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 岩田系資料 80PE2119RC♂  イレブン  2021年2月2日(火) 20:26
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 ・  イレブン  2021年2月2日(火) 20:32 修正

 ■■『Piet de Weerd 研究』040■■  [ピート・デヴィート回想録040「エース鳩中のエース」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1999年3月号 )  イレブン  2021年1月30日(土) 4:40
修正
ピートさんの回想録では、アウデ・ステッケルバウトとアーレンドンクのヤンセンとの配合から生まれたこのヘラルド=ヴァンヘーさんの代表鳩”’パトリック”64−3100031の解説で一区切りとなります。

バリバリの異血配合論者と思えるヘラルド=ヴァンヘーさんの手法の中にも「濃密な近親配合」の考え方がしっかりと使われているところをピートさんは見逃していませんね。

銘血ステッケルバウトの真価を彼ほど上手く引き出した人物は少ないのかも知れません。

 ・    2021年1月30日(土) 4:41 修正
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 ありとあらゆるチャンピオンを数限りなく交配し、奇跡とも言えるエース鳩を生みつづけた男、ヘラルド=ヴァンヘー。ステッケルボート系の導入から始まった彼の”伝説”は、アトム、レミ、アイゼレンというエースの名前を歴史に刻んだ。その中でも最高レベルに達するエース鳩は”’パトリック”64−3100031であった。

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 ■巧みな、交配(前回からの続き)■  Piet de Weerrd  2021年1月30日(土) 4:46 修正
 ”ネロ”はバルゲルヘーケに住むガビー・フェルストラーテの”スティール“と、ヒユースケン・ヴァンリールの”ラーテ・ヴァンゲ“の娘との間に生まれました。ヴァンヘーは”ネロ“と自分の”バロニー”を掛け合わせました。

 ある日の午後、私はドールニク近郊のラーメフニーズ・シンに住んでいるアルベール・ゴーランのもとで、6羽の雌種鳩を買いました。そのとき私は全部の鳩の中から自由に選び出すことが許されました。その中には”マルセイユ”や”ジュモンディ"などの姉妹もいました。

 その後、ヴァンヘーは私か特別の鳩を見落としていたことを告げました。それは ”ウィットコップ“55-1651785でした。ヴァンヘーはすぐさまこの雌鳩を買い、それで彼の”プジョー”を作出したのです。

 アルベール・ゴーランは、彼の最盛期にはおそらく世界最強の長距離レースマンでした。彼の鳩はヴァンデヴェルデとステッケルボートが混在していました。

 ヴァンヘーのすぐれた資質の一つは、その徹底した姿勢です。彼は最良の鳩を買うのに、決してためらうことはありませんでした。私は”ウィットコップ“55‐651785の全姉妹を2羽 持っていました。それらは46年の年老いたステッケルボートとアンデルレヒ卜のスタッサールの雌鳩との間に生まれたものです。

ドンケルバード54−659641とカップルを作り、そこから”ジモンディ””マルセイユ””バルセロナ”が誕生しました。この3羽の全兄弟によってコーランは世界にその名声を馳せることになったのです。

  ”ジモンディ"59−659755の賞歴は、カオールN25位、バルセロナN22位(フリュールス)、バルセロナIN約4千手羽中4位、バロセロナIN4343羽中8位です。

  ”マルセイユ”59−656833の賞歴は、カオールN104四位、マルセイユIN3088羽中77位、バルセロナN31位、マルセイユN44位、ローヤン・フランコ・ベルジュIN27位、バロセロナIN4343羽中59位、サンバンサンN85位などです。

 私は”マルセイユ”と同腹の姉妹を買いました。それは私かかつて掴んだ中でもっとも軽い長距離レーサーでした。が、軽くても熊のように強力でした。私はこの鳩を、米国カリフォルニア州サンフランシスコ郊外のラファイエットに住んでいる古い友人ヘンリー・ヴェルナッツァに送りました。

 ”バルセロナ”55−6597778は2歳年上でした。翔歴は、リモージュN273位、カオールN268位、カルカソンヌN68位、バルセロナーN686位、バルセロナIN3300羽中16位、マルセイユN3088羽中29位、バルセロナIN3599羽中12位、バルセロナIN4036羽中87位です。

 ハウデンク在住ポール・ジルモンが所有するすべての優秀な鳩の母親は、ゴーランの1867年の鳩でした!

 ちょうどその頃、ヒルベルト・ヴァンドゥウェヘはその頂点に達していました。特にヒュースケン・ファンリールとデルバールとの交配は、輝かしい成功をおさめました。

 デルバールの”バロン”の姉妹にまさる鳩はかつて存在しません。以下に、ヴァンドゥウェヘの”カンピオーン“59−4504597の賞歴を掲げます。マルセイユIN3088羽中36位、カオールN2009羽中28位、バルセロナIN3300羽中4位、バルセロナIN3599羽中82位、バルセロナIN4036羽中14位、マルセイユIN1578羽中7位。これ以上、言う必要はないでしょう。この鳩は最後にマースエイクに住むアルベルト・ーシモンズに買われました。

 ヘラルト・ヴァンヘーはありとあらゆる系統のチャンピオンと数限りなく交配して驚くべき成果を上げました。手始めはステッケルボートでした。彼はまず1955年にラウウェに住むフランス・クローツから鳩を買い、その後1957年にミシェル・デスカン=ファナステンから大量のヒナを手に入れました。そしてすでに見たように、1964年にラメフニーズ・シンに住むアルベール・ゴラーンから買いました。

 ヴァンヘーが筆頭に挙げるのは”アウデ・レミ“’57−3469622です。が、エミール・ドゥネイスはその父親54−3037744にも”アウデ・レミ“という名前を付け、さらにミシェル・デスカン=ファナステンはその祖父51−3026482も同じ名前で呼びました。

 ヴァンヘーの”アウデ・レミ” (ステッケルボート)は、リモージュN優勝鳩とペリキューN優勝鳩を生みました! これほど誇らしいことはないでしょう。母親はヒュースケンーファンリールの系統でした。

 リモージュの勝者は、”プラウウエ・アトム”59‐3002042で、その母親はいわゆる”ブリクセン雌“55‐3290991で、なかなかよい鳩でした。オーストローゼベーケに住むノルペルトーノルマンが所有していたペリキューの優勝鳩は、63−3100296でした。この雄鳩の直子も1979年リモージューNでノルマンに優勝の栄誉をもたらしました。

 テニスの”アウデ・レミ“54‐3037744はエミールとその兄弟(彼らの父親はヘステルのカミールでした)に、実に多くの優良な鳩をもたらしました。しかも彼らが1956年に手に入れたとき、鳩はすでに相当な老齢だったのです。

 ヴァンヘーは、”リモージュ”と”ベリキュー“のほかにも、エミール・ステッケルボートの55‐3266057を母に持つ”ズワルテ・レミ“57‐3469622で、”ズワルテ・アトム雌“63‐3100022を作出しました。これはヴァンヘーの鳩舎で最良の種鳩のひとつでした。この”レミ622”は、いわゆる”ヘスホーテン・アイゼレン”58−3300160の姉妹とも交配しました。

 ”ヘスホーテン・アイゼレン“は黒のまだらで、弾に当たっても生き延びた強いレーサーでした。その翔歴は、アングレームP717羽中29位、リボルヌN1080羽中22位、アングレームIP597羽中13の基礎雌鳩となった61−3416813がいます。

 ヘラルト・ヴァンヘーは何羽かの鳩に、それらがやがて歴史を作るだろうという予感を抱きました。その一羽が、ラウウェ在レミチェ・デュボワが所有する青まだらのステッケルボートの雌です。この雌鳩を”ベスホーテン・アイゼレン”と掛け合わせて純血のステッケルボートがつくられました。

トゥルンハウトに住むアルベルト・ヴァン・ミールトは、これをヤンセン鳩と交配してすばらしい成果を生み出しました。ウェルフィクのアンドレ・ブロウカールトも交配に成功した一人です。

 ■大当たり”パトリック“■  Piet de Weerrd  2021年1月30日(土) 4:48 修正
 しかし、なんといっても大当たりはエース鳩中のエース”パトリック”です。

外見からはとてもそうは見えませんでしたが。私は常々”パトリック”64−3100031は忘れ難い番号であると言ってきましたが、今でも変わりません。

”パトリック”は、ピーテルスカペレに住むブルケ所有の中距離レーサー”アウデ・シュウウェン“の孫から作出されました。

”アウデ・シュウウェン”はルーセラーレで行なわれた有名なオルレアンレースの優勝鳩でした。それは確か1948年で、カトリス兄弟の猛攻を振り切って優勝し、へローム・ヴェレーツケに買われました。

 パトリック“の母親62−3436798はよく知られており、アーレンドンクのヤンセン兄弟から手に入れた卵から生まれました。

詳しい系図はありません。父親は。アウデ・リヒテ“59−615450で、母親は1951年の”アウデ・バング”59‐6481972から生まれたゴマでした。”

アウデ・バング”はいわゆる”ヴィッテスケ”から生まれた小さい雄鳩でした。それはかつてヤンセン兄弟が持っていた最良のレース鳩であり、最良の種鳩でもありました。


 ”パトリック”は非常に速い中距離レーサーでしたが、これはその系続からも予想されることでした。しかし、勘の鋭いヴァンヘーは”パトリック”が3歳になったとき長距離に出場させ、アングレームN1302羽中51位、リモージュN3613羽中19位という成績を上げました。この鳩は68回入賞し、合計50万2666フランの賞金を獲得しました。ヴァンヘーの帳簿は完璧で、コンピューター顔負けでした。

