命運をかけてフランス軍から、現在の金額で十数億円以上の費用を導入したのが、1000羽の鳩たちでした。そして、その時、一緒に来日した、クレルカン中佐が自分用の鳩として持ってきて、特別鳩舎であるZ鳩舎で飼っていた鳩達がSSの源です。

当時の仏蘭西軍は第1次大戦の戦勝国で、「世界一の鳩達が揃っていた」とも云われています。クレルカン中佐はその仏蘭西軍の軍用鳩関係の将校のトップにいた人物です。日本陸軍は、このクレルカン中佐に、年間5000万〜7000万円程の給与を支払っていました。

イレブンは、この「SSプラチナ号」の目を見た時、ファンデウェーゲン鳩舎の”ド・ピゾン”を思い起こしました。

明年、700K当日優勝の源流SSクイン号と配合する計画です。

 源流系SSライン最高基礎鳩 【源流SSプラチナ号】  イレブン  2020年12月13日(日) 11:14
修正
源流系SSライン最高基礎鳩      
【源流SSプラチナ号】10DA40460PB♂

 ・・  イレブン  2020年12月13日(日) 11:22 修正
・・

 ・  イレブン  2020年12月13日(日) 11:25 修正
明年の源流秘蔵岩田号配合鳩

 【参考資料】オペル系銘鳩【キープセーク号】  イレブン  2020年12月13日(日) 11:27 修正

 11月12日放鳩網野500Kレース参加19YT005393BC♀が今朝帰還しました!  イレブン  2020年12月13日(日) 10:26
修正
11月12日放鳩網野500Kレース参加19YT005393BC♀が今朝帰還しました!31日目帰還です。

足が真っ黒だったので洗ってやりましたが、げっそりと肉が落ちていました。相当苦労して帰ったようです。この鳩の翔歴は、以下のようになっています。

19年秋 200K2位、300K記録
20年春 100K200k300k500k各記録
20年秋 100K200K各記録、300K9位、500K31日目帰還

明年の1000K候補です。

 新装!!  King of MEart  中間ホルモン  イレブン  2020年12月13日(日) 3:15
修正
12月5日に新装になったばかりの帝王パパさんのお店です。昨日行ってきました。7月にお邪魔したときは、まだ工事中でした。玄関の大きな看板に「King of MEart  中間ホルモン」とあり、とってもおしゃれなお店になっていました。「Since 1952」の文字に歴史を感じました。

 ・・  イレブン  2020年12月13日(日) 3:18 修正
・・・

 金曜日の華丸大吉さんの「なんしよっと」で紹介されたパン屋さんにも行ってききました。  イレブン  2020年12月13日(日) 3:29 修正
昨日の朝は、金曜日に、華丸大吉さんの「なんしよっと」で紹介されていた吉井町のパン屋さんにも行ってきました。パン好きの妻がお気に入りのようでした。

  ■■『Piet de Weerd 研究』035■■  [ピート・デヴィート回想録035「成功者ラベーウ」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1998年10月号 )  イレブン  2020年12月10日(木) 3:06
修正
『Piet de Weerd 研究』を再開しますね。

現在のピートさんの話題は、ステッケルバウト系です。ボスチンの活躍からこの話題が始まり、この回想録35から、ステッケルバウトの系統確立の経緯をかなり詳しく語っています。

ピートさんの話は、あくまで、欧州鳩界のレースマンを対象として語っています。当時の鳩界のある程度の常識的知識を想定して語っていますので、イレブンのような輸入系オンチには、結構解読に苦労します。

ピートさんは、ここでも、濃密な近親交配の重要性について倫を進めていますが、このことをよく理解するためには、このステッケルバウト系の主要な銘鳩達の系図も理解する必要があります。

そうしたことから、資料の補足や簡単な考察等の加えながら、進めていければと考えています。

 ・  ・・  2020年12月10日(木) 3:19 修正
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 ステッケルバウトの最良の鳩を巧みに使いこなし、ダニエル・ラベーウは戦前から戦後を精鋭少数で戦ってきた。38年、39年の2年連続”西フランドル連盟”チャンピオン獲得、戦後はアンタント・ベルジュやクーレヘム・サントルに集まる大物鳩舎を相手に数多くの戦績を収めてきた。

