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 2020年墓参り  イレブン  2020年8月15日(土) 16:29
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37度の炎天下、、今日は、妻の母のお墓参りでした。毎年恒例となっています。

 ・  イレブン  2020年8月15日(土) 16:43 修正

 ■■『Piet de Weerd 研究』026■■  [ピート・デヴィート回想録026「デュレイのブリクー」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1998年1月号 )  イレブン  2020年8月14日(金) 4:29
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ピート・デヴィート回想録026から、ピートさんは、世界の銘系を一つ一つ取り上げ、その系統が確立される経緯と自身の配合理論やヤンセン系との関係を語っていきます。ピートさんの回想録のすごいところは、何よりも、実際に掴み見てきたこと、買い上げ使ったことを元に語っていくところです。

最初に取り上げてたのは、ピートさんが世界最高の系統と太鼓判を押す銘系ブリクー系です。

10数年前、初めてこの回想録を読んだ頃のイレブンは、「ブリクー系」に馴染みがなく、どこかで現在の自分の系統と余り関係がないように感じて読んでいました。今回の再読する際は、薩摩どん太さんからブリクー系についていろいろ教えていただいたお陰でとても身近にブリクー系を捉えて考えることが出来るようになりました。薩摩どん太さんにはとても感謝しています。


さて、『Piet de Weerd 研究』026からは、できるだけその回で話題となった銘鳩や系統の関連資料を調査して、イレブンの方で資料を加えながら進めていく考えです。掲示板をご覧頂いている方の中で、お手元に何か関連資料をお持ちの方がおられましたら、遠慮なく投稿していただければと思っております。宜しくお願いします。

 ■ヤンセンとその他の有名系統■(前号からの続き)  □Piet de Weerrd  2020年8月14日(金) 4:48 修正
 この本では主としてヤンセン系について書いていますが、前号で挙げたチャンピオンも決して端役ではないことは、言うまでもありません。私か彼らに不当に低い役割を押しつけようなどとは決して思っていないことを理解してください。むしろその反対です。もちろん、私は彼らやその鳩について詳しく述べようと思います。彼らはほぼ例外なく大きなナショナルレースで何羽も優勝させましたが、ヤンセンはといえば、彼らは自分の鳩舎では一羽も優勝させたことがないのです。

 今日”同窓生“と呼ばれる彼らの後継鳩舎も優勝を重ねています。彼らは何十というナショナルレースで優勝し、数えきれないほどの車を手に入れました。しかし、ヤンセン自身はただの一羽もレースに出したことがありませんでした。さらに、ヤンセンの血の濃い優勝鳩をも含めると、その数は数百に及ぶでしょう。

 さらに一歩進めて、ピジョンスポーツ界の人間なら誰でも「一度は優勝してみたい」と夢見るレースでの優勝鳩となると、その数は数千に達します。ヤンセンほど多くの鳩舎を育てた者はいません。また、アーレンドンクのヤンセンほど多くのブリーダーを幸福にし
た系統もありません。‘

 ■ブリクーとデュレイ■    2020年8月14日(金) 5:13 修正
 私は本書でブリクー博士についてレースの成績を幾つか紹介しました。ブリクー博士が自分の系統を作り始めたのは第一次世界大戦の後、1919年でした。そして1922年から1932年にかけて、彼は大きな国内レースで名声を博しました。

 1930年、彼は成鳩のオークションをおこないました。本当に全部の成鳩を売りに出したのでしょうか。当時は未だオークションに関する連盟の規則はありませんでした。ま
た、”完全な成鳩”という言葉を真に受ける者もいませんでした。根っからの愛鳩家が、金の必要性に迫られてもいないのに、自分の最高の鳩を売りに出したりするでしょうか。まさにブリクー博士の場合がそうでした。ジュリアン・マタイスは私に、
  「人間は数百年来、変わっていない」
と言ったことがあります。彼は物事をよくわきまえていました。
 が、ともかく博士は1930年12月のことだったと思いますが、ブリュッセルのブラッセリー・ドウーサン・ラックの会場で、自分の成鳩の殆どを売ったことにしておきましょう。数多くの鳩舎がリレー競争のようにその系統を引継ぎ、そして30年代に国内レースを猛烈な勢いで制覇していったのです。

 第2次世界大戦の後、この鳩舎はまるで砂上の楼閣のように崩れ落ちました。私は1940年から45年にかけ、かなりの数の”純粋なブリクー“を掴み、研究することができました。それらは当時、まだ世界的なクラスに属していました。なかでも最良の鳩は、国際レースの成績で見ると、ダンハイヴェ在のローデ・デマレットの”ヴァーレ“、そしてクワレゴンのロベール・デュビーが持っていたゴマの”ルードヴェイル“でした。もしも”ルードヴァーレ“がサンバンサンに参加していれば、ヒュースケン・ヴァンリエルがリエージュで1位と3位を獲得したのと同じ日にダントツで優勝したことでしょう。

 私はこの鳩をカペレ・アーン・デーイッセルに住むピート・ヴュイクのために買ったことがあると記憶します。あるいはオーメンス&ヴァン・テューンだったかもしれません。当時、私は彼らのチームに所属していたのです。ロベール・デュビーの鳩は、放鳩当日に唯一、帰還することができました。こうしたことはしばしば起こりましたが、決して習慣とはなりませんでした。

 ●Nチャンピオン”ポーの白い羽”●    2020年8月14日(金) 5:16 修正
 1930年、シャルロワのアングレーム。当時の重要な中心地です。北風の強い国内レースでした。放鳩の日に帰還が確認されたのは1羽のみでした。距離を考えると、正真正銘、過酷なレースだったと言えます。その1羽というのは、シリル・デミル所有の”ドン・ブルー“で、1926年にブリクーのオス種鳩から生まれました。
 同年のポーN、アンタントーベルジュ主催。優勝はエコーシネスのアーネスト・デュレイ、ブリクー系。優勝鳩は”ポーの白い羽”の愛称をもらいました。それは刺しの入った黒ゴマだったのです。

 1931年、ジョリモンのブリクーが優勝、2位、3位を独占。
 同年のポーN。アンタント・ベルジュ主催。エコーシネスのアーネスト・デュレイがまたも1930年の優勝鳩。”ポーの白い羽”で優勝。この鳩は、グラスゴーの東の炭鉱地帯アーマデールに住むスコットランド人外科医ドクター・アンダーソンにより導人されました。価格は5000フラン、約250ドイツマルクという捨て値です。デュレイは金を儲ける必要は感じませんでしたが、1930年に総ての成鳩を売りに出しました。その後、彼はムールアルトとかいう名の友人とチームを組みましたが失敗に終わりました。

 1932年、アングレーム・デザース。ブリュッセルN。アンタント・ベルジュ主催。優勝はアーネスト・デュレイ、2位はブリクー博士でした。
 1933年、アングレーム・デザース。ブリュッセルN。アンタント・ペルジュ主催。優勝はシャルロワ近郊クーイレのオスカー・ブライモン。優勝鳩は”マラド(=病人)”から作出されました。このメス鳩は1945年にまだ健在で、年にふさわしい威厳を備えていました。たとえばヘクトール・デスメが殆ど死にかけるまで飛ばした”プテイ・サーンドル”(小さい灰)よりずっと健康そうに見えました。

 同年、ポーN。アンタント・ペルジュ主催。エコーシネスの上院議員アーネスト・デュレイが今回は”エカイエ・ダンバ”で優勝。デュレイは20の賞をとりました。すなわち優勝、15、20、28、34、51、78、80、121、141、142、152、211、245、255、274、324、339、507位および640位。

 ●ブリクー最高の種鳩を手に●    2020年8月14日(金) 5:18 修正
 1944年から1945年にかけての冬、私はデュレイと何度か長時間話したことがあります。ここでデュレイの話しをするのは、彼がベルギーで最初の世界チャンピオンと見なされるからです。彼は知恵と経験を兼ね備えており、ドクター・ブリクーからウィドーフードシステムを学びました。