 ”パトリック“はデスメット=マタイスの”。クラーレ“よりも多く稼ぎましたが、ウィールスベーケ在住ヴァンデンブルッケ・ドゥ・ウェールトの”ムーンス”NIは約10万フラン及びませんでした。

 ”ムーンス“は当時61万2千フラン稼ぎ、ベルギーの記録保持者でした。リングナンバ−は60−30601111。”ムーンス“はサン・セバスチャンNで2位に入った”アルグス“を生みました。”ムーンス”の父親は、ロンセ在住モーリス・デルバールの雌鳩から生まれ、ブルッヘ近郊のある小村の村長カステレインを経由しました。


 ときどきろくでなしによって同じ鳩に異なる系図が作られました。これは商売としては儲かったでしょうが、元来は卑劣な公文書偽造です。裁判に訴えられて厳しい判決を受けたケースもあります。


 しかし、ヴァンヘーに関してはそのような偽造は不可能でした。ヴァンヘーほど書類の扱いに慎重な人間はいなかったからです。それでも一度、プラークハウスの奇跡のカップルの系図でヴァンヘーの鳩について意見が分かれたことがありました。

 ヴァンヘーは1972年に”ドローマー”71‐3101142と”アイゼレン”71‐3101485でリモージュNイヤリング部門の優勝と2位を獲得しました。
 優勝した”ドローマー”はゴマでしたが、2位の”アイゼレン”はプラークハウスがその奇跡のカップルを使って量産したトリのように真黒だったのです。

 品質の点では違いはなく、ただ”ドローマー“にはヤンセンが50パーセント人っていたのに対し、”アイゼレン”の方はステッケルボートの黒い長距離系がびっしりつまっていました。

 何かの報告で誤りがあったとしたら、それは単なるミスです。というのは、ヴァンヘーもプラークハウスも誠実な人柄で知られていたからです。

 ところで、当時ベルギー中で最も偉大な中距離レーサーだったヴァン・ミールトの”ウィットコップ“だけでなく、ウェルフィクに住むヘラルトとミシェル・ヴァンヘーの1983年ルルドーN優勝鳩の中にも、あらゆる距離で名声を馳せた系統が潜んでいました。アーレンドンクのヤンセン、すなわち「黄金伝説」が。

 ■学問的研究資料■◇◇◇◇ 福岡伸一「第7章 ミトコンドリア・ミステリー=母系だけで継承されるエネルギー産出の源」◇◇◇◇ 【出典:福岡伸一『動的平衡』、2009年2月25日、木楽舎、P203より引用)】  イレブン  2021年1月23日(土) 4:26
修正
昨夜、掲示板を見て頂いている方と携帯で鳩談義をしていましたら、話の中で「ミトコンドリア」の話題となりました。

以前も、確か薩摩どん太さんとお話ししていたときも、この話題となったことがあり、鳩の世界では、結構関心がもたれているテーマの一つのようです。

イレブンがこの「ミトコンドリア」のことを知ったのは、鳩を再開して間もない頃だったように記憶しています。一度、この掲示板でそのことを触れた記憶があります。確か、過去ログの中に残っているはずです。

鳩界には、これまで、さまざまな方が研究され、いろいろな「ミトコンドリア」にまつわる「理論」が議論されているようです。

そこで、今回、この正月に目を通していた福岡伸一さんの『動的平衡』の中の「第7章 ミトコンドリア・ミステリー=母系だけで継承されるエネルギー産出の源=」を引用抜粋しておくことにしました。

そもそも「ミトコンドリア」とは学問的にどういう存在なのか、をキチンと整理しておきたいと思っています。

著者の福岡伸一さんは、イレブンが最近注目している分子生物学の先生です。氏の代表著作『動的平衡』のあとがきに記されていた言葉をここに書き留めて置きます。

●「書くことが考えを生み、考えが言葉を探そうとする」(同書P253より)

 ◎ PROFILE  福岡伸一(ふくおかしんいち) ◎    2021年1月23日(土) 4:28 修正
生物学者。1959年東京生まれ。京都大学卒。米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て青山学院大学教授・米国ロックフェラー大学客員研究者。

サントリー学芸賞を受賞し、85万部を超えるベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『動的平衡』(木楽舎)など、“生命とは何か”を動的平衡論から問い直した著作を数多く発表。

ほかに『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)、『できそこないの男たち』(光文社新書)、『生命の逆襲』(朝日新聞出版)、『せいめいのはなし』(新潮社)、『変わらないために変わり続ける』(文藝春秋)、『福岡ハカセの本棚』(メディアファクトリー)『生命科学の静かなる革命』(インターナショナル新書)、『新版 動的平衡』(小学館新書)など。対談集に『動的平衡ダイアローグ』(木楽舎)、翻訳に『ドリトル先生航海記』(新潮社)などがある。

また、大のフェルメール好きとしても知られ、全世界に散らばるフェルメールの全作品を巡った旅の紀行『フェルメール 光の王国』(木楽舎)、朽木ゆり子さんとの共著『深読みフェルメール』(朝日新書)を上梓。
最新のデジタル印刷技術によってリ・クリエイト(再創造)したフェルメール全作品を展示する「フェルメール・センター銀座」の監修および、館長も務めた。

2015年11月からは、読書のあり方を問い直す「福岡伸一の知恵の学校」をスタートさせ、校長を務めている。

福岡伸一オフィシャルサイト
■動的平衡■
https://www.fukuokashinichi.com/

 ◇◇◇◇ 福岡伸一「第7章 ミトコンドリア・ミステリー=母系だけで継承されるエネルギー産出の源」◇◇◇◇  福岡伸一  2021年1月23日(土) 4:34 修正
■私たちの体内にいる別の生物■

 どんな細胞でもよい。顕微鏡で覗くと、まず丸い細胞核が目に留まる。この中にDNAが祈りたたまれて格納されている。しかし、それは通常の光学顕微鏡では見ることかできない。細胞核の内部はぼんやりとした粒状の溶液で満たされているようにしか見えない。

 次いで目につくのは、多数、細胞内に散在している楕円形の粒子である。よく見ると楕円の内部には、剪定された英国式迷路庭園のような秩序ある複雑な文様が見える。
 秩序には美があり、知性がある。この粒子を最初に見つけた19世紀の科学者アルトマンは「生命の本体はこの粒子にあり、細胞は彼らか自らを守るために作り出した要塞である」と考えた。この楕円形の粒子に、アルトマンはギリシャ語で「綾なす微粒子」と名付けた。ミトコンドリアである。

 『パラサイトーイヴ』(角川書店)というホラー小説がある。瀬名秀明さんのデビュー作で、第二回日本ホラー小説大賞(一九九五年)を受賞して話題になった。映画やドラマにもなり、ゲームーソフトまで発売されているから、小説を読んでいなくてもタイトルを知っている人は多いだろう。

 物語は人間の細胞内に存在するミトコンドリアが反乱を起こすという設定で、これは言
うまでもなく『ミトコンドリアの共生起源説』、つまり細胞内のミトコンドリアは、その細胞によって形成される生物とは別の生物だったという説をベースにしている。

 私たちの身体を形成している細胞に、別の生物か棲みついていた。それは、一個の独立した生命だと感じている私たち自身か、実は複数の生命の集合体であるということを意味しているのだろうか。


 ■フォースの源泉■    2021年1月23日(土) 4:35 修正
 ミトコンドリアーこの言葉を口ずさむと、私たちは不思議な感覚にとらわれる。それはミトコンドリアに生命のかそけき謎が内包されているからかもしれない。

 映画『スター・ウォーズ』では、選ばれた戦士りジェダイには超越した力が与えられる。フォースである。字幕では「理力」と訳されていた。ジェダイの導師が、若き主人公スカイウォーカーに与える祈りの言葉はこうだ。

 「理力がともにありますように(May the force be with you)」

 『スター・ウォーズ』の後のシリーズでは、このフォースの源泉としてジェダイの身体に宿るミディクロリアンというものが登場する。これは明らかにミトコンドリアをもじったものだ。

 確かに細胞におけるミトコンドリアの役割はエネルギーの生産である。つまりフォースを産み出す。とはいえ、ミディクロリアンがミトコンドリアとは、リリシズムとロマンティズムに満ちた「スター・ウォーズ」にあって、いささか直接的すぎる、かなりチーフな当てはめにすぎはしないか。

 それはさておき、ミトコンドリアは確かに生命の本質にかかわる、つまり酸化によってエネルギーを産生する粒子である。ジェダイでなくとも、誰の身体にもあまねく存在する。その数は細胞の種類によって異なるか、多い場合は一つの細胞内に数子個にもなる。

 人体は約60兆個の細胞からなっているから、私たちの身体には京という単位の、おそろしく膨大な数のミトコンドリアが棲息していることになる。

 ミトコンドリアは、細胞内のエネルギー生産工場であるがゆえに、常に活性酸素にさらされる。活性酸素は。肉刃の剣として、時にミトコンドリアDNAを傷つけることになる。これか私たちの老化現象と密接に関係していることか最近明らかになってきた。

 ミトコンドリアを見つめると、私たち生命のミステリーが解き明かされる。進化も、性の発生も、人類史も、そして老化もまたミトコンドリアのなせる業なのである。

 しかし、それは私たちの細胞の中に最初から備わっていたものではない。また私たちの細胞が作り出したものでもない。私たちの細胞に寄生(ハーフサイト)した別の生命体だったのである。

 なぜ、ミトコンドリアが別の生命体だったと言えるのか。それはミトコンドリアの‐1体内」にDNAが確認されたからである。これをミトコンドリアDNAと呼ぶ。繰り返し述べてきたように、生物はDNAによって自己複製する。DNAを持つ、あるいは持っていたということは、それか独立した生物だったことを意味するのである。