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 ■ ラベーウ、偉大なチャンピオン ■   前月号より続き  Piet de Weerd  2020年12月10日(木) 3:21 修正
 さて、ヴェルホイエの遅生まれの鳩を手に入れたラベーウは、これに「フリッケ」と言う名前を付けました。おそらく聖人ゴーデフリドゥスの愛称だと思われます。

 「フリッケ」は、まさに奇跡の鳩でした。最初はしばらく種鳩鳩舎で過ごしましたが、その後専門的な訓練を受けてから、オルレアンの長距離レースに送られました。1938年にはボルドーから、罰として28日間に3回も飛ばされました。というのは、このトリは帰還しても屋根の上にとまっていて、鳩舎に入ろうとしない悪い癖があったのです。

 「いつも先頭を飛び、自分がこれまでに見た中で一番タフな鳩」とラベーウは言い切りました。

 もう少しラベーウの話を続けましょう。というのも、彼はアロワ・ステッケルバウトの配合法システムを徹底して実戦することをためらわなかったからです。ラベーウはベカールトの速い雄鳩と、ヴェルホイエの「フリッケ」をヴェルモーの「88」の全姉妹二羽と掛け合わせ、何年もの間、レイエ地方のチャンピオンの座にありました。

 良い鳩を生むのはほんのわずかなカップルです。そしてわずかなエリートファミリーが重要な国内レースを制するのです。

 1938年と1939年、ラベーウは強力な「西フランドル連盟」のチャンピオンになりました。それも、1945年以降アンタント・ペルジュやクーレヘム・センターのレースに決まって登場する大物相手にです。ラべーウはすでに戦前から有力なイーペル・センクJで100キロメートル以下のレースに出場して賞金を稼いでいました。その戦績は多くの人にはまねできないものでした。

 1944年12月14日、ラべーウはコルトレイクでオークションを開きました。ただ、時期が悪すぎました。誰も金を持っていなかったからです。それでも40羽の鳩が52450フランで売れました。けれどもし3年待ったなら、開違いなくこの3倍にはなったでしょう。最良のスッテケルバウトは戦前の鳩ではなく、戦中から戦後にかけて作られたものです。それらのうち、私か良く知っていた鳩を2羽挙げます。

@41-109691
 アロワの鳩舎で生まれた黒のホワイトフェザー。31年の「アウド・ズワルト」と34年の「フーデ・フレーゲ」から生まれた雌鳩です。つまり、7歳の雄鳩と10歳の雌鳩を掛け合わせた成果でした。しかも、それらが母と子であったのは決して偶然ではありません。アロワは品質とクラスだけに注意を払い、年齢や近親関係はいっさい考慮しなかったのです。

A44-199009
 黒の雄鳩。ステッケルバウトがかつて持っていた最良の鳩「フーデ・ブレーケ」34-13236983の直子でした。母は41-109691の全姉妹、つまり「フーデ・ブレーケ」と「アウド・ズワルト」との直娘です。

 ステッケルバウトはこの2羽のほかにも、ラウヴエに住んでいる友人のフランス・クルーツと、ワーレンヘムのマルセル・デスメからも何羽か手に入れました。ラベーウはクルーツと、ワーレンヘムのマルセル・デスメからも何羽か手に入れました。ラベーウは鳩のエキスパートとしては、デヴリーントやボステインにも匹敵しました。いずれにせよ、彼は交配や近親交配の技術にたけていることを証明したのです。

 「アウデ・フリッケ」のリングナンバーは、33-3267043、その息子「ヨング・フリーグ」は37-3069874でした。「ヨング・フリーク」の母親は36-3273116、すなわちジュール・ヴェルモーのあの青の鳩です。1947年、この雌鳩か10歳のとき生んだ「フーデ・ズワルテ」は、1949年スーティエンで開催されたシャトールINで4664羽を押さえて優勝しました。

 ■スーティエンでラベーウ勝利■    2020年12月10日(木) 3:26 修正
 スーティエンは、ベンドグルッヘのガブリェル・ヴァンデンブッセとバッティスのギローム・ペーテルシンが数十万フランもの大金を賭けて戦ったことで、今なお記憶に残っています。