 彼が初めてブリクーを手に入れたのは1919年でした。それは「マラド・ジュニア」の青い羽色の孫で(まるで病院のように聞こえますが)、エコーシネスで「ルージュ・カロ」の父親になりました。それは当時最良の種鳩に数えられました。
 しかし、ジョリモンのデュレイが手に入れることができた最高の鳩は「ジュール・セザール」の兄弟と、「クラヴァテ」の姉妹でした。このフランス語から、フラマン語の「クラヴァート」やドイツ語の「クラヴァッテ」が派生しました。これは「ループタイ」を意味します。「クラヴァート」の多い鳩舎がチャンピオンになるのは稀です。ときどきそれほど悪くないのもいます。クラヴァートは現れるのも突然です。人々はこれを隔世遺伝と呼んでいます。

 デュレイは1923年に「クラヴァート」の娘を獲得することができました。このメス鳩はエコーシネスで比類ない種鳩の母親になり、「イデアーレ」という名前が付けられました。その種鳩の名は「レプロデュクトリス」です。彼女は1933年12月17日、ブリュッセルのモーリスー・モニールアレーにあるザイト・パラストで、5000ベルギーフランに競売料を加えた記録的な金額で売られました。
 この「レプロデュクトリス」はまた、有名な「エカイエ・ダン・バ」(下から剥げた)の母親になりました。これは19333年、ポーNで3341羽以上を相手に優勝しました。

 ●デュレイの巧みなブリーディング●    2020年8月14日(金) 5:21 修正
 1924年デュレイは、「ジュール・セザール」の別の兄弟を買いました。その両親のベアが生んだ子は必ずと言っていいくらいチャンピオンになりました。

 デュレイはこれを父側の半姉妹である灰のメス鳩と掛け合わせて、彼の「ルーセザール」を作りました。レースの実績はグックスN3位、アングレームN3位、アングレームN14位、ポーN26位、ポーN35位などです。

 この[ルーセザール]の子は、赤い羽色の 「マリン」です。その成績はアングレーム、デルビーN3位、アングレームN1004羽中23位、ポーN2995羽中25位、アングレームN一1825羽中20位、ボルドーNアンタンテ・ベルジュ二2133羽中8位、ポーN3341羽中28位。これはデュレイの白鳥の歌でした。1933年、このトリは競売にかけられて総額4500フランで売られました。これは不況下の当時としては大変な額でしたが、実際には捨て値同然だったのです。
1924年、ドクター・ブリクーは友人のデュレイにもう一羽の赤い羽色の”デルビー”をプレゼントしました。これは「マラト」の兄弟「リヒテ・ベーケマン」と{クラバーテ」の姉妹との間に生まれたものです。

 ここで近親交配について言うと、私は昨晩このテーマについて、ミッシェル・ドゥシャン=ファンファイステンのロフトマネージャー、カミエル・ドッケルと話しました。彼はかつて自分ほど濃密な近親交配を行った者はいないと言いました。それも確信に基づいてというより、慎重さから行うのです。彼はアロイス・シュティッヒエルバウトに比肩する才能を持っているのでしょう。 (この項続く)

 ■■『Piet de Weerd 研究』027■■  [ピート・デヴィート回想録027「ブリクーの時代」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1998年2月号 )  イレブン  2020年8月15日(土) 1:09 修正
ピートさんの回想録では、このブリクー系の始まりについて第22回「偉大なるブリクー」から記述しています。この回想録26回から28回までの内容は、その続きの内容として読んでいかないとチョットわかりにくくなります。
回想録22回から、以下の文を抜粋しておきます。

●ブリクー博士はまたワルコートのバクレーン兄弟と、それぞれヴェルヴィエールのバンセンヌとブリュッセルのフローテルス(グロータース)の系統の二羽の赤褐色と青白色のオス鳩を、自分の系統の2羽のメス鳩と交換しました。博士は交換した鳩から4羽のヒナを作りましたが、彼はそれらをかつて自分が脚環を嵌めたうちで最も高貴な鳩と呼びました。名前は”クラヴァッテ”(ネクタイまたはループタイの意味)、”ジャンボー“ ”プティ・ルス”、”ルス・ヨウ・ブラン“でした。後の2羽はメス鳩です。

●クラヴァッテとシャポーは卓越したレーサーで、その姉妹は二十世紀前半を通して最高の種鳩でした。ルス・ヨウ・ブランは、カーリエのオス鳩とクロスしました。このカップルから”三銃士”が生まれました。プティールスは1922年にダックス・ナショナルで5位に入りましたが、マラドとその姉妹から生まれた、小型でもガッシリした黒いゴマのオス鳩とクロスしました。

●このカップルから、ブリクーの名前を不滅にした鳩が生まれました。先ず第一に”ジュール・セザール“。小さい赤のオス鳩で”プリムス・インター・パレス“ (すべての中で最上のもの)と称賛され、ボルドー・ナショナルで優勝しました。げれども、ダックス・ナショナルで4000羽中2位に1時間も差をつけて優勝した”ボン・エカイエ”の方がもっと優秀だったのではないでしょうか。この時ブリクー博士は1位と2位を獲得しましたが、放鳩当日に帰還した鳩はなんと4羽に過ぎなかったのですから。

この回想録027「ブリクーの時代」では、次の文章を抜粋しておきたいと思います。

●ここで私はその後確立されたヤンセン系とブリクー系を比較するという課題に取り組みたいと思います。この2つの系統の最大の特徴は完璧な方向感覚と、少量の餌で太ることができる体質です。これらの系統の最良の鳩の目はいずれも輝いていますが、よく見るとブリクー系の目の中には「チョコレート」と「栗」のニュアンスが優勢で、ヤンセン系は汚れたシルバーグレイが優勢であることが分かります。それらは豊満な羽をしたウェットな鳩でした。

 ■ブリクーとデュレイ■  □Piet de Weerd  2020年8月15日(土) 1:11 修正
●赤い羽色の「デルビー」の活躍

 (前号よりの続き) この「デルビー」は1926年、2歳鳩としてアングレームNで優勝しました。この機敏なトリは、その他にも多くの賞を取りました。ノアイヨン1009羽中優勝、ブリュッセルで行われた「ル・マルチネ」によるバンドーム14位、同じ連盟によるアングレームN優勝、ブリュッセルN10位、ポーN4位、ブリュッセルのサルブリス1043羽中優勝など。「デルビー」も「ル・セザール」も淡紅色の鳩で、羽には過剰なまでに黒い斑点や縞を付けていましたが、これは多くの本物のブリクー鳩の特徴でした。

 その黒さといったら、まるでインクびんを投げ付けたかのようでした。それらは華麗な銘鳩で、玄人にはまさにその特徴的な羽によって好まれました。すでに少し年をとっていたこれらの鳩は鳩舎に長くいればいるほど、その印象は強くなりました。これは頭部にも羽にも言えました。
 1925年から1933年にかけて、デュレイは105羽の鳩を長距離レースに出場させて、82回入賞しました。そのうち国内では優勝5回、2位、3位、4位、6位各1回です。
 ★1925年ダックスN1575羽中1、3、7、73、84、85、326 位(7羽同時)
 ★1926年ダックスN1302羽中1、6、10、42、58、60、182位 (8羽同時)
 ★1930年ポーN1082羽中1、4、26、118、120、136、位(9羽同時)
 ★1931年ポーN1196羽中1、17 35、37、117位(69羽同時)
 ★1932年バルセロナIN4994羽中、5、22位(2羽同時)
 ★1933年ポーN3341羽中1、15 20、28、51、78、112、128、141、142、152、211 245、255、274、324、339 507、640位

 ●最も有名な鳩「プティ・ル」    2020年8月15日(土) 1:14 修正
 デュレイは1933年12月にブリュッセルでほとんど全部の成鳩を売りに出した時、彼の生涯で最大の誤りを犯しました。彼の持っている最高のレーサーすべてがこのオークションに出されました。それらはイギリス人やアメリカ人に買われました。その中にはスコットランドのアーマデールに住むドクター・アンダーソンがいました。彼は世界最高の鳩を集めて作出しようとしただけでなく、最高の英国産ブルテリアも手掛けていました。
 私はデュレイに、ドクター・ブリクーの最も有名な鳩は何だったか尋ねたことがあります。彼の答えは「ジュール・セザール」とその兄弟「プティ・ル」でした。いずれも比較的小型の赤い羽色をしたトリです。