 ■15回ボツになった論文■    2021年1月23日(土) 4:45 修正
 ミトコンドリアは太古、自律的な細菌だった。海の中を自由自在に泳ぎまわっていた。それかある時、大型の細胞に捕らえられ、飲み込まれた。しかし、たまたま大型細薗の内部で破壊されずに生き延びたものがいた。生き延びただけではない。大型細菌とのあいだに奇跡的な関係を築いたのである。

 ミトコンドリアのもとになった小型の細菌は、その酸化能力を使ってエネルギー(ATP)を作り出し、大型細菌に供給する。宿主側の大型細菌は、小型細菌をその体内に守り、必要な栄養素をすべて分け与える。

 だから「ミトコンドリアがパラサイト=寄生体である」という言い方は正確ではない。寄生は片務的、つまり寄生する倒か一方的に宿主から利益を得る。人間と回虫などの寄生虫にみられるように。宿主には被害こそあれ、利益はない。しかし、ミトコンドリアとその宿主細胞は相互恵与によって共生しているのである。

 この「ミトコンドリアの細胞共生説」を唱えたのは、ボストン大学の女性科学者リンーマーギュリスだった。彼女は天文学者カールーセーガンの妻で、セーガンとのあいだに二児をもうけたのだが、後に離婚してしまう。

 それはさておき、マーギュリスは1967年に『有糸分裂する真核細胞の起源』と題する細胞内共生説の中心となる論文を発表した。掲載したのは『理論生物学ジャーナル』という科学雑誌である。理論生物学だから、『ネイチャー』や『サイエンス』に比べるとより専門的でマイナーだった。

 本当はマーギュリスも「ネイチャー」あたりで発表したかったに違いない。イギリスの科学者ニックーレーンが著した『ミトコンドリアか進化を決めた』(斉藤隆央訳、みすず書房)によると、マーギュリスの論文は掲載されるまでに一五の学術誌に拒絶されている。
彼女にとって『理論生物学ジャーナル』は一六番目の科学雑誌だったのだ。

 学術誌はそれぞれ、論文掲載の可否を審査する委員会を持っている。委員は学識豊かな科学者や科学ジャーナリストたちである。

 彼女の論文をボツにした15の学術誌のうちのいくつかにおいて、夫カール・セーガンに対する批判的な意見、そして妻であるリン・マーキュリスが夫の影響を受けているのではないかという指摘がなされただろうことは想像に雛くない。

 カール・セーガンはシカゴ大で学び、天文学と天体物理学で博士号を得た科学者だが、後にSF小説を書いたり、NASAにおける惑星探査の指導者にもなった。そして、この惑星探査計画では、地球外の知的生命、つまり宇宙人にメッセージを伝えようとする。

 こうしたセーガンの姿勢は、たぶん学会の主流をなす科学者たちの目にはあまり快いものではなかったろう。それは、セーガンが二度(1984年、1992年)にわたって全米科学アカデミーの会員に推薦されたにもかかわらず、いずれも「業績か足りない」という理由で入会を許されなかったことからも推測できる。

 後に画期的で正しいとされる学説か、なかなか発表の場を得られなかったり、発表直後に評価されず、異端扱いされることはよくある。だから、マーギュリスの論文が15回ボツになっても、その原因を「変わり者」の夫に求めることはできない。15回もボツになった最大の原因は、やはり、マーギュリスの説が当時の生物学の常識を大きく超えていたからだと考えるべきだろう。

 ■葉緑体も別の生物だった■    2021年1月23日(土) 4:47 修正
 さて、マーギュリスは『理論生物学ジャーナル』に掲載された論文でどんなことを言ったのか。おおよそ次の四点である。

 @細胞内に存在するミトコンドリア、葉緑体、中心体、鞭毛は、細胞本体以外の生物に由来する。
 A酸素呼吸能力のある細菌が細胞内共生をして、ミトコンドリアの起源となった。
 Bスピロヘータか細胞表面に共生したものが鞭毛の起源となり、ここから中心体が生じた。
 C藍藻(藍色細菌とも呼ばれる真正細附)が細胞内共生して葉緑体の起源になった。

 このうち鞭毛については誤解だった(鞭毛にはDNAか見つかっていない)が、ミトコンドリアや植物の細胞内にある葉緑体については、現在、マーギュリスの説が定説として受け入れられている。

 つまり、真核生物(細胞内に細胞核を有する生物1助物、植物、菌類、原生生物など)はミトコンドリアを体内に取り込み、共生関係を築き上げることで、より高度な生物へと進化し始めたのである。

 植物は、その細胞内にミトコンドリアとともに葉緑体を存在させている。これによって光合成を行い、生存、生長に必要な炭水化物を合成しているのだが、その葉緑体もミトコンドリア同様、もともとは別の生命体だったものか、より大型の細胞に取り込まれて共生するに至ったとされている。

 葉緑体の正体に関する研究はミトコンドリアのそれよりも少し先行していた。ざっとたどってみると、まず一八八三年に、細胞内の葉緑体が分裂によって増殖することか指摘され、共生体である可能性が示唆された。

 すでにDNAの存在自体は明らかになっていたか、その働きか解明されるのは二十世紀半ばを待たねばならない。葉緑体は[分裂し増殖する]という現象から、それが一個の生物であり、植物の細胞と共生しているのではないかと考えられていたのである。

 ■「取り込まれた」ことの痕跡■    2021年1月23日(土) 4:54 修正
 当時、細胞内の小器官について、多くの学者か研究を始めていたのだが、アルトマンもその一人だった。前に触れたミトコンドリアの命名者である。アルトマンは当然、葉緑体に関する論文を読んだだろう。そして、1890年、ミトコンドリアについても共生体説を唱えることになる。

 そして、時代はのちに「遺伝子の世紀」と呼ばれる20世紀に突入する。1944年、オズワルド・エイプリーらは、DNAが形質転換の原因物質であること、すなわち遺伝子本体であることを強く示唆する論文を発表した。続いて1952年、それをハーシーとチェイスが実験によって証明した。そして、その翌年にはワトソンとクリックかDNAの二重らせん構造を明らかにするのである。

 ミトコンドリアについては、1953年に細胞質遺伝(細胞の核のDNAに依存しない遺伝のこと。核以外のDNAの存在を示唆するものだった)が発見され、1958年には細胞から取り出したミトコンドリアか独自のタンパク質合成を行えることが示された。そして、1963年にはナス夫妻によってミトコンドリアDNAが確認される。

 独自の遺伝子を持ち、それによって独自のタンパク質合成を行えるなら、それはほぼ独
自の生物であると言ってよい。

 リン・マーギュリスはこうしたいくつも‘の遺伝子研究の上に立ち、ミトコンドリアかもともとは独立した生命体で、それが別の大きな細胞に取り込まれたのだと主張した。そして「取り込まれた」ことの痕跡(二重の細胞膜)を示したのだった。

 ミトコンドリアは、より大きな細胞に取り込まれる際、まず、その細胞の体表の窪みに付着した。そこは、おそらくミトコンドリアにとって居心地のいい場所だった。
 生物にとって、外的から身を守るのは最大の関心事である。ミトコンドリアはより大きな細胞の体表の窪みを「安住の地」と判断し、そこに居つづけた。あるいは、そこを「安住の地」とできる一匹のミトコンドリアがいた。

 より大きな細胞は、時間の経過とともにミトコンドリアのいる窪みの開口部を狭めていった。その体表(細胞膜)は巾着(きんちゃく)状となり、やがて開口部が付着した。こうしてミトコンドリアは細胞内に取り込まれたのだが、もともとそこは居心地のよい場所だったから、そのまま生存することができた。

 すると、ミトコンドリアとより大きな細胞との境界には二重の細胞膜が存在することになる。ミトコンドリアの細胞膜と、より大きな細胞の細胞膜である。
 
マーギユリスはミトコンドリアを包んでいる二重の細胞膜の存在を共生説の決定的証拠だと言ったのだった。15回のポツが示すとおり、彼女は、最初、異端者扱いされた。しかし、その後「ミトコンドリアの共生起源説」を補強する研究成果が次々と発表され、やがて彼女は生物学のヒーロー(あえてヒロインと呼ばない)となった。

 ■ミトコンドリアDNAで母系をたどれる■    2021年1月23日(土) 5:00 修正
 卵子と精子か出会って合体するとき、精子からはそのDNAだけか卵子の中に入る。精子のミトコンドリアは卵子に入り込まない。だから新たにできた受精卵の内部のミトコンドリアはすべて卵子由来、つまり母親のものである。
 
母系由来のミトコンドリアは受精卵の中で分裂し増殖する。そして、それが受精卵の成長とともに各細胞へと分配されていく。したがって、ミトコンドリアはすべて母系由来である、ということになる。

 そのミトコンドリアの内部には、細胞核内のゲノムDNAとは別に、固有のDNAが存在している(それは紛れもなく、かつて細菌だったものの遺物である。遺物という言い方も正確ではない。ミトコンドリアDNAは今もなお激しく活動している)。

 つまり、ミトコンドリアDNAは必ず母親から子に受け継がれ、父親から受け継がれることはない。すると、ミトコンドリアDNAを分析すれば、その人間の母系の出自をたどることか可能になる。

 その研究はカリフォルニア大学バークレー校のレべッカ・キャンとアラン・ウィルソンのグループによって行われた。彼らは、できるだけ多くの民族を含む147人の被験者のミトコンドリアDNAの塩基配列を解析した。

 被験者たちのミトコンドリアDNAの塩基配列はそれぞれ異なっている。しかし、まったくランダムに異なっているわけではない。共通の部分があったり、あるグループに特定の異なり方が見られたりするのである。