 それは1949年6月19日のことでした。ヴァロン地方の有力なフライターはすべてレースに参加し、フラマン人も少なくありませんでした。しかし、鳩の大多数はヴァロン地方から出場し、しかも風はベルギーの北西から吹いていました。フラマン人にとって明らかに不利で、レースの第一報では東側が賞を独占するだろうと言われました。ペーテルス=ホープオールトが大奮闘しました。
 
 当時ファニー近郊のナーストに住んでいたヴァン・テューンの情報によれば、グスターヴーペルナールが「ナショナル1位」になるだろうということでした。

 サンテ・エローイはこの日、ペーテルス=ホープオールトとの賭けで完敗したと思われました。このヴァロン人に前には少なくとも1ダース、いやそれ以上のトリが帰っていたのです。

 しかし、すべての書類が出揃ったとき、果して優勝したのはラべーウの「ズワルテ」でした。2位は、アンドレ・ヴァンプルアーンの「ヨング・スティール」。後にベルギー中で最高の鳩となった雄鳩です。優勝鳩の母親は41-109691、アロワ・ステッケルバウトのあの小さいホワイトフェザーでした! 

「フーデ・ブレーケ」の息子44-199009は、もっと優れていました。かつてラベーウはジュール・ヴェルモーの鳩舎で、「フーデ・ブレーケ」34−3236983の系統が秘めている可能性を確信しました。

 ヴェルモーは1935年に生まれたこの鳩の娘を持っていました。「ファッヘ」と配合したこの雌鳩は、青の雌鳩36-3273116、すなわち「ヨンゲ・フリーク」の母を生み、またスーティエンの1949年シャトーローで優勝した「フーデ・ズワルテ」の祖母となったのです。

 ■アロワ自信の44−199009■    2020年12月10日(木) 3:30 修正
 ヴェルモーの「ファッヘ」は卓越した鳩でした。私はこのトリの50%はステッケルバウトだというのをどこかで読んだことかおりますが、ラべーウは決して認めようとしませんでした。ファッヘの系源は、コミンのそれとも比較でき、当時はラウヴェから来た最高の鳩にも劣りませんでした。

 44-199009を私は非常に良く知っていました。1955年ブリュッセルのオークションで、ラベーウがこの鳩を25000フランで売ったのです。買ったのはドゥ・スヘールメッカーだったと思います。これはどの老鳩にしては、良い値段でした。この鳩は前にもオークションに出たことがありました。それは1946年1月27日、コレトレイクはウェインガールト通りのパッペインに近い「フローテ・クーリエ」で開催されたときのことです。

 このとき思い病で余命いくばくもないステッケルバウトは雄15羽、雌11羽、合計二十六羽の鳩を売りに出しました。そのなかで一番良かったのは[アウデ・ブレーケ]34-3236693でした。年齢は12歳でしたが、まだまだ元気でした。

 それがたった1700フランで売られたのです。当時同じ年齢だった「フーデ・ズワルテ」34-3236987は9000フランの値がつきました。「オプヘブラーゼネ」36-3117434は42000マルク+諸経費で売られました。

 買い手のモーリス・ヴァンテームはワーレヘムに近いサンテ・エオーイのヴェイヴェに住んでいましたが、戦争前からステッケルバウトの鳩を知っていました。彼はそれらの鳩で非常に大きな成果を上げていたのです。戦後、彼が待っている最良の鳩は、ロードレースのチャンピオン、マルセル・キントにちなんで「キント」と名付けられました。そのほか「フレーゲ」や「ヘンクスト」という名前もありました。

 ビッセヘムのダニェル・ラベーウとハーレルペーケのジュール・マットンはステッケルバウトの友人で、ともに教養がありました。

 彼らは1946年1月27日コルトレイクで行われたオークションのために書類を用意していました。アロワはダニエルに44-199009を買うように言い、ダニエルもこのアドバイスに従いました。そして彼はこのトリを3200フランで買ったのでしょう。

 ダニエルはこの雄鳩と掛け合わせる雌鳩をすでに決めていました。それは「ヨング・フリーク」37-3069874と、その母親36-327311G。すなわちヴェルモーの青の雌鳩との間に作られた娘でした。