 ドクター・ブリクーは、ボルドーからの国内レースで1位から4位まで独占したことがありました。それらは4羽の全兄弟で、「ジュール・セザール」が2位に十分の差をつけて優勝しました。「プティ・ル」はボルドーNで2、3および8位、タックスNで2位と17位に入りました。その間にアングレームからの準国内レースでも3位と5位に入りました。リエージュのサンバンサンNで2251羽中優勝した鳩は「ジュール・セザール」の娘「ラ・シャネット」でした。

 ドクター・ブリクーの最も有名なカップルはこれもデュレイの話しですが「マラド」とその全姉妹から生まれた息子と、1922年にダックスNで5位に入った「プティ・ル」との組み合わせでした。「マラド」とその全姉妹との息子も、少なくともデュレイによって「ドンケレ・ベーケマン」 (暗いベーケマン)と呼ばれました。これは「マラド」の兄弟の「リヒテ・ベーケマン」 (明るいベーケマン)と区別するためでした。デュレイは、この「リヒテ・ベーケマン」から「デルビー」を作出したのでした(上記参照)。

  ●鳩界の将来に対するデュレイの答え    2020年8月15日(土) 1:15 修正
 デュレイ上院議員はブリクーの鳩でどれが一番好きだったかという私の質問には、彼は微笑みながら「ボン・エカイユ」と答えました。ボン・エカイユはタックスNで4000羽中2位に1時間の差を付けて優勝しました。1923年のことでした。

 1944年11月、私はデュレイに鳩界の将来についても尋ねてみました。彼の答えはこうでした。

  「ドクター・ブリクーと私は鳩レースを続けていたら、私たちは年をとりすぎていて、もはや傑出した鳩をストックしてはいなかったでしょう。要点を言えば、誰が最良の鳩を上手に越冬させることができるか、そしてそれらの鳩が誰の手に入るか。それらのオーナーは他のすべての愛鳩家と同様、短距離レースに参加するのか。あるいは新しい世代の長距離レーサーが生まれるか。あるいは、潜伏しているデルバールやカットリーセが今後復活するか。これらは粘り強く活力にあふれた若鳩です。また、リエージュのファブリーやリュクサンブールのヘントゲスはどこにいるのか」

 デュレイがいかに賢いかは、彼が私の質問に反問をもって答えたことからも分かります。彼の系統はブヴリネ在住のアマチュア・レースマンのアンリ・ティルマンを経由して、アンデルリューのレイモン・コブの系統に生き続けています。

 ●躍進するブリクーの銘血    2020年8月15日(土) 1:17 修正
 ここでロマンから現実の世界に戻ることにしましょう。デュレイは1933年12月に行ったオークションで、124,124ベルギーフランを売上ましたが、これは当時の世界記録でした。同じ冬にデュレイはこの金で古い3階建ての豪邸を5軒買うことができたというのをどこかで読んだことがあります。が、これについてレオン・プティは地下室から屋根裏まで空っぽで崩れかかっていたに違いないと言いました。同じようなことは、アントワープのコーネル・ホールマンの巨額の賞金についても言われました。これも単なる作り話しです。本当に家を建てるほどの巨額を稼ぐことができたのは、リエージュのジョルジュ・ファブリでした。彼はそれまで誰もなし得ないほどの復活を遂げたのです。

 多くの識者の観るところ、ブリクーとデュレイは1933年に彼らのキャリアの頂点にありました。同じ年、アーレンドクに住む小柄の煙草職人が、献身的な6人の息子たちに支えられて、系統の確立に取り組みました。その系統は今日に至るまで時間の歯車に抵抗しています。私たちは現在それから50年後に生きており、今ではブリクーやデュレイについて語るものが、いなくなったのも運命でしょう。

 1935年:リモージュNアンダンテ・ペルシュでクーイレのオスカー・ブレイモンが今回は別の純粋なブリクーで優勝しました。これは「ジュール・セザール」の妹から生まれました。私はトーレンの「ベーレンレーンバンク」の出納係アウド・フォッセメールと、彼の友人で、運転手の「ケース・デ・ヴィルデ」と連れ立って、この鳩を見に行きました。それは朝6時から夜12時まで明るい夏の日でした。現在は高速道路が通っている所は、当時は砂と砂利と舗装用の丸石で作られており、所々ヒースが生い茂っていました。ブレイモンの鳩は、私かそれまでに掴んだうちで最も高貴な鳩でした。

 1936年:アングレーム、デザースNアンタンテーペルジュ(2325羽)で、ラールヴィエールのアルフレッド・マッスルが 「ル・カポラル」という名の純粋なブリクーで優勝しました(これは多分ナポレオンの俗称「リトル・コーポラル」だったでしょう)。後にこの鳩はヘクトール・デズメが買い取ったと思います。当時彼は「ブリクーの時代」にありました。

 1937年:アングレームNアンタンテ・ベルジュ(2382羽)。ヘラルズペルヘンのヘクトール・デズメが、赤い羽色のブリクー「ル・ボス」(ドイツ語で「デア・ブッケル」)で2位と8分差で優勝。

 1938年:サンバンサンNアンダンテ・ペルシュ。ジョリモンのドクター・ブリクーが優勝。放鳩日に帰舎した鳩は一握りしかいない苛酷なレースでした。
 1939年:アングレーム、デザースNアンダンテ・ペルシュ。マース川沿いのディナン地方のファルミニュールに住むオクターヴ・フートがブリクー・トレメリーで優勝。私は彼に会いに行きましたが、この鳩をサン・ルイのジェローム・フェレーケに売ったと言ったのを覚えています。

 それから10年後の1949年・・サンバンサンNアンタンテ・ベルジュ。ヒュースケンスとファン・リェル組がアントワープの「ユニオン」ですべての記録を塗り替えました。彼らはリエージュのサンバンサンで1位と3位を取りました。

 ブリュッセルNで人々は日曜日の朝8時に打刻しました。しかし、土曜日の朝に、申告時間内に鳩舎に戻ったのはベルギー中でたった一羽でした。それはカルニョンに住む炭鉱夫ロベール・デュビエが所有する赤いオス鳩でした。私はこの鳩がまだ雛のときにわざわざ見に行ったことがあります。

 この鳩がリエージュの国内レースに参加し。この真のチャンピオンに掛けたなら、2位にざっと2時間の差をつけて優勝してオーナーに5万マルク設けさせたことでしょう。が、このオーナーはモンスの古い鉱山で働く障害のある炭鉱夫で、アマチュアに過ぎませんでした。かつて、ヴィンセント・ファン・ゴッホもこの地方で働いたことがあります。とこ
ろでこの赤い鳩はと言うと、それは最高級のブリクー=デミル・カラミンでした。

 ●フローベルと瓜二つ    2020年8月15日(土) 1:18 修正
 私は1930年にはミッデルハルニスの上級実科学校を卒業しました。私たちのフランス語の教師は身長が1メートル六十センチにも満たない小柄なベルギー人で、サン・トライデン出身のドクター・J・J・A・フレダフスでした。彼は死刑判決を言い渡された政治亡命者で、1918年にオランダに逃げ込んできました。それ以外の点では非の打ち所のない人間でした。私たちは未熟だったので、当時の政治情報について全く無知でした。

 その後、情勢が変わったのでしょう。1940年5月、彼はベルギーに帰り、故郷の町の町長になりました。しかし、1945年に状況は再び一変し、敵軍に対する武装協力のかどで銃殺刑に処せられたと聞いています。

 1930年に私はシャフケ・フレイダフスにドクター・ブリクーの写真を見せて、「この人を知っていますか」と尋ねました。彼は一瞬ためらった後、「ああ、『ボヴァリー夫人』を書いたギュスターブ・フローベールだ」と答えました。フローペルはこの本で世界的に有名になり、私の本のリストに載っていました。そこで試験管のF・J・クロップ牧師はフローベールについて質問しましたが、それはベルがなる直前でした。

 このときドクター・フレダフスはこう言いました。「この受験生は熱狂的な愛鳩家で、ピジョンスポーツの世界チャンピオンがルーアンに住むフロベールと瓜二つだと信じているのです。」この逸話から、ヤンセンが彼の系統の確立に取り組み始めた当時の世界チャンピオンがどのような顔をしていたかお分かりでしょう。