 なぜ、そうなっているかと言えば。何代にもわたって継承される間に、ミトコンドリアDNAにも突然変異が起きるからである。突然変異は、いつ起こるかわからず、ある日突然に起こるから、そう呼ばれるのだが、非常に長い時間を設定して考えれば、その発生頻度を推測することかできる。つまり、ある変異が起こるのはX年に一度くらいだと。

 研究グループは、その尺度をもとに被験者たちの持つ変異を解析し、系統樹を作成した。すると、人類の系図は二つの大きな枝に分かれていた。一つのグループはアフリカ人
のみからなる枝や、もう一つはアフリカ人の一部とその他すべての人種からなる枝。

 これは、その二つのグループに分かれる前、つまり全人類の共通の祖先がアフリカにいたことを示唆している。

 こうして想定された人類の祖先たる一人の古代女性に「ミトコンドリアーイブ」という名称か冠せられた。これは、すべての人類が、アフリカにいた一人の女性のミトコンドリアDNAを継承しているという意味である。

 ただし、現在生きているヒトのすべてが同一のミトコンドリアDNAを持っているわけではない。研究の重要な前提となった突然変異か起きているからである。裏返して言えば、突然変異が起きていない(起きた確率か非常にひくい)同一母系の近親者間では、そのミトコンドリアDNAは同じである。

(つづく)

 ■ミトコンドリアDNAによる犯罪捜査■    2021年1月23日(土) 5:12 修正
 最近、DNAの分析か犯罪捜査に使われているが、そこではミトコンドリアDNAが重要な役割を果たしている。いまだ犯人が捕まらない「世田谷一家殺人事件」を報じる週刊文春(2009年新年特大号)にこんな記述かあった。

 「(捜査)本部はその(犯人のDNAの)鑑定を専門家へ極秘に依頼した」
 「全世界の研究者たちとリンクする、DNAデータベースとの照合が今も進んでいる。鑑定結果は、定期的に本部に届けられている」
 「そして、これまでの鑑定結果によって犯人の”姿”を初めて捉えることとなったのである。《犯人は、アドリア海沿岸民族の母系を持つ男》」
 「犯罪捜査におけるDNA鑑定は、細胞の中にあるミトコンドリアDNAが使われる。ミトコンドリアDNAは、母系で遺伝し、”イブに到るまで祖先を特定できる”というジョークもあるほどその”精度”は高い」

 注意しなくてはならないのは、この鑑定が「犯人は外国人、あるいは外国人を母親に持 つハ−フだ」と示唆しているわけではないということ。確かなのは『アドリア海沿岸民族の母系を持つ』ということだけである。

 犯人の母系だけをずっとたどっていくと「アドリア海沿岸民族」の女性が出現するという意味であって、それが何代前なのかはわからない。母親であるかもしれないし、100代前の祖先であるかもしれないのだ。

  仮にその女性が15代前にいたとしよう。犯人の1代前の祖先、つまり親は2人であ
る。2二代前は祖父母で4人、3代前の曾祖父ほは8人である。

 では15五代前は2の15乗で3万2768人になる。3万以上の祖先のうち、母系の一人が「アドリア海沿岸民族」であっても、そういう鑑定結果になる。

 1代か2代前なら、犯人に「アドリア海沿岸民族」の外見的特徴が残っているかもしれない。もちろん、その可能性もある。しかし、15代前だと「アドリア海沿岸民族」の血は3万2768分の1に薄められている。外見的特徴が残っているとは考えにくい。

 ■アフリカにいた全人類共通の太母■    2021年1月23日(土) 5:21 修正
 カリフォルニア大学の研究グループは、アフリカにいたミトコンドリア・イプにたとり着いたか、彼女か存在した時期を約2万年前プラスマイナス4万年と推定した。

 被験者たちにみられる突然変異の痕跡を手掛かりにして、ミトコンドリア・イブから現代までに何度くらいの突然変異か起きたかを類推し、それに時間的発生頻度を掛けたのである。

 単純化して考え方だけを述べれば、ミトコンドリアDNAの突然変異はX年に一度の割合で起きると推測され、それがY回起きていると推測されるので、ミトコンドリア・イブはXにYを乗じた値くらい前に存在したと考えられるということである。その慎が16万年で、推測される誤差か4四万年だというのである。

 ヒトの起源については、これまでさまざまな説があった。そして、現在もさまざまな説がある。これはどんな特徴をもってヒトと定義するかにもよるので、きわめて大きな幅があるし、どれか間違いで、どれか正しいと判定することはできない。

 現在、「最古の人類」と言われているのは、アフリカ中央部に位置するチャドで発見されたサヘラントロプスーチャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)である。600万年から700万年前の地層から[人骨]が発見された霊長類で、「人類700万年の歴史」と言うときの「700万年」はこれに由来する。

 これに対して、新しいほうの人類はエチオピアで発見されたホモ・サピエンス・イダルトゥで、約16万年前に生きていたと推定されている。これは、解剖学的にほぼ現代人と変わらない姿に進化しており、「最も古い現代人」と言われている。

 ミトコンドリア・イブの「16万年前プラスマイナス4万年」はホモーサピエンス・イダルトウと一致する。ミトコンドリアDNAの研究結果は、それまでにも言われていた「人類のアフリカ起源説」を裏付けることになった。

 ヒトの進化にづいては、世界各地(ジャワ原人・北京原人・ネアンデルタール人など)で現代人に進化したとする多地域進化説かある。しかし、それらもさらに大本をたどればアフリカに起源があったという点では一致している。「アフリカ起源説」と「他地域進化説」は矛盾しない。ポイントは「現生人類の祖先はいつアフリカから出発したか」である。

 私たちの細胞の中で生き続けているミトコンドリアは、全人類共通の太母が16万年くらい前にアフリカにいたのだと教えている。

 ■■『Piet de Weerd 研究』039■■  [ピート・デヴィート回想録039「ナポレオンと呼ばれた男」(『DIE BESTEN TAUBEN UND ZUCHTER DER WELT Piet de Weerrd』ドイツ語版翻訳》 (出典:『愛鳩の友』1999年2月号 )  イレブン  2021年1月22日(金) 4:58
修正
2021年の『Piet de Weerd 研究』を再開しますね。

遺伝学のちょっと頭が痛くなるような話題を続けていましたので、しばらく、ピートさんの回想の語りをしっかり味わいたいと思っています。

ピートさんの回想録の現在のテーマは、アイロス・ステッケルバウト系です。この銘系は欧州で数々のナショナルレースで圧倒的な成績を築き上げた銘系です。私たちに日本人にも馴染みの深い強豪達の名前が次々と出て話題が続いています。

そして、この回より、ヘラルト・ヴァンヘーの話題に入っていきます。日本では、ジェラルト・ファンネの名で通っていますね。

数々の銘鳩達が日本に導入されており、多くの活躍鳩を誕生させています。有名なところでは、特に「秋葉ファンネ系」でしょうね。

ピートさんは、このファンネさんを、異血交配の名手として紹介しています。その意味では、近親交配で系統的に固定されている「系統」ではないようです。

アイロス・ステッケルバウト系の話題は、このヘラルト・ヴァンヘーの記述のところで一段落しているようなので、次の回想録40までを掲載して、関連資料に移りたいと思います。これも膨大な資料を整理していくことになりそうです。

 ・    2021年1月22日(金) 4:59 修正
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  「ピジョンスポーツ界のナポレオン」ことヘラルト・ヴァンヘーは生粋の交配主義者であった。1949年のシャトローN優勝以後、彼は10年の間に3度ナショナル・チャンピオンの栄冠を戴いている。
 ”クレイネ・ブラウェ”、”アトーム”、”ムッシュー”、彼に栄光をもたらした銘鳩群の誕生秘話にピートは迫る。

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 ■非凡なローセレとその仲間たち■(前回からの続き)   Piet de Weerd  2021年1月22日(金) 5:00 修正
■非凡なローセレとその仲間たち■(前回からの続き)  
”ヴィットオーク“はステッケルボートの”ヨンゲ・ビヒター”の兄弟。クレヨネ“から生まれました。
 ″ヴィットオーグ”は、オーステンデ在住シャルル・ファンデルエスプトの鳩舎で生まれました。その父親はバルセロナ“46-3099935、ヴァンデヴェルデ=シオンでした。

 私はこの”バルセロナ”の母親をヴァンデンブルッケのために買いました。この雌鳩は最初はいびつな卵を産み、それから殼の柔らかい卵を産み、やがて全く産まなくなりました。”バルセロナ”は1950年にバルセロナINで6位に入賞しました。
  ”ヴィットオーグ“の母親はヘラールズベルヘンのヘクトール・デスメットが、リュクサンブール在住フランツ・ヘントゲスの非常に古い雄鳩と、ドクター・ブリクーの雌鳩を掛け合わせて作出したものです。このブリクーの雌鳩が生んだ娘は、デールレイクのアングレーム・プロヴィンシャルで高温と逆風に耐えて優勝しました。放鳩当日に帰舎した唯一の鳩でした。

 シャルル・ファンデルエスプトはこの雌の半兄弟を2羽もっていました。色は赤とベールトーンでした。この兄弟はサンーバンサンN3位、バルセロナIN16位、カルカソンヌN47位、ポーN23位、サン・セバスチャンN7位などの成績を上げました。

  ■ヴァンヘー、何でもやってのける男■    2021年1月22日(金) 5:01 修正
 ヘラルト・ヴァンヘーは、近親交配主義者ではなく、生粋の交配主義者でした。だからと言って、すべての中心である淘汰が容易にはならないことを、読者は理解なさるでしょう。しかしでヴァンヘーは何でも徹底してやる男でした。