 1947年、ダニエルはこのカップルから2羽の鳩、3081309と3081354を作出しました。「フーデ」と「ディッケ・ブラウエ」です。1950年リブルヌINでは困難を極めたレースで、この兄弟は2030羽中4位と5位に入賞しました。賞金は6万フランした。

 私か戸外の太陽の下でこの2羽を掴んだときラベーウはこう聞きました。「これらの鳩はカトリスの『45』やデブリーントの『ズワルトバント』のようなクラスでしょうか」私は「並べて見比べてみなければ分からない」と外交的な答えをしたのを覚えています。

 ラベーウはその年、アンタント・ペルジュのチャンピオンになりました。1950年は彼の絶頂期だったと思います。ヴェルモーとラベーウは非常に強力なレースマンでしたが鳩の数からすれば偉大なフライターとは言えませんでした。

 ラウヴェのミシェル・デスカンプス=ヴァンハステンやワーレヘムのマルセル・デスメははるかに多くの鳩を作り、そのため需要が増えるに連れて、ますます多くの鳩を売ることができました。こうして売られた数多くの鳩はナショナルチャンピオンになり、国の内外でこの系統を導入した鳩舎の数も大変なものでした。

 西フランドル地方でナショナルチャンピオンを擁する少なくとも半ダースの鳩舎のステッケルバウト鳩は世界中で、とりわけオランダとドイツで、アーレンドンクのヤンセン系と配合されました。こうした「ハーフ・ヤンセン」の血統は、使翔者がレース成績に付けるコメントを読めばわかります。

 デルバールとヤンセンやステッケルバウトとヤンセンの組み合わせは、あらゆる距離、あらゆる連盟で奇跡を生みました。彼らは数え切れないほどの愛鳩家に幸運をもたらしました。同じことはホーレマンス系にも言えます。

 この系統も、その起源はステッケルバウトの基礎系の一つ、メルクセムのフィンセント・マリェンスのあります。この古いアントワープの系統の名声は、ドールニクのファンスピタールとレールネスのマルク・ローセンスを経由して、さらに高まったのでした。
                次号へ続く

 ■■『Piet de Weerd 研究』036■■  [ピート・デヴィート回想録036「M.デスカンプス[Michel Descamps - Van Hasten]」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1998年11月号 )  イレブン  2020年12月12日(土) 2:09 修正
ピートさんは、この章の中でM.デスカンプスも濃密な近親交配でアウロ・ステッケルバウト系を継承して数々の銘鳩を輩出したことを述べています。重要な記述が見られるので抜粋しておきます。

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●必要なことは、常に系統のなかの最高クラスの鳩と取り組むことです。無論、これはどんな家畜にもあてはまります。これは化学的な淘汰の根本原理です。

●オランダでは卸売商人や、いわゆるコマーシャルロフトのオーナーは、いつも『適応』という言葉を持ち出します。しかし私は「適応」を重要視することはしません。それは価値の低いストックを売ったことを糊塗するための言い訳にすぎないのです。つまり、実直な人々に、もっともらしい血統書を付けて劣悪な鳩を売り付けたことに対する言い逃れです。多くの人は鳩を売るだけです。彼らは鳩が出て行きさえすればうれしいのです。

●クラス(※イレブン「鳩質」の意)を追求する人は違います。彼ら自身が鳩を買い、交配あるいは近親交配を行います。彼らはどんな条件にも容易かっ迅速に適応できるクラスを求めます。しかし、そのためには淘汰こそがアルファでありオメガであることを彼らは知っています。

●雌の選出は、もっと困難でした。特に目を引いたのは青の「アングレーム」51-3030313と、「バルセロナ」50-3060621でした。「313」は「ヨング・ベイテル」と同じ父から生まれた半姉妹です。「ベイテル」47-3090545と、45-134138と44-4866904の娘で48年生まれの「クレイネ・ブラウ」との間に生まれました。

●私はこれら2羽を握りましたが、どちらにするかを決めかねました。青いトリと、ブロンズ色の羽を持ったトリを、交互におそらく6回ほど握って、ミシェルとシェフの所に戻り、それからまた両者を比べました。最後の2回は目を閉じて行いました。その結果、選ばれたのは青でした。ブロンズは残していかなければなりませんでした。