 ここで私はその後確立されたヤンセン系とブリクー系を比較するという課題に取り組みたいと思います。この2つの系統の最大の特徴は完璧な方向感覚と、少量の餌で太ることができる体質です。これらの系統の最良の鳩の目はいずれも輝いていますが、よく見るとブリクー系の目の中には「チョコレート」と「栗」のニュアンスが優勢で、ヤンセン系は汚れたシルバーグレイが優勢であることが分かります。それらは豊満な羽をしたウェットな鳩でした。

 ブリクー系は中距離と長距離専門に発達しましたが、ヤンセン系の場合はそうではありませんでした。しかし、事実が示すように、ヤンセン系は少なくとも配合においては、どんな距離や条件にも適したオールラウンドな鳩でした。ブリクー系はどちらかと言えばアヒルの体型を思わせるところがありましたが、ヤンセン系はそうではありませんでした。しかし、だからと言って「背中がない」とか「掴みごたえがない」といった批判は聞いたことがありません。

 ■■『Piet de Weerd 研究』028■■  [ピート・デヴィート回想録028「伝統継承と進歩」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1998年3月号 )  イレブン  2020年8月15日(土) 1:28 修正
戦前、戦後、そして現在に至るまで銘系ブリクー系はこの回のタイトルのように「伝統継承と進歩」を続けてきました。しかし、その系統の全体像については、ブリクー系の特異な形成史の影響のため、資料としてキチンと残されているわけではないようです。

ピートさんの回想録は、ベルギーのレース鳩の歴史についてある程度の基礎知識を持っていることを前提に話が進められています。そこで、今回の『Piet de Weerd 研究』を進めていく上では、関連資料をできるだけ掲載しながら回想録の内容を理解していきたいと思っています。

このブリクー系編ともなっている回想録22、26、27、28の関係資料としては、以下の資料を追加します。結構な量になると思いますが、研究の貴重な資料となると思っています。

@『ベルギーの系統とその歴史』ジュール・ガレス著(The history of the belgian strains by Jules Gallez)第Z章「ドクター・アーサー・ブリクー」
A銘鳩ミュニエ号関連資料

 ■伝統受け継ぐ強い鳩たち  □Piet de Weerrd  2020年8月15日(土) 1:29 修正
 ダンハイフエの「ローデ・バルセローネ」は、典型的な「百姓鳩」でした。恐ろしく強く広い肩幅をしていますが、目は特にどうということはありません。同じことは羽に言えます。内気でも柔順でもなく、目立って個性的というわけではありません。彼はバスケットの蓋が開くのを見て、こう独りごちたことでしょう。「さあ闘いの始まりだ。だがあくまでも冷静に、力を使い果たすな」と。

 このトリは状況を見通し、冷静さを失わない鳩、という印象を与えました。この鳩はある世界選手権で、ロードの強制労働者の異名を取る自転車レーサー、ブリク・ショッテのようにデビューしました。その成績はサン・バンサンーNで3位(1098羽)、ビルバオーNの過酷なレースで7位(4425羽)、バルセロナーN優勝(3339羽)、サンーセバスチャンーN3位(2929羽)等々です。

 その最良のヒナは、デルバーの「バロン」の妹との間に生まれました。デルバーが自分の取り分として受け取った2羽の娘のうち、まだらの方はロンセでアングレームNの優勝鳩(6000羽)の母となりました。

 私ならばむしろデマレットの「ファーレ・バルセローネ」の方を買ったでしょう。これはヘンフストデイク在ウェイナッケルの鳩の間に生き続けていますが、これらの鳩の中にもデブリーントの赤やベールトーンが混じっています。色は飛翔技術よりも遺伝しやすいのです。とは言え、それらは輝かしい伝統を受け継ぐ恐ろしく強い鳩たちです。

  「ファーレ・デマレット」は私ならばブリクーの全系統の中で最も欲しいと思う鳩です。このオス鳩は、大きな「デカラジュ」(羽の間の透き間)のある長い翼を持っています。彼は激しく攻撃的な気性をした並ぶもののないトップレーサーでした。ヤンセンはこのような鳩を持っていませんでした。ヤンセンの鳩はいずれも体型が短く、豊かな筋肉をしていました。

 このオッティニーの「飛行機」は、私にデブリーントの「ズワルテバント」を思い出させます。それは何よりも筋肉によってです。脚環番号は58−21006367で、1962年と1963年にバルセロナNで優勝しました。第1回目の優勝では、このトリは西ヨーロッパ全体で40分の差をつけました。1963年のとき、当時キュルゲム・センターの所長を務めていたファン・タインは、ブレダのバロニーラーンに住むレース主催者に電話して、1時間半も前に1羽の鳩が鳩舎に戻ってきましたが、2羽目はまだ見えないと伝えました。そして、私にその鳩がどれだか言い当てられるかと聞きました。彼は私を迎えるために娘のオルガをアントワープによこしました。当時彼女は新しいパッカードを運転していました。正午を少し過ぎた頃、私たちはオッティニーのル・ドゥ・ブランーリに到着しました。

 ■ 卓越したファーレ・ブリクー■  □Piet de Weerrd  2020年8月15日(土) 1:30 修正
 アデリン・デマレットは鉄道員でした。彼は家の裏庭にある階段付きの小さい鳩舎の上に立って、心配そうに青い空を見つめていました。その表情は、自分の鳩か打ち立てた世界記録など彼にとってはどうでもよいかのような印象を与えました。「ファーレ・ブリクー」はあまりに力強く、荒々しい飛び方をしたために、両翼の外側の風切羽が上方に湾曲してしまっていたのです。トリは以前は金色が混在した栗色の目をしていましたが、今では淡いチョコレート色ないしクリーム状の白味を帯び、瞳孔の緑は青みがかった褐色をしていました。血色と虹彩の色は、それまで見たこともないほどに、すっかり消え失せていました。

 トリはあれほど厳しく過酷な時間を経た今でも、その卓越したクラスの徴候をみせていました。この肩幅の広い巨大な闘士は、嘴の先を軽くつまんだだけで激しく抵抗しましな彼は非常に短気で、そういったことが全く我慢ならなかったのです。

 この鳩は、ディッケブスに住むダニェル・デフォスに売られました。この男は「太ったキッネ」のニックネームを持っていましたが、それもそのはず体重が280ポンドもあったのです。それから約一年半の後、この鳩は最後に極東に売られました。(※注イレブン:銘鳩ミュニエ号のことです)

 私だったら、このような鳩をどんな相手と掛け合わせたでしょうか。ヤンセン系の鳩で言えば、1951年の「ショーン・リヒト」か、1958年のメス鳩でしょう。このメス鳩というのは、1964年の聖霊降臨祭にヘイスト・オプ・デン・ベルクのユージーン・ミーレマンスから買ったもので、1年後に再びヤン・フロンデラエルスに売りました。フロンデラエルスはこのトリから「シャトル」を作出しましたが、これは彼の生涯で最高の鳩のひとつでした。この鳩については、本ぶの別の箇所でお話しすることにしましょう。

 ■ブリクーで活躍・カラミン■    2020年8月15日(土) 1:31 修正
 シャトレのアルトゥール・カラミンは、1930年から1940年まで、まるまる10年間、ブリクー鳩の素晴らしいコレクションを持っていましたが、その名前は完全に忘れられてしまいました。その訳は、彼の場合、故郷から離れようとしなかったためでしょう。シャルルロアだけでレースに出る機会は十分あると考えていたのです。そのためハードな長距離用の鳩が中距離レーサーに仕込まれましたが、これらの鳩はとりわけ暑い日や逆風で強みを発揮しました。

 たとえば、1939年、そのような天候の日に、シャルルロアでRUPレースが行われました。このとき優勝した鳩は分速974メートルで飛びました。レースの成績は次のとおりです。
 シェルマン氏(シャテリノー)、純ブリクー:1、5、6、7、23、34、37、39、51、52、59、60、72、73、82、99、100、102、107、117、123、125、138、147、150、151および166位。おめでとう、グレゴワール!。
 カラミン氏(シャトレ)、ドクター・ブリクーの最も重要な支脈:2、4、11,12、14、30、33、41、42、55、56、67、74、80、93、111、121、140、159呼び165位。かくして、2人合わせて48羽入賞し、そのうち9羽がベスト15位に入ったのです。