 西ヨーロッパで、このピジョンスポーツ界の”ナポレオン“ほど多くのナショナルチャンピオンやトップレーサーを買った人間はいないでしょう。彼は”ナポレオン”という呼び名が似合う人物でした。実際、ヘラルト・ヴァンヘーほどたくさんのナショナルチャンピオンを育て、レースに送り込んだ者はいません。

 彼が最初にナショナルで優勝したのは、1949年8月30日、シャトローでした。鳩の名は”フーデ・ヤールリング”。レオ・ベカールトの”ストリープケ“と、コミン系の雌鳩のクロスでした。両方とも扱いやすく、温厚な性格の鳩でした。その年の9月、私はヴァンヘーを訪ねました。彼は誰にでもそうするように、自家製黒パンと生ハムをごちそうしてくれました。

 2度目のナショナル優勝は19584年6月14日行なわれたヴァンヌレースで、1516羽出場しました。ウェルフィクまでシャトローから450キロメートル、ヴァンヌからは570キロメートルでした。それはレッドバードで、アントワープのナーゲルスこアスプレンターと、同じウェルフィクのシモーンズとのクロスでした。

 翌年8月15日のアルジェントンNで、この鳩は890羽中優勝しました。今回は「ストリープケ・ベカールト」とヒュースケンヌ・ヴァンリールので「フリクセム雌」とのクロスでした。優勝鳩の名前は「クレイネ・ブラウェ」です。

 ヴァンヘーは10年間に3回ナショナルチャンピオンの座につきましたが、いずれも短距離です。ピレネーレースはまだでした。彼はゆっくりと確実に歩みました。そして1962年、ヴァンヘーは次第に頭角を現し、その遠大な計画を実行に移し始めました。彼は決して大柄ではありませんでしたが、決断力に富み、偉大なチャンピオンになる要素をすべて備えていました。ヴァンヘーはあらゆる点て世界チャンピオンだったのです。

 1962年6月2目、リモージュNでヴァンヘーの鳩は分速1050メートルを達成、2813羽中優勝を果たしました。これが”アトーム“59−3002042のデビューでした。その後、ベリキューNで1762羽中18位に入りました。父親はアロワ・ステッケルボートの弟レミの黒鳩、母親はエーケレンードンク在住ヒュースケン・ヴァンリールの”ブリクセム雌“47−3440660の娘でした。

 1962年6月30日、リボルヌNで分速1034メートルを出して728八羽中優勝しました。鳩の名前は、”ムッシュー“58-3300065。この青鳩は、地区やプロビンシャルで数多くの入賞を果たしました。たとえば、ベリキューNでは2115羽中29位に入りました。

 その当時、日本人がベルギーに鳩を買いに来ました。抜目ないヴァンヘーは、それで大金を稼ぎました。父はかって私にこう言ったことがあります。「利口な人間は正当な値段を求めるものだ」。
 
彼はその後7年間、短距離、長距離を問わず、あらゆる距離で入賞し続け、そして再び
ナショナルチャンピオンの座につきました。それは1969年7月5日、アンタント・ペルシュ主催モントバーンNで、出場鳩数は1148羽でした。この鳩はリエージュでは分速1108メートルで2530羽中4位に入賞しました。

 鳩の名は”アルジェントン”65−3100252。”アウデ・アルジェントン“56−3032079の息子でした。母親はヴァントイン(バルセロナ雌系)とミデーレイク在住ヘンティール・デポールテルの雌鳩(デルバー系)とのクロスでした。

 ヘンティールはベルギー中で知られていた2羽の有名な長距離鳩を持っていました。ヴァンヘーは一瞬もためらうこともなく買いました。ケーケルアーレのヘクトール・デボーはこれらの鳩のおかげで飛躍を果たすことができました。1970年でヴァンヘーがフソーズンに獲得した賞は千近くにも達しました。これは口で言うのは簡単ですが、実際に成し遂げるのは大変なことです。

 ■巧みな、交配■    2021年1月22日(金) 5:05 修正
 翌年7月10日、彼はバルセロナNで2143羽中優勝しました。が、インターナショナルでは2人のオランダ人に遅れをとりました。一人はマーストリヒトの牛乳屋でフルスとかいう男、もう一人はスーブルフに住むファン・ワレンブルフという名前の人物でした。

 彼らの鳩はステーンベルヘン系で、戦前のデルバー系の血を受け継いでいました。スーブルフの男は自転車に乗ってステーンベルヘンのアントーン・ヒテンペルクのもとに行き、羽のヤン・アールデン系を買ったのでした。そのとき彼は生後12日そこそこのヒナを巣から取り出して買いました。

 二人のオランダ人はバルセロナINで7348羽中優勝と2位を占めました。ヴァンヘーはINは5位でスタートしました。レーサーは”ヨング・ブラウウエ・ムッシュー“67−3100081でした。それは実際”ムッシュー“と敬称をつけて呼ぶのがふさわしいトリでした。その体重は金にも値しましたが、事実そのような価格で極東に売られました。
  ”ヨング・ブラウウエ・ムッシュー“の父方はシャルル・ファンデルエスプトの奇跡のカップルに由来します。このカップルはシャルルの死後、ジュアン・ドウ・ヴィラーゲ伯爵に買われました。1962年のことだったと思います。

 シャルルはこのカップル(雌鳩はロベールト・シオンから入手しました)から、プロヴィンシャルで2位に40分の差をつけて優勝した有名なレーサーを作りました。
 たしかアルジェントンだったと思います。それはうだるように暑い日でした。後にアムステルダムのヘラルズというナッツチョコレートの製造業者がこれらの鳩を買いましたが、それは総売却の前だったと思います。

  ”ヨング・ブラウウェ・ムッシュー”の母は、最強の長距離レーサー、ネーヴェレに住むドルフ・ヴァンブラーケルの”リブルヌ“から生まれました。私はこの鳩が素晴らしい成績を出した後、見に行ったことがあります。

 ある静かな夏の夜9時ごろのことでした。それは完全に消耗し尽くすまで飛ぶトリでした。レースの後にそれほど衰えた長距離鳩を見ることはめったにありません。眼の中には涙をいっぱいためていました。それでもこのトリは、いつも早く戻ってきました。
  ”リブルヌ“のリングナンバーは53−4543004でした。ヘクトール・デスメットの”アウスフラウウェ”にも似た鳩でしたが、”リブルヌ”の方が頑丈だったと思います。

 ヴァンヘーは”リブルヌ“をヒュースケン・ヴァンリールの老いた”フルクセム雌”の娘と掛け合わせました。その結果生まれたのが”ヨング・ブラウウエ・ムッシュー“67−3100081です。日本人はこのラインの鳩だけを欲しがりましたが、それはもっともです。

 1972年、ヘラルトとミシェル・ヴァンヘーは、リモージュ・イヤリング部門で1位と2位を占めました。優勝鳩の名前は”ドローメル”(夢見る人)でしたが、いったん龍から放たれると決して寝ることはなかったでしょう。
 
5697羽中優勝を遂げた”ドローメル”71−3101142は、ブラックバード70ー3101176の直子です。このトリはまた、アーレンドンクのヤンセン系との交配によって作られた有名な”トリック”64−3100041から生まれました。

 黒鳩は当時レッケムに住むアンドレ・リータールスの”リモージュ“の姉妹と配合されたので、何パーセントかはステッケルボートの血も流れています。

 以上、私は重要な事実をほんの数行にまとめました。しかし、ベール在住マルセル・ブラークハウスの比類なき”ズワルテン”も忘れてはなりません。また、ブラークハウスの”724”は1983年にダックスNで一万羽を超えるライバルを押さえ、2位に1時間40分も差をつけて優勝しました。

 このダックスレースと同日、すなわち1983年7月16日、ヴァンヘーの”ルールド”はルールドNで2位を優に1時間ひきはなして優勝しました。中部フランスの日陰でも33度という炎天下でのレースでした。

 大きいナショナルレースはごく少数のエリートファミリーが制するというテーゼが、ここで非常に際立った形で証明されます。

 ヴァンヘーはシオンよりも多く交配しましたが、やり方も巧みでした。ウェルフィク在住のこの小男は、可能な限り世界チャンピオンと掛け合わせました。

 デーレイク在住のヘンティール・デポールテルから有名なデルバーを買いっけた後、次のターゲットはヒルベルト・ヴァンドゥウェヘのバルセロナIN優勝鳩”ネロ“でした。
 ファンデウェーゲンはこの鳩をあるパーティに持ってきて我々に見せました。それは”ネロ”が2週間にリブルヌN3位とペリキューN優勝を果たしたのを祝って、ジェフ・ヴァンデンブルッケが催したものです。
              (この項続く)

 「Epigenetics」研究関連サイト  イレブン  2021年1月19日(火) 5:26
修正
■ 独立行政法人 理化学研究所 神戸研究所 発生・再生科学総合研究センター

http://www.cdb.riken.jp/about/mission.html

○生殖細胞のゲノムリプログラミングに新たな知見
http://www.cdb.riken.jp/jp/04_news/articles/070628_germline.html

■モノクローナル抗体研究所 
http://www.monoclo.com/


○エピジェネティクス研究用抗体
https://labchem-wako.fujifilm.com/jp/category/01410.html



 2回目の緊急事態宣言が発出されました!!  イレブン  2021年1月14日(木) 4:46
修正
イレブンが住む福岡県でも緊急事態宣言が発出されました。今年も昨年に増してコロナ禍の猛威でさまざまな困難が予想されるますね。

現在のコロナ禍は、マラソンで例えるならばまだ10キロ地点のことだとも言われています。まだ先は長いことを覚悟していた方がよいのかも知れません。

正確な情報をもとに、WITHコロナの考え方で対処の在り方を考えていく必要があるように思っています。

NHKが今回特設したサイトです。情報がよく整理されていると思いました。

■特設サイト 新型コロナウイルス

https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/data/?utm_int=detail_contents_news-link_002