●青い雌鳩は「アウデ・エイゼレン」54-3037704を生みました。51年にアングレームで優勝した後、さらに2シーズン、レースに出て、クレイル6位と9位、オルレアン13位、ブリーフP18位、アングレームP9位などの成績を収めました。素晴らしいノロジカ色の目[イレブン注:画像資料参照]をして、筋肉は見事に発達し、まるで天然ゴムのような感触でした。

●ヤン・アールデンには「3030313」の卵を2個提供しましたが、これらは私の鳩舎で「ヨング・ベイテル」48-3171850と掛け合わせました。これらの有名なスティッケルバウト鳩の近親交配度がいかに高かったかを目の当たりにすると、ヤンセンのシステムである程度慣れている読者も驚かされることでしょう。しかしこれは、資金と知性が密接に手を結ぶ競争馬の世界で適用されている原理なのです。

●すでにお分かりのように、ミシェル・デスカンプス=ヴァン・ハステンとヤンセン兄弟は同じ道を進みました。スコットランド人のコーニール・ホーレマンス・ヴァン・スホーテンも同様です。

●ここに鉄則があります。それは近親交配を許容できる鳩を扱う場合のみ成功できるということです。鳩は常に柔軟でウェットであり続け、極めて速く飛ぶことができなければなりません。もし、鳩が棒切れのようにやせ細ったら、それらのことは忘れて構いません。

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 ・    2020年12月12日(土) 2:10 修正
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 隣人のよしみでアロワ・スティッケルバウトの鳩の飼育を手伝うことが、ミシェル・デスカンプス=ヴァンハステンの鳩人生の始まりとなった。戦中、戦後の交流を通じ、すでに老齢のアロワの鳩を譲り受け、ミシェルはその後、スティッケルバウト系を二十年間かけて純化し、功績を収めてきた。

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  ■淘汰こそがアルファ■ (前月号より続き)  Piet de Weerrd  2020年12月12日(土) 2:11 修正
 必要なことは、常に系統のなかの最高クラスの鳩と取り組むことです。無論、これはどんな家畜にもあてはまります。これは化学的な淘汰の根本原理です。

 オランダでは卸売商人や、いわゆるコマーシャルロフトのオーナーは、いつも『適応』という言葉を持ち出します。しかし私は「適応」を重要視することはしません。それは価値の低いストックを売ったことを糊塗するための言い訳にすぎないのです。つまり、実直な人々に、もっともらしい血統書を付けて劣悪な鳩を売り付けたことに対する言い逃れです。多くの人は鳩を売るだけです。彼らは鳩が出て行きさえすればうれしいのです。

 クラスを追求する人は違います。彼ら自身が鳩を買い、交配あるいは近親交配を行います。彼らはどんな条件にも容易かっ迅速に適応できるクラスを求めます。しかし、そのためには淘汰こそがアルファでありオメガであることを彼らは知っています。

 アロワ・スティッケルバウトの「フーデ・ブレーケ」は系統の中の最高クラスの鳩でした。まさに国際的なスーパークラスでした。そしてスティッケルバウトが生まれて死んだラウヴェの名は、さらにミシェル・デスカンプス=ヴァンハステンとアンドレ・ヴァンブルアーンの実績によって新しい栄光を獲得したのです。

 ■ミシェル・デスカンプス=ヴァンハステン[Michel Descamps - Van Hasten]とアロワースティッケルバウト[Alois Stichelbaut ]の交流■    2020年12月12日(土) 2:13 修正
 ミシェル・デスカンプス=ヴァンハステンは、スティッケルバウト系を二十年間かけて純化した功績があります。

 ボステイン、ヴァンヘー、そしてヴェレーツケは、独自の道を進みました。マルセル・デスメットは言うなれば中間に位置しています。彼はブルッセール牧師、デヴリーントおよびヴァンブルアーンの鳩と交配して見事な成果を上げました。デスメットは善良で、ジェントルマンで、そのうえ真の友人でした。活動的で子不ルギッシュだった彼が、人生これからいうときに自動車事故で亡くなったのは本当に残念です。

 ミシェル・デスカンプスは、アロワ・スティッケルバウトのすぐ向かいに住んでいました。彼は若いとき、アマチュアの自動車レーサーでした。しかし、他の人間が自分より強いのが分かると、自動車レースをやめてしまいました。