 カラミン鳩を長距離レースに使った愛鳩家がいました。カルニョンのロベール・デュビーもその一人でした。彼はボリナージュの古い炭鉱で働いていた障害をもつ炭鉱夫でした。その境遇から推して、彼の生活は決して豊かであったとは言えませんが、ここでそれにつ
いて語るのは冗長にすぎるでしょう。いずれにせよ、1949年にリエージュのサンーバンサンNに出ていれば、彼の鳩はぶっちぎりで優勝したことでしょう。しかし、レースには出ませんでした。

 でも、私はこの鳩を見たことがあります。確かステーンベルゲンのヤン・アールデンと一緒だったと思います。トーンチエ・ショウテレンはいませんでした。私は彼を後で一度リンケペークのファン・カルスター兄弟の所に連れていったことがあります。この兄弟は、当時フロール・カナエルツ・ムーレのデブリーントを経由してファン・タインから奇跡の鳩を手に入れました。それは部分的には母方と同じ系統でした。
 この鳩を使ってレイモンド・ヘルメスは1983年、ハム・ジークでハードなパオNを制したのです。

 ■緩慢さがチャンスを見逃す■    2020年8月15日(土) 1:32 修正
 巣に卵を残してレースに出場した「ローデ・デュビー」は、たとえ売りに出たとしても、何か何でも手に入れたいという鳩ではありませんでした。私はこのトリの中に、ヘラールズベルゲン在ヘクトル・デスメットの「ブッケル」と共通するものをみましたが、全く同じ系統でもこの国際レース優勝鳩にはより多くのパワーが潜んでいました。

 私はときどき、ブリクーの鳩は赤い羽色のデブリーントかヤンセンだと思うことがありました。それらは極めて柔順で育てやすい種鳩で、子孫に伝える品質をふんだんに持っていました。人々は「ありあまっていた」とさえ言います。デュビーの鳩もそうした鳩の部類でした。

 ヤンセン系のスーパーピジョンを、上に述べた特質を備えたブリクー系の鳩と掛け合わせたなら、すべての切り札を手にすることになったでしょう。ゲームに勝ち、ときにはとっておきの切り札で相手のカードを収ることもできたでしょう。競争馬の世界ならば、こうした交配をやらないはずがありません。

 が、私の見るところ純粋な品種の進歩があまりに緩慢なピジョンスポーツでは、数え切れないほどのチャンスが見逃されているのです。

 ピジョンスポーツに関係のある人々はこのことを知ってはいても、正しく認識はしていません。雑種共生を求め続けたファンヘーのような男は、アウト・トゥルンハウトのアルベルト・ファン・ミールトのケースでは、その「ウィッテコップ」によって強化されたのに相違なく、しかも彼は正しい道を歩んでいるのだと確信していました。「ウィッテコ″プ」は、ホーレマンスの「ウィルデ」や「フローテ・フォンテーヌブロー」のような鳩でした。これらの鳩は中距離の最も強力なライバル(リエルのハフオ)に15分の差をつけて優勝することができたのです。

 ■ロンセの巨人モーリス・デルバー■    2020年8月15日(土) 1:33 修正
 ここで私は世界チャンピオンのもう一人の巨人について書きたいと思います。ロンセのモーリス・デルバーです。彼のチャンピオン鳩とアーレンドンクのヤンセン系との交配は例外的なものではありません。むしろオランダでは頻繁に行われ、しかも大きな成果を上げているのです。

 たとえば、スタフ・ドゥサルダインの鳩舎では、シャルル・ダーネンスの鳩と交配させました。それらの鳩はルーセルから得た「クラック」たちでした。スタフはそれによって自分の鳩がより安定し柔順になったことに気付きました。しかも、その飛翔距離はいささかも失われることなくです。これは、スタフにとって特別大きな意味を持っていました。なぜならば、彼は中距離には決して興味を示さなかったからです。

 私かデルバーに初めて会ったのは、1935五年、ティルブルフの「チャンピオンデー」においてです。

 C.T.デーゼーウとフランスー・ゼルマンスからアドバイスを受けたルイ・ドンデールが彼を招待したのでした。彼らは、スタフからデルバーが「前途有望な男」であることを聞かされていたのです。ミデルハルニスから北コ・ニピウスもこの小さいサークルのメンバーでした(彼はいつもかなり野心的でした)。そのほかに、デ・シェーマエッカー、ロッテルダムのクラッツとワッセン、ローゼンタールのシュールとブラート、ブレダのハリー・オーメン、ニムウェーゲンのドクター・ボルとベルナルトーブルゲルスがいました。以上で、このサークルの最も重要なメンバーはおおかた尽くされているでしょう。

 私か初めてデルバーの鳩を掴んだのは、ゼールストのタバコ製造業者フランス・バールマンの鳩舎でした。彼はモーリス・デルバーから籠いっぱいの鳩をプレゼントされたのです。このような贈り物はこのときが最初ではなく、恐らく最後でもなかったでしょう。

 ベルギーとオランダの国際的なブライング・クラブ(本当のエリート集団でした)は、夕食会やその他の集まりを通してI「ブリック・リレーション」の分野で大いに貞献しました。なかでもモーリス・デルバーは、困難な長距離レースにかける意気込みと、その印象深い人柄によって、愛鳩家と国際的組織との良好な関係の促進に一方ならず寄りしました。彼はまた7年間キュルゲム・センターの所長を務めていました。この後に、私か戦争末期にデルバーと彼の鳩について書いた事柄が続きます。
           (この項次号へ続く)

 炎天下のイレブン鳩舎  イレブン  2020年8月14日(金) 16:39
修正
暑いですね……。鳩たちもうだれるようにじっとしています。熱中症にならないのかな〜と心配になるほどです。

 《源流系画像資料》【源流モンロー号】 親子配合  イレブン  2020年8月13日(木) 5:40
修正

 源流モンロー号親子配合作出鳩  イレブン  2020年8月13日(木) 21:45 修正

 ・  イレブン  2020年8月14日(金) 4:19 修正

 【『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇◇関口龍雄「レース鳩の系統について」◇◇◇◇【出典:『レース鳩」誌、1983年4月号P8より引用)  イレブン  2020年8月12日(水) 16:38
修正
 この関口龍雄先生の論文は以前も一度取り上げていたように思いますが、ピートさんの近親配合論と読み合わせると、より一層味わい深い文章になってきます。

●私の50年間の近親交配の体験によれば、良質の鳩であれば近親交配をしても差し支えないと思う。良質でない鳩は、4回も近親交配を重ねれば、前述したように体羽が減少し、繁殖力もなくなりレース鳩としての必要性能が喪失してしまう。

●近親交配の継続によって生じた欠陥の補足について、シルヴェン・ウイツークは次のように述べている。良質の異種系統の鳩を三代に渡って交配してその血液を1/8とする。この1/8の血液を全鳩に導入することによって、原種の特殊性を失うことなく固定し保存することができると言っている。

 ご自身がシオン系を基礎として戦前、戦後を通じて、近親配合を実施され「鳩作り」を続けてこられた事実が、この論文の一言一言に重みを加えています。確か、種鳩に残す鳩は全て700キロ以上の記録をした鳩だけという方針を実施されていたとどこかで語っておられました。

1983年当時、近親配合論で、これだけのことをキチンと述べられていることに、時代を卓見されていた存在の大きさを感じます。

 「レース鳩の系統について」  関口龍雄  2020年8月12日(水) 16:39 修正
 「系統を外視しててレース鳩を飼育することは、富くじを買うに等しい」とは、カーネル・オスマンの言葉であるが、蓋し、名言である。

 一般に英国人は、動植物の育成に天才的才能をもっている。鳩についても同様のことが言えると思う。短距離鳩のスキナムや現在のショウ・レーサー鳩の作出に就いても私は高い評価をしている。

 系統、即ち一族問の血統に就いて考えてみることにしよう。

 近親交配を重ねてきて固定された一族であっても、レースの成績が不良であれば鳩界では、系統として認めていない。一般に近親交配を何代も継続して行うと、レース鳩は立派な体型であっても貧弱な小型になり、体羽も減少し、特に腹部の羽毛は無くなるばかりでなく翼や内臓等に多くの疾病を生ずるものである。勿論レース成績も不良になってくるのが普通である、然しながら、良質のレース鳩では、これ等の現象が少ないので、注意深く配合して行けば、レース鳩としての良質を固定させることができると思う。