 ・  イレブン  2021年1月14日(木) 4:53 修正

 今朝の舎外の様子  イレブン  2021年1月9日(土) 9:47
修正
思っていたより積もりませんでしたが。とても寒い朝でした。
舎外の遠征から帰って来ました。

 ■イレブンの「Epigenetics」」研究ノート■005◇◇◇◇第1章「巨人の肩から遠眼鏡で」=3 パラダイムの転換なのか =◇◇◇◇◇【出典:仲野徹『エピジェネティクス――新しい生命像をえがく』、2014年5月20日発行、岩波新書、P23より引用)】  イレブン  2021年1月4日(月) 6:59
修正
この「イレブンの「Epigenetics」」研究ノート」では、その研究のテキストとして現在、仲野徹の『エピジェネティクス――新しい生命像をえがく』を取り上げています。

当初は、ポイントとなる文章の抜粋で進めようとしていたのですが、それがムリだということに気付き、第1章のほぼ全文を引用して進めています。

これからエピジェネティクスの研究を進める上で、基本となる考え方や捉え方が述べられているので省略や要約が難しいと感じたからです。

逆に言えば著者の仲野徹先生がこの第2章の最後に述べられているようにこの部分を正確に理解することが出来ればこの研究の世界の面白さが容易に理解できるようになることになります。その文章を最初に引用しておきますね。

●エピジェネテイクスとは『染色体における塩基配列をともなわない変化』、もう少し専門的にいえば、「ヒストンの修飾とDNAメチル化による遺伝子発現制御」である。とっつきにくく感じられるかもしれないが、この定義の意味が理解できると、かつてガリレイが望遠鏡をつかって月の表面や土星の環を詳細に観察したように、それまでぼんやりとしか見えなかった生命現象の景色が、手に取るように鮮明に見えてくる。

少々、難しい内容が続きますが、「それまでぼんやりとしか見えなかった生命現象の景色が、手に取るように鮮明に見えてくる。」ことを楽しみに目を通して頂ければと思っています。


  3 パラダイムの転換なのか?  仲野徹  2021年1月4日(月) 7:01 修正
 ■カール・ポパーと反証可能性■

 科学哲学といえば、まず名前か挙がるのは、カール・ポパーである。ドイツのハイデルベルクにあるヨーロッパ分子生物学研究所に留学中、ポパーの講演を聴いたことかある。残念ながら、日本語で聴いたとしても難しい内容を英語で聴いたのであるから、かなりちんぷんかんぷんであった。欧米人にしては非常に小柄で、90歳近い晩年のポパーであったか、多くの分子生物学者を相手に「あなた方の実験結果は決して「真実」を示すものではない」とエネルギッシュに語りかける姿は印象的であった。

 いまや科学哲学の古典ともいえる『科学的発見の論理』(恒星社厚十閣)などを通じて、ポパーの考えは、非常に多くの科学者に影響を与えた。その中の一人に、行動の刷り込み現象の研究で知られるノーベル医学生理学賞受賞者、コンラート・ローレンツもいた。

 ポパーとローレンツはともにウィーン生まれで、かつて一緒に遊んでいた幼なじみであった。ともに名をなしてから再会したとき、ポパーが、子どものころ一緒にインディアンごっこをしたことがあるという話から切り出して、そのことを覚えていなかったローレンツが驚愕したという話を読んだことがある。科学におけるエピソードの中でも大好きなものの一つなのだが、こういうちょっとした小ネタを聞くと、神様がいて、時々いたずらをしているのではないかという気がしてしまう。

 そのポパーが最も重視したのは、ある仮説が実験結果や観察結果によって反論できるかどうかという[反証可能性]である。ポパーは、反証可能性があるかどうかということを、科学と疑似科学を分ける試金石と考えた。逆にいうと、どんな考えも吸収してしまうような仮説、たとえばポパーが激しくやり玉にあげたマルクス主義などは、科学的な仮説とは言えない、ということになる。

 この反証可能性という考え方で重要なのは、普遍言明である。普遍言明(仮説、あるいは理論)の正しさを証明するには。個別の単称言明(実験結果、あるいは観察結果)による反論を退けなければいけない。たとえば、これを説明する例としてよく挙げられるものに「カラスは黒い」という命題がある。この命題の正しさを証明するためには、いくらたくさんの黒いカラスを探し出してきても駄目で、理論の補強にはならない。むしろ逆に、たった一羽であっても白いカラスを見つければ、そのたった一つの単称言明によって、「カラスは黒い」という普遍言明は退けられるのである。

 このように、白いカラスか見つかれば、「カラスは黒い」という普遍言明は正しくないといわざるをえなくなる。とはいえ、そのことは、「世の中のカラスのほとんどが黒い」という厳然たる事実に対して、何ら影響を与えるものではない。それと同様に、「ゲノムですべての遺伝情報が説明できる」という仮説の正しさを証明しようとしても、エピジェネティクスという現象によって退けられてしまうのである。

 しかし、だからといって、エピジェネティックな現象がゲノム情報よりも重要であるとか、エピジェネティックな情報はゲノム情報に取って代わるものであるということを意味するわけではない。つぎに、エピジェネティクスはパラダイム転換をもたらすほどのインパクトのある概念なのか、という疑問か生まれる。

 ■トーマス・クーンとパラダイム転換■    2021年1月4日(月) 7:02 修正
 ポパーと並んで有名な科学哲学者といえば、トーマス・クーンだ。ターンの名前は知らなくとも、クーンが提唱した「パラダイム」という言葉はとこかで聞いたことがおありだろう。パラダイムとは、クーンの著した科学哲学の古典『科学革命の構造』(みすず書房)で用いられた言葉である。

クーンは、現在よく使われているような広い意味でパラダイムという言葉を使ったわけではない。クーンが提唱したパラダイムという概念は、科学者を含む・同時代のほぼすべての人が信じきっている理論的枠組み、とでもいうべきものである。たとえば、かつては大動説というパラダイムがあった。いまから見るとおかしな考えだが、その時代には、最高に知的な人たちもその考えを完全に支持していたのだ。

 仮説は反証によって棄却される、というのかポパーの考えであった。それに対してクーンの考えるパラダイムは、たとえ反証が示されても簡単に崩れ去ることはなく、反証を取り込んだかたちで理論を再構築しつづけ、維持されていく。たとえば、天動説のパラダイムでは当初、惑星の逆行運動をうまく説明することができなかったが、その不自然な運動を説明するために周転円の考えを導入したことでパラダイムとして生き残れたというように。

 時代にひろく受け入れられている「通常科学」は、パラダイムを維持する慣性力をもつ。しかし、パラダイムに反する「異常科学」の挑戦を受けつづけると、パラダイムは次第に維持しきれなくなっていく。そして、その挑戦にいよいよ持ちこたえられなくなったとき、次のパラダイムへと転換か起こる。これか、クーンによるパラダイムの概念である。

 クーンは、もともと物理学を学んだこともあって、物理学の歴史にもとづいてパラダイムの概念を提唱した。生物学の分野でも前成説から後成説への転換、体液説から細胞病理説への転換など、パラダイム転換の例はある。しかし、歴史的に見て、生物学では物理学ほどに大きなパラダイム転換は多くない。

 エピジェネテイクスという学問分野も、遺伝学やゲノムといったパラダイムが転換して現れたものではない。遺伝学やゲノム、あるいは、遺伝子と表現型の関係をより詳しく調べる中で見つけられ、進歩してきた学問分野と考えるのが妥当である。期待をかけるあまり、エピジェネテイクスをパラダイム転換であるかのように論じる人もいるか、その点については注意が必要だ。この問題については、最終章でくわしく考えてみたい。

 ■関係性のレベル■    2021年1月4日(月) 7:02 修正
 エピジェネテイクスは、従来のパラダイムを否定するものでもなければ、新しく取って代わるものでもない。では、エピジェネティクスは、現代の生命科学においてどのように位置づけられるのだろうか。生命現象とエピジェネテイクスとの関係性は、おおまかにいえば、次のようなカテゴリーに分けることかできる。
@エピジェネテイクスだけでほぼ説明できる現象
Aエピジェネティクスも関与している現象
Bエピジェネティクス以外では説明か難しい現象
Cエピジェネティクスが関与している可能性がある現象
Dエピジェネティクスは関与していない現象

 @は、ある現象にエピジェネティクスが深く関与しており、エピジェネテイクスの概念だけでほぼ説明できる現象である。次章で解説する「ゲノム刷り込み」という現象は、これにあたるといってよい。

 Aには、記憶や学習といった現象があてはまる。記憶や学習では、神経回路の形成や電気的なメカニズムが重要である。しかし、第3章で説明するように、エピジェネテイクスによる制御も関係していることかわかってきている。すなわちエピジェネティクスだけでは説明しきれないが、エビジェネティクスも関与していると考えられる現象である。

 Bは、少なくとも、現時点における生命科学のパラダイムでは、エピジェネテイクス以外のメカニズムは考えにくい。という現象である。序章で紹介したオランダの飢餓と生活習慣病などはこのカテゴリーにあてはまる。CとDについては、突然変異による遺伝性疾病の発症など、いろいろな例をあげることができるだろう。

 第3章と第4章では、エピジェネティクスに関連する現象をいろいろ紹介するが、それらの現象とエピジェネテイクスとの関係性にはこのような濃淡があることを少し頭にいれておいてもらいたい。そうでないと、エピジェネテイクスというものを過大評価、あるいは過小評価してしまうことになる。このことについては、あらためて第5章で考察する。

 ■ 巨人の肩に乗って?■    2021年1月4日(月) 7:03 修正
 ニュートンの法則というパラダイムを打ち立てたアイザック・ニュートンは、ライバルであったロバート・フック宛ての手紙にこう書いたという。