 彼は愛鳩家が大勢いる村で育ちました。そのほとんどは短距離フライターです。当時べ
ルギー全国に25万人いたレースマンの80パーセント以上が短距離でした。ミシェルは毎日、それらのフライターがかんなくずを付けた作業着をまとい、自転車の後ろにバスケットを積んで走り回っているのを見ました。週末になると、彼らはいっそう忙しくなり、まったく休む暇がありませんでした。

 ミシェルは隣人の鳩がレースから鳩舎に帰ってくるのを数限りなく見ました。この隣人とはアロワ・スティッケルバウトで、加工した亜麻を扱っていました。ミシェル自身は鳩については何も知らず、また自分が鳩を飼うようになるとは思ってもいませんでした。

 戦争が始まったとき、ミシェルは30歳ほどだったでしょう。彼も戦争の被害を被りま
した。爆弾の破片に当たり、大怪我をしたのです。当時、アロワはミシェルに鳩の飼育を手伝ってもらいました。鳩は戦争中ずっと防空壕に避難していたので、心配はありませんでした。

 1944年、ピジョンスポーツは最初からすべて立て直さなければなりませんでした。しかし、スティッケルバウトは当時すでに老人で、そのうえ病気がちでした。結局、アロワは自分の系統がかつてないほど栄えるのを見ることはできませんでした。他の人間がアロワの仕事を引き継ぎました。そしてその一人が誰あろう、向かいに住む隣人ミシェル・デスカンプス=ヴァンハステンだったのです。

 ヴァンハステンはスティッケルバウトのオークションで鳩を買ったことはありません。彼は戦争中と戦争直後に、かなりの数の鳩をもらったり、食べ物と交換したりしていたのです。こうして手に入れたなかで最良の鳩は黒の雄鳩42−60565(無名)、「フーデ・ズワルテ」とその半兄弟(同母)の娘から生まれた黒の雌鳩43−52098、「オプヘブラーゼネ」、黒のホワイトフェザー45‐1341801(名前なし)、「アウデ・ブレーケ」と「フーデ・ズワルテ」の娘の間に生まれた直子「クレヨンヌ」45‐1341318でした。

 ミシェルにとって中軸的な役割を果たした雌鳩は「フーデ・ズワルテ」34−3236987の娘の43−52098でした。これは実に素晴らしい種鳩でいかなる誇張もなしに金の卵と呼ぶことができました。この雌鳩は。

 「クレヨンヌ」45−134318との間に傑出したレース鳩を生み出しました。その代表は「コルトポーチェ」47−3238467と「エイゼレンフ24」の母の「バルセロナ」50−3060621です。

 50年代の後半、ミシェル・デスカンプス=ヴァンハステンから優良なスティッケルバウトを何羽か譲ってもらうために、私はジェフ・ヴァンデンブラウケと連れ立ってラウヴェを訪れました。ミシェルは私に雄と雌をそれぞれ一羽選ぶように申し出ました。でも彼の主要な鳩からではありません。

 というのは、鳩舎に泥棒が入り、鳩がごっそり盗まれていたからです。この地域の多くの鳩舎でスティッケルバウト系がセンセーショナルな活躍をするのは、ミシェルと価格や条件について話し合ったときから数年後のことです。このときはまだそこまで行っていませんでした。

 ■最大の誤り■    2020年12月12日(土) 2:15 修正
 私か生涯に犯した最大の誤りは、このとき2羽ではなく、12羽の鳩をなんとしてでも買わなかったことです。ヴァンブルアーンの「ヨン・スティール」の同腹の兄弟に支払った金額でミシェルから半ダースの鳩を買えたというのに。

 言い訳するなら、同時期にピジョンスポーツの世界では他の多くの名前が栄光に輝いていました。カトリス、デヴリーント、ヴァンブルアーン、マルセル&ヘクトール・デスメット、ペーテルス日トボーフォルト、ヴァンヘー、ノルマン、ウィレクェット、ヴァンースピタール、デスメット=マタイス。詳しく見れば、このほかにももっといます。