 近親交配を継続して行くと鳩は、その性温順となり、レース鳩としての精悍さを失ってくる欠点を生ずるものである。ローデンバッハは、近親交配は、遺伝に先だって疾病を生ずるとして、近親交配の弊害を説いている。然しながら、フェリス・ージゴーは。その実施方法さえよければ、レースに必要な一切の良性能を遺伝させられると言っている。

 私の50年間の近親交配の体験によれば、良質の鳩であれば近親交配をしても差し支えないと思う。良質でない鳩は、4回も近親交配を重ねれば、前述したように体羽が減少し、繁殖力もなくなりレース鳩としての必要性能が喪失してしまう。良質の鳩とは、前述のうちの良い点を満たしている鳩の系統であると思う。

 良い系統の鳩であっても近親交配を継続して行くと、性質が温順になってくる。人に馴れるのは良いが、やや小ぶりになりがちで、レース鳩としての精悍さが欠けるきらいがある。このようなレース鳩をレースに参加させても近年のレースでは、優勝することは極めて困難であると思う。

 近親交配の継続によって生じた欠陥の補足について、シルヴェン・ウイツークは次のように述べている。良質の異種系統の鳩を三代に渡って交配してその血液を1/8とする。この1/8の血液を全鳩に導入することによって、原種の特殊性を失うことなく固定し保存することができると言っている。

 しかし、レースに参加させるためには、一代目でもその効果が現われるものと思う。

 次に、推奨す可き系統についてを書くことになっているが、この問題は実に難しいことであり、差し障りの多い問題でもある。

 ウランが作出した鳩の子孫のうちで、世界的に有名であり且つ現在でもその子孫が活躍している系統であればどれでも推奨に値すると思う。 .

 毎回のように、大レースに優勝して.一躍有名になった愛鳩家の中には、数年たつとその名前が成績の上位から姿を消してしまうことが屡ある。その原因は何であるか研究してみる必要があるだろう。

 現在の愛鳩家の多くは異種交配をしている。「良鳩の作出は血液の混合にある。」という昔からのベルギーの掟があるが、この掟に合致した無難な作出方法であると思う。

 たびたびの優勝で、気を良くした愛鳩家が、異血導入を怠り、自‥鳩舎内の交配を続ければ上位入賞は不可能となるであろう。近親交配を続けている鳩舎も同様に、他の優秀な系統の鳩との交配によって生れた鳩をレースに参加させることによって、上位入賞の希望がでてくるものと思う。

 以上の記述は、私の60年に亘る飼鳩生活と昭和8年からの近親交配の体験によるものであるが、ベルギーの昔の著名愛鳩家の意見も少し加えたものである。

 最近の日本の鳩界も発展して世界的のレベルに達しつつあることは喜ばしいことである。毎年諸外国から数多くの良不良鳩が輸入されてくる。そのうちから良鳩を入手するのは日本にいる愛鳩家の選鳩眼である。諸外国の愛鳩家の中には、他鳩舎でレースに参加した鳩を購入して、自分の鳩舎からその鳩をレースに参加させた例がいくつもあるが、日本では、購入した鳩は種鳩として使用する場合が多い。レースで優勝した鳩必ずしも種鳩として成功するとは限らない。飛ばなかった鳩必しもよい種鳩にならないとは誰も断言できない。このことは、経験のある愛鳩家ならば皆肯定するところである。

 日本では、超長距離(1000キロ以上)を飛翔した鳩を好み賛美するが、その体型は、800キロまでの鳩とは少し異なることである。

 人間の好む鳩の体型は現在のところところ800粁までの鳩の体型である。従って、品評会の規定もこの従って、品評会の規定もこの体型に合うように出来ている。

われわれが選鳩する場合、最高の系統の鳩を選ぶとともに、以上の記述も参考にする必要があると思う。

若き愛鳩家のご参考になれば幸いである。

 源流系画像資料【銘鳩モスクワ号×源流3690号】(自身×孫)  イレブン  2020年8月12日(水) 1:29
修正

 源流モスクワU号  イレブン  2020年8月12日(水) 1:32 修正

 源流系画像資料【秘蔵岩田号×帝王GPダイヤモンドレディ (秘蔵岩田の孫)】(自身×孫配合)    イレブン  2020年8月12日(水) 1:06
修正
上画像:秘蔵岩田号(岩田日本海号系5085、3727の直孫)
下画像:帝王GPダイヤモンドレディ 1000K総合優勝(秘蔵岩田号の直孫)

 帝王705号  イレブン  2020年8月12日(水) 1:18 修正
秘蔵岩田号×GPダイヤモンドレディ

 秘蔵岩田U号  イレブン  2020年8月12日(水) 1:21 修正
秘蔵岩田号×GPダイヤモンドレディ

 イレブンのBGM動画集  イレブン  2020年8月11日(火) 16:04
修正
■Joe Hisaishi in Budokan - Studio Ghibli 25 Years Concert [HD] [1080p]
https://www.youtube.com/watch?v=Gpr_ISfWFsk

■Studio Ghibli Summer Night Piano Collection Piano Covered by kno
https://www.youtube.com/watch?v=7voSN82FGF0

 源流系画像資料【秘蔵岩田号×(秘蔵岩田×9390)(親子配合)】  イレブン  2020年8月11日(火) 11:43
修正
2020年配合《秘蔵岩田号親子配合(父×娘)》

上画像右:【秘蔵岩田号】
上画像左:【秘蔵岩田×9390】
下画像:【秘蔵岩田×9390】

 2020年作出鳩【源流秘蔵岩田号】親子配合作出鳩  イレブン  2020年8月11日(火) 11:46 修正

 【『Piet de Weerd 研究』関連資料】◇◇◇『作出のセオリー =天才アドレーアンに捧ぐ=』TDKロフト 素野 哲著(2007年7月31日、愛鳩の友社発刊) ◇◇◇  イレブン  2020年8月9日(日) 4:47
修正
2007年に発刊された『作出のセオリー=天才アドレーアンに捧ぐ=』は、実に画期的な名著です。作出論でこれほど深く論が展開された著作は他に類を見ません。著者素野哲氏は、この掲示板でも幾度か氏の主張を取り上げた事がありましたが、残念なことに7,8年程前に急逝され故人となられています。

この本の発行者である当時の愛鳩の友社明神庄吾社長は本書を評して、後書きに次のような言葉を記されています。

● 種鳩論の核心の一つになっている「アイ・バンド」の指摘などピジョン・ビジネスに携わる業者たちにはいずれ厄介なお荷物になることだろう。昨年ベルギーに出向いたとき、世界的に著名な愛好家のカタログを瞥見して驚いた。代表鳩の全身の写真と一緒に目まで載せているのに、虹彩の外側はカットされているのだ。つまり、アイ・バンドの有無は写真からは判定できない。活字文化というのは恐ろしいものである。3年の連載の間に誰からともなく話が伝わり、地球の裏側まで真実は伝播しているのである。まがい物を扱う人間にとってこれだけ恐ろしい著述はない反面、レース鳩の性能について探究する者には貴重この上ないのが本書である。

明神社長が後書きで指摘しておられるように、本書は、アイバンド論という目の理論を中心に据え、ミューレマンス系やヤンセン系などの当代一流の銘鳩を使って実際に作り上げた銘鳩たちの画像を駆使して明快な理論が展開されています。氏をして「ピジョン・ビジネスに携わる業者たちにはいずれ厄介なお荷物になることだろう」、「まがい物を扱う人間にとってこれだけ恐ろしい著述はない」とまで記させたほどの直裁的で真摯な内容になっています。これまで理論としては存在していても、ほとんど公開されることがなかった領域まで踏み込んでいる名著だとイレブンは思っています。

 現在連載している『Piet de Weerd 研究』では、ピートさんが「濃密な近親配合」の重要性を幾度となく強調していますが、本書では、そのことと同じ視点に立ち、更に深く理論展開されてます。そこで、『Piet de Weerd 研究』の重要な参考資料として、研究を進めていく考えです。まずは、親子配合、兄弟配合に関する記述を引用しておきます。