 「もし私が遠くまで見えたとしたら、それは、巨人の肩に秉ったからです」。

 実際のニュートンはあまり謙虚な人ではなかったようだが、この「巨人の肩に乗って」という言葉は彼の謙虚さを示すものとして、しばしば引用される。ただし、この言葉はニュートンのオリジナルではなく、12世紀、フランスはシャルトルのベルナールが語った言葉らしい。

 それはさておき、近年のエピジェネティクス研究の進展ぶりには目覚ましいものがある。研究者によっては、ニュートンと同じような「巨人の肩に乗って」という感慨をもつ人もいるかもしれない。そうではなくて、少し違う印象をもっている。むしろ、「巨人と同じ目の高さで望遠鏡を使って覗いている」といったような感じだろうか。

「より高い場所から眺め、より遠くの景色まで見えるようになった」というよりも、レンズをとおして「より鮮明に見えるようになった」というイメージなのだ。第3章、第4章では、いろいろ不思議な生命現象の景色をエピジェネティクスの望遠鏡で眺めて、「うわぁ、こんなに面白いのか」と驚き楽しんでもらいたいと思っている。

 ただし、望遠鏡にはデメリットもある。拡大して見ることによって、景色の全体ではなく、景色の一部しか見えなくなってしまう点だ。エピジェネティクスの望遠鏡によって鮮明になった生命現象の景色は数々あるが、その望遠鈍で生命現象のすべてが鮮明に見えるようになるかどうかは、いまのところわからない。エピジェネティクスが生命現象の謎を解く重要な鍵となることは間違いないか、今後の研究の進展を待たなくてはならないだろう。

 エピジェネテイクスとは『染色体における塩基配列をともなわない変化』、もう少し専門的にいえば、「ヒストンの修飾とDNAメチル化による遺伝子発現制御」である。とっつきにくく感じられるかもしれないが、この定義の意味か理解できると、かつてガリレイが望遠鏡をつかって月の表面や土星の環を詳細に観察したように、それまでぼんやりとしか見えなかった生命現象の景色が、手に取るように鮮明に見えてくる。

 ■イレブンの「Epigenetics」」研究ノート■004◇◇◇◇第1章「巨人の肩から遠眼鏡で」=2 エピジェネティクスとは何か=◇◇◇◇◇【出典:仲野徹『エピジェネティクス――新しい生命像をえがく』、2014年5月20日発行、岩波新書、P16より引用)】  イレブン  2021年1月3日(日) 6:54
修正
このエピジェネティクスの理論を正確に理解するためには、どうしても遺伝学の専門的な領域に踏み込むことが必要です。

簡単に言ったらどんなこと、と言うようなところで理解できればいいのですが、かえってそのような理解をしてしまうと多くの誤解をしてしまう危なさがあります。

このエピジェネティクスと言う分野の研究は、現在も世界的規模で凄いスピードで研究が進んでいるのですが、余り一般的な新聞やテレビなどの情報の中で登場することはありません。それは、その基本的な定義を説明するのが簡単ではないため、一般的な情報に載せる難しさがあるためだと言われています。

イレブンも、このエピジェネティクスの理論を理解するのにどうしても遺伝学の専門的な用語を使いこなす必要があるので、ここで引用していく文章を何度も読み返しながら一歩一歩研究を進めているところです。掲載している上の図の意味がやっと理解できるようになってきたところです。

関心をお持ちの方だけ、目を通して頂ければという気持ちで掲載していますことをご了承願います。

 2 エピジェネティクスとは何か  仲野徹  2021年1月3日(日) 7:02 修正
■ワディントンの慧眼■

 エピジェネティクスの”エビ(epi)”とは、「後で」や[上に]という意味のギリシヤ語の接頭辞、ジェネティクスは遺伝学を意味する英語である。つまり、エピジェネティクスとは、遺伝子の上にさらに修飾か付加されたものについての学問である。……といいたいところであるし、意味としてはそれで概ね正しい。しかし、実際の語源は違う。20世紀の中頃。「エピジェネシス(後成説)」と「ジェネティクス」の複合語として、イギリスの発生生物学者コンラッド・ワディントンによって提案された用語なのだ。

 ことわっておきたいのだが、エピジェネティクスとは、ひとつの概念であると同時に、その概念が関係する現象、ひいては、学問分野をさす言葉でもある。また、[エピジェネティックなメカニズム」というように用いられる場合は、「エピジェネティクスという現象か関与する」という意味の形容詞である。なかなか良い訳語がないので、すこし多義的につかっていくことをお許しいただきたい。

 発生学という分野には、「前成説」と「後成説」かあった。前成説とは、精子あるいは卵子の中に、生まれてくる子の「小さいひな形」が予め存在しており、生物の発生はその小さなひな形が時間とともに大きくなる過程である、と考える説である。それに対して後成説は、そのような小さいひな形などというものは存在せず、生物の体はまったく形のないところから新しく作り上げられてくる、と考える説である。

 前成説では、精子か卵子の中にホムンクルスのような小人か存在すると考えなければならない。ところか、そう考えると。ホムンクルスの精子か卵子の中にもホムンクルスがあって、そのまた中に………というように、無限に小さなホムンクルスが存在することになってしまう。少し考えただけで、前成説は誤りであるとわかるだろう。

 残るは後成説だが、一つの受精卵からなぜあのように様々な細胞ができてくるのか、そのメカニズムはまったくわかっていなかった。それを説明するためにワディントンの考えついたアイデアが、エピジェネティクスであった。神経細胞や血液細胞のような細胞か「それぞれの表現形を示すようになる過程において、遺伝子がその産物とどのように影響し合うのか」。それが、エピジェネティクスの概念のエッセンスである。

 エピジェネティクスという言葉か最初に発表されたのは、1942年。遺伝子の発現調節機構はおろか、遺伝子がDNAであることすらわかっていなかった。そんな時代に作られた概念であるから、なんだかぽんやりとした定義であることは致し方ない。ワディントンもそう思ったのかどうか知らないが、1957年、「エピジェネティック・ランドスケープ」という概念的な地形図を考案して、あらためて説明を試みている。

 エピジェネティック・ランドスケープでは、ボールが細胞を、ボールの位置か細胞分化の状態をあらわしている。あくまでも概念としてではあるか、図中のいちばん向こう、ボールが最も高い位置にある状態が全能性の状態(どんな細胞にも分化できる状態)である。全能性の状態からの変化は、図中の向こう側から手前側、高い位置から低い位世へとボールが転がり落ちてくることであらわされる。図中のいちばん手前、最も低い位置にあるボールは、場所に応じてそれぞれ神経細胞や血液細胞など、最終的に分化した細胞をあらわしている。

 いったん分化した細胞は、通常、別の種観の細胞にはなれない。このことは、エピジェネティック・ランドスケープの手前側にある谷に落ち込んだ細胞(特定の介化状態にある細胞)は、隣の谷(違う分化状態)には容易に移れないことによってあらわされている。また、細胞分化のプログラムか未分化から分化への一方向にしか流れないのは、ボールは高い位置から低い位置へ転がり落ちるだけで、逆向きには上がれないことによってイメージできる。

 このように考えると、核移植実験におけるリプログラミングという現象の特異さ、困難さかよくわかる。リプログラミングとは、分化した状態の細胞から全能の状態の細胞に変えることであるから、ランドスケープの図でいえば、低い位價から高い位世へと、ボールを逆戻りさせることだ、核移植によるリプログラミングもIPS細胞の作製も、同じように、いわば重力にさからうようなものであり、いかに驚くべきことであるかがわかるだろう。

 しかし、である。この図では、エピジェネティクスの「ジェネティクス(遺伝学)」の部分か勘案されていない、「エピ(後成)」の部分の直感的な理解には役立つが、ワディントンが言ううところの「遺伝子がその産物とどのように影響し合うのか」の説明には不十分だ。

  ■もうひとつの定義■    2021年1月3日(日) 7:04 修正
 エピジェネティクスの定義は、ワディントンによる提唱以来、少しずつ変わってきている。現代的な意味でのエピジェネティクスは、デビット・ナンニーの考えをとりいれたほうが、わかりやすいかもしれない。

 ナンニーは、ワディントンとは独立に、ジェネティック・システム(DNAに規定される遺伝システム)と対比するものとして、パラジェネティック・システムというものを考えていた。しかし、言語学的な理由から。それを「エピジェネティック・システム」という言葉に置き拠えて発表することになった。

 ワディントンは、エピジェネティクスを、発生という動的な現象から発想していた。それに対してナンニーは、動的というよりむしろ安定的で、分裂しても分裂しても細胞の性質が維持されるメカニズムとして考えていたようである。そして、より物質的な観点からエピジェネティクスをとらえていた。分化した細胞の性質は安定しているのだから、エピジェネテック・システムもかなり安定的なものであり、その分子機構は核の中に存在するだろう、ときわめて正しく考察している。

 このように、エピジェネティックな状態は発生・分化の過程では変化するが、分化か終了した段階になるときわめて安定的なものになる。研究者によって考え力が微妙に違うし。歴史的にも様々な考えがあるが、それらのことを考慮にいれて、2008年には、

 ●エピジェネティクスな特性とは、DNAの塩基配列の変化をともなわず、染色体における変化によって生じる、安定的に受け継がれるうる表現型である。

という定義が提案されている、現時点では、これかエピジェネティケスに対する最大公約数的な定義と考えていい。

 「安定的に受け継がれる」ではなく「安定的に受け継がれうる」であることに注意してほしい。細胞か最終的に分化した段階(ボールか谷底で落ち着いた段階)では、エピジェネティックな状態は変わらず、分化した形質か安定的に受け継がれていくようになる。それに対して、分化していく途中の段階(ポールか転がり落ちている段階)では、少しずっではあるか、エピジェネティックな状態か変化していく。細胞は、少し手前のエピジェネティックな状態を維持、あるいは記憶しながら分化していくのである。このように、細胞分化の過程では変化するが、細胞分化か終わると安定的に維持される、ということが、エピジェネティックな状態の重要な特性である。