 雄鳩と雌鳩を1羽づつ選び出すに当たり、雄は母と息子から生まれた「ヨング・ベイテル」48‐3171850を選びました。このトリは、中距離で数多く入賞したほか、カオールN22位、カルカソンヌN3位、苛酷なトゥールN84位、サン・バンサンI N14位、リブルヌN66位、サンーバンサンN83位、サン・セバスチャンN44位などの成績を収めました。

 この雄鳩はやはり濃密な近親交配によって1955年モントバンNで優勝する「レナート」の父親となりました。「ヨング・ベイテル」はまさに傑出した銘鳩でした。長距離鳩で、しかも十分速度がありましたが、父親の得意とするのは長距離よりも、むしろ400〜500キロでした。

 雌の選出は、もっと困難でした。特に目を引いたのは青の「アングレーム」51-3030313と、「バルセロナ」50-3060621でした。「313」は「ヨング・ベイテル」と同じ父から生まれた半姉妹です。「ベイテル」47-3090545と、45-134138と44-4866904の娘で48年生まれの「クレイネ・ブラウ」との間に生まれました。

 私はこれら2羽を握りましたが、どちらにするかを決めかねました。青いトリと、ブロンズ色の羽を持ったトリを、交互におそらく6回ほど握って、ミシェルとシェフの所に戻り、それからまた両者を比べました。最後の2回は目を閉じて行いました。

 その結果、選ばれたのは青でした。ブロンズは残していかなければなりませんでした。いずれも大きい鳩で、青の方はややスマートでしたが、ブロンズはすこし角張っていました。両者ともレースでは好成績を上げていました。「アングレーム」は、荒天のもとで行われたアングレームで優勝し(モルトシッツェ)、若鳩として華々しいデビューを飾りました。このときミシェルは1位から4位まで独占したのです。「バルセロナ」の方はアングレームに8回出場し、カルカソンヌNでは15位に入賞していました。

 青い雌鳩は「アウデ・エイゼレン」54-3037704を生みました。51年にアングレームで優勝した後、さらに2シーズン、レースに出て、クレイル6位と9位、オルレアン13位、ブリーフP18位、アングレームP9位などの成績を収めました。素晴らしいノロジカ色の目をして、筋肉は見事に発達し、まるで天然ゴムのような感触でした。

 私か選び出したとき、「エイゼレン・フアミリー」はまだ無名でした。ヴァンヘーとヴェレーツケは自分たちで発見しなければなりませんでした。「ワーレ・エイゼセレン724」は6歳のときヴェレーツケに買われましたが、まだその能力を秘めたままでした。これは前述の「バルセロナ」50-3060621の息子で、その父は青の「アングレーム」51-3030313の息子の「アウデ・エイゼレン」53-3037704です。

 私は51-30303113のリングナンバーを生涯忘れることはないでしょう。私はこのトリをブレダに運び、そこでヤン・アールデンの「49」、すなわち「38」の兄弟と掛け合わせました。

 それから数年後、「49」がひどく足を引きずるようになったとき、ヤン・フロンデラールスの「シャトールー」の母になる雌岫、すなわちヤンセンの奇跡のカップル「ブラウエ・ヴァン・48」と「スホーン・リヒト」の直娘と配合しました。

 ある聖霊降臨祭の朝、私はこの雌鳩を、ヘイスト・オブ・デン・ベルクに住むユージーン・メイレマンスから買いました。

 ヤン・アールデンには「3030313」の卵を2個提供しましたが、これらは私の鳩舎で「ヨング・ベイテル」48-3171850と掛け合わせました。これらの有名なスティッケルバウト鳩の近親交配度がいかに高かったかを目の当たりにすると、ヤンセンのシステムである程度慣れている読者も驚かされることでしょう。しかしこれは、資金と知性が密接に手を結ぶ競争馬の世界で適用されている原理なのです。

 すでにお分かりのように、ミシェル・デスカンプス=ヴァン・ハステンとヤンセン兄弟は同じ道を進みました。スコットランド人のコーニール・ホーレマンス・ヴァン・スホーテンも同様です。

 ここに鉄則があります。それは近親交配を許容できる鳩を扱う場合のみ成功できるということです。鳩は常に柔軟でウェットであり続け、極めて速く飛ぶことができなければなりません。もし、鳩が棒切れのようにやせ細ったら、それらのことは忘れて構いません。


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