この引用の中で、特に下記の指摘が重要です。ピートさんも同じ観点でもこのことを述べていますし、「直仔×孫」「孫×孫」といった遠い関係にある鳩同士の近親の問題点を明確に述べている点は注目に値するところです。この記述からこの「作出のセオリー」では、Piet de Weerdの回想録の鳩理論を踏まえた理論展開がなされていることが伺えます。「モルダント(闘争心)」は、ピートさんの中心理論ですですから。

●1990年代に入る頃になると、親子掛けや兄妹掛けのいわゆる”インブリード”に対して近親の弊害を心配する気持ちはなくなっていました。極近親にしても大丈夫という自信さえありましたね。むしろ遠い関係にある鳩同士の近親の方が私の経験からいいますと、モルダント(闘争心)が無くなったり、鳩が小さくなるなど悪い結果を生む傾向があります。

 ■禁断の親子掛けを試みる■  □素野 哲  2020年8月9日(日) 5:16 修正
 ヤンセン、ミューレマンスが持てはやされる中当時、1坪鳩舎で注目を集めていた多摩中央の石渡正博さんが私の作出鳩を駆使して大活躍されています。1990年春には西東京三連合競翔会の200キロと400キロで総合シングル入賞を収め、連合会では共に優勝です。

 200キロで活躍した〃TOMクラック〃という灰の雄鳩は、ミューレマンスの代表鳩カデ″卜の曾孫とアウデ・ヴィットオーガー孫の”ド・924“直娘との交配から生まれています。300キロを上位で帰った灰胡麻の雄〃TOMモーゼス〃にも共通した血が絡んでいました。父親はモーゼスとミューレマンス近親の当り配合から誕生し、母親の”ジェルチェ”はド・924と純ヤンセン系との交配から生まれていました。

 TOMモーゼス同腹の直子にRgと地区Nで勇躍した栗胡麻の雄がいて、その名も”ド・レッド・ボーイ”。同腹の相方は長距離のエースピジョンとして有名な”マジョール”の孫娘でした。息子の栗の羽色は母親からきています。

 2年後には、このモーゼスの仝兄弟もRgで活躍しています。作翔者は例の”10000番”を種鳩に持つ篠田さんで、私か基礎鳩の一羽としている”オーガスト“のラインで最初に成果を挙げてくれた人でもありました。

 オーガストの母親がアウデ・ヴィットオーガーの親子掛けから誕生しています。尊敬するアドレアーンが親子掛けをやっているということを知って、確信はなかったのですが、私もやってみようと思いました。それで試したのがジュエルチエとその父親ド・924との親子掛けでした。ちなみにジュエルチエという愛称は純のヤンセン系で宝石のような素晴らしい雌鳩だったので付けた名前でした。

 でも、私を含め当時の愛鳩家には”近親”に対して親子掛け、兄弟掛けで血を戻す”インブリーディング”の概念は無く、直子孫掛け、親孫掛けあるいはイトコ同士という”インブリーディング”を近親と考えていた。それだけに不安と期待が入り混じる中で試したものです。そうして生まれた”ヨング・ジュエルチエ”は若鳩時に東葛連合会の戸部父子の鳩舎で一年間、過ごしました。結果は孫が次々に飛び出し、メインレースで上位入賞を収めていく。親子掛けでも成果を出してきたジュエルチエの持つ意味は大きかったですね。

 ■アウデ・ヴィツトオーガー 父娘掛け■  ◎親子掛けに確信を持つ    2020年8月9日(日) 5:20 修正
”オーガスト”をヤンセン兄弟から導入して、近親に対する概念は大きく変わりました。当初、この鳩の母親がアウデ・ヴィツトオーガー の父娘の親子掛けであることに気づいた時は意外に思ったものです。世界のヤンセンがずいぶん無茶なことをすると。それまでは親子掛けには弊害があって交配させるものではない、近親というのは関係の遠いイトコ同士や親孫くらいでやるものだと思い込んでいましたから。

 日本でも細川勢山系で有名な〃253号”で親子掛けが行われていますが、基礎となる鳩が年をとってきて、やむにやまれずやっていると理解していました。でも、一般的ではありません。アドレアーンにいたっては、もっといい雌鳩がいたはずなのに、何も娘と掛ける必要はなかったはず。けっして、やむにやまれず親子を掛けたのではなく何か意味があってやったのだろう、そう考えて私も試みることにしました。

 最初に試したのが、アウデ・ヴィツトオーガー の孫〃ド・924”でした。オリジナル・ヤンセンはたくさん持っていましたが、フェルストラーテからきた鳩はこの一羽だけ。ラインを繋ぐために娘”ジュエルチェ”との親子交配を試みてみました。すると素晴らしい鳩が出来た。生まれた子どもを東葛連合会の戸部父子鳩舎ヘー年間預け、ここでも次々に結果を出してくれました。

 1990年代に入る頃になると、親子掛けや兄妹掛けのいわゆる”インブリード”に対して近親の弊害を心配する気持ちはなくなっていました。極近親にしても大丈夫という自信さえありましたね。むしろ遠い関係にある鳩同士の近親の方が私の経験からいいますと、モルダント(闘争心)が無くなったり、鳩が小さくなるなど悪い結果を生む傾向があります。

 以前、こういうことがありました。あのベルギーの最強として有名だったミブソエル・ヴァンヘーから、アウデ・ヴィットオーガーの重近親という鳩を購入しました。ところが、見るとどうしようもないトリだった。「何でこんなトリを作っているのか」と聞くと、相手は「近親にするとそうなってしまう」と応えます。

 不思議に思って血統書を確認すると、遠い近親にしていました。私なりの見解を伝えて、アドバイスしました。自動車事故で亡くなる少し前のことでしたね。

 ○父娘掛けと兄妹掛け    2020年8月9日(日) 5:22 修正
 これまでお話してきたことで一つ、注意していただきたいことがあります。それは〃インブリード”や、直子孫掛けや親孫ひ孫掛け、あるいはイトコ同士といった遠い近親の”インブリード”を私が語る時には前提があるということです。ヤンセンのように血統が固定されたものでなくてはなりません。最初から血が割れている鳩にはいろいろな因子が絡んでくるので当てはまりません。親子掛けなどにすると、もっとダメになると考えた方がいいでしょう。

 では、なぜ”インブリード”が良いのか。以前もお話したことがありますが、基本的に息子は母親の因子を、娘は父親の因子を受け継ぎます。つまり、父親がチャンピオンなら、レーサーとして優れた因子は娘が受け継ぐ。母親がチャンピオンなら息子に引き継がれることになります。この基本的な考え方に沿って親子掛け、兄妹掛けについて私なりに話しを展開してみたいと思います。

 最初に親子交配(次頁・右図参照)からお話しましょう。Aという素晴らしい♂鳩がいます。このAに、AとB♀を交配し生まれたC♀を交配させるのが親子掛けです。この場合、私が考える基本的な法則からいいますとC♀はA♂の優れた因子を引き継いでいることになります。つまり、この親子掛けから生まれたDやEはAの血が濃い鳩として生まれてきます。

 ただ、気をつけたいのは父娘の交配からは選手としても種鳩としてもいい鳩が出来ますが、母息子掛けの場合、経験的にはクシャクシャしたトリが出来ます。種鳩としては最高の雄鳩が生まれますが、選手鳩としての良い雌鳩はできません。また、母息子掛けは雌が年上となりますから、これも以前、お話しました通り、優れた雄鳩は生まれますが、その雄鳩ほど良い雌鳩はできません。

 次に兄妹交配(同頁下記・左図参照)についてです。この兄妹掛けについては、F♂の因子は母親のBからきて、G♀の方は父親であるAからきています。つまり、FとGの配合は、持つ因子がAとBの配合と同じことになります。ですから、F♂とG♀の交配は両親が一緒で非常に血縁関係は近いのですが、弊害を心配する必要は全くありません。H♂は母方祖父のAの因子を受け継ぎ、I♀は父方祖母のBの因子を受け継ぐことになります。

(【出典】『作出のセオリー =天才アドレーアンに捧ぐ=』P110〜P114より引用) 