 エピジェネティクスは、ほ乳類だけに存在する現象ではない、進化的に見ると、その分子的な基本メカニズムは、昆虫や植物はおろか、単細胞生物物である酵母やアカパンカビにも存在する。このように普遍的な生命現象としてのエピジェネティクスを理解する上でもっとも重要なことは、細胞が分裂しても引き継がれうる、DNAの塩基配列によらない情報が存在するという事実である。遺伝情報は、挟い意味では、ゲノムの塩基配列に書き込まれている。そして、学問分野としてのエピジェネテイクスが注目するのは、そこにさらに上書きされた情報なのである。

 ■イレブンの「Epigenetics」」研究ノート■003◇◇◇◇仲野徹「序章 ヘップバーンと球根」◇◇◇◇◇【出典:仲野徹『エピジェネティクス――新しい生命像をえがく』、2014年5月20日発行、岩波新書、P2〜P7より引用)】  イレブン  2021年1月2日(土) 5:21
修正
昨年10月30日に、遺伝学からの研究として、『イレブンの「Epigenetics」」研究ノート』を立ち上げました。

まだよく分からないところもあるのですが、徐々に全体像が見えてきました。この研究ノートには、「Epigenetics」関連の文献から、イレブンが大切だと感じた記述を抜粋して書き留めていく考えです。

そして、レース鳩の作出論の観点から考察を加えながら進めていければと思っています。

イレブンは、このエピジェネティクスという遺伝学の新しい視座から明らかになりつつある理論と、これまで鳩界で語られてきた様々な作出論を結びつけていくことが出来るのではないかと考えているところです。

但し、どうしても遺伝学上の専門用語を踏まえて行くことになるので、全くの専門外のイレブンにとってはチョットややこしい研究となりそうです。

この『イレブンの「Epigenetics」」研究ノート』は、これから2021年の研究の一つとして本格的に力を入れていこうと考えています。興味をお持ちの方は目を通して頂ければと思っています。もし、この方面の専門知識をお持ちの方がおられれば、是非ご教示頂けばと思っています。よろしくお願いします。

   ■第二次世界大戦末期のオランダで■  仲野 徹  2021年1月2日(土) 5:25 修正
 1944年の冬、オランダは記録的な寒さに見舞われた。時は第2次匿界大戦末期。悪いことにドイツ軍による食糧封鎖が重なった。その結果、オランダ西部の住民は、一日あたり1000キロカロリー以下しか摂取できないという飢餓状態に陥り、11万人以上が亡くなった。当時15歳のバレリーナだった、あの『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーンもこの飢餓を経験し、チューリップの球根の粉で作った焼き菓子を食べてまで生き延びた一人である。ほんとうのところはわからないが、ヘップバーンが華奢な体型で健康に恵まれなかったのは、この飢餓の影響があったのではないかと考える人もいる。

 その飢餓のさなかに妊娠している女性もたくさんいた。赤ちゃんがお母さんのおなかの中にいる期間はおよそ9ヵ月であり、発生の特徴から胎生前期、胎生中期、胎生後期に分けることかできる。胎生後期に飢餓を経験した赤ちゃんの出生時体重は極度に低かった。そして、十分に栄養がとれるようになってからも、小さく病弱な子が多かった。

 それに対して、胎生前期に飢餓を経験した赤ちゃんは、・中期・後期に成長か追いつき、おおむね正常な体重で生まれてきた。しかし、飢餓から半世紀がたち、詳細な疫学的解析がおこなわれ、驚くべきことがわかった。胎生前期に飢餓を経験した人は、高血圧、心筋梗塞などの冠動脈疾患、2型糖尿病などといった生活習慣病の罹患率が高かったのである。さらに、統合失調症など神経精神疾患にかかる率も高いという。

 どう考えても不思議だ。生まれる前におかれた環境の状態が、50年もたってから健康に影響するというのである。戦時下における飢餓という特殊な状況が関係しているのだろうと思われるかもしれない。しかし、決してそうではない。バーカーという英国の疫学者が、平時であっても、胎児期の環境が後の健康状態に影響を与えるという報告をおこなっている。

 バーカーは、ふとした思いつきから、生まれたときの体盾と、半世紀たって中年になってからの疾患との関係についての疫学調査をおこなった。その結果、ある相関か明らかになった。生まれたときの体重が低いほど、高血圧や糖尿病といった生活習慣病のリスクか高いというのだ。

 この現象は、胎児期に十分な栄養かなかった場合、できるだけ栄養を取り込むように「適応にしてしまったからではないか、と解釈されている。お母さんのおなかの中にいたときのまま低栄養に適応した状態が継続しているのに、大きくなってから普通に栄養を摂取してしまうと、相対的に栄養が過剰な状態になってしまう、という説明である。

 この二つの現象を理解するには、何らかのかたちで、何十年にもおよぶ「記憶」が体に刻み込まれていたと考えるしかない。あるいは、「体の中のどこかの細胞に記録されていた」と言ったほうがより正確だろう。しかし、そのように長期間にわたって細胞の中で安定的に維持されるものとは、いったい何なのだろうか。

 遺伝?違う。この現象は親から引き継がれたものではない。遺伝的な形質は、母親と父親から、それぞれ卵子と精子を経由して、子どもへと受け継がれていくものである。しかし、さきほどの2つの疫学調査の結果は、胎児期の環境、すなわち卵子と精子か受精した後の環境によって決定されたものである。したがって、この現象は親から子へと遺伝的に受け継がれたものではない。

 では、胎児期の低栄養状態によってDNAの塩基配列に異常を来したのであろうか?これも違う。ある種の化学物質や放射線がDNAの塩基配列の異常、すなわち突然変異をひきおこすことは知られている。しかし、たんに栄養状態が悪いからといって、DNAに突然変賢が生じることはありえない。

 では、いったい何なのだろう?遺伝でもない。.DNAの塩基配列の変化でもない。‘しかし、細胞における何かか書き換えられ、それか長期間にわたって維持されうるメカニズムか存在する。そのメカニズムとは何なのだろうか?それこそが、この本のテーマ。エピジェネティクスなのである。

 ■エピジェネティクスの守備範囲■    2021年1月2日(土) 5:26 修正
 エピジェネティクスは、胎生期における栄養状態と生活習慣病の関係だけでなく、生命の維持そのものに根源的な現象であることがわかっている。たとえば、たった一個の受精卵から200種類以上もある細胞か分化して、われわれの体ができてくる。それは、真っ白な状態から、それぞれの細胞に特有なエピジェネティック状態が書き込まれていく過程でもある。また、そのようにして分化した細胞から、どんな細胞へも分化か可能な多能性幹細胞である。IPS細胞へとリプログラミングされるという現象は、エピジェネティックな状態がふたたび白紙にもどされるということなのである。

 病気についても、生活習慣病だけに関係しているわけではない。がんの発症にもエピジェネティクスか重要であることがわかってきている。それどころではない。ある種のがんは、エピジェネティックな状態を変化させる薬剤によって治療することが可能であり、すでに臨床的に用いられているほどだ。

 学習や記憶というのは神経活動であるから、神経細胞の電気的な興奮が重要である。しかし、それだけではない。最近の研究では、エピジェネティックな状態の変化が必要である、ということも明かになってきている。いってみれば、細胞レベルでのエピジェネティックな『記憶』は、一般的な意味での記憶にも必須なのだ。さらに、プレーリーハツカネズミという動物では、婚姻関係の成立にまでエピジェネテイクスが重要な役割を果たしていることが報告されている。

 ほ乳類だけでなく、昆虫や植物でもエピジェネティクスは重要な働きをもっている。ミツバチでは、ロイヤルゼリーか与えられた雌だけが女王バチになり。それ以外は働きバチになる。この現象にもエピジェネティクスが深く関係している。夏の暑い日に涼しさを与えてくれるアサガオ。斑や絞りといった模様かできるメカニズムも、じつはエピジェネティクスなのだ。

 こうした不思議な生命現象はなぜ起こるのか?本書ではそのメカニズムかよく理解できるように、中味を工夫した。第1章では、まず、核移植実験の例などをあげながらエピジェネテイクスの概念を説明していく。つづく第2章では、エピジェネテイクスの分子生物学について解説する。分子生物学というと難しそうに思われるかもしれない。しかし、本書では面白い現象を理解するのに必要最低限のことだけを、正確さを損なわずにできるだけやさしく説明してあるので、おつきあいいただきたい。いわば、ここまでが基礎編になる。

 第3章は、ロイヤルゼリーと女王バチ、ネズミの婚姻関係など、いろいろな生命現象について詳しく紹介し、分子レベルでの説明をおこなっていく。そして、第4章は、がんや生活習慣病といったさまざまな病気において、エピジェネテイクスがどのように関係しているかについてのお話である。第5章では、非コードRNAやエピゲノムといった新しい領域について説明し、そこまでの話すべてを受けて、エピジェネテイクスについて、もう一度考え直してみる。そして、最終章では、エピジェネティクスというものの生命科学における位置づけから、その将来像について考えてみたい。


◇イレブン◇
※画像挿入
※関連情報
女王バチへの分化を誘導する因子ロイヤラクチンの発見
鎌倉 昌樹
(富山県立大学工学部 生物工学研究センター
http://first.lifesciencedb.jp/archives/2957

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