 ○前書き○全文(同書P10〜P12より引用)  □素野哲  2020年8月9日(日) 5:52 修正
 経済水準からすると、今日の日本は世界的にかなり裕福になりました。文明の発展と共に若者達はモバイル、ゲーム。ネット文明に浸り、戦後生まれの私など物の無い時代に育った世代からすると、過ぎた時間か懐かしく思われます。

 同好の士である愛嶋家が。互いに高齢化し、楽しい鳩談義と肉休の衰えが話題となる今日この頃です。「愛鳩の友」さんとの御緑があり、3年間に亘り連載を続けて参りましたが、この間に全国の皆様から沢山のご貿問、ご愚見を頂き心から感謝する次第です。

 鳩の趣味においてレースは勿論、作出における方法論について様々な試行錯誤が行われ未だ拡則として確立されていないのが硯実です。そんな中で、私独自の「作出のセオリー」として一冊に纏めるに当たり、改めて思うことがありました。拙著の副題にも込めました天才アドレアーン・ヤンセンヘの憧憬と深い尊敬の念がセオリー確立への大きな原動力となっていたということです。

 アドレアーンの凄さというのは自分で鳩を作ってみてわかります。ああ、よく出来たなと思った時にフッと思う。毎年そういうヒナは出来るのですが……、私自身が満足するようなそんなトリをアドレアーンは日常的に作っていました。本人は前面に出て有名になることはありませんでしたが、たとえばポンテーローザ、アイヤーカンブの05カンブハイスやヴァンダーフォスケなどのオリジンを作っていると思うと尋常ならざるものを感じます。

 また、「8大銘鳩」と言うのは総て選手鳩です。これらの鳩から、当たり前のようにアドリアーンは銘嶋を作り上げていく。選手鳩からすごいトリを作るには私の交配セオリーから言いますと優れた種鳩を作るための種鳩が必要となってきます。それを持っているからこそ出来ることでありますが、容易に真似の出来ることではありません。また、アドレアーンが科学的に交配論を考えていたわけでもなかった。生まれつき身についていた、まさに鳩の天才でした。自身のセオリーが確立される中で偉大なる愛鳩家アドレアーンヘの私の思いは深い感謝の念へと繋がっていきました。

 ようやく導き出したセオリーとは言え、わずか50年の経歴の私見に耳を傾けていただき、読者の皆様には本当に有り難い事と感じ入っております。いずれにしましても愛鳩家に忘れて欲しくない事は、自分が与えた新しい命を、一羽一羽大切に慈しんで欲しいという事です。より良い鳩を作るため、私も必要以上の淘汰をして参りましたが、愛鳩家として、これで良かったのか振り返れば寂しくも思われます。

 種鳩の選定そして理想とする配合の計画を立てている時は愛鳩家にとって至福の時ではないでしょうか。そんな時、心の片隅に拙説を思い浮かべて頂ければ嬉しい限りです。卵で生まれ、無事に孵化した時から愛鳩の一生か始まります。将来のチャンピオンを大切に育てて欲しいものです。

 そうすることから、私達は鳩文化をより高みに持ち上げていけるのではないでしょうか。私達が自信を持って、若者にこの鳩飼育を通じた楽しみ、喜びを体験するように勧めることか出来れば、世代を超えてどれ程素晴らしいコミュニケーションとなることでしょう。どんなに発達した文明でも、人の心を満たす事は不可能なのです。子どもが大人と一緒に楽しめるスポーツは鳩レースくらいだと思います。ヨーロッパでは親子、家族で鳩を飼育する文化が根づいております。誠にうらやましい限りです。

 私も子どもの頃、鳩界の先達に親切に教えを頂き、基本となる鳩知識を得られたものです。今でも心から感謝しております。時の過ぎるのは早く、我が身がその立場にいたるとは思いがけない事です。これからも諸先輩に恥ずかしくない様、日々研鎖を積み重ねていきたいと心に言い聞かせる次第です。

2007年7月7日 素野 哲

 ◎後書き◎全文 (同書P285〜P287より引用)  □明神庄吾  2020年8月9日(日) 6:13 修正
 書物を制作編集し、発行する者にはいつも大きな課題かある。狙ったテーマに即した良い書き手がいるかどうか、心当たりかなければいかにして書き手を発見することができるかどうかという問題である。ピジョンースポーツ界のようにマイナーな世界では実はそれが難問であり、挙句、こちらの思いに見合うだけの良書を作ることかできないという現実かある。発見、発掘か第一。の作業としてのしかかっている。

 本書「作出のセオリー」の場合、その点は比較的容易だった。著者・素野哲氏とは1986年以来面識があり、氏がレースで好成績を出すたびに声をかけて頁って取材してきた経緯かある。鳩を作出したり、飛ばしたりすることに熱心な愛好家は沢山いるが、それを理論化し表現する存在に恵まれない斯界にあって、類希な人材であるという認識は初期の段階からもっていた。思い起こすとかれこれ十数年前、氏に懇願し1990年2月号から5月号まで連載を試みたことかある。著者が気軽に応じてくれたまでは良かったが、「陽性因了」と「陰性因子」を幕軸に作出論を展闘する理論に編集部がついていけず、結果的には好記事にはならなかった。リライトか晦渋すぎて読名にも十分に理解してもらえなかったはずである。

 でも、著者は鷹揚だった。編集部の力不足を非難するどころか、一所懸命頑張ってくれたね、と労をねぎらってくれたものである。当時、月刊誌の編集人兼発行人だった私は、その失敗をいつかは償わなくてはならないと胸に刻んで新規蒔き直しのチャンスを待っていた。「運命の女神」というのはいつもつれない訳ではないらしい。素野氏の事業か一段落し、改めてライフワークに取り組む心境になった局面で私をいざなってくれた。2004年初頭のことである。ミューレマンス系やヤンセン系などスピードーバードの育成に勤しんでいた著者か方向転換し、長距離系のチャンビオン・ブリーダーを集め始めたのが再び縁を取り持つキッカケになった。折に触れて作出論を解説してくれる氏の好意に私はもう一度甘えようと決意したのである。

 同年5月号から新連載は始まった。失敗は二度と繰り返すまいと決意し、私はリライトの担当者に仮借ない指示を出した。。百行の文章のために千行分の取材を敢行するよう要請した。そうでもしないことには著者のメソッドは読者には伝わらないという不安感が私にはあった。そもそも陰陽二元論など西洋科学の範躊にはない。人跡未踏の領域に踏み込んでいる著者の理論の脈絡を理解するだけでも容易なことではない。まして活字媒体で読者に伝達するためには著者の尻尾にしがみついていかなくてはならない。そうしないことには卓抜な理論も空論として写りかねないのである。

 結論からいうと著者は実に根気よく導いてくれた。「馬の耳に念仏」を唱えるように再三再四繰り返し解説し、果てには図解にまで手を貸す始末。愛鳩の友杜のためいうより、日本のピジョン・スポーツ界のためと恐らく考えていたのだと思う。素野氏の優しい心根はいわずもがなだが、そのような大局観抜きに丸3年も付き合ってくれることなど論外だと自戒している。

 本著のテーマは作出論だが、実質的にはレース鳩概論といってもよい。並みの愛好家が見過ごすような微細な観察を集積し、天性の直感でセオリーヘと昇華していく。体系化された理論はもちろん重要だが、一言一句のコメントは愛好家たちにとって珠玉のようなものである。種鳩論の核心の一つになっている「アイ・バンド」の指摘などピジョン・ビジネスに携わる業者たちにはいずれ厄介なお荷物になることだろう。昨年ベルギーに出向いたとき、世界的に著名な愛好家のカタログを瞥見して驚いた。代表鳩の全身の写真と一緒に目まで載せているのに、虹彩の外側はカットされているのだ。つまり、アイ・バンドの有無は写真からは判定できない。

 活字文化というのは恐ろしいものである。3年の連載の間に誰からともなく話が伝わり、地球の裏側まで真実は伝播しているのである。まがい物を扱う人間にとってこれだけ恐ろしい著述はない反面。レース鳩の性能について探究する者には貴重この上ないのが本書である。著者の敬愛するアドレアーン・ヤンセンもあの世で微苦笑していることだろう。表紙を飾る天才の澄んだ目がすべてを物語っている。
                2007年7月7日      明神庄吾